頭巾と亡魂
中天にあった太陽が、その光を熟れさせつつ西へ傾き始めた頃――、
襲いかかる敵を躱し蹴散らしながら一心不乱に東を目指していた、信繁と飯富虎昌が率いる武田赤備え衆は、その日最大の難所へ差し掛かっていた。
目的地の広瀬の渡しは目と鼻の先――なれど、その進路を完全に塞ぐように、直江景綱率いる上杉軍千五百が陣を展開している。
広瀬へ出るには、この直江隊を何が何でも抜かねばならぬ。――だが、雨宮の渡しからここまで、休む間もなく駆け続け戦い続けてきた武田隊の人馬の疲労は、とうの昔に限界を超えていた。
対して、彼らを準備万端で待ち構えていた直江隊の士気は横溢。どちらが優勢かは、火を見るよりも明らかであった。
――かといって、武田隊は引き返す事も出来ない。後ろから、ここまでの道程で抜いてきた上杉軍の諸隊が、彼らを追ってどんどんと近付いてくる。
退くも敵、進むも敵……。
ならば、馬首を向ける方向は――!
馬上の信繁が、手槍を大きく前に振った。
「――進めぇい! ここまで来ればあと一息だ! 眼前の敵を打ち破り、何としても千曲川まで辿り着くのだ! ――者ども、かかれぇい!」
信繁の大音声での号令を受け、武田の兵達が一斉に、地鳴りの如き喊声を上げた。彼らは、残り僅かな気力と体力を振り絞ると、行く手を埋め尽くす上杉軍の群れに向かって、雄々しく突貫していく。
武田赤備え衆と上杉軍直江隊、互いへの殺気に満ち満ちたふたつの集団が、遂に真正面から激突した。
「怯むなッ! 何としてでも押し通れ!」
「脇目を振るな! ただひたすら……前の敵のみを斃し、一歩でも半歩でも前に進む事のみを考えよ!」
「固まれ! 散れば、周りを囲まれて、一人ずつ討ち取られるだけじゃ! 馬を寄せ、塊を成して進むのじゃ!」
赤備えの組頭達が声を張り上げるが、敵と味方が入り混じって刃を合わせる乱戦のさ中で、その指示の通りに動く事は簡単ではない。
百戦錬磨の武田赤備え衆の精鋭達といえど、これまでの逃避行と戦いの中で蓄積していた疲労と負傷によって、その動きは鈍かった。
相手の直江隊は、徒の足軽が編成の中心だったが、緊密な連携で騎馬の武田兵を一騎ずつ集団から引き剥がし、馬から引きずり落として押さえ込み、強引に首を掻き落としていく。
時を経るごとに、地面に倒れ臥す朱い甲冑の骸が増えてゆく……。
が、多大な犠牲を出しながらも、赤備え衆の前進は止まらない。彼らは出来る限り密集し、まるで紅き錐の如き隊形を成し、犠牲を厭わずに前進し続ける。その遮二無二な突進によって、直江隊の陣はゆっくりと、そして確実に穿たれてゆく。
――そして、遂に。
「――おお!」
赤備え衆の成した錐の陣形の先頭に立ち、修羅の如き形相で手槍を振るっていた信繁が、思わず感嘆の声を上げた。
前方に、西日を反射してキラキラと煌めく、千曲川の流れが見えたからだ。
信繁は、自分に向かって突き出された長槍の穂先を躱し、その持ち主の足軽を馬上から突き伏せると、後方を振り返って声を枯らして叫んだ。
「者ども! 遂に千曲川が見えたぞ! あと一息だ! 気力を振り絞れぃ!」
「お――おおおおおおおおっ!」
信繁の叱咤に、赤備え衆の生き残り達の士気が一気に上がった。彼らの目に光が灯り、その動きは精細さを取り戻す。
活き返った武田軍は、最後の力を振り絞って、その勢いを増した。
対する直江隊は、武田軍の凄まじい気魄に怯み、堪らずその攻囲を緩める。
「今だ! 圧し通れ!」
赤備え衆は、その隙を逃さず、一斉に眼前に見える千曲川へ向かって奔り出した。
(……もう大丈夫だ――)
その先頭を駆ける信繁は、小さく安堵の息を漏らし、一瞬だけ気を緩めた。
――その時、
『――典厩様ッ!』
確かに、聞き慣れた――そして、もう二度と聞けないはずの声が耳朶を打ち、信繁はハッと我に返った。
(ゆ――幸実……っ?)
