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憧憬と依頼

 「馳走になりました」


 勝頼は空になった椀を膳の上に置くと、穏やかな笑みを浮かべながら、桔梗に向けて軽く頭を下げた。


「大変美味しゅうございました、叔母上」

「まあ……お口に合いましたようで、何よりでございます」


 勝頼の言葉に、彼の膳を下げながら、桔梗は顔を綻ばせる。

 先に食べ終わっていた信繁もまた、食後の茶を啜りながら、軽く頷いた。


「どうだ? 儂の言う通り、美味かったであろう。桔梗の料理は」

「はい。正直、館の曲輪で出される料理よりも美味でございました。――追従ではございませぬぞ」


 信繁の言葉に大きく頷いた勝頼は、傍らに置かれた膳に目を落とす。


「いつもは食の細い五郎が、出されたものを食べ切るのも珍しいです。彼奴も、私と同じだったのでしょう」

「そうか……それは良かった」


 勝頼の言葉に、信繁は目を細め、開け放たれた襖から庭の方を見た。

 外では、五郎と綾が、仲睦まじく遊んでいた。


「……綾も、年の近い従兄が出来て嬉しいのであろう。楽しそうだ」

「五郎もですね。同腹の妹もおりますが、まだ四つで、あの様に一緒に走り回って遊ぶ事はまだ出来ませぬゆえ……。大したはしゃぎようでございます」


 勝頼は、出された茶を一啜りすると、ほうと息を吐く。

 そして、信繁に向かってニコリと微笑みかけた。


「良い所ですね、叔父上の家は。料理も美味いし、叔父上や叔母上もお優しい。六郎次郎殿と話すのは楽しいし、綾殿は元気で微笑ましい……こんなに寛いだ気分になれたのは、久方ぶりでございます」

「……そうか」


 勝頼の率直な言葉に、思わず信繁達は照れ笑いを浮かべ、そして、勝頼に同情を覚えた。

 彼の言葉の響きに、どこか憧憬というか、哀切な響きが含まれているのを感じたからである。

 勝頼の母である諏訪御寮人は、八年前、彼がまだ幼い内に身罷っている。父である信玄も多忙を極めており、なかなか彼に構う余裕も無かったに違いない。

 母の死以降、彼は躑躅ヶ崎館の西曲輪で、さぞや寂しい思いをしていたのだろう――。

 と、


「……四郎様」


 部屋から出ようとしていた桔梗が振り向くと、持っていた膳を置いて、勝頼の前に屈んだ。

 そして、微かに潤んだ瞳で、彼の顔をじっと見つめると、柔らかな微笑みを浮かべて、優しく語りかけた。


「これからも、いつでもおいで下さいましね。ここを、ご自身のお家だと思って……。私たちは、四郎様をいつでも喜んでお迎え致しますから、どうぞ心安く……いいですね」

「叔母上……」


 桔梗の優しい声かけに、勝頼は思わず言葉を詰まらせた。彼は、何ともいえない表情を浮かべると、両拳を床について、深々と頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その肩が、僅かに震えている。

 その様子を見ながら、信繁はうんうんと大きく頷き、

 信豊は、大きな音を立てて鼻を啜った。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 桔梗が、膳を下げに部屋を出てから暫くの間、部屋に残された三人の男は、しんみりとした沈黙に苛まれていた。


「えー……ゴホン」


 と、信豊が、重たい空気を変えようと、わざとらしい咳払いをする。

 そして、殊更に明るい口調で、勝頼に向かって尋ねた。


「ところで四郎殿、諏訪の名産とは何であろうな? 甲斐だと、鮑の煮貝や鮎が美味いが……」

「はて……」


 突然尋ねかけられた勝頼は、信豊の問いに対して、困ったように首を傾げる。


「申し訳ない、六郎次郎殿。私は、諏訪家の血を引いておるといえど、生まれたのも育ったのも、躑躅ヶ崎の館の中なのでな……。正直、諏訪の地の事は、殆ど知らぬのだ」

「あ……左様か。――それは、失礼な事を訊き申した……」

「いや、お気になさらず」


 と、慌てて頭を下げる信豊に対し、穏やかな口調で言う勝頼。

 その様子を見ていた信繁が、口を開いた。


「では……、高遠の様子なども、まだ詳らかには知らぬのか?」

「――はい。前任の秋山伯耆守 (虎繁)から受けた引き継ぎや、幼い時に勘助から聞いた話で大体の事は掴んでおりますが、実際にどうなのかは、直にこの目で見てみない事には、何とも……」

