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墓と夏空

 ――武田軍が善光寺に本陣を置いてから四日後、遂に箕輪城が落ちたとの報が上野より届く。

 信繁は、奥信濃へ乱破を放ち、葛山城などの主要な城を抑えていた別働隊も含めた上杉軍が、全て越後へと引き上げた事を確認していた。

 つまり、川中島へ赴いた武田軍は、多大な代償を支払いながらも、『箕輪城が陥落するまで、上杉から奥信濃を守る』という大役を、見事に果たしたという事である――。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「……ここか」

「はっ、左様にござります」


 信繁は、善光寺から海津城へと引き上げる途中、義信の赦しを得て陣列から離れ、供に信豊だけを連れて、八幡原の小高い丘まで馬で駆けてきた。

 丘の上には、背の低い桜の若木が一本生えていて、青葉を風に揺らしている。

 ――そして、その幹に寄り添うように、まだ石肌の真新しい五輪塔が、ぽつんと立っていた。

 信繁は、馬から下り、桜の幹に手綱を括りつけると、鞍にかけていた瓢箪を手に取り、五輪塔の前に立つ。

 そして、フッと表情を和らげた。


「久しいな、幸実。参るのが遅れて、すまなんだ」


 彼は、五輪塔に向けて静かに語りかけると、その石肌を優しく撫でた。


「……随分と小さくなってしまったな」


 そう呟くと、信繁は瓢箪の栓を抜く。

 キュポンという音と共に、彼らの周りに芳醇な酒の芳香(かおり)が漂った。


「――ははは、そう怒ってくれるな。土産も持ってきた。お前が好きだった……甲斐の酒だ」


 信繁は、親しげに五輪塔に語りかけながら寂しげに笑うと、五輪塔の上に瓢箪を掲げ、ゆっくりと傾ける。瓢箪の口から零れた酒が、五輪塔を伝い落ち、乾いたその表面を潤していく。

 五輪塔を一通り湿らせると、信繁は瓢箪に栓をして腰帯に吊った。そして、顔を上げると、ゆっくりと辺りを見回しながら呟く。


「うむ。なかなか見晴らしの良い場所だな。向こうには、海津の城も見える……」


 彼は、満足そうに頷く。そして、傍らの桜の幹を愛おしげに撫でながら、静かに言葉を継いだ。


「――そういえば、お前は山桜が好きであったのう。良かったな……好きな桜を愛でられる、良き場所に葬られて……」


 信繁は頻りに呟きながら、右手の甲で、左目を拭った。そして、再び五輪塔に目を落とし、深々と頭を下げる。


「儂は……二度もお前に命を救われた。三年前と……そして、十日前にな」


 ――『典厩様ッ!』


 ――赤備え衆を率い、敵陣を突っ切って広瀬の渡しへ急いでいたあの時、突然の上杉輝虎の襲来を報せた幸実の声。

 ……断言できる。あれは決して、幻聴などでは無かった。


「死して魂のみの存在になってもなお、儂を守ってくれて……ありがとう、幸実」


 そう言うと信繁は、墓前で静かに手を合わせる。


「だが、儂はもう大丈夫だ。だから――ゆっくりと眠ってくれ。……そして」


 そこで言葉を切ると、彼はゆっくりと立ち上がった。腰に吊った瓢箪を再び手に取り、自分の口元に運ぶと一気に呷る。

 そして、残りの酒を全て五輪塔に注ぎかける。最後の一滴が五輪塔を濡らすと、信繁は晴れ晴れとした笑顔を見せ、五輪塔に姿を変えた幸実に向けて、優しく語りかけた。


「儂がそちらに行った時には、また一緒に美味い酒を酌み交わそうぞ。――それまで、さらばだ……幸実よ!」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「もう……宜しいのですか? 父上」


 墓参を終え、丘を下りてきた信繁に、麓で彼を待っていた信豊が、おずおずと訊いた。

 信繁は、息子に穏やかに微笑みかけると、小さく頷く。


「ああ……、待たせて済まぬな、六郎次郎よ」

「いえ、拙者は構いませぬ……。もう少し、ごゆるりとされても――」

「……墓に話しかけたところで、何も答えてはくれぬからな。積もる話は、儂があの世(むこう)に逝ってから、たっぷりしてやるさ」

「左様でござりまするか。……そうですね。それが宜しいかと」


 いつもと変わらぬ信繁の様子に、信豊も安堵の表情を浮かべて微笑んだ。


「さて――若殿達は、どこまで進んだかの? 急いで追いかけるぞ、六郎次郎」


 信繁は、信豊にそう言うと、馬の横腹を蹴った。信豊も、「ハッ!」と応えて、父と馬首を並べて馬を駆る。

 ――と、


「……そういえば、父上――」

「ん? 何じゃ、六郎次郎?」


 急に声をかけられ、訝しげな顔を向ける父に、信豊は心に浮かんだ素朴な疑問を口にする。


「あの……、大した事では無いのですが」


 そう言って、彼は自分の右目を指さして言葉を継いだ。

 

「……突然、眼帯をお付けになって、どうなさったのか――と。今まで、いくら拙者や母上がお勧めしても、頑としてお付けにならなかったのに……と思いまして」

「……」


 信豊の問いかけに、信繁は言葉を詰まらせた。

 そして、無意識のうちに右目に手を添えながら、彼は()()()の事を思い返す。



 ――『……うん……、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?』



 至近の近さで囁かれた、上杉輝虎の艶やかな声。そして、頬に感じた、彼の手の柔らかさと温もりを……。



「……父上? どうなさいましたか、父上?」

「ん……? あ……ああ――、何でも……ない」


 信豊の呼びかけに、ハッと我に返った信繁は、仄かに頬を染めながら応えた。

 そして、盲いた右目を覆う眼帯にそっと触れる。

 それから彼は、どこまでも高く晴れ渡った夏の空に浮かぶ入道雲を見上げながら、


「これは――人の心は、移りゆく雲の如し……と、いう奴だな」


 と、素知らぬ顔で誤魔化すのだった――。

 この回をもちまして、『川中島激闘編』(今付けた)は終了です。ここまでお読み頂いた読者の皆様、本当に有り難うございます!

 ですが、武田信繁の物語は、まだ終わりません。


 次回からは新展開に移ります。

 武田家が抱える火薬庫に、遂に火が……?


 今後もどうぞご期待下さい!

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― 新着の感想 ―
素敵な結び!
[一言] いや、本当に「典厩信繁」で小説が無いのが不思議だったんですよね。 大抵は信長か秀吉か家康か…悪くはないけど食傷気味でもあったところに典厩を据えた作品が登場した。 とても嬉しいです。
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