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首級と夜空

 広瀬の渡しにて、武田軍と上杉軍が激しく衝突した日の夜――。


 海津城の南西に位置するもうひとつの渡し――雨宮の渡しで、武田信繁が率いる武田軍は、野営の陣を張っていた。

 そこかしこに張られた陣幕の中で、ある者は、携帯食である(ほしいい)を頬張り、ある者は、仲間と酒を酌み交わし――ある者は、木の根を枕にして高鼾をかいている。


 ――その中央に位置する、ひときわ大きな帷幕が、本陣。

 パチパチと音を立てて爆ぜる篝火の放つ赤い光が、広い帷幕の中を仄かに照らし出していた。


「……これが」


 目の前に据え置かれた一人の男の首級を前に、床几に腰かけた信繁は、思わず声を詰まらせる。


「はっ……、如何にも」


 彼の前に跪き、首桶の蓋をそっと脇に置きながら、真田幸綱は静かに言った。


「本日、六郎次郎殿が討ち取りなさった――村上左近衛少将義清が首級(みしるし)に御座る」


 彼には珍しく、その顔には微笑の欠片も浮かんでいない。


「……」


 信繁は、息を呑んだまま、目の前の義清の首を凝視し続けていた。首級は、薄い死化粧を施され、口を一文字に結び、安らかに目を閉じている。

 と、


「……こうして面と向かうのは、久方ぶりで御座るな、村上殿」


 と、信繁は、目の前の物言わぬ首に、静かに語りかける。


「……三年前、一歩間違えれば、立場が逆だったやもしれぬ。これも、時の運というものか……」


 そう言いながら、彼は義清の首に向かって、静かに手を合わせた。


「――ご立派な最期であったと聞いておる。……安らかに眠られよ」


 そして、目を開け、幸綱に向かって頷きかけた。幸綱も頷き返し、そっと首桶の蓋を被せる。


「……太郎――若殿の首実検は、もう済んでおるのか?」


 首桶が丁重に下げられるのを見届けると、信繁は幸綱に尋ねた。

 幸綱は膝を崩して、地面の上で胡座をかくと、大きく頷いて答えた。


「はっ、夕刻の内に海津城にて――。その際に、若殿から、典厩殿にもお見せするよう、お言葉を頂戴いたしましてな。ここまで罷り越した次第に御座りまする」

「左様か。三年前の因縁がある故、若殿に要らぬお気を遣わせてしまったようだな」


 幸綱の答えに、信繁は苦笑を浮かべる。


「――無用でしたかな?」

「いや……。有り難きお心遣い、感謝致すとお伝えしてくれ」

「畏まって御座る。首級を海津城に戻した際に、必ずやお伝え致しましょう」


 そう言うと、幸綱は大儀そうに立ち上がり、尻を叩いた。


「では、ワシはそろそろお暇致しますぞ。村上の首を海津城に返してから、急ぎ広瀬の陣まで戻らねばなりませぬ故な。サッサと出立せねば、日を跨ぎかねぬ。――夜更かしは、この年齢(トシ)になると、些か身に堪えます、カッカッカッ!」


 そう言いながら大笑する幸綱に、信繁も微笑みを浮かべたが――つと、その表情が曇る。


「弾正……六郎次郎の事だが――」

「ああ、ご安心なされよ。六郎次郎殿は、村上との一騎討ちで、あちこちに擦り傷はこしらえましたが、命に関わるような怪我はしておりませぬ――」

「……いや、そうではなく」


 信繁は、幸綱の言葉に(かぶり)を振った。


「彼奴は……一軍を率いる大将の身にもかかわらず――」

「ああ、その事ならばお気になさらず」

「む――?」


 自身の言葉を、軽く手を振って遮った幸綱に、信繁は訝しげな目を向ける。

 そんな彼に対し、ポンポンと自分の頭を軽く叩きながら、幸綱は笑いかけた。


「一騎討ちなぞ、大将が行うべき事ではない。どんなに優勢に戦を進めようと、大将が討たれてしまったら、その時点で味方の負けとなる。それまでの将兵の奮戦を、無に帰しかねぬ蛮行である――と、僭越ながら、ワシから六郎次郎殿に、懇々と説教させて頂きました」

