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責任と切腹

 長坂釣閑斎が口走った“切腹”という穏やかならぬ言葉に、論功行賞の場は大いにどよめいた。

 特に、信春と虎昌の弟である飯富昌景は、憤怒で顔面を朱に染めて釣閑斎の顔を睨みつける。

 そんな険悪な雰囲気の中、ひとり立ち上がった釣閑斎は、手にした扇子で虎昌の事を指しながら、声高に言葉を続ける。


「そもそも“赤備え衆”といえば、御当家の諸隊の中でも最強を謳われ、他国へも広く名を轟かせる精鋭でござる! 三年前の八幡原合戦においても、上杉勢を蹴散らし、その名は他国に(あまね)く轟き申した! されど……今回の失策によって、その勇名は地に堕ちた!」

「長坂殿……!」

「そもそも、此度の戦は、あくまでふたつの渡しを守り切れば、自ずと我が方の勝ちに終わるものだったと聞いております。上杉軍の度重なる挑発にも乗らず、只管(ひたすら)渡しの前で亀のようにジッとしていれば良かっただけの話じゃ。されど……」


 そこまで言うと、釣閑斎はフンと鼻を鳴らして言葉を継いだ。


「飯富殿は短気を起こされ、軽々に隊を動かし、結果として上杉の策にかかり、隊の半数を超える死傷者を出したのじゃ。――これまで積み上げてきた赤備え衆の名が、塵と砕けたのでござる。不様な負け戦を晒す事によってな!」

「長坂殿ッ! 貴殿、さすがに口が過ぎるぞ!」


 信春が、厳しい声で釣閑斎を咎める。彼の剣幕を前にした釣閑斎は僅かにたじろいだが、それでも尊大な態度は崩さず、信春の顔を睨み返した。

 大広間はしんと静まり返り、居合わせた重臣たちは、睨み合うふたりの事を固唾を呑んで見守る。

 ――と、

 信玄の前で座っていた昌景が、ユラリと立ち上がった。

 風采の上がらない顔に、いつもの無表情を貼り付けながら、ゆっくりと釣閑斎の方へと歩みを進める。

 と、その口が微かに動いた。


「……不様? ……負け戦? ――長坂殿……貴殿は、我ら赤備え衆のあの戦いを、不様と(のたま)うのか……?」

「……う――」


 自分の方へと近付いてくる昌景の形相に、釣閑斎の顔から血の気が失せた。昌景の小さな瞳には狼のそれのような剣呑な光が宿り、彼の背後からは、紛れもない殺気が朦々と噴き出しているのがハッキリと解った。


「――待て、三郎兵衛! お屋形様の御前である! 控えよっ」


 さすがに危険を感じ、信春がふたりの間に身体を割り込ませて昌景を止めようとする。が、昌景は無言で信春の肩を掴むと、無造作に横へと振り投げた。

 昌景の、矮躯に似合わぬ強い力に圧され、信春の身体は大きく蹈鞴(たたら)を踏んだ。だが、そんな信春には一瞥もせず、昌景は真っ直ぐに釣閑斎の顔を睨みつけ続けている。

 周囲の家臣達は、昌景の放つ余りの怒気に気圧され、微動だにせず、その成り行きを見つめているだけだ。

 釣閑斎は、微かに声を震わせつつ、なけなしの虚勢を掻き集めて、昌景を怒鳴りつける。


「お……飯富三郎兵衛ぇっ! 貴様、お屋形様と……御旗楯無の御前で狼藉を働こうというのかっ! 身を弁え――ッ」


 だが、彼の怒号は途中で途切れた。昌景の左手が伸び、釣閑斎の襟元を掴んだからだ。

 その尋常ならざる握力で首元を締められ、釣閑斎の顔色がみるみる青黒く染まっていく。

 ――そして昌景は、左手で釣閑斎の首を締めあげつつ、右掌を固く握って叫んだ。


「……狼藉は貴殿の方ぞ! いかな御普代衆の大身であるとはいえ、碌にその身を剣林に晒した事も無い分際で、我ら赤備えの衆が命を賭け、そして命を捨てた、あの戦いを“不様”と愚弄するとは――!」

