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挑発と暴発

 「……何なんじゃ、あの坊主は?」

「不貞不貞しい(ツラ)をしておるな……」

「何故、あんな所で……?」


 上杉兵達は、川の向こうを指さしながら、戸惑いを隠せない様子で、お互いの顔を見合わせている。

 村上義清と直江景綱は、慌てて馬を駆けさせ、どよめく兵達の前に出た。

 兵達の視線の先を見ると、確かに、一人の坊主が河原に筵を敷き、強い日光を遮る大きな日傘の下で胡座をかきながら、のんびりとした顔で盃を傾けている。


「……何じゃ、彼奴は――?」


 景綱は、その奇妙な光景に、訝しげに首を傾げる。


「……」


 一方、傍らの義清は眉根を寄せて目を凝らし、対岸の坊主をじっと凝視する。

 そんな上杉軍の喧騒をよそに、渦中の坊主は涼しい顔をしながら、飲み干した盃に、瓢箪の酒を注ぐ。


「いや~、美味(うま)し、美味(うま)し!」


 なみなみと注いだ盃を一気に呷ると、彼は彼岸の上杉軍にまで届くような大音声で至福の声を上げた。


「信州一の清流を見ながら、昼間から酒を飲む酒は格別でござるぞ! 上杉の皆様も、その様な物々しい(よろい)など脱ぎ捨てて、川遊びでもされたら如何ですかな? カッカッカッ!」


 不審極まりない怪僧はそう言いながら、真っ赤に染まった化け狸の様な顔を綻ばせて、呵々大笑する。

 が、上杉軍は、顔面を緊張で強張らせたまま、無言で男を凝視している。

 ――と、その時、

 村上義清が目を剥き、ハッと息を呑んだ。


「あの男――真田……真田弾正!」


 彼は、目を血走らせ、血が出るほどに下唇を噛みながら呟いた。

 その呟きに、景綱が振り返る。


「真田……? 村上殿……お主、真田弾正と申したか? ――まさか、あれが、あの真田幸綱だと……!」


 景綱が狼狽するのも無理はない。

 ――今、対峙している武田軍の中に、“武田の攻め弾正”の異名が越後にも轟く屈指の謀将・真田弾正幸綱が加わっているという情報は、今の今まで上杉軍の中には入っていなかったからだ。

 驚きを含んだ景綱の言葉に頷く事も忘れ、義清は阿修羅の如き形相で、対岸の坊主を睨みつけている。

 ――そんな、殺意に満ちた無数の視線を浴びながらも、坊主――幸綱は緩みきった顔で、また一口酒を啜ると、ほぅと息を吐いた。


「いや~、酔った酔った! と……いやはや、まったく、歳を取るといかんなァ。些か催してしもうたわい」


 そう、対岸にも届く程の声で独り言ちながらフラリと立ち上がると、フラフラと頼りない千鳥足で、眼前の千曲川の水の中へと足を踏み入れる。

 そして、僧衣の前をはだけ、褌に無造作に手を突っ込むと、己のイチモツを摘まみ出した。

 それを見ていた上杉軍は、一際大きくどよめく。

 幸綱は、そんな対岸の様子を横目に、不敵な半笑いを浮かべながら、


「カッカッカッ! ほ~れほ~れ~ぃ!」


 と、まるで対岸に居並ぶ上杉の兵達に引っかけようとするかのように、半笑いでイチモツを振り回しながら、盛大に小便を撒き散らし始めた。


「――!」


 上杉兵達の顔色が変わる。

 幸綱の放出する小便が、上杉の陣にまで届く訳は無いのだが、それはまるで――いや、明らかに自分たちを嘲り挑発している所業だという事が、ハッキリと解ったからだ。


「こ――この、生臭坊主め! 儂らを愚弄するかァッ!」

「痴れ者が! 今すぐ叩っ斬ってくれようぞ!」

「直江様! 直ちに突撃の下知を!」

「ここまで馬鹿にされて、黙ってはおれませぬ!」


 こめかみに青黒い血管を浮き立たせ、目を真っ赤に血走らせた騎馬武者達が、身体を怒りで震わせて、景綱に向かって訴える。

 だが、景綱は大きく頭を振った。


「――いかん! あの様な安い挑発に乗るな! あれは、我々を誘き寄せようとする罠じゃ! 何かあるに違いない……」

「で、ですが……!」

「絶対に何かある! あの男は、真田弾正幸綱じゃぞ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「――ッ!」


 景綱の吐いた言葉に、一気に顔色(がんしょく)を失ったのは、村上義清だった。――十一年前、真田幸綱に砥石城を乗っ取られたのは、他ならぬ義清自身だったからだ。

 彼は、ギロリと景綱を睨み、怒声を発しようと息を吸い込む――

 と、


「おやおやあ! そこにおわせられるは、村上殿ではござりませぬか!」


 対岸からかけられた親しげな声に、彼の呼吸は止まった。


「……!」


 目を真っ赤に充血させたまま、義清はゆっくりと、声の方向――向こう岸へと振り向く。


「……真田ッ……!」

「いやいや、お久しゅうござる! ()()()ご健勝のようで何よりですなあ、カッカッカッ!」

「……」


 ニタニタといやらしい薄笑みを浮かべた幸綱が、義清に向かって脳天気に手を振っている。

 義清は黙ったままだったが、物凄い目で仇敵の事を睨みつけている。幸綱の安い挑発に乗らぬよう、怒りで身体を瘧のように震わせながらも、必死で感情の爆発を抑えていた。

 幸綱は、そんな義清の反応に、ニタニタ笑いを更に強めながら言葉を続ける。


「昔は、大変お世話になり申した! 貴殿に領地を逐われて、上野に逃げ延びた事もありましたなあ! いやはや、その節は大変でしたわぁ。――まあ、そのおかげで、西上野の諸将と繋がりが出来、此度の西上野攻めの調略がしやすくなり申したので、結果的には良かったと言うべきですかな? いや、『禍福はあざなえる縄の如し』とは、良う言うたものですのう! おかげで、ワシは武田家中でデカい(ツラ)ができ申す! 今では感謝しておりますぞ、村上殿!」