「……説教って――親父殿……」


 幸綱のしれっとした物言いに、冷や汗をかきながら口を挟んだのは、信繁の後ろに控えた、信繁の与力であり、幸綱の三男でもある武藤昌幸だった。


「広瀬の守備衆の大将で、典厩様の御嫡男で、お屋形様の甥御殿でもある六郎次郎様に説教とは……。もう少々、お立場を弁えられた方が――」

「立場ぁ? そんなモン、知るか」


 昌幸の言葉をバッサリと斬り捨てる幸綱。


「ワシャ、何にも間違った事は言うておらぬぞ。第一、総大将の気紛れに、苦労して尻を拭くハメになるのは、ワシらじゃ。無駄な迷惑をかけられん様に釘を刺すのも、ワシらの大切な務めじゃろう。違うか、源五郎!」

「ま……まあ、確かに、それも一理はございますが――」

「幸綱の申す通りだ、昌幸」


 幸綱の言い分の肩を持ったのは信繁だった。


「上の者の間違いを糺し正すのは、寧ろ、下につく者が避けてはならぬ事だ。無用な(おもね)りで、言わねばならぬ事を言わぬ部下や、逆に、部下の諫言を容れぬようになった主が居るようでは、その組織の先は無い。――六郎次郎に対する弾正の説教は、欠かしてはならぬものだ」


 そう言い切ると、信繁は、幸綱に頭を下げた。


「――不肖の倅が、迷惑をかけたな、弾正。儂に代わって、六郎次郎を(しっか)りと諭してくれた事、礼を言うぞ」

「いやいや! ワシは、配下として当然の事をしたまで。わざわざ頭を下げるには及びませぬぞ、典厩殿!」


 幸綱は、信繁の真摯な態度に、寧ろ調子を崩されたようで、彼らしくも無い慌てた様子で言った。


「ま、ワシが言いたかった事は、説教はワシがキッチリさせて頂いた故、此度の戦が終わった後には、典厩殿は()()()()、六郎次郎殿の大手柄をただただ褒めてやって下され――という事でござる」

「……相分かった。彼奴(あやつ)に対する小言は、なるべく控えるとしよう。――何せ……他でもない、儂や幸実の仇を討ってくれたのだから――な」


 信繁は苦笑混じりでそう答えると、空を仰ぎ見た。夏の夜空には、数多の星々が、キラリキラリと輝き瞬いている。

 いつか、誰かが言っていた――『空に光る星のひとつひとつは、死んだ者たちの魂の残滓である』――という言葉が、突然信繁の脳裏に浮かんできた。


(……あの星の中に、村上義清や――幸実の魂があるのか……)


 彼は、そう思いを馳せると、静かに目を瞑った。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 同刻――善光寺。


「――村上が討たれた、か」


 宇佐美駿河守定満の報告に、上杉家当主・上杉弾正少弼輝虎は、抑揚の無い声で呟いた。


「……御意」


 定満は、表情を曇らせたまま、小さく頷き、言葉を継いだ。


「――村上殿は、渡しの真ん中で立ち往生した自隊が脱出する時間を稼ぐ為、単騎で敵陣に討ち入り、正に阿修羅の如き奮闘ぶりで、暴れ回っておられたとの事です。……最期は、敵の隊将・武田信豊と組み討ちし、首を打たれたとの由」

「……そうか――」


 輝虎は、定満の言に頷くと、手首にかけた数珠を指に掛けつつ、そっと手を合わせた。

 そして、静かに目を閉じ、経を読む。

 ……彼の前で控えている定満には、輝虎の長い睫が、微かに震えている様に見えた。

 が、それも一瞬の間だけ。


「……で、兵達の損害は如何程だ?」


 そう言って、鋭い目を定満に向けた輝虎は、いつもの厳しい彼へと戻っていた。

 輝虎の、鷹のような鋭い視線に射通された定満は、思わず背筋を伸ばして答える。


「はっ。本日の会戦で、信濃衆の内、三百ほどが死傷したとの事で……」

「多いな」

「……は」


 輝虎の一言に、定満の背中は冷や汗で震えた。

 そんな老将を前に、輝虎は大盃の酒を一気に飲み干すと、毅然とした声で言った。


「――よし。村上が率いていた信濃衆は、以後直江の指揮下に置く事とする。明日一日の猶予をやる故、編入した信濃衆を手足の如く操れるよう徹底的に仕込めと、直江に伝えよ」

「ハッ!」

「出陣は、明後日だ。直江以外の諸隊に、陣を引き払う準備をせよと触れを出せ」

「! ――では」

「うむ」


 一変して、顔を輝かせる定満に、輝虎は大きく頷き、下腹の辺りに手を添えながら、ゾッとするほど美しく凄惨な薄笑みを浮かべた。


「ようやく、この忌々しい腹の痛みも治まってきた。――明後日は、余自らが海津城へと兵を押し出す事とする。良いな!」

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[一言] 一日で仕込めとは無茶振りもいいところ。
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