「が…が、は――はな――!」

「ええい! 止めぬか、源四郎ッ!」

「ッ――!」


 突然、昌景の身体がクルリと一回転し、大広間の板張りの床に強かに叩きつけられた。その煽りを受けて、襟首を掴まれていた釣閑斎の身体も派手な音を立てて転がる。

 昌景を投げたのは――兄である虎昌だった。


「この……たわけがッ!」


 彼は、忿怒で顔面を朱に染めながら、床に転がる昌景を一喝すると、上座の信玄と居並ぶ家臣達へ深々と頭を下げた。


「お屋形様……そして、皆々様。我が愚弟がご無礼仕った。……この飯富兵部少輔虎昌が、此奴に代わりまして、深くお詫び致し申す」

「……良い。そもそもは、釣閑斎の言葉が発端じゃ」


 虎昌の言葉に、信玄は鷹揚に頷く。

 そして、床の上に無様に転がった釣閑斎に、静かに語りかけた。


「……のう、釣閑斎よ。お主はひとつ勘違いしておるぞ」

「……勘違い?」


 信玄の言葉に、釣閑斎は当惑の表情を浮かべた。


「そもそも、此度の戦と兵部の隠居は、全くの無関係だ」

「……は――?」

「兵部自身の心の内はどうだか解らぬがな……。儂も、何とか翻心する様に説いたのだが、兵部の隠居の決意を翻す事は出来なんだ。……とはいえ、兵部も齢六十を超えておる。隠居を願い出てもおかしくは無いしの……」


 信玄は、心惜しげな様子で苦笑いを浮かべたが、すぐにその表情を引き締めて、言葉を継いだ。


「……だが、それは別の事としても、少なくとも儂は、先の戦で発生した損耗の責任を、誰かに負わせるつもりはない。兵部にも、典厩にも、――()()にもな」

「……!」


 信玄の言葉に、思わず目を丸くしたのは、他ならぬ義信だった。

 信玄は、嫡男の反応にも気付かぬ体で、ただ、その怜悧な目で釣閑斎を射抜きながら、静かに――だが、圧倒的な威圧感を以て、その言葉を紡ぐ。


「それとも何か? よもやお主は、この三人の腹も切らせろと言うつもりか?」

「……い、いえ! そ、そういう意味では……」

「――なれば」


 ふと、信玄の貌が険しさを増した。

 場の空気が凍りつく。

 凍てついた大広間の中で、信玄の声だけが朗々と響いた。


「――三年前の八幡原で、数多の兵と、(山本)勘助や豊後 (諸角豊後守虎定)ら、有能な臣たちを徒に損なった、この儂こそが真っ先に腹を切るべきだな。……お主が申すのは、そういう事なのだな、長坂釣閑斎光堅よ――?」

「ひ――ッ!」


 信玄にひと睨みされた釣閑斎は、顔面を蒼白にして、両手をついて深々と頭を下げ、額を床に擦りつけた。


「め――滅相も御座いませぬ! せ……拙者は、その様なつもりで申したのでは……!」

「……もう良い。お主は去れ、釣閑斎」

「は……はは――ッ!」


 信玄の静かな怒気に中てられた釣閑斎は、わなわなと打ち震えながら、そそくさと大広間を出て行った。

 その様子を、詰めかけた諸将は、身じろぎもせずに見送る。その間、口を開く者は誰もいなかった。

 が、


「……今一度、皆にも言うておく」


 信玄が厳かに言葉を紡ぎ出すと、一瞬にして場の空気は張り詰めた絹の糸の如く緊張した。

 そんな中、信玄の嗄れた声がその場の皆の耳朶を打つ。


「儂は、此度の戦の責任を誰にも求める気はない。戦は時の運。寧ろ、策に嵌り、あの越後勢を相手取りながら、壊滅せずに長らえた……それだけで称賛に値すると、儂は思っておる。今後、赤備え衆や飯富の事を悪し様に申す事は罷りならぬ。――良いな」

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