「……ぐ――!」


 義清の顔色が、真っ赤を通り越して、真っ黒に変わってきた。

 幸綱は、遠回しに『上杉が西上野を失いつつあるのは、お前が自分を上野に逐ったからだ』――つまり、『上杉の苦境は義清(おまえ)のせいだ』と揶揄しているのだ。

 義清にとっては、到底看過しがたい言い草だった。

 だが、義清は耐える。唇を噛み切り、掌に爪が食い込んで血が滴る程にきつく握り締めながらも、彼は必死で激情を耐えている。

 と、


「――ああ、これはいかんなあ」


 幸綱は、急に腹を押さえて独りごちた。


「いくら、夏の昼下がりだといっても、川風に曝されっぱなしで、少々腹が冷えてしもうた……。少々、失礼をば致しますぞ」


 彼はそう言うや、後ろを向き、僧衣の裾をからげ、尻を露わにした。


「な――ッ!」


 いきなり尻を向けられて愕然とする上杉兵を、文字通りに尻目にして、彼は褌をずらし、腰を屈める。

 その仕草を見た上杉兵は、完全に頭に血が上ってしまった。


「こ――この野郎! 儂らに背を向けて糞を……!」

「我らを何処までも馬鹿にしおって……ッ!」

「もう赦せぬッ!」


 そして、血相を変えた一人の兵が、携えていた火縄銃を構え、その火蓋を切った。


 ダ――――ンッ


 千曲川の水面の上を、雷の如き轟音が響き渡る。

 ――だが、その弾丸は、狙った坊主の尻から遠く外れた水面に着弾し、小さな水飛沫を上げただけだった。

 しかし、それだけで十分だった。……将兵たちの激情の箍を外すには――。


「――オオオオッ!」


 上杉の兵たちは、各々の得物を掲げて、我先にと渡しの川べりに殺到しようする。

 が、ただひとり、直江景綱のみは冷静だった。

 彼は、傍らの足軽から火縄銃を奪うと、上空に構え、引き金を引いた。


 ダ――ンッ!


 再び鳴り響く銃声に、今にも暴走しそうだった上杉兵の足がビクリと止まる。

 景綱は、打ち放った火縄銃を(なげう)つと、乗騎の上から兵達を睥睨しつつ叫んだ。


「たわけが! 安い挑発に乗るなと言うておろうが! 鎮まれぃ!」


 百戦錬磨の上杉軍の武将の中でも、抜きん出た実力を持つ景綱の叱声に、上杉の将兵は、冷水を浴びせ掛けられたように冷静さを取り戻した。

 乱しかけた陣形を再び調えようと、ゆるゆると動き始める。

 ――が、


「な、直江様っ! 信濃衆が……!」


 近侍の声にハッとして、景綱は頭を巡らせた。上杉の陣から、夥しい蹄の音を響かせながら、黒光りする甲冑の一団がするすると抜け出した。


「――村上殿っ!」


 景綱は、思わず舌打ちをしながら、一団の中央で、采配を振りながら疾駆する老将の名を叫んだ。

 ――だが、彼の呼びかけは、真田憎しに燃える義清の耳には、もはや届かない。

 黒い炎の如き勢いで、次々と千曲川へと駆け込んでいく村上隊を止める術は無かった。


「……な、直江様……いかが致しましょう? どうにかして、信濃衆を呼び戻さねば……」

「――もう良い!」


 景綱は、近侍の言葉に、苛立たしげに吐き捨てた。


「……信濃衆(あやつら)は捨て置け! 奴らが勝手に突出したのだ。――もう知らぬ!」


 そして、景綱は軍配を翻すと、麾下の将兵に厳かに命じる。


「我らはこのまま、隊形を乱さずに待機する! 決して動くな。――良いな!」

 真田幸綱と村上義清――このふたりの男には、浅からぬ因縁があります。

 天文十年 (1541年)、海野平の合戦により、幸綱はそれまでの所領を逐われますが、その時の相手が、信玄の父武田信虎や、諏訪頼重と手を結んだ村上義清でした。

 その後、幸綱は家族を連れて、西上野の長野業正の元へと身を寄せ、その際に培った人脈が、後の武田氏の西上野攻略時に、大きな助けとなるのです。


 ふたりの運命は、その十年後に再び交わります。

 天文二十年、武田家へ帰順した幸綱は、その前年に、晴信が「砥石崩れ」によって失敗した砥石城攻略を命ぜられます。

 幸綱は、得意の調略を駆使して、僅か一日で砥石城を攻略しました。

 村上義清の信濃における命運は、この砥石城落城で大きく傾く事になり、義清が信濃を失うきっかけとなるのです。


この様に、真田幸綱と村上義清のふたりは、深い因縁が、運命の紐のように絡みついていたのです――。

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