表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

68/107

深更と客人

 「……止みませぬな、雨」


 描きかけの絵から顔を上げ、夜闇の中で濡れそぼる庭木に目を遣りつつ、武田逍遙軒信廉は呟いた。

 その声に、彼の前で背筋を伸ばして座っていた信繁も、首を捻って庭を見た。


「――うむ。最近は晴れ続きだったから、丁度良い恵みだ。民は皆、喜んでおる事であろう」

「確かに」


 信繁の言葉に、信廉も大きく頷いた。

 と、


「……なあ、逍遙。そんな事よりも――」


 首を回してコキリと鳴らしながら、信繁は困り顔で信廉に向かって言う。


「儂は、一体何時まで、このまま座っておらねばならぬのだ? そろそろ、身体が固まって、石仏にでもなってしまいそうなのだが……」

「今少し、我慢していて下さいませ、次郎兄。もう少しで、仕上がります故」


 そう答え、苦笑いを浮かべつつ紙に絵筆を走らせる信廉に、渋い顔を向ける信繁。


「のう、逍遙……。儂は別に、似姿などを描いてもらわずとも――」

「いやいや、母上や太郎兄の似姿は、既に描かせて頂きましたからな。あとは次郎兄だけなのです。何とぞ、ご寛恕下され。――ほれ、その様な渋い顔をなさらず。それでは、仏頂面の似姿になってしまいますぞ」


 信廉は、すました顔で答えると、信繁の渋面を気にも留めず、一心不乱に筆を動かし続ける。

 日頃は、鷹揚な性格で、悪く言えばいい加減で物事に無頓着な信廉(おとうと)だが、絵を描く時だけは人が変わる。自他問わず、一切の妥協を赦さないのだ。

 絵を描いている時に関しては、面相だけでは無く性格まで、長兄である信玄にそっくりになる。

 そうなった弟には、信繁(あに)であろうが決して逆らえない。……信繁は、小さな溜息を吐くと、観念して顔を引き締めた。

 ――と、その時、


「……主様、逍遙軒様」


 襖の向こうから、桔梗の声がした。

 信繁は、訝しげな表情を浮かべて、襖の向こうに声をかける。


「……どうした、桔梗」

「――お寛ぎのところ、失礼致します。ただ今、宜しいでしょうか?」

「……“お寛ぎ”か……」


 信繁は、桔梗の言葉に、思わず苦笑した。


「――逍遙の道楽に付き合って、かれこれ一刻以上、ずっと同じ態勢を強いられておる。全く寛いではおらぬから、遠慮無く入って良いぞ」

「“道楽”とは、随分と辛辣なお言葉ですなぁ、次郎兄。……義姉上(あねうえ)、如何ですかな? まだ下書きですが……」

「まあ……とてもお上手ですわ、逍遙軒様」


 信廉に絵を見せられた桔梗は、目を丸くした。


「……主様にそっくり……まるで生きていらっしゃるよう――」

「おい……それではまるで、儂が死んでしもうたような口ぶりではないか?」

「あ……申し訳ございませぬ、主様……!」


 眉間に皺を寄せながらの信繁の文句に、慌てて深々と頭を下げる桔梗。

 

