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血縁と離縁

 「は――?」


 一瞬、義信は父の言った言葉の意味を理解できず、口を半開きにしたまま、呼吸すら忘れて固まった。


「……」


 信玄は、そんな息子の様子を一瞥すると、盤上に目を落とす。そして、碁笥(ごけ)の白石をひとつ摘まむと、パチリと音を立てて打った。

 ――悪手である。

 現在の戦局では、一時の利を得るが、対局が続けば続く程、己の首を絞める――そんな手を打ってしまった。

 ……だが、先程の信玄の一言にすっかり気を取られていた義信は、それには気が付かない。

 彼は顔を真っ青にして、先程耳にした父の言葉が聞き間違いである事を祈りつつ、震える声で父に問いかけた。


「ち――父上。今……何と言われましたか? 良く――聞き取れませなんだ」


 信玄は、息子の青ざめた顔をチラリと見ると、小さな咳払いをして、再び言った。


「……態勢が整い次第、今川とは手切れをする。その後、全軍を上げて駿河・遠江(とおとうみ)へと攻めかかり、彼の地を平らげる。――そう言うた」

「ッ! ――気はお確かかッ、父上ッ!」


 義信は、我を忘れて、思わず立ち上がって叫んだ。頭に一気に血が上り、視界がユラユラと揺らいだ。


「……」


 一方、胡座をかいたままの信玄は、沈黙したまま、立ち上がった義信を下から見上げている。

 そんな信玄の落ち着き払った様子に、義信の激情は更に増した。

 彼は目を剥き、父に向かって怒鳴った。


「今川と手切れする? 何故、その様な事をお考えになったのです? 武田と今川は、二代にわたって親密な関係を――」

「情勢が変わったのじゃ、太郎」


 その鷲のような鋭い目で義信を睨みつけながら、信玄は静かな声で言った。


「……義元殿が桶狭間で敗死され、氏真が後を継いだが、彼奴(きゃつ)は若輩の上、愚鈍だという話だ。父の敵を討とうともせず、日々を公家遊びに費やしておると聞く。今川の臣共も、次々と愛想をつかし、三河 (現在の愛知県東部)と遠江 (現在の静岡県西部)は、いち早く今川から独立した松平蔵人佐(くろうどのすけ)家康に、一方的に蹂躙されておる有様じゃ」

「……それで、弱った今川が松平に喰い尽くされぬ内に、駿河と遠江を掠め取ろうという訳でござるか?」


 信玄の意を先取りした義信に、信玄は無言で頷いた。

 それを見た義信の眦が跳ね上がった。


「――愚かな! ご乱心召されたか、父上!」

「……何だと?」


 義信の激しい言葉に、信玄の太い眉がピクリと動いた。


「太郎……貴様、父に向かって――」

「愚かな事を愚かと言うて、何が悪い!」

「――!」


 面と向かってハッキリと言われ、思わず言葉を喪った信玄に、義信は更に激しく言い募る。


「今川の盟友は、武田だけではございませぬ! 我らと同様に、小田原の北条とも血の契りを重ねておるのです! ……いや、北条と今川の方が、契り合った血は遙かに濃い!」


 義信の言う通りである。

 今川家の先代・義元の正室は、武田信虎の娘――即ち、信玄の姉であり、義信の正室は、義元の娘であり、現当主・氏真の妹である。

 ――だが、北条と今川の血の濃さは、それとは比べものにならない。

 そもそも、北条家の始祖である伊勢宗瑞 (北条早雲)の姉・北川殿が、今川家当主・今川義忠の室である。更に、義忠と北川殿の子である氏親 (義元の父)の家督相続に、宗瑞が力を貸した事もあって、ふたつの家の縁は太い。

 今川と北条は、一時敵対する事もあったが、天文二十三年 (1554年)に締結された善徳寺の会盟 (甲相駿三国同盟)の際に、北条家当主・北条氏康の娘が今川氏真の元に嫁ぐ事で、その関係は修復されたのだった。


「我らが、一方的に三国の盟約を破棄して駿河へと攻め込めば、東の北条が黙っている訳がありませぬ! 北条は、直ちに我らを敵と見なすでしょう。……そうなれば、北の上杉・南の今川・東の北条と、我が武田家は三方に敵を作る事となります! そうなれば、逆に滅ぼされるのは、我らの方ですぞ!」

「……そうならぬ様に、以前より根回しは行っておる。――それに」


 ――信玄は、そこで一度言葉を切り、乾いた咳をすると、再び口を開いた。


「……北条が動く前に、速やかに駿府を落とせば、氏康殿もおいそれと手出しする事は出来まい。今川と北条に血の繋がりがあるというのなら、我らと北条も同じじゃ」

「……梅の事を言っておられるのですか?」


 梅とは、善徳寺会盟の礎のひとつとして、北条家嫡男・北条氏政に嫁いだ、信玄の娘――つまり、義信の妹である。

 義信は、信玄の言葉に、大きく頭を振った。


「――血の繋がりを当てにされておられるのですか? そんなもの(血縁)は、何の歯止めにもなりませぬ。……今、父上が口走っている世迷言こそが、その何よりの証でございませぬか!」

