男と女
女――いや、関東管領・上杉弾正小弼輝虎は、驚愕の表情を浮かべる信繁の様子を見ると、満足げな微笑を浮かべ、膳を持って部屋の中に入る。
そして、信繁の前にどんと音を立てて膳を置くと、自分はその向かいに腰を下ろし、屈託の無い笑みを浮かべた。
「さて、早速飲ろうではないか。――ほれ」
そう言いながら、彼は信繁に盃を差し出す。
「盃を取れ。注いでやろう」
「……あ、いや……」
輝虎の申し出に逡巡する信繁だったが、輝虎は強引に彼の手に盃を持たせると、徳利を傾け、白く濁った酒を注ぐ。そして、注ぎ終わると、今度は徳利を信繁に突きつけた。
突然の事に、キョトンとした顔で、輝虎の顔と突き出された徳利を交互に見るだけの信繁に、輝虎は焦れた様子で言った。
「……案外と気の利かぬ奴だな。余にも注げ」
「あ――し、失礼仕った」
ようやく輝虎の意図を酌めた信繁は、慌てて盃を置くと、輝虎の手から徳利を受け取り、彼の盃に酒を注いだ。
「――よし」
輝虎は、濃厚に立ち上る酒の香りに目を細めると、手にした盃を高々と掲げる。信繁も、彼に倣って急いで盃を取る。
「では――乾杯」
「乾杯……」
ふたりは、視線を交わし合うと、盃に口をつけ、一気に飲み干した。
「ふう……美味い」
輝虎は、その形の良い唇から微かな吐息を漏らしながら、満足げに言う。
信繁もまた、含んだ瞬間に口中に広がった濃厚で芳醇な酒の風味に、思わず感嘆の声を上げた。
「これは……確かに、美味い――」
「で、あろう? 我が越後の地で育った米から作った酒よ。身贔屓無しで日の本一の酒だ。貴様もそうは思わぬか?」
「……どうでしょうか。何せ某は、あまり諸国の酒を嗜んだ事はござらぬ故、日の本一かと言われると……。――なれど」
そう言いながら、信繁は手酌で酒を盃に注ぐと一息に呷り、喉を通る酒の辛さをしっかりと味わった。そして、ふぅと溜息を吐くと、静かに言葉を継ぐ。
「――正直、甲斐では、これ程の酒は飲めませぬな。……美味うござる」
「ははは! さもあろう! さあ、もっと飲め!」
率直な賞賛の言葉に気を良くしたのか、輝虎は明るい笑い声を上げると、信繁の盃に自ら酒を注いでやる。
「酒の味が分かる奴に悪い奴はおらぬ。やはり、貴様は、余の見込んだ通りの漢だったようだな!」
「……恐悦にござる」
信繁は、輝虎の言葉にようやく表情を和らげると、輝虎の盃に酒を注ぎ返した。
そして、どちらかともなく互いに盃を掲げると、同時に飲み干す。
盃から口を離した二人は、同時に感嘆の吐息を漏らし――そして、信繁は輝虎の顔と全身をチラリと見ると、思わず言葉を漏らした。
「……それにしても、意外でござった。――輝虎殿が、その……まさか女子であったとは――」
「ん?」
信繁の言葉にキョトンとした表情を浮かべた輝虎は、女物の小袖を着た自分の身体を見下ろしてから、鷹揚に首を横に振る。
「ああ、これか。いや……違うぞ、それは」
「……違う?」
苦笑いを浮かべる輝虎に、訝しげな表情を向ける信繁。
輝虎は、つと真顔に戻り、盃に目を落としながら、ポツポツと話し始める。
「斯様な格好ゆえ、貴様がそう思うのも無理はないが……余は、女子ではない。――だが、かといって、『男だ』とも言い切れぬのが、歯痒いところであってな……」
「……男とも言えない……?」
信繁は、輝虎の妙な物言いに、思わず首を傾げる。
輝虎は、困ったような表情を、その整った容に浮かべつつ、言葉を続けた。
「つまりな。……余は、男でもあり女でもあり、――そして、男でもなく女でもないのだ」
「……!」
唖然とした顔の信繁を尻目に、輝虎は静かに腹に手を当てつつ、言葉を継ぐ。
「――つまり。余の体は、男と女、ふたつの性質を持ち合わせているのだ。女子ほどではないが乳も膨らんでおるし、不規則だが障り(月経)も来る」
「……」
「しかし、完全な女ではない故、子を成す事は出来ぬようでな。……孕ませる事も孕む事も能わぬ。――まあ、そのおかげで、家臣共から子をせがまれる事も無いのは、気が楽だがな」
と、輝虎は自嘲気味に嗤う。
そんな彼の言葉を、信繁は神妙な顔で黙って聞いていた。
そして、輝虎の目をジッと見つめて、静かに言う。
「……左様でござったのか……」
