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焦りと逸り

 八幡原に上杉軍が陣を布いて三日――。


 海津城・広瀬の渡し、そして雨宮の渡しで睨み合う両軍だったが、正面きって衝突する事は無かった。

 無論、両軍の間で全く動きが無い訳ではなかった。

 日中の内の数度、上杉軍は先陣を動かす。陣太鼓を叩き、法螺貝を鳴らしながら、ジリジリと武田軍の陣へと近付いて行く。それに応じて、武田軍も迎撃部隊を陣から出す。

 ――と、上杉軍は、徐々に進路を変えながら、まるで武田軍の陣の鼻先を掠めるようにしながら、武田軍に捕捉されない距離を保ちつつ自陣へと戻って行くのだ。

 この、何度も繰り返される上杉の奇妙な用兵に、武田軍の将兵の中には苛立ちを感じる者がだんだんと増えていく。

 そして、雨宮の渡しにおいて、最も鬱屈を溜めつつあったのは、赤備え衆を統べる飯富虎昌だった。


「何なのじゃ、あやつら! 出てきたと思うたらすぐに引っ込む! まるで土竜(モグラ)じゃ!」


 その日の夜、飯富虎昌は本陣で酒を呷りながら、怒りと酔いとで顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らした。

 そんな彼に、眉を顰めつつ信繁は(なだ)める。


「そうカリカリするな、兵部。あれは、上杉がこちらを焦れさせようという、姑息な策略だ。我慢比べに負けて、奴らの意図に乗っては、取り返しのつかぬ事になるぞ」

「典厩様の仰る通りでございますぞ、飯富様」


 信繁の脇に控えた武藤昌幸も、信繁の言葉に頷く。


「良いではありませぬか。我らは特段戦わずとも良いのです。雨宮の渡しの前で守りを固めて無闇に動かず、ただただ、箕輪城が陥ちたというお屋形様からの知らせを待っておれば宜しい」

「――喧しい! 若造の分際で、この儂に偉そうな口を叩くな!」


 昌幸の言葉にも、まるで鋭い牙を剥き出すように噛みつく虎昌。激しい言葉をぶつけられた昌幸は、辟易とした顔で肩を竦めてみせる。

 と、


「……短気は寿命を縮めますぞ、兄上」


 虎昌の隣で、黙々と酒を呷っていた飯富昌景が、ボソリと言った。

 ギロリと、自分の顔を睨みつけてくる虎昌の剣幕にも怖じ気づく事無く、昌景は肴の梅干しを箸で穿りながら言葉を続ける。


「武藤や典厩殿の仰る通りでござる。ここ数日の上杉の動きは、何とかして我らをこの陣から引きずり出したいという、焦りによるものに他ならぬ。なにも、向こうの焦りに、我らが合わせてやる必要もありますまい。――それとも」


 そう言うと、昌景は顔を上げ、兄の顔をジッと見た。


「……焦っているのは、寧ろ兄上の方では無いのですかな?」

「……ッ? わ――ワシがぁ?」


 昌景からの意外な言及に、虎昌は思わず目を丸くした。


「源四郎ッ! このワシの、どこが焦っておるというのじゃ!」

「止めぬかッ、ふたりとも!」


 激昂した虎昌が、弟の胸倉に手をかけたところで、信繁は声を荒げた。その叱責に頭が冷えた虎昌は、昌景から手を放して、上座の信繁に深々と頭を下げた。


「失礼致しました……。御前にて、お見苦しいところをお見せ致した……」

「もう良い。――とはいえ」


 信繁は、溜息を吐きつつ鷹揚に頷いたが、厳しい声で言葉を継ぐ。


「――三郎兵衛 (昌景)の言う事にも一理ある。端から見ていても、お主が余裕を喪いつつある事は分かるぞ」

「……」

「戦意横溢なのは結構。……だが、逸るのは感心せぬ。気の逸りは焦りを生み、焦りは失策を生む。――呉々も、油断をするな。そして――必要以上に敵を侮るな。何せ、相手は“軍神”上杉輝虎だ。慎重の上にいくら慎重を重ねたとしても、無駄ではない。良いな」

「……はっ。肝に銘じておきます」


 信繁の言葉に、大きく頷いた虎昌であったが――その目には、どことなく不満げな光が宿っていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 ――その翌日。


「……兵部様。また、“ネコ”どもが来ましたぞ」


 赤備えの組頭が、ウンザリとした表情を浮かべながら、前方を指さした。


「……やれやれ。毎日毎日、御苦労な事じゃな」


 その声に応じて、虎昌は溜息を吐きながら朱塗りの兜を被り直すと、騎馬に跨がり、赤備え衆の先頭まで馬を進める。

 なだらかな丘陵の向こうから、キラキラとした光が見える。それは、上杉兵の兜の前立てや長槍の穂先が反射した太陽の光だ。


「……今日の“ネコ”共は、いつもより数が少ないかの……?」


 飯富は目を眇め、上杉の兵を見定めながら呟いた。飯富を含めた赤備え衆は、ここ数日に対峙してきた上杉軍の事を“ネコ”と呼んでいた。ソロソロと近付いてくる癖に、こちらが近寄るとスーッと離れて行ってしまう様が、まるで野良猫のようだと揶揄したのである。

