悪夢と記憶
「……この、たわけ者がぁッ!」
雪の吹き荒ぶ空気が、怒気に満ちた叫びで震えた。
甲冑に身を包んだ壮年の男が、髪を逆立てながら目を吊り上げている前で、跪いた年若い青年が、ビクリと身体を震わせ、伏せていた顔を上げた。
「ち……父上――」
「貴様が、何故この場に居るのだ、太郎ッ!」
呆然と父を見上げる太郎に、男は厳しい言葉を容赦なく投げつける。
太郎は、意想外にこっぴどく怒鳴りつけられた事に、激しく狼狽えつつも、目の前の首桶を指して、慌てて言葉を紡ぐ。
「何故――と、仰いますが……。私は、敵将を討ち取り、城を陥としました故、そのご報告に……」
「それがたわけた事だというのだ!」
太郎の釈明にますます激昂した男が、怒りにまかせて首桶を蹴り飛ばす。ゴロゴロと首桶が転がり、開いた蓋の中から、斬り落とされてまだ間もない、僧形の男の首が飛び出した。
それにも構わず、男は狂ったように怒鳴り散らす。
「城を落としたのならば、大将たる者は城に残り、周辺の掃討と防備にあたるのが当然であろうが! それを貴様は、手柄に浮かれ、城を放って、ここまでノコノコとやって来るとは……! 孫子だ何だと、如何に書物を読み漁ろうが、戦の機微をまるで理解できておらぬな、貴様は!」
「で――ですが!」
父の言い草に、さすがに太郎は目を吊り上げた。
「も……もちろん、落とした城の事を疎かにしていた訳ではござらぬ! 充分に索敵を行い、残敵が逃散した事を確認し、その上で、留守居として――」
「ええい! 父に口答えするか、貴様ぁ!」
更に怒りを募らせた父が、顔を朱に染めながら、手にした馬鞭を振り上げ、太郎の肩口へ思い切り振り下ろした。
バチィッ!
凍てつく冬の空気に、乾いた音が響き渡る。
「――グウッ……!」
太郎は、打擲されて肩に走った激しい痛みを、歯を食いしばって堪える。
と、男は、馬鞭の先で太郎の顎を無理やり持ち上げた。そのまま、ズイと顔を近づけ、太郎の顔を覗き込み、
「……何じゃ、その目は!」
と毒づくや、太郎を突き飛ばす。
太郎は堪らず、背中から、雪の積もる地面に転がった。
「フン……!」
雪と泥に塗れた太郎の有様を見て、ようやく溜飲が下がったのか、男は侮蔑に満ちた目で太郎を見下すと、瓢箪の酒を一気に呷る。
そして、太郎に背を向けると、雪の舞い散るこの場の空気よりも冷たい声で、彼に向けて言い捨てた。
「……もう良い! 貴様はサッサと城へ戻って、戦後の始末をつけて参れ! ――そのまま、春になるまで、戻ってこなくて良いぞ!」
◆ ◆ ◆ ◆
「……うう……」
信玄は、ゆっくりと目を開いた。その目に映ったのが、白雪が降りしきる真冬の夜空ではなく、見慣れた天井の木目である事に違和感を感じたが、
(……夢、か)
先程まで己が居たのが、過去の夢の中だった事に気が付き、信玄は小さく溜息を吐いた。
(初陣の事を夢に見るのは、久しぶりだ……)
信玄は、微かに眉を顰めた。初陣の時の顛末は、出来れば二度と思い出したくない、苦過ぎる記憶であったからだ。
そう。
それは、父から初めて、明白な……血の噴き出るような敵意を向けられた――。
「……」
彼は、無意識に右手を左肩に伸ばす。
夢の中で打たれた馬鞭の痛みが、まだそこに残っているような気がしたのだ。
――と、
「……お目覚めですか、兄上――」
不意に声をかけられ、信玄はそこで初めて、己の寝所に、他の者が居る事に気が付いた。
彼は首を廻らせて、周りを見回す。
幾人もの見知った顔が、心配げな表情を浮かべて、彼の周りに侍っているのが見えた。
嫡子義信や、五男である盛信が並んで座っており、その後ろに控える形で、信玄の側室である琴に抱かれた子供たちの幼い顔も見える。
その他にも、馬場信春や工藤昌秀、飯富昌景らの心配顔がずらりと並んでいた。
信玄はその中から、もっとも枕元の近くに居て、自分に声をかけた男の隻眼の顔を見止めて、弱々しい声で呼ぶ。
「……む――次郎、か……」