「……世迷言だと?」


 義信の歯に衣着せぬ言葉に、信玄の顔が次第に赤黒くなっていく。

 そんな信玄の顔を見下ろしながら、義信は興奮で肩を上下させていたが――、


「……嶺は、どうするのです?」


 声の調子を一変させ、信玄に懇願するように訊いた。


「今川から嫁いできた嶺は……武田と今川の仲が切れたら、我が妻をどうなされようというのですか、父上は……?」

「……」


 義信の震える声を聞き、信玄は暫し目を閉じた。

 そして、重い口を開く。


「……嶺殿は、離縁せよ。なるべく早い内に駿河へと帰――」

「お断り致す!」


 信玄の命を最後まで聞かずに、義信は絶叫した。唇を戦慄(わなな)かせながら、首を激しく横に振った。

 頑なな態度の義信を前に、信玄も、怒気を込めた目で義信を睨みつける。

 まるで、真剣で斬り合うかのような殺気を露わにしながら、父と子は無言で睨み合った。

 ――その沈黙を破ったのは、信玄(ちち)だった。


「父の……主君の命に従えぬと申すか、太郎――」

「ハッ! 『父の命には黙って従え』と仰るのですか? それを、父上(あなた)が! 命に従うどころか、()()()()()()()()()()貴方が――!」

「太郎ッ!」


 義信の言葉に、信玄は激昂した。

 鬼のような形相で、傍らに置いた碁笥をむんずと掴んで、激しく声を荒げる。


「貴様ッ! 父に向かって、その様な――巫山戯(ふざけ)た口を……叩く……と、は……」


 が、次第にその声は小さく、掠れていく。


「……父上?」


 父の異変を感じた義信が、訝しげに彼に声をかける。――と、


「……ゴホ、ゴホッ! ゴフッ――ゴホガハッ!」


 突然、信玄が激しく咳き込み、上体を折って、碁盤の上に突っ伏した。

 盤上の碁石が落ち、乾いた音を立てる。


「ち……父上ッ!」


 父の急変に、義信は慌ててその背中を擦る。


「ガハッ! ゴホッ! ――グフッ!」

「父上! いかがなされました! 父上ッ?」


 背を丸めた信玄の耳元で、懸命に呼びかける義信だったが、父は止まらない咳に苦しむばかりだ。

 義信は襖を開け放つと、廊下に向かってあらん限りの声で叫んだ。


「誰か! 誰かあるかッ! 薬師(くすし)を呼べェッ! 急げ……一刻も早くッ!」

 永禄七年 (1964年)当時、武田家と今川家、そして相模 (現在の神奈川県)に本拠を置く後北条家は、互いに同盟を結び合っていました。有名な『甲相駿三国同盟』です。

 天文二十三年 (1554年)、駿河の太原雪斎や、甲斐の駒井政武 (高白斎)らの周旋により、駿河の善徳寺 (現在の静岡県富士市)に於いて結ばれた同盟です。その為、『甲相駿三国同盟』は、『善徳寺会盟』と称される事もあります。

 尾張方面へ西進したい今川と、信濃へと北進したい武田、関東地方の掌握を進めたい北条の利害が一致し、その後の三家の興隆の大きな要因となった同盟関係だと言えます。

 更に、三家はお互いの結びつきをより強める為に、積極的な婚姻関係を結びました。

 その時点では、武田晴信の娘が北条家の嫡男・氏政へと嫁ぎ、今川義元の娘が武田家の嫡男・義信の元に嫁いでいましたが、更に、北条氏康の娘が今川家の嫡男・氏真へと嫁ぎ、三家は互いに血縁を結ぶ事になります。


 その後暫くの間は、三家の関係は良好でした。

 しかし、永禄四年 (1560年)に、今川家当主・義元が、桶狭間にて織田信長に討たれると、鉄壁だったはずの同盟関係に暗雲が立ち込めます。


 ――そして、永禄十一年 (1568年)に、武田信玄が駿河へ侵攻した事により、三国同盟は完全に崩壊する事となるのでした。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 後書き部分、三国同盟結成前に板垣信方は上田原で戦死してたような・・・
[良い点] ・今川義元の死去により、武田・今川・北条の同盟が終わるのは必定。義信が存命だったら反対したかもしれません。ただ港を求める信玄の気持ちを考えると… [気になる点] ・信玄の病の重さは…?
[一言] 晴信の病が致命的なものならば武田家の統制を取れる方法は限られるかと。 1) 太郎くんに当主を譲って隠居。四郎くんを副将につけると家臣団に伝える。 これは家臣団から「まだ経験不足」と言われるで…
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