依頼と懇願
信繁の口から出た「信玄」という名に、昌幸は、ピクリと眉を上げたが、口を一文字に結んで沈黙を保つ。
一方、佐助は目を見開き、皮肉気に口の端を上げてみせた。
「ほう……、信玄とな――」
「……」
「だが。それは、さっきオレが言っただろう。何故、さっきは否定した?」
「――儂は、お屋形様を殺せとは言っておらぬ」
佐助の問いに、信繁は語調を強めて答える。
「お主に頼みたいのは、あくまでお屋形様の周囲を探り、日頃どういった者たちと接触しているのかを具に観察し、逐一を儂に報せる事。――そして、どういった者が、お屋形様と密に繋がっているのかを見極める事だ」
「……ふん、成程。確かにそれは、武田家子飼いの乱破どもには決して頼めぬ事だな。――猟犬に、己の飼い主を嗅ぎ回らせるが如き事ゆえな」
「……それで、どこの誰にも従っておらぬ、“根無し”の佐助に――」
「そういう事だ」
信繁は、佐助に大きく頷き、じっとその顔を見据えた。
「どうだ、頼まれてくれるか? 無論、その働きに対する代価は、存分に支払うつもりだ」
「……」
佐助は、無言のまま、信繁の隻眼を睨み返す。
そして、不敵な笑みを浮かべて言った。
「もし……オレが断ったとすれば……どうする?」
「佐助ッ!」
佐助の物言いに、昌幸が血相を変えて怒鳴るが、信繁は無言で片掌を上げ、彼を制する。
そして、その顔に暗い翳を落としながら、静かに口を開く。
「……もし、お主が乗らぬのならば、やむを得ぬ――」
「この場でオレを殺る――か?」
信繁の言葉を遮り、佐助は低い声で言った。腰を僅かに浮かし、袖先に潜ませた仕込み苦無に手を伸ばしながら――。
その仕草を目にした昌幸は、顔色を変え、手元の太刀を引き寄せる。
やにわに、琵琶の弦の如く張り詰める三人の空気――。
だが、
信繁は苦笑を浮かべつつ、「いやいや」と、首を大きく横に振った。
「そう容易く、手練れの乱破であるお主を討てるとは思っておらぬし、はじめからその気も無い。――こうするのだ」
そう言うと――、
信繁は威儀を正し、両拳を板敷きの床につくと、佐助に向かって深々と頭を下げたのだった。
「――頼む。我が武田家の為、どうか、お主の力を貸してくれ」
「……っ!」
「て――典厩様ッ! いけませぬ!」
思いもかけぬ信繁の所業に、佐助は思わず目を見開いたが、彼よりも覿面に仰天したのは、昌幸だった。
「いけませぬ! いみじくも、武田家の副将である典厩様が、一介の乱破に対し軽々に頭を下げるなどと……!」
彼は慌てて信繁の元ににじり寄り、その身体を起こそうとする。
そして、佐助を睨みつけると、
「佐助! 典厩様が、ここまでなさっておられるのだ! いい加減、典厩様のお頼みを請けろ!」
と、怒鳴る。
……しかし、佐助は口をへの字に結んだまま、無言で座っているだけだった。
そんな彼の不遜な態度に業を煮やした昌幸は、「ええい!」と舌を打つと、忌々しげに両手をついた。
「分かった! 拙者も頭を下げる! この通りだ! 佐助、どうか力を貸してくれ、この通りじゃ!」
そう言い捨てて、信繁よりも更に低く、板張りの床に額を擦りつけんばかりに頭を下げる。
暫しの間、部屋は沈黙に包まれた。
――が、
「………ぷ、ふははははは……」
その沈黙を破ったのは、佐助の愉快げな笑い声だった。
「いや……驚いた。まさか、武田家の副将殿と、あの悪童源五郎が、一介の根無しの乱破でしかないオレに、頭を下げようとはな……」
「……ッ」
佐助の挑発的な物言いに、昌幸はギリギリと歯を食いしばるだけだったが、信繁は違った。
彼は、頭を伏せたまま、静かな声で言う。
「……別に驚くような事では無い。今は、武田家の行く末が大きく変わるか否かの瀬戸際。武田の征く道を違えさせぬ為には、どうしても、お主の力が必要なのだ。――お主が力を貸してくれると言うのならば、儂が頭を下げる事くらい、安いものよ」
「て……典厩様……」
「……」
信繁の言葉を聞いた佐助は、笑い声を止めると、神妙な顔をして考え込む。
そして、片膝を立てると、右手を床につき、ゆっくりと頭を垂れた。
「頭をお上げ下され、武田典厩……殿。――この“猿飛”の佐助、貴殿のお心、確と受け止め申した。――オレの力で良ければ、存分に遣ってくれ」
◆ ◆ ◆ ◆
「ふう……何とか、上手く運んだな」
具体的な務めの内容を聞いた佐助が音も無く部屋を立ち去った後、信繁は大きく息を吐いた。
そんな彼に、昌幸は苦い顔で苦言を呈す。
「典厩様……。話の流れでやむを得ぬ事だったとはいえ、お屋形様に次ぐ立場であらせられる貴方が、下々の者に対して軽々しく頭を下げるのは、今後お控え下され。当家の品格が損なわれますぞ……」
「分かった分かった……」
信繁は、昌幸の剣幕に辟易しながら頷くと、言葉を継ぐ。
「……成り行きとはいえ、お主にも頭を下げさせてしまって、済まなかったな」
「拙者の頭など、典厩様のそれに比べれば、それこそ鴻毛の如く軽いものゆえ、お気になさる必要は要りませぬ」
昌幸は、そうぶっきらぼうに言い放つと、立ち上がった。
「……では、もう夜も遅いゆえ、拙者も失礼致しまする」
「……おう。分かった」
突然立ち上がった昌幸を見上げ、信繁は頷く。
すると、昌幸はくるりと振り返って言った。
「……お屋形様の件、拙者も探ってみます」
「探る? ……どうやって?」
首を傾げる信繁に、昌幸はニヤリと笑いかけ、言葉を続けた。
「昔の――近習だった頃の伝手に、明日にでも当たってみようかと思います」
猿飛佐助は、真田幸村 (信繁)に仕えた『真田十勇士』のひとりとして有名な人物ですが、講談の中で登場する架空のキャラクターだと言われています。
ただ、史実で真田信繁の側に仕えていた臣の中に三雲佐助賢春という者がおり、彼が『猿飛佐助』のモチーフになったという説や、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事から、猿飛佐助となったという説が唱えられています。
人気の真田幸村の第一の臣下として、猿飛佐助は昔から人気を博してきました。その為、数々の創作物で、無敵の忍者として、彼を元にしたキャラクターが登場します。
NARUTOのサスケや、戦国BASARAの佐助などが有名ですね!