「おや、半信半疑といった感じだな? どれ、確かめてみるか――?」
そう言いながら、おもむろに小袖の袷を寛げようとする輝虎。
「――い、いや、それには及びませぬ! どうぞ、お構いなく!」
慌てて静止してくる信繁に、輝虎は意地の悪い薄笑みを向けて言った。
「なんだ、別に減るものではない故、余は構わぬのに。……案外、初心な性根のようだのう、左馬助! ははははは……」
「……」
朗らかに笑う輝虎を前に、信繁は辟易とした顔で、肩を竦めるのだった。
……と、いう訳で。
やっと、上杉輝虎の最大の隠し設定を露わにする事が出来ました。
この物語での上杉輝虎は、今で言う両性具有、または半陰陽と呼ばれる性です。
医学的呼称としては『性分化疾患』と呼ばれます。人間は、胎児時の男性ホルモンの働きによって男性と女性に分かれますが、その働きに何らかのエラーが発生する事で、性別の齟齬・或いは性器の異常が起こると言われています。
外性器の発達には個人差があり、性分化疾患の多くは第二次性徴期に判明する事が多いですが、稀に本人を含めて誰にも気付かないまま、成人する事もあります。
『男性』として育ち、女性と結婚していた性分化疾患の人が、謎の腹痛の為に病院に行き、その腹痛が生理痛だと判明し、そこで初めて自身が『女性』だと気付いた――というケースもあるようです。
性分化疾患の人は、ホルモンの異常が伴う事が多く、殆どの場合、生殖能力を喪っています(稀に、妊娠・出産に到る人もいます)。ただ、前述のケースの様に、外性器の発達の度合いによっては、正常な性行為を行う事も可能です。
さて、ここからが本題です。
皆さんは、「上杉謙信女性説」という話を聞いた事があるかもしれません。
元々は、歴史小説家の八切止夫氏が唱えた説で、「スペインのトレドから発見された報告書に『会津の上杉は、Tia(伯母)が開発した金山を持っている』という記述があった」「『当代記』に、上杉謙信の死因が大虫(月経・婦人病)であるという記述がある」「謙信の事を『男も及ばぬ大力無双』と歌う瞽女歌があった」などと言うのが、その論拠でした。
発表当時は、「戦国最強の武将が女だった!」というセンセーショナルさで注目を浴びた説でしたが、その後の史学者達の研究や史料批判によって、現在では論拠とされた史料の実存や信憑性に大いに疑問符がつき、「謙信女性説」はトンデモ説のひとつだとされています。
また、「謙信女性説」の論拠として、「謙信が女性だったから、女と結婚できなかったのだ」という識者も居ります。
ですが、だったら、男と結婚すれば良いだけの話です。
戦国時代には、立花誾千代や井伊直虎のように、女ながらに一城の主として領地を統べる女性もいたのです。殊更に性別を偽る必要は無いはずなので、論拠としては弱いです。
ただ、謙信が“何故か”生涯不犯を通し、実子を作らなかった事は確かで、更に、その事に対して上杉の家臣団が何も言った様子が無い事も確かです。
当時、実子の有無は、家の存続に関わる大問題です。
通説によると、謙信は毘沙門天への深い帰依の為に、生涯不犯を誓ったと言われていますが、いかに主君とはいえ、家臣団が一個人の主義信条の為に、主家の存続を危うくする事を黙認するでしょうか?
恐らく、逆でしょう。
家臣団は、何が何でも謙信に子供を作らせて、主家の血筋を残そうと力を尽くすと思います。
……でも、そうしていない。
ならば、考えられる事はひとつ――「謙信は、子供を作らなかった」のではなく、「謙信は、子供を作れなかった」という事ではないでしょうか?
「性的不能説」もありましたが、彼が樋口与六(後の直江兼続)などの寵童を抱えていた事で、性的不能説は否定されます。
そう考えた結果、出てきた仮説が、この小説の設定「上杉謙信半陰陽説」です。
この説ならば、『出生当初は男児として、虎千代と名付けられ、育てられた』『生涯妻を持たなかった』『実子を作らない事に、家臣団から疑問の声や、反対の声が一切出なかった』という事実の説明がつきます。
――どうでしょう。結構いいセン衝いてると思いませんか(笑)?
とはいえ、これはあくまで小説の一設定として考えた説なので、そこまで声高に唱える気もありませんので、悪しからず。