「あ、いや、ただの戯言じゃ。真に受けるな……」


 信繁は、恐縮する桔梗に、慌てて首を横に振った。


「ハッハッハッ! 確かに、日頃真面目な次郎兄が冗談を仰っても、冗談には聞こえませぬな!」

「――お主は逆に、いつも巫山戯(ふざけ)すぎだがな……」


 愉快そうに大笑する信廉をジロリと睨む信繁。

 気を取り直すように、ゴホンと咳払いをすると、改めて桔梗に尋ねた。


「ところで――、どうかしたのか、桔梗?」

「あ――、そういえば……」


 信繁の言葉にハッとして、桔梗は頷いた。


「あの……門に詰めている者からの報せで、ご来客が……」

「来客? ――この時間にか?」


 信繁は驚き、思わず信廉と顔を見合わせる。


「もう、亥の刻 (午後十時)を過ぎた頃であろう。……一体、誰が?」

「……ひょっとして、我が屋敷からの使いでしょうかのう? 私に、『早く帰ってこい』と伝えに――」


 信廉が、首を竦めながら言った。彼は、大の恐妻家である。

 だが、桔梗は小さく(かぶり)を振った。


「いえ……逍遙様のお屋敷からでは無いようです。ただただ、『典厩様にお会いしたい』と仰るばかりで……」

「……どの様な風体の者だ?」


 やにわに表情を引き締め、信繁は桔梗に尋ねた。

 だが、桔梗は困った顔で、「それが……」と口ごもった。

 その、はっきりしない様子に、信繁は首を傾げる。


「……どうした?」

「それが……目深に笠を被ったままとの事で、ご面相は判然としないようで……。声色から、若い殿方だという事くらいしか……」

「……むう――」

「――どうなされますか、次郎兄?」


 手にしていた筆を置き、信廉が兄に訊いた。


「何分、時は既に深更にござる。家人に『主は既にお(やす)みになられた』と伝えさせて、追い返しても構わぬと存じまするが……」

「…………いや」


 信繁は、信廉の提案に対し、首を横に振った。


「その者が何者かは未だ分からぬが……。だが、この様な雨の降りしきる夜更けに、わざわざ訪ねて来たという事は、余程の仔細があるのであろう」


 そう、自分に言い聞かせるかのように言うと、信繁は桔梗に頷いた。


「……分かった。会ってやるとしよう。――桔梗。その者を玄関まで連れてくるよう、門の者に伝えよ。ただし、決して警戒は怠らずに、とな」

「はい。畏まりました」


 信繁の指示にコクンと頷いた桔梗が、部屋から出ていくのを待って、信繁も腰を上げた。

 そして、信廉の方を見ると、顎をしゃくってみせた。


「逍遙。せっかくだから、お主も一緒に来い。……念の為、太刀は携えてな」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 信繁が、信廉を連れて屋敷の玄関に行くと、ちょうど、客人が上がり框に腰を下ろして、濡れそぼった草鞋を脱いでいる所だった。

 彼が纏っている蓑からは、絶えずポタポタと雫が垂れ、玄関の土間に小さな水たまりを作っている。

 草履を脱いだ客人は、家人から手渡された手拭いで濡れた足を拭き、信繁らの方へと振り返った。

 ――桔梗が言っていた通り、彼は雨でぐっしょりと濡れた笠を目深に被っていて、その容貌は判然としない。


「……これ! 武田典厩信繁様が御前なるぞ! 早う笠を取れ!」


 信繁の後方に控えていた信廉が、警戒を露にしながら、彼を守るように一歩踏み出した。

 すると――、


「――ッ!」


 信廉の顔を見た瞬間、客人がギョッとしたように身体を戦慄かせるのが分かった。


「ま、まさか……ち――お屋形様……ッ?」

(……! もしや……)


 その客人の反応と言葉に、信繁はピンときた。

 彼は、信廉の肩をポンと叩き、


「……良い、()()。大丈夫だ」


 と、声をかけ、客人を囲むように控えていた家人達にも、持ち場へ戻るように命じた。

 心配顔をしながらも、主の命に素直に従い、家人達が去っていき――そして玄関には、客人と信繁、そして信廉の三人だけが残った。

 それを確認すると、客人は安堵の息を吐き――信繁に向かって深々と頭を下げた。


「……お人払い、(かたじけの)うございます、()()()

「――やはり、そうか」

「ん? ……『叔父上』じゃと? では、お主は――」


 小さく頷く信繁と、事態が良く呑み込めずに目を白黒させる信廉の前で、客人は顎紐を緩め、被っていた笠を脱いだ。


「あ――!」


 彼の顔を目の当たりにして、驚きで目を丸くする信廉。

 そんな信廉に向かって小さく頭を下げると、信繁の方に向き直り、彼らの甥である()()()()()()は、改めて深く一礼した。


「斯様な夜更けにお伺いしまして、申し訳ございませぬ、叔父上。……どうしても内密に御相談致したい儀があり、罷り越し申した」

 武田信廉は、武田信虎の三男、武田信玄・信繁の同母弟です。


 彼は、その容貌が兄であり主君である信玄と瓜二つだった為、彼の影武者として活躍したと伝えられています。

 それを伝えるエピソードとして最も有名なのは、信玄死後の出来事です。

 ご存知のように、元亀四年 (1573年)、武田信玄が信州駒場で卒した時、言い遺したのは、「自分の死を三年間秘せ」というものでした。

 だが、信玄死亡の噂は、瞬く内に諸国へと広がります。

 小田原北条氏の当主、北条氏政もそのひとりです。

 彼は、家臣の板部岡江雪斎に「信玄と会って、噂の真偽を確かめてこい」と命じます。

 主君の命に従い、彼は躑躅ヶ崎館にて“信玄”と会い、彼が存命である事を確信します。

 そして、「信玄は生きている」と氏政に報告したのですが……彼が会った“信玄”は、影武者として兄に扮していた信廉だったのでした――。


 また、信廉は、戦国武将でありながら、画家としても知られています。彼の作品として、彼の母である大井夫人や父信虎、そして兄の信玄の肖像画や、『渡唐天神像』といった絵画が現在まで伝わっています。


 彼の号である『逍遙軒』ですが、“逍遙”の意味とは、「あちこちをぶらぶらと歩く事」です。戦場で争い、生死のやり取りをする戦国武将としては、あまりにそぐわない号に思えます。

 もしかしたら、本来の信廉は、絵を描く事が好きな、荒事を好まない温和な人物だったのかも知れませんね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 使いではなく本人が直接、それも雨降る夜更けに訪うたシーン。 前話から続けて読むと笠から現れた太郎くんの表情が窺えます。 …どうすればいいか分からない…助けて……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