彼は驚愕に目を見開き、思わず右に振り向く――。
その視界に、白馬に乗り、刀を振り上げて突っ込んでくる、白い頭巾の騎馬武者の姿が映った!
「――ッ!」
突然の襲撃に不意を衝かれた信繁は、咄嗟に手槍を掲げるが、頭巾の武者が刀を振り下ろすのが早い。
「! くっ!」
敵が振るった銀色の一閃は、信繁の鎧の壺袖を断ち切り、彼の右肩に食い込んだ。その衝撃と痛みで、信繁は持っていた手槍を取り落とす。
――が、浅い。
直前に振り返ったおかげで、信繁の首元を狙った一撃が逸れ、彼の命を救ったのだ。
それを悟った敵は、頭巾の下で小さく舌打ちをすると、素早く刀を引く。そして、巧みに手綱を操って、信繁から一旦距離を取った。
が、すぐに馬首を返すと、再び刀を振りかぶり、信繁へ向かって斬りかかる。
「ちッ!」
信繁は、素早く腰に差した刀の柄に右手をかけ、一気に抜き放った。肩の傷が痛んだが、耐えられぬ程ではない。
頭巾の武者が振り下ろしてきた太刀を、信繁は刀の鎬で受け、ふたりの間で火花が散った。
「むん……ッ!」
「――ッ!」
ふたりの武者は、互いに刀を押し込み、鍔迫り合いの形になった。互いの力が均衡を生み、一瞬の間、ふたりは馬上で静止する。
と――、
唐突に、頭巾に覆われた敵の目元が緩んだ。
「……その前立の武田菱――。お前が武田左馬助信繁か。……一度会ってみたかった」
頭巾越しでくぐもってはいたが、細く、涼やかな響きを感じさせる声が、信繁へかけられる。
鎬を削り、歯を食いしばりながら、信繁は頷いた。
「……如何にも。そういうお主は、どなたかな……っ?」
「ふふ……」
頭巾の男は、信繁の問いには答えず、ほくそ笑むだけであった。
が、信繁は、すぐにその正体を悟った。
「お主――貴殿は、上杉……輝――ッ!」
「フンッ!」
驚きの混じった信繁の言葉を遮るように、頭巾の男は、信繁の刀を弾いた。その反動で、ふたりの距離が少し開く。
「オオオッ!」
今度は、信繁の方から斬りかかった。頭巾武者に反撃をさせまいと、続けざまに斬撃を加えるが、頭巾武者はその悉くを巧みな刀捌きでいなす。
と――、
「いかん! 典厩様をお助けしろ!」
「兜首じゃ! 討ち取れば手柄だぞ!」
ようやく、隊将の危機に気が付いた武田の将兵たちが、ふたりの間に割り込み、頭巾武者に向かって槍の穂先を突きつけた。
さすがに、ひとりで多勢に対する不利を悟ったのか、頭巾武者は白馬の手綱を引き、立ち止まる。
「むう、無粋な奴らめ。せっかくの楽しい時間はこれまでのようだな、武田信繁よ!」
そう叫ぶと、彼はおもむろに馬首を返した。
「――では、これにてさらばだ!」
そう言い捨て、頭巾武者は馬をけしかけ、その場から駆け去ってゆく。
信繁を守らんと、その前方で壁を作っていた武田の将兵が、
「ええい、逃がすな!」
「待てい!」
と口々に叫んで彼を追おうとするが、
「――止めよ!」
信繁は短く叫んで、それを制した。
「逃げる敵には構うなと言うておったであろう! 今は広瀬への脱出が先だ! 征くぞ!」
逸り立つ味方に向かって怒鳴ると、信繁は馬首を広瀬の方に向け、馬の横腹を蹴った。
赤備え衆の騎馬武者たちも、彼の後に続いて、次々と乗騎の速度を上げていく。
――と、
「……痛ッ」
激しく揺れる馬上で、忘れていた右肩の痛みを思い出し、信繁は顔を顰める。
同時に、三年前の戦いで喪った右目が疼くのを感じた。
その疼きで、彼の脳裏にかつての友の顔が浮かび上がる。
(そうか……死してなお、儂を助けに来てくれたのか。――すまぬ、恩に着るぞ……幸実)
信繁の盲いた右目から、涙の粒が零れた。