「勘助――ああ、そうか」


 思いがけず、懐かしい名前を耳にした信繁は訝しげに眉を上げたが、すぐに得心して頷いた。


「そうか。山本勘助は、確か、お主の――」

「はい。守役でございました」


 勝頼も、小さく頷き返す。


「……勘助からは、沢山の事を教えられました。諏訪の家の事や、信濃の地理情勢。それに、城の縄張りの極意や、戦の作法なども――」

「それはそれは。この上ない師に教わったのだな、四郎殿は」


 勝頼の言葉に、信豊が相好を崩した。


「勘助殿と言えば、無類の戦巧者にして、縄張り(築城)の名手だった者。然らば、前の初陣でのご活躍も頷けますな」

「いや、お恥ずかしい話でござる」


 勝頼は、首を横に振って苦笑を浮かべた。


「箕輪城の搦手口で、気が逸って、無謀な一騎討ちを挑んでしもうた。すんでの所で配下に救われ、敵の首を討つ事が出来たが……一歩間違えれば――」


 勝頼はそう呟いて、肩を竦めると、信豊に向かって微笑みかけた。


「――それより、六郎次郎殿の方が素晴らしいではないか。あの村上義清を見事討ち取られるとは……」

「いや……。あれも、たまたま時と運が良かっただけにござる。あの後、真田弾正にこっぴどく叱られたし……『勝ち戦で、大将が軽々に一騎討ちなどするものでは無い。万が一があれば、掌中の勝利をむざむざ手放す事になるのです!』――とな」

「そうだぞ、六郎次郎。弾正の言うた通りだ」


 ヘラヘラと笑っている信豊を、信繁は厳しい声で窘めた。


「一軍の(かしら)を喪うという事は、決してあってはならぬ事だ。それだけで、軍の指揮は麻のように乱れる……。『掌中の勝利を手放す事になる』という言葉も、あながち大袈裟な事では無いのだぞ」

「……はい、申し訳ございませぬ」


 信繁に、厳しい言葉をかけられた信豊は、シュンとして項垂れる。

 と、勝頼が口を開いた。


「……以前、噂を聞きましたが、三年前の川中島合戦で、兄上――若殿が父上に強く叱責されたというのも、それと同じ理由でしょうか?」

「ん……?」


 信繁は、勝頼の方を見て、小さく頷いた。


「うむ……。とはいっても、儂はその頃、深傷を負って昏倒しておったから、直にその場に居合わせた訳では無いがな」


 そう言いながら、眼帯の上から右目の傷に触れる。


「――だが、その時の事を聞いた限りでは、兄上が太郎を叱ったのは、今と同じ理由からだったと理解しておる」

「……左様でござりましたか」


 勝頼は、信繁の言葉に深く頷くと――()()()()()を浮かべた。


「では……やはり父上は、兄上を武田の跡取りとしてお考えなのですね。先月の箕輪攻めの際、父上は無謀な一騎討ちを行った私に対して、その様な厳しいご叱責はなさいませんでした。ただ、『血気に逸って無茶は致すなよ』と苦笑なさるだけで……。父上は、私をあくまで一部将と見なしておられる――そういう事ですね」

「……誰かに何か言われたのか、四郎?」


 勝頼の言に、何やら含むものを感じた信繁は、訝しげな表情を浮かべて勝頼に尋ねる。


「……」


 信繁の問いに、沈黙したまま躊躇う素振りを見せた勝頼は、ふと威儀を整えると、叔父に向かって深々と頭を下げた。


「……いかがした、四郎」

「畏れながら。()()()に、お願い致したい儀がございます」

「む――」


 勝頼が、信繁の事を“叔父上”ではなく“典厩様”と呼んだ。その意味を察した信繁も、居ずまいを整える。


「四郎……いや、()()殿()。儂に願いたい儀とは、一体如何なる事だ?」

「は。実は――」


 勝頼は顔を上げると、その白皙の顔にほんのりと血を通わせ、はっきりとした口調で言った。


「――典厩様に、仲立ちをお願い致したいのです。私と若殿……兄上との間を」

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― 新着の感想 ―
[一言] 「ところで四郎殿、諏訪の名産とは何であろうな? 甲斐だと、鮑の煮貝や虹鱒が美味いが……」 >> 虹鱒はアメリカ原産で、明治時代に導入されたものなので、ヤマメあたりにしておいた方がいいように…
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 兄と一度腹を割って話したい、とな。 どこまで立ち入って良いものか悩みますけど、確かに他に適任者がいない。人を見る目はある。
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