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約束と乱破

 「お帰りなさいませ、主様」

「うむ、今帰った」


 夕刻、屋敷に戻った信繁は、迎えにでた桔梗たちに頷いた。

 と、不安げな表情を浮かべ、桔梗が尋ねる。


「あの……お屋形様のご容態は――」

「ああ……」


 信繁は、桔梗の目をジッと見ると、ニコリと微笑みかけて答えた。


「何、心配には及ばぬ。暫くご静養なされば、ご快復なさるとの事だ」

「まあ、それは宜しゅうございました」


 信繁の言葉に、桔梗も安堵の息を吐く。

 が、そんな彼女に、信繁はすまなさそうな顔をして言った。


「それでな……暫くの間、お屋形様が石和でご静養なさる事となったので、その間の政務を儂と太郎が執る事となった。それ故、儂は暫く躑躅ヶ崎館に詰める。……暫く留守にするが、解ってくれ」

「まあ……左様でございますか」


 桔梗は、信繁の言葉に、一瞬寂しげな表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締めると、しっかりと頷いた。


「――畏まりました。お留守の間の家内は、どうぞ私にお任せ下さいまし。主様は、武田の御家の為に、存分にお働き下さい」

「……すまぬな。頼む」


 頼もしい妻の言葉に、信繁は相好を崩し、大きく頷く。

 ――と、


「また……ちちうえはおでかけになられるのですか? ついこのまえ、いくさばからおもどりになられたばかりですのに……!」


 桔梗の腰の辺りから、今にも泣き出しそうに震えた声が上がった。

 信繁は、困ったような表情を浮かべる。


「綾――」

「いやです! あやは、いやです!」


 綾は、堪えていた感情を爆発させ、目から大粒の真珠のような涙をボロボロと零しながら、信繁の太腿にしがみついた。


「あやは、ちちうえがねむっておられるあいだ、ずうっとまっていたのです! ちちうえがおきたら、いっしょにたくさんあそんでいただこうと……。なのに、ちちうえはおしごとといくさばかりで、なかなかあやとあそんでくれないで……! もう、いやですっ!」

「これ……綾。そんな事を言って、お父上を困らせてはなりませぬよ」

「……ふええええ――!」


 母に諭された綾は、ますます大きく嗚咽しはじめる。桔梗は、オロオロとするが、彼女の泣き声は増すばかり。

 ――と、そのおかっぱ頭に、大きな手が乗せられた。


「すまぬな、綾」


 信繁は、困ったような笑いを浮かべながら、娘に優しく声をかける。


「――だがな。父は大切なお役目があるのだ。ここは堪えてくれ。――何、別に戦に行く訳ではない。どうにか暇を見付けて、この屋敷へも帰るようにするから、どうか我慢してくれ」

「ふえええええ~!」

「むう、駄目か……。そうだな――なれば……」


 一向に泣き止まない綾を前に、当惑しながら、彼は彼女を宥める術が無いかを考える。


「……そうだ。――今度、儂が帰る時には、五郎も一緒に連れて参ろう。だから、それまでは我慢――」

「……ごろうさま?」


 信繁の言葉に、耳をピクリと聳たせた綾は、涙に濡れた顔を上げた。その目が輝いているのは、涙のせいだけではない。


「……ごろうさまもいらっしゃるのですか?」

「あ……ああ、綾が良い子で留守番をしてくれればな――」

「ハイッ! かしこまりました!」


 さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘のように、顔を輝かせた綾は、大きく頷いた。


「ちちうえ、おつとめをがんばってください! あやはよいこになって、おかえりをおまちしております! ……でも、なるべくはやくかえってきてください、()()()()()()()()()()()!」

「……あ、ああ……相分かった――うむ」


 信繁は、「五郎を連れてくる」と告げた後の、綾のあまりの豹変ぶりに目をパチクリさせる。

 そして、気圧されたように頷き、「やくそくですよ!」と、綾がにこにこ笑いながら言うのを見ながら、何だか釈然としない気分を抱いたのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「お帰りなさいませ、典厩様」


 自室に戻った信繁を待っていたのは、昌幸だった。

 信繁は、昌幸に向かって小さく頷くと、着ていた直垂を脱ぎ、楽な小袖へと着替えた。そして、着替えを手伝っていた桔梗を下がらせる。

 そして、ふーっと大きく息を吐きながら、円座(わろうど)に腰を下ろした。

 すると、じっと待っていた昌幸が口を開く。


「昨夜の事、昔の近習仲間から聞きました。お屋形様のご病状が落ち着いていらっしゃるようで、何よりです」

「……うむ」

「……どうかなされたのですか?」


 信玄の病状が落ち着いているにも関わらず、どこか浮かぬ顔の信繁を見て、昌幸も眉を顰める。


「やはり……何事かがあるのですね。――あまり歓迎できぬ事が」

「……うむ」

「――それは、もしかして……」


 昌幸は、その細めた目を鋭く光らせ、言葉を継いだ。


「……遂に、お屋形様から『駿河を攻める』と伝えられた――とか、ですか?」

「……さすが、()()真田弾正の息子だな。――察しが良い」

「! では、やはり……」

「お主の言う通りだ。――もっとも、打ち明けられたのは、儂ではなく太郎――若殿だがな」


 そう言って、信繁は苦笑いを浮かべる。


「――もっとも、その直後にお倒れになったので、お屋形様の頭からは、その記憶が消えているようだがな。……だが、いつ思い出されてしまうかも分からぬ。そうなれば対処も難しくなる。……あまり猶予は無いな」

「ああ、だからですか……」


 信繁の言葉に、昌幸は得たりと頷いた。


「だから、拙者に佐助を呼ばせたのですね」

「うむ」


 信繁は頷き、昌幸を真っ直ぐに見据えて尋ねた。


「朝に頼んだが……呼び寄せたか、佐助を?」

「……ああ。もう居る」


 突然、ふたりの頭上から声が降ってきた。ハッとしたふたりが上を見上げると、天井の板が僅かにずれ、そこから黒い塊が音も無く板張りの床に降り立った。

 その影に向かって、昌幸が咎める。


「おい、佐助! 何でそんなところから現れるんだ! もう少し普通に出て参れ!」

「ふん……。オレがどこから出てこようが、オレの勝手だ」

「お前、典厩様の御前だぞ! もう少し、礼を尽くして畏れ入――」

「良い。礼など別に構わぬ。話が進まぬ」


 言い争いを始めかけたふたりに向かって、鷹揚に手を振り黙らせると、信繁は再び口を開く。


「さて――。では、用件に入る前に、ふたりに伝えておかねばならぬな。……此度の件に関して、儂が知っておる事を。詳らかに、な……」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 武田興業「代表取締役」常務の単身赴任。 娘に弱いのは父親の常(笑)。 義信は未だ経験も貫禄も不足しているので「取締役」専務かな。
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