雨と選択
「……何とか、落ち着かれたようにござります」
薬師が、疲れた表情を露わにしながら、義信に伝えた。
彼らの前に敷かれた布団には、信玄が青ざめた顔で昏々と眠っている。喉では浅く早い呼吸が、まるで笛のような甲高い音を鳴らしていて、固く目を瞑ったその横顔は、眠りの中にありながらも、どことなく苦しそうだ。
義信は、そんな父を心配そうな目で見つめながら、薬師に問う。
「父……お屋形様のご容態は、どうなのだ?」
「……ようやく咳止めの薬が効いたようにございます。――お疲れだったのでしょう。今宵いっぱい、このままお休みになられれば、ひとまずは快方に向かいましょう」
義信の問いに、薬師はどこか引っかかる言葉を返した。
「――『ひとまずは』とは、どういう事だ?」
「……誠に申し上げにくいのですが、……いや」
義信に促されて、薬師は口を開きかけたが、途中で思い直したように首を横に振った。
「お屋形様のご容態に関して、私め如きでは、畏れ多くて断定は出来かねまする。――もっとも、本日お身体を拝見させて頂いた際に、私めが感じた兆しというものも微かなものなので、ただの杞憂かも知れませぬし……。いずれにせよ、御典医であらせられる法印様が看立てた上で無いと、ハッキリとは……」
「……左様か」
奥歯に物が挟まったような薬師の言葉に微かに苛立ちを覚えながらも、義信は静かに頷いた。
信玄の御典医 (主治医)である板坂法印は、足利将軍家の御典医も兼務しており、現在は京に滞在していた。その為、急遽、弟子であるこの薬師が呼び出されたのだが、師である法印を差し置いて主君の病状を告げる事は躊躇われたのであろう。
「……法印殿は、いつ頃戻られるご予定だ?」
「報せは既に京に送りましたが、何分と急な事ゆえ、法印様が甲斐へ参られるには、二十日から……一月はかかるかと」
「うむ……」
正直、遅い。
だが、京での法印には、他ならぬ足利将軍家でのお務めもある。
いかに一守護大名家当主の急変という一大事だといえども、そう易々と放り出して急行する事は難しいのだろう。
義信は切歯扼腕の気持ちであったが、ここは納得するしかない。
彼は唇を噛むと立ち上がり、
「……相解った。では、引き続き、お屋形様を頼む。金には糸目をつけぬゆえ、お屋形様のご快癒に全力を尽くせ。……良いな」
と、低い声で薬師に告げると、連れた足取りで部屋を去っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
「わ――若殿!」
廊下を歩く義信は、不意に背後から呼び止められた。
振り返ると、まだ幼さの残る顔立ちの若者が、血相を変えて立っていた。
「お主は確か……お屋形様の小姓の――」
「金丸平八郎にござりまする!」
義信に訊かれ、彼は片膝をついて答えた。
そして、上ずった声で、義信に矢継ぎ早に尋ねる。
「若殿! お――お屋形様のご容態はいかがにございまするか! 既にお気を取り戻されましたか? 何か……何かご入り用なものは――!」
「ええい、落ち着け! お屋形様は大丈夫だ! だから、安心せよ!」
義信は、平八郎の剣幕に辟易しながら答えた。
「……薬師の見立てだと、疲れからの発作という事だ。今はもう落ち着かれて、静かに眠っておられる。今晩は、傍に薬師が付いておるから、任せておくがよい」
義信は、薬師の発した『微かな兆し』という不穏な言葉の事は、敢えて伏せた。ひとりの薬師の推測の域を出ない事は、まだ軽々しく口に出すべきではないと考えたのだ。
平八郎は、義信の言葉を聞いて心からホッとした表情を見せた。――と、今度は眉を八の字にして、おずおずと尋ねる。
「で……でしたら、御家中の皆々様へは、至急にお伝えするべきでしょうか? 馬場様や工藤様……後は、典厩様や逍遙軒様などへは……」
「……うむ」
義信は、平八郎の言葉に、深く考え込んだが――首を横に振った。
「……いや。お屋形様のご容態も落ち着いておられる。そう急いで、皆に報せを送る必要は無かろう」
そう言うと、義信は雨が篠突く庭へと顎をしゃくった。
「もう、夜も深い上に、雨まで降ってきたようだしの……」
「はっ、畏まりました。では、御家中への報せは、明朝に――という事で……」
「うむ。頼む」
義信はそう答えて、平八郎に小さく頷きかける。平八郎は深々と一礼すると、小走りで彼の前から去っていった。
――ひとり残された義信は暫くの間、立ち竦んだまま、シトシトと庭を濡らす雨を眺めていた。
その脳裏を過ぎるのは――、
信玄が倒れるまでの事だった。
(父上は……本気で今川と戦うつもりなのか……?)
