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丸と菱

 熾烈な矢雨はようやく止んだが、武田の兵が息を吐く間もなく、今度は穂先を銀に光らせた槍を振り仰ぐ騎馬武者の洪水が赤備え隊の兵達を襲った。濃密な密度で降り注いだ矢の直撃を免れた赤備え衆の生き残り達が慌てて手槍を構え直すが、不意を打たれた事による狼狽と亡失から回復できていない。

 そんな中途半端な心理状態のままで、赤備え衆は、戦意と殺気に満ちた上杉軍の兵と刃を交わす事となった。

 戦意の低下は、突き出す槍撃の鋭さ、身のこなしに如実に影響する。上杉の武者達の放つ裂帛の気迫に呑まれ、赤備え隊の騎馬兵は、次々と馬から突き落とされ、組み伏せられ、その赤い鎧を己の血潮で更に朱く染めた。


「ええい! 者ども、怯むな! 白兵戦になれば、敵の弓兵も無闇に矢を放てなくなる。乱戦ならば、我ら赤備え衆に分があるぞ!」


 赤備え衆の隊将である飯富虎昌が、先頭で手槍を振るいながら、必死で部下達を鼓舞するが、味方の数に比べて、敵の数は圧倒的に多い。ひとりの騎馬兵に対し、上杉兵二・三人が群がり、連携しながら疲弊を誘い、手数が少なくなったところで馬から引きずり下ろす。如何に歴戦の勇士である赤備え衆といえど、この戦術の前には為す術も無く、ひとり、またひとりと草原に斃れ伏してゆく――。


「……者ども、集まれ! 密集して円陣を為し、守りを固めよ!」


 虎昌は、血が滲むほど唇を噛み締めて、遂に屈辱的な命令を下した。その下知に、赤備え衆は素早く反応し、馬と馬を密集させて小さな円陣を形成する。いわば、小さな“方円の陣”を作ったのだ。

 両脇を味方で固める事で、各々は前方の敵にのみ集中する事が出来、疲労の極みに達した者は、円の内側に入って休息を取る。そして、幾ばくかの体力を回復した者は、外縁で疲弊した者とその役目を代わる――。即ち、守備に特化した陣形だ。

 ――だが、それは同時に、騎馬隊の最大の優位性である機動力を犠牲にするという事でもある。結果、隊としての攻撃力は大きく下がる。

 更に、時間が経てば経つほど、斃れた者の分だけその円の直径は小さくなり、各員の負担も増えるのだ。

 また、それを嫌って、円の大きさを保とうとすれば、疲弊した者を後方へ下げる余裕も無くなり、これもまた兵達の消耗が早まる結果に繋がる。

 現状では、ただの全滅までの時間稼ぎ以上の意味は無い作戦であった。


「……兄上、どうなさるので?」


 虎昌の傍らで片刃槍を軽々と振るい、群がる敵兵を切り払いながら、飯富昌景が大きな金の前立をあしらった烏帽子形兜(えぼしなりかぶと)の庇を上げて、兄に訊く。


「このままではジリ貧です。典厩殿も、雨宮をガラ空きにして離れる事は叶いませぬでしょうし……」

「……解っておる!」


 昌景の言葉に、苛立たしげに応えながら、虎昌は敵足軽の頭を陣笠ごと断ち割る。


「……だが、ならばどうすれば良い? ここまで敵に食らいつかれてしまったら、退く事も難しいぞ!」

「――天命、尽きましたかな……?」


 兄の言葉に、微かな苦笑すら浮かべながら、昌景は答えた。


「で……あれば」


 彼は、槍を振るう手を止めて、周囲で奮戦する同胞達の姿を見回す。


「この様なだだっ広い平原の真ん中で、落城間近の本丸に閉じこもるような戦い方をするのは止めましょう。我らは――誇り高き武田の赤備え衆ですぞ。騎馬を駆り、大地を縦横無尽に奔る――最期は、その様な奔放な戦い方で逝きとう御座る。――皆も、そうであろう?」


 昌景の言葉に、周囲で戦う赤備え衆の面々も、虎昌の方を見て力強く頷いた。


「……貴様ら――」


 虎昌は、彼らの顔を順々に見回し、その全ての目が爛々と輝いている事を確かめると、大きく息を吐き、静かに覚悟を決めた。


「――相分かった」


 彼は、皆へ向けて大きく頷きかけながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「皆の覚悟、しかと受け取った! これより、我らは力が続く限り、上杉の兵共を斬って斬って斬りまくる! 上杉輝虎……否、天が下の全ての民に、“武田の赤備え衆”の勇名を永劫に刻みつけてやるのじゃ!」

「おおおおおおおおっ!」


 虎昌の言葉に、萎えかけていた赤備えの武者達の闘志が再び燃え上がった。

 武者達は、雷霆(らいてい)の如き咆哮を上げ、一斉に刀槍を天に向けて振り上げる。彼らに激しく攻めかかっていた上杉兵は、その勢いにたじろぎ、思わず攻撃の手を止めてしまう。

 虎昌は、采配代わりに手槍を高々と上げ、真っ直ぐ前方へと振り下ろす――。


「者ども、つづ――!」

「ウワアアアアッ!」


 覚悟を籠めた、虎昌の下知の声は、上杉軍の一角で上がった悲鳴に掻き消された。


「――な……何じゃっ?」


 呆気に取られ、声の上がった方へ振り返る虎昌。

 彼だけでは無い。昌景をはじめとした赤備え衆、そして、敵の上杉軍の将兵も、一斉に同じ方向へ注目する。

 ――と、武田方のひとりの武者が、驚きと――歓喜に満ちた声で叫んだ。


「お――飯富様! お味方……救援が参りましたぞ!」

「な――ッ?」


 その声に、思わず驚愕の叫びを上げる飯富。

 と、赤備え衆を周りを、蟻の這い出る隙間も無く包囲していた上杉兵の壁の一角が、まるで湖の氷が断ち割れたかのように、真っ二つに裂けた。

 その隙間から、朦々と土煙を上げつつ、こちらへ突っ込んでくる騎馬の一団。

 その一団が掲げている、翩翻(へんぽん)と翻る旗印を目にした上杉兵の間から、大きな響めきが上がる。


「黒地に白の日の丸に……た――武田菱……!」


 ――同時に、赤備え衆の将兵もまた、驚きと共に、歓喜の声を上げた。


「て――典厩様――! 典厩様じゃ! 典厩様が、我らを助けにお出で下さったぞ――!」

 武田信繁は、武田親族衆筆頭の為か、旗印には武田家の家紋である『武田菱』を用いていました。

 また、それと併用して、黒地に白の日の丸をあしらった旗印も使っていたようです。

 もしかすると、武田家重代の秘宝である御旗楯無の“御旗”を元にした意匠だったのかもしれませんね。

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