 今日もまた、いつもと同じように、鬨の声ひとつあげる訳でも無く、粛々と隊列を整えて近付いてくる。

 毎度代わり映えのしない上杉の行動に、赤備え衆は内心で飽き飽きしながら、緊張感の欠片も無く、じっとその動きを監視する。

 やがて、彼我の差が四町 (約440メートル)にまで縮まった。飯富はいつものように采配を振り、それに合わせて、赤備え衆がゆっくりと馬を進ませ、前線を押し上げる。

 お互いに近付き続け、その距離は三町 (約330メートル)を切った。


「……おや?」


 その辺りで、赤備え衆の幾人かが首を傾げはじめた。


「逃げぬな……」


 いつもならば、この距離を割ったあたりで、上杉軍はその進路をまるで弧を描くように逸らしながら、徐々にこちらから離れていくのだが、今日に限っては何故か、彼らは全く進路を変えずに、そのままの歩調でどんどん近付いてくる。

 やがて――両軍の距離が、二町 (約220メートル)を切った。

 赤備え衆の間からどよめきが漏れはじめる。


「これは……彼奴ら、()る気か――?」

「遂に……戦う気になったのか?」

「――よし」


 赤備え衆の顔に、覇気と緊張が満ち、息が荒くなり始める。百戦錬磨の彼らは、瞬く間に、これから始まる壮烈な戦闘への覚悟を固めた。

 張り詰めた緊張感の中、ふたつの軍はゆっくりと――そして確実にその距離を縮めていった。

 一町半 (約160メートル)――。

 そこで突如、上杉軍が一斉にグルリと踵を返した。そして、武田軍に尻を向けたまま、早足で元来た道を戻ろうとする。


「あ! あいつら……逃げよる――!」


 それを見た赤備え衆の武者達が、一斉に声を上げた。


「ひょ――兵部様! 追いましょう! 今なら追いつけます!」

「む――」


 気が逸った組頭の言葉に、虎昌は一瞬躊躇した。昨日の本陣でのやり取りが、その脳裏に去来する。

 と――、


「――兄上、なりませぬ! あれは……上杉の策略に違いありませぬ!」


 虎昌の背後から、厳しい声がかけられた。彼が振り返ると、弟の昌景が、その浅黒い顔を青ざめさせながら、必死の体で声を張り上げていた。


「……至急、隊を止め、いつものように陣へと退くのです! でなければ……!」

「うむ……が、しかし――」


 だが、虎昌は弟の進言を容れる事を躊躇した。


(……ここで追撃し、敵を数多討ち取れば、大きな手柄となる……!)


 ――昨夜、昌景が指摘した事は当たっていた。虎昌は焦っていたのだ。

 この川中島へと布陣して以降、彼と彼の麾下の赤備え衆は、緒戦以降、大した手柄を立てていない。

 広瀬の渡しでは、僅か齢十五の武田信豊が敵将村上義清を討ち取る活躍を見せている。歴戦の戦巧者である虎昌と彼の率いる赤備え衆が他の隊に後れを取る事は、とてもではないが看過できる事では無い。

 ……そのような矜恃が、飯富虎昌の目と判断力を一瞬だけ曇らせた。そして、事態が取り返しのつかない域にまで達するのには、その一瞬の遅れだけで十分だった。

 気の逸った数人の騎馬武者が、騎馬の横腹を蹴り、勢いよく隊列から飛び出した。――他の者より先んじて上杉軍に追いつき、一番首を狙おうとしたのだ。

 そして、


「あ――! 抜け駆けは赦さぬッ!」


 その数人を追いかける形で、また十数人が隊列を離れた。

 そして、その十数人を追いかける為に、数十人が隊列を乱し――、

 いつの間に、赤備え衆の半分以上が手柄に逸り、背中を向けて退く上杉軍を追いかける形になってしまった。


「――!」


 その思いもかけない事態に、虎昌は愕然とし、言葉を喪う。


「――兄上! 何を虚けておるのですか!」


 そんな兄に喝を入れたのは、昌景だった。


「これも、恐らく上杉の目算通り……。輝虎は、こうなるのを見越して、今日まで我々を焦らし、気を逸らせる様に策を講じていたのでしょう。――事ここに至っては致し方ありませぬ! 先走った連中を見殺しにせぬよう奴らの後に続き、赤備え全隊で上杉軍と相対し、向こうが怯んだ頃合いを見計らって隊を纏めつつ退くべき……いや、もはやそれしか目が御座いませぬ!」

「! ――お、おう……!」


 二十五歳下の弟に諭され、虎昌は自身の不明を呪い、そして覚悟を決めた。

 彼は采配を振り上げると、割れんばかりの大音声で赤備え衆の武者達へ命じた。


「者ども、前方の上杉へ向けて……ワシに続けーッ! 我ら赤備え衆の強さ――上杉の弱兵共へ、しかと見せつけてやるのじゃッ!」

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― 新着の感想 ―
[一言] この後の結果に関係無く「ごめんなさい」する必要がありますね。 隊を抑えきれず逸らせてしまった、と。
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