正直、信玄から面と向かって告げられたのでなければ、到底信じられない事だった。
(――あり得ぬ。確かに、現在の今川の勢いは、太原雪斎殿や義元公がご健在だった頃よりも大分衰えている。だが、だからといって、今川を敵に回す事は得策とは言えぬ……)
今川を敵に回した際の、北条や上杉の動きが読めない。
恐らく信玄は、今川と手を切る代わりに、三河の松平や尾張の織田と結んで挟撃を持ちかける気なのだろうが、両家がどの程度の働きを見せるのか……それも読み難い。
(……いや、そんな戦事がどうこうよりも……)
と、義信は眉根を寄せ、唇を噛んだ。
(――父上は、私や嶺の事を……ッ!)
目を閉じた彼の瞼の裏に、妻の嶺の穏やかな笑顔が浮かび上がった。その笑顔そのままに、温和な性格の淑やかな女性である。
甲駿の同盟の楔として、親に決められた政略結婚であったが、今川家の姫であった嶺の事を、義信は心から愛していた。
それに、ふたりの間には、園という三歳になる娘もいる。
なのに――、
『嶺殿は、離縁せよ』
信玄は、そう言い捨てた。
(父上は……嶺と園を、己の野心の為に切り捨てよと仰るのか……!)
義信の心に、沸々と怒りの炎が燻りはじめる。――先程、信玄と激しく言い合った、あの時のように。
だが、
(……いかん)
己の心に、どす黒い何かが蔓延りつつあるのに気付いた義信は、慌てて首を激しく振って、その考えを追い払った。
彼は、気を落ち着かせる為に、大きく息を吐くと、雨が降り続く真っ暗な空を見上げる。
(だが……父上の企みを、そのままにしておく訳にもいかぬ。何とかせねば……)
しかし、それには、自分ひとりでは手が足りない。
……誰か、信頼の置ける者に事情を打ち明けて、信玄に翻意を促す為の協力を仰ぐべきだ――義信は、そう判断した。
幸か不幸か、信玄が倒れて人事不省の今が、その絶好の機会と言えた。
(……誰だ。誰が良い?)
そう考えた時、真っ先に義信の脳裏に浮かんだのは、武田家の宿老の一人でもある飯富虎昌であった。
彼は、隠居した身とはいえ、他の宿老達への影響力は依然として大きい。
何より、飯富は義信の守役である。必ずや自分の味方をしてくれる、という安心感がある。
……また、武田家最強の戦力である赤備え衆も、弟の飯富昌景が率いている。いざという時の戦力も十分に期待が持てる――。
(……いや! ――な、何を考えていたのだ、私は……)
義信は、ハッと我に返り、思わずゾッとした。
(か……仮定の話とはいえ、私は今、父上に弓引く事を考えておったのか……?)
なんて事を……と、彼は両手で顔を覆って、頻りに頭を振る。
(……私は、父上の意を正したいだけなのだ。弓引くつもりなど、毛頭――)
と、彼の思考がピタリと止まる。
(そうなのか? 本当に、そう思っておるのか、私は……)
そして、義信は――思い出した。
……信玄が突然倒れ、激しい咳に苦しんでいる時、必死でその背中を擦りながらも、心の片隅で――(このまま、父上が身罷ってくれれば……)と考えていた事を――!
「あ……ああ……ああああああああああああっ!」
彼は、激しい目眩を覚えて、廊下に頽れると絶叫した。
だが、その叫びは、雨音に紛れて、誰の耳にも届かない。
――やがて、
義信はフラリと立ち上がった。
自身の心情など関係は無い。とにかく、誰かにこの件を打ち明け、助力を仰がなければ……。
(やはり、飯富しか――)
と、
その時、唐突にひとりの隻眼の顔が思い浮かんだ。
(そうだ……!)
途端に、義信の目が輝く。
(あの御方ならば……必ずや、武田家にとって正しい方向へと、我々を――そして父上を導いてくれるはずだ……!)
先程までとは打って変わった、生気に満ち溢れた表情を浮かべて、義信は背筋を伸ばす。
そして、夜闇の中、驟雨に打たれる庭に目を向けながら、大きく頷いた。
(そうと決まれば、一刻も早く向かわなければならぬ! ……叔父上の屋敷へ――!)
板坂法印とは、武田信玄の侍医として名高い人物です。代々足利将軍家の御典医を務めた板坂家の出身で、足利義輝の侍医として仕えていました。
永禄八年 (1565年)に、足利義輝が三好氏 (&松永久通)によって殺害されると、武田信玄の招聘を受け、甲斐へ赴きます。そして、信玄の侍医として仕え、元亀四年 (1573)年に信玄が陣中で没した際には、その死の直前まで、彼の脈を取って診察していたと言われています。
武田家滅亡後には、加藤清正に仕えました。
さて……上記からお解りのように、法印が武田家に仕えたのは、永禄八年ですが、物語はまだ永禄七年です。
矛盾しているように見えますか?
いえ、これは矛盾では無く、「武田信玄が足利将軍家に頼み込み、将軍侍医だった板坂法印を甲斐に派遣してもらって、侍医を兼務してもらっていたから」という、本作品の独自設定なのです(ドヤア)!
これも、武田信繁が第四次川中島合戦で戦死しなかった事によって、世界線が変わり発生した特異点のひとつなんだ(ナンダッテキ〇ヤシーッ!)!
ダカラミノガシテクダサイ……(._.)オジギ




