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彼岸と此岸

 武田軍が、広瀬と雨宮の両渡しで、攻め寄せる上杉軍を撃退した翌日――。


「の……のう、真田殿……」


 顔を真っ青にして、武田六郎次郎信豊は、傍らの僧衣の男に訊いた。


「わ……我らの配陣――ほ、本当に、これで良いのか?」

「カッカッカッ! もちろんでござるよ……て、大丈夫かの、六郎次郎殿? 随分と顔色が優れぬようですが――」


 と、僧形の男――真田弾正幸綱は、信豊の顔を覗き込んで、心配げな表情を浮かべる。

 その言葉に、信豊はブンブンと頭を振り、口の端を引き攣らせつつ、大きく声を張り上げる。


「も、も、もちろん! だ――大丈夫でござるぞ! 某は、至って平常心でござ……ざる!」

「……声が震えておられるよ、六郎次郎殿」


 武者震いを抑えながら、必死で虚勢を張ろうとする信豊に、その古狸の様な顔に似合わない優しい苦笑を浮かべながら、幸綱は信豊の肩をポンポンと優しく叩いた。


「……肩の力を抜きなされ。確かに、前線で指揮を執るのは初めてなれば、気負うなと言う方が無茶だという話ですが。――戦場において、程よい緊張感は必要ですが、必要以上の気負いは、文字通り命取りとなり申す」

「わ……分かってはおる。解っては――おるが……」

「戦場は怖い――そう思っても、一切恥じる事はありませぬぞ。武士(もののふ)ならば、誰もが通る道でござる。ワシも、典厩殿も、お屋形様も……恐らく、向こうの軍神殿も、初めての戦いの前には、今の六郎次郎殿と同じ気持ちだったのですよ」


 幸綱はそう言うと、無精髭まみれの顎を撫でながら、言葉を継いだ。


「――というか、ワシに至っては、戦場は今でも怖うござります。死ぬかもしれんと思うだけで、睾丸(ふぐり)がキュッと縮み上がりますな、カッカッカッ!」

「ご冗談を――」


 信豊は、馬鹿笑いする幸綱に、訝しげな視線を送りながら言った。


「“武田の攻め弾正”との異名を持つ真田殿が、戦場が怖いなどと……」

「いやいや! 怖いものは怖いのでござる! 寧ろ、このワシほど、戦場を怖れておる者はおりませぬぞ!」


 当惑の目を向ける信豊に、にんまりと笑って、何故か胸を張ってみせる幸綱。

 彼は、手を真っ直ぐに伸ばして、キラキラと陽の光を反射しながら()()()()()()千曲川を指さして、朗らかに言った。


「戦場が怖いから、小手先の調略や(はかりごと)を駆使して、戦わずに勝てる算段を付けるのですよ――()()()()、のう」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「これは……一体――」


 太陽が中天に昇り、戦意横溢で広瀬の渡しへと押し寄せてきた上杉軍は、目の当たりにした光景に戸惑いの表情を浮かべた。


「……抵抗が無さ過ぎると思ったが……どういう事じゃ、これは?」


 昨日に引き続いて寄手の隊将を務める直江大和守景綱は、そう呟くと首を傾げた。

 彼ら上杉軍の眼前には、涼やかな水音を立てながら流れる、千曲川の急流が横たわっていた。

 ――つまり、


「武田軍は全員、川の向こう岸に退いている……?」


 景綱が訝しげなに口にした言葉の通りだった。

 昨日のような激しい抵抗を予期しながら、勇ましい鬨の声を上げ、広瀬の渡しの河川敷へと雪崩れ込んだ上杉軍だったが、河川敷はもぬけの殻だったのだ。

 彼岸に目を向ければ、武田菱を染め抜いた幾旒(いくりゅう)もの旗印が、強い風の中でなびいている。


「……どういう事でござろうか?」


 と、景綱の横に馬を寄せてきたのは、今日は広瀬攻めに加わった村上義清である。

 景綱は、一瞬義清の顔を一瞥すると、すぐに目を川向こうへ向けた。


「――解らぬ。解らぬが……何も無いという訳でも無さそうじゃの」

「……我らに川を渡らせ、その上がり際を叩こうという意図ですかな?」

「ふむ……」


 義清の言葉に、景綱は小さく首を傾げる。

 確かに、渡しの此岸(しがん)を占拠したとしても意味が無い。彼岸を敵の武田軍が抑えている限り、渡しを自由に行き来する事は出来ないのだ。上杉軍の所期目的の達成には、彼岸の武田軍の排除が必須なのである。

 だが――、


「確かに、妥当な作戦ではあるが……そんなに単純な意図かのう?」

「――と、言うと?」


 自分の意見に対し、素直に同意をされなかった事に、義清は微かな苛立ちを見せる。

 最近の彼は以前にも増して、粗暴で気短な態度を露わにする事が増えた。それは、加齢のせいもあるだろうが、武田晴信に信濃を逐われて十余年、未だに旧領を取り戻せていない現状に、激しい苛立ちを心中に秘め続けているせいもある。

 今は上杉の禄を食む身ではあるが、かつて、北信濃の覇者として名を馳せていたという矜恃を捨てきれない。それが、しばしば上杉譜代の諸将を前にして噴き出す事もあり、彼は家中であまり好かれてはいなかった。

 そして景綱も、義清を内心快く思わない者のひとりであった。


「と、言うと――も何も」


 景綱は、『そんな事も解らんのか』という、秘かな嘲りを混ぜた口調で応える。


「武田の狙いに、もうひとつふたつ裏があるのではないか――という事でござるよ」

「裏……?」

「昨日、我らは二千の兵にてこの渡しを攻めたが、押し破るには到らなんだ。それ故、本日は、我が隊に加え、村上殿の隊も加えた五千の兵で、万全を期した。――それは当然、武田方も予想しておるはずじゃ」

「……ふん! 敵が如何に姑息な策を弄そうと、兵力の差は圧倒的でござる! しかも、武田の隊将は、昨日とは違う。今、武田の兵を纏めておるのは、まだ十五六の若造だと言うