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主と臣

 今回の話は、完全書き下ろしで、ノベルアップ+版には未収録の話です。

 善光寺の宿坊で、信繁と酒を酌み交わした後の輝虎を書いた回となっております。

 どうぞ、ご一読下さい。

 善光寺を眼下に望む小高い丘は、粘つくような濃い夜闇にとっぷりと沈んでいた。

 丘の頂には、一本の古ぼけた松の木が生えており、夏の風に枝を揺らしている。

 ――と、その幹の影から、ひとりの人影が顔を出した。

 その人影は、辺りをキョロキョロと見回していたが、下の方から近付いてくる足音を耳にして、その身を緊張で硬直させる。


 ――チャキリ……


 夜闇の中、静かに太刀の鯉口を切る金属音が響く。

 と、その時、


「………余だ、伊勢松。刀を納めよ。余は、お主を斬りとうはないぞ」


 闇の向こうから、涼やかな声が聞こえた。


「……ふぅ」


 その声を聞いた人影は、安堵の息を細く吐くと、静かに刀を鞘に納める。

 そして、草の生い茂る地面に膝をつくと、恭しく頭を垂れた。


「……お帰りなさいませ、殿」


 若い――むしろ、幼いと言った方が近い声が、暗闇に向かってかけられる。


「うむ、待たせたな、伊勢松。出迎え御苦労」


 と、人影に向かって鷹揚に頷いたのは、女性の姿をした上杉弾正小弼輝虎その人であった。

 輝虎に声をかけられた人影――彼の寵童のひとりである上村伊勢松は、小さく頷いただけで、そそくさと立ち上がり、主を松の木の向こうへと促す。


「――殿、武田の兵に見つかると厄介で御座います。あちらに馬を繋いでおります故、一刻も早くこの場を離れましょう」


 だが、輝虎は、伊勢松の言葉に笑い声を上げた。


「ははは! そうは言うても、余はつい先ほどまで、その武田の大将と酒を酌み交わしておったのだ。その上、宿坊からここまで歩いて参ったが、武田の兵と出くわす事は無かったぞ。それを今更――」

「……それは、偶々(たまたま)かもしれませぬ。いずれにせよ、今の我らは、敵地のただ中に居るのです。一刻も早く御味方と合流しなければ、何が起こるか――。万が一、殿の身に何かありましたら、某が腹を切るだけでは済みませぬ」

「ふふ、相変わらず慎重な男だの」

「殿が無謀すぎるのです」


 からかう様な言葉に、思わず伊勢松はムスッとした表情を浮かべるが、明かりひとつ無い夜闇のせいで、輝虎の目には届かなかった。



 伊勢松に導かれ、輝虎は、丘の頂から少し下った所に生えていた木の元まで来た。

 そこには、黒鹿毛と白毛の二頭の馬が木の幹に繋がれ、足下に生えた草を食んでいる。

 早速、幹に結わえ付けた手綱を緩め始める伊勢松の背に向けて、輝虎が口を開いた。


「ふふ……なかなか愉しい一時(ひととき)であったぞ、伊勢松」

「……それは、善うございましたな」


 伊勢松は、きつく締めた手綱を緩めるのに悪戦苦闘しながら、背中越しに適当な相槌を返す。

 そんな伊勢松の素っ気ない返事にもお構いなしに、小袖姿の輝虎は足下に咲いた野花を摘みながら、上機嫌で言葉を継ぐ。


「何より、あの武田左馬助という男は、なかなかに良い(おとこ)であったぞ。共に呑んで、あれ程楽しい者も、他には居らぬな。……あの生臭坊主の弟でさえ無ければ、無理にでも連れ帰ってきたいところだ」

「……殿が仰ると、ご冗談には聞こえませぬな」

「ふふ……そうであろう。何せ、本気の言葉だからな……ふふふ」

「……」


 何処まで本気か解らぬ輝虎の言葉に、伊勢松は無言のまま、暗闇の中で、その整った(かんばせ)を歪めた。

 そんな彼の態度を見た輝虎は、ニヤリと笑うと、更に話を続けようと、再び口を開く。


「伊勢松よ。左馬助は、なかなか良い漢っぷりであったぞ。無論、美しさではお主には負けるが、まあ、見目も悪くなかった。――右目が潰れておったのが少し惜しかったがな……」

「……お止め下さい。敵方の将を、斯様に褒めそやすのは」


 主君を窘める伊勢松の言葉は静かだったが、その声の中に、微かな怒りと嫉妬の響きが含まれているのを敏感に感じ取った輝虎は、目を細めると、彼に問うた。


「何だ、伊勢松よ。もしやお主、妬いておるのか? ――余が、左馬助を気に入っておる事に?」

「――左様に御座る!」


 突然、伊勢松は声を荒げると、くるりと輝虎の方に振り返る。

 そして、飛びつくように輝虎の前に歩を進めると、主の身体をきつく抱き締めた。


「――っ!」


 急な事に、輝虎は身構える暇も無く、伊勢松の抱擁を無防備に受ける。

 己の整った顔を、女の化粧を施した主の顔に近付けながら、伊勢松は険しい顔で言った。


「殿――貴方様は、非道い御方です」

「……」


 伊勢松に至近の距離で睨み据えながら、輝虎は、その黒く澄んだ瞳で、無言のまま視線を受け止める。

 主の切れ長の目に真っ直ぐに見つめ返された伊勢松は、仄かに頬を染めながら、更に口調を荒げた。


「敵将である男――武田信繁の事を、殊更に褒めそやし、貴方を誰よりもお慕い申し上げておる某の心を弄び、千々に乱れさせなさる……」

「ふふ……すまぬ、伊勢松」


 苦悩に満ちた伊勢松の言葉に、輝虎の顔が綻んだ。

 詫びの言葉を述べながら、彼は手を伸ばし、伊勢松の火照った頬に優しく手を添えた。


「ただの戯れだ。……最近、お主がつれない気がしてな。少しからかってみたくなったのだ」

「何と……! 殿は、某の心をお疑いになられたのですか?」

「あ……いや、そうではない」


 伊勢松の咎める様な問いかけに、輝虎は慌てて首を横に振った。


「お主の……余を慕う心には、何の疑いも抱いてはおらぬ。――ただ」


 そう言うと、輝虎は目を伏せて、伊勢松の顔から視線を外しつつ、微かに頬を染めながら言葉を継いだ。


「ただ、その……少し、寂しくてな……」

「……殿!」


 輝虎の恥じらうような言葉に、伊勢松は感極まった声を上げ、主の身体を更にきつく抱き締める。


「……っ! こ、これ、伊勢松! す、少し苦しいぞ! おい、伊勢ま――」


 狼狽え気味に伊勢松を窘める輝虎の唇を、伊勢松が己の唇で塞いだ。


「……」

「……」


 ふたりは、固く抱き合ったまま、暫くの間動かなかった。


「……ご無礼仕りました……」


 ようやく唇を離した伊勢松は、抱き締めた輝虎の身体を離そうとした。――だが、今度は輝虎が彼の身体を離さない。

 伊勢松は、戸惑うように首を傾げると、小声で輝虎に問いかける。


「――と、殿? あの――」


 今度は、伊勢松の唇が輝虎のそれで塞がれた。

 そして、先ほど伊勢松がしたように――否、それよりも激しい勢いで、貪るように彼の口を吸う。


「――っ!」

「……生意気な奴め」


 唇を離した輝虎は、伊勢松の顔を上目遣いで睨みながら囁くように言い、そして、


「仕返しだ」

「……」


 輝虎は、呆然とする伊勢松に、悪戯っ子のような顔で微笑みかけると、抱き締めていた腕を緩めた。

 そして、手早く幹に繋がれた手綱を解くと、白馬の轡に足をかけ、馬上の人となる。


「どうした? 早く乗れ」


 輝虎は馬の背の上から、呆けたままの伊勢松に向かって声をかけた。

 その声で我に返って、慌てて黒鹿毛の馬に乗った伊勢松に、輝虎は頷きかける。


「――確かに、少しのんびりし過ぎたな。急いで駿河達に追いつかなければの」

「……はっ」


 上の空といった感じの伊勢松の返事に、輝虎は思わず苦笑を浮かべながら、ふと振り返った。

 丘の下り坂の向こうで小さく、善光寺とその宿坊の明かりがチラチラと瞬いているのが見えた。

 その小さな光を見下ろしながら、輝虎は傍らの伊勢松の耳に届かぬよう、小さな声で呟いた。


「……武田左馬助信繁――さらばだ。また、何処かで(まみ)えようぞ」

 上村伊勢松は、『松隣夜話』という、江戸時代に編纂された上杉家の書の中に登場する人物です。

 『松隣夜話』によると、永禄九年 (1566年)、謙信の御座所の次の間で組み合って争っていた、金太夫と仙可というふたりの家臣を、謙信が貞宗の脇差でふたり諸共真っ二つに斬り捨てた事件が起こり、


「仙可は、年長の金大夫の力に負けて組み敷かれていただけだった。それにも関わらず、ふたり一緒に斬り捨てたのは納得いかない」


と抗議した末に激昂して、謙信に斬りかかった仙可の父を、謙信と共に討ち果たしたのが、彼の寵童だった上村伊勢松だったと書かれています。



 ただ、『松隣夜話』という書自体が、かなり信憑性の薄いものである事、上村伊勢松の名が他の史書で見られない事から、伊勢松の実在自体、相当に怪しいのではないかと思います……。


 ですが、今回の話を書くに当たって、輝虎の寵童を出す必要が出てきたのですが、他に適当な寵童候補が居なかった(河田長親は、既に沼田城主の任に就いていましたし、樋口与六 (のちの直江兼続)は、永禄七年時点ではまだ4~5歳でした)為、実存が怪しい事は充分に承知の上で、急遽彼に白羽の矢を立てた次第です。

 永禄九年の二年前なら、寵童やっててもそんなに不自然じゃないし……。


 ……まあ、猿飛佐助も出してるし、ちょっとくらい架空人物が出てきてもセーフという事で(汗)。



 ……それにしても、幾ら息子を殺されたからって、よりにもよって、あの上杉謙信に斬りかかるとは……。

 仙可の父親、ヤバいというか、命知らずというか、身の程知らずというか……(汗)。

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