「はい……」
名を呼ばれた信繁は、静かに頷いた。
「早暁に、一度お目覚めになった後、また眠られたとの事で、少々心配をしておりましたが……安心致しました」
「そうか……心配を、かけたようだな……」
信玄は微かに頷く。と、「失礼を致します」と、薬師が彼の手首に指を当て、脈を測りはじめた。
そして、脈を取り終えると、今度は信玄の寝間着の袷を開き、胸の音を聞く。
「……ふむ」
やがて、薬師は小さく頷いて、信玄の袷を整えた後、信繁たちに向き直った。
「……脈も落ち着いておられますし、顔色も良くなられた。……しかし、まだ胸の音に微かな濁りが聞こえますので、当分は安静になさるべきと存じまする」
「……そうか。御苦労であった」
信繁は、薬師に頷き返して、下がらせた。
すると信玄は、義信の手を借りて布団から身を起こすと、周囲の者たちの顔を見回しながら、掠れ声で言う。
「……皆も、騒がせてすまぬな。……この通り、儂はもう大丈夫じゃ。安心致せ」
「いやいや……大丈夫ではござりませぬぞ。薬師の申した通り、暫くは安静になされよ、太郎兄」
そう、信玄に釘を刺したのは、弟の信廉だった。
その言葉に、信繁と義信も大きく頷く。
「左様にござりまする。暫くの間は、政は某と太郎に任せ、ごゆるりとお過ごし下され」
「はっ。武田家の嫡男として、父上の代理を立派に務めてみせまする」
大いに意気込む義信だったが、信玄は大きく頭を振った。
「い……いや! それには及ばぬ! 儂はもう大丈夫じゃ。ほれ、この通――」
そう叫んで、勢いよく立ち上がろうとした信玄だったが、その途中で大きく体勢を崩し、布団の上に倒れ込んでしまった。
「お屋形様――!」
慌てた家臣達によって、信玄は再び布団の中に押し込められる。
「だ――だから、儂はもう大丈夫だと……」
「ご無理をなされませぬな、兄上!」
不満そうな声を上げる信玄を、信繁は厳しい声で一喝した。
「無茶をなされて、またぶり返しては、それこそ一大事です。……少なくとも、御典医の法印殿が甲斐へ戻られて、兄上のお身体を看て頂くまでは、決して床上げは罷りなりませぬぞ!」
冒頭、信玄が見た夢の記憶――。
それは、彼の初陣である、天文5年(1536年)11月の海ノ口城攻めです。
信濃の佐久地方にあった海ノ口城を領有していた平賀源信は、武勇に優れ、信玄の父である武田信虎の侵攻を度々退けていたと言われています。
天文5年に、今度こそはと意気込んで、海ノ口城に攻めかかった武田信虎軍ですが、難攻不落の城に籠もった源信を攻めあぐね、雪の降りしきる中、遂に撤退する事になります。
その際に、殿を願い出たのが、この戦が初陣であった嫡男晴信でした。
信虎は、「追手が来ない事がハッキリしているのに殿を願い出るとは、恥を知れ!」と罵倒しますが、それでも諦めない晴信に根負けして、望み通り殿を赦します。
信玄は、殿につくや踵を返して、吹雪の中を海ノ口城へと急ぎます。
一方、武田軍を撃退した海ノ口城の平賀源信は、正月の準備をさせる為殆どの兵を帰宅させていました。
兵が帰り、ガラ空きになった城に、舞い戻ってきた晴信軍が攻めかかります。
完全に不意を衝かれた形になった平賀源信は奮戦空しく、晴信軍に討ち取られました。
首尾良く城を落とした晴信は、源信の首級を携え、城を出ます。先行していた信虎軍に追いつき、意気揚々と戦果を報告するのですが、信虎からは「落とした城を放り出して戻ってくるとは何事か!」と、激しく叱責され、またひとつ、父子の間の確執が深まったとされています(それを元にしたのが、今回の夢の情景です)。
以上が、『甲陽軍艦』におけるあらましですが、本当にあった事なのかは判然としていません。城将であったとされる平賀源信についても、非実在説を唱える研究者すらいます。
このエピソード自体が、信虎追放事件の動機とされる親子不仲説を強調するものである可能性も充分に考えられ、今後の研究が待たれる所であります。




