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昔語りと現状

 布団の上で身体を起こした信繁と、その傍らに座った信玄と信廉は、半刻程の間、とりとめの無い話に花を咲かせていた。

 と、


「そういえば……」


 と、信繁が切り出す。


「目が醒める前、三人で山の中をさ迷った時の夢を見ました」

「――ああ、あの時の!」


 と、信廉は目を輝かせた。


「私も、ハッキリと覚えております。確か……私が三つか四つか……その頃の事でしたな」

「うむ、そうだ」


 信繁は小さく頷き、信廉は、申し訳なさそうに頭を掻いた。


「……確か、元々あの山に登ったのは、私が駄々を捏ねたせいでしたな……。あの時は、お二人に申し訳無うござりました。平に、平にご容赦下さりませ!」


 そう言うと、彼はふたりの兄に向かって、剃り上げた頭を深々と下げた。

 信廉らしい、大袈裟でどことなく滑稽な謝罪に、信繁は顔を綻ばせるが、信玄は首を傾げた。


「……はて? そんな事、あったか?」

「――って、太郎兄! 覚えてないのですか? あの山の大きな木の洞で、一晩を過ごした事を?」

「……覚えておらぬな」


 信玄の答えに、信廉は信じられないと言いたげに、目を見開いた。


「夜が明けて、ようやく山を下りて、躑躅ヶ崎に戻った後に、鬼のような剣幕の母上と板垣にコッテリと絞られた――それもお忘れですか!」

「……うむ」


 口角泡を飛ばす信廉に詰め寄られる信玄だったが、彼は、本当に覚えていない様だった。信玄は、困った様な苦笑いを浮かべながら言った。


「童の頃は、事ある毎に駿河 (板垣駿河守信方)に叱られておったからな……。正直、どんな事で怒られたのか、いちいち理由を覚えておらぬ。……思い出せないで、すまぬな」

「いや、そこで真面目に謝られても……」


 信玄の生真面目な謝罪の言葉に、逆に狼狽える信廉。根が真面目な信玄と、おちゃらけた信廉のやり取りは、幼い頃から変わらぬ光景で、黙ってそれを見る信繁の頬は、知らぬ間に緩んでいた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 それから、またひとしきり昔話に花を咲かせた後、信繁は布団の上で威儀を正した。


「……ところで。兄上……いえ、()()()()。お伺いしたいのですが」

「む――。何じゃ、()()


 “兄上”ではなく“お屋形様”と呼ばれた意味を敏感に感じ取り、信玄も表情を引き締める。

 信繁は、真っ直ぐに主君の目を見据えて言った。


「――某が眠っている間に、他国の情勢はどう変わったでしょうか? 六郎次郎や妻に訊いても、『元気になってからにしましょう』とはぐらかされるばかりですので、お屋形様の口から、現在の情勢と武田家の今後について、お伺いいたしとうございます」

「――次郎兄! ご精が出ますね……と言いたいところですが、ここは義姉上や六郎次郎と同じ言葉を言わせてもらいますぞ」


 信廉が、呆れたような顔をして口を挟んだ。


「次郎兄は、未だ目を醒ましてから時が過ぎておりませぬ。もう暫くは、俗世の事は気にせずに、ごゆるりとなさいませ。どうせ、快復してからは、以前の様にご多忙を極めるのですから――」

「いや」


 信繁は信廉の言葉に微笑みを浮かべながらも、キッパリと首を横に振った。


「今の儂は、昔話の浦島子のようなものじゃ。この頭の中は、二年前で止まっておるのだ。刻々変わる情勢に疎いままなのは、正直気持ちが悪くてのう」


 そう言うと、信繁は首の後ろを撫でた。


「それに、武田家親族衆筆頭としては、そうそう寝てもおられぬ。一刻も早く、躑躅ヶ崎館に詰めて、すぐにでもお屋形様のお役に立ちたい。その為には、最新の情勢を把握し、武田家の執るべき方策を、今の内に考えておかねばならぬ」

「……まったく、次郎兄らしいというか、何と言うか……」


 信繁の言葉に、苦笑いを浮かべる信廉の顔を上目遣いに見ながら、口の端に薄笑みを湛えて信繁は言う。


「それに――お主の事じゃ。何時までも、儂の代わりに親族衆を束ねるのは大変であろう、逍遙?」

「……ははは。まあ、仰る通りですな」


 兄の言葉に、信廉は破顔して、その剃り上げた頭を掻いた。


「お言葉の通り。たとえ、ほんの代理とはいえ、親族衆筆頭は、将器に溢れた次郎兄……()()()には遠く及ばぬ非才の私には、些か荷がかちすぎるお役目でござる。私は本来、“逍遙軒”の号の通り、政や戦には関わる事なく、絵でも描きながらのんびりと生きていきたいのです。――本音としては、典厩様にはさっさと復帰して頂いて、私を気鬱な立場から解放して頂きたい所でありますよ」

「ははは……変わらぬな」

「逍遙……お前な……」


 信廉の言葉に声を上げて笑う信繁とは変わって、渋面を浮かべる信玄だったが、大きな溜息を吐くと、武田家当主の顔になり、その鷹のような鋭い目で信繁をじっと見つめた。


「まあ、逍遙も良くやってくれておるとは思うが、典厩が早く戻ってきてくれるのならば、儂としても助かる。――良かろう。教えようぞ、我が武田家の現状と、我らの四囲の情勢を」

 文中に出てきた“板垣駿河守信方”とは、武田信玄の父、武田信虎の代から仕える武田家宿老の一人です。信虎の嫡男勝千代(太郎こと信玄)の守役を務めておりました。後の信虎追放事件(天文十年)でも暗躍し、信玄(当時は武田晴信)が武田家の当主になる上で大きな役割を果たした重鎮です。

 晴信が武田家の当主となり、信濃侵攻を果たす際にも大きな役割を担い、諏訪郡代を務め、信濃経営の指揮を執っていました。

 天文十七年に、北信濃の豪族村上義清と激突した上田原の戦いにおいて、壮烈な戦死を遂げます。

 よって、この物語(永禄六年)の段階では、彼は既に鬼籍に入っています。


 因みに、この板垣信方の子孫のひとりが、土佐藩士として明治維新で活躍した板垣退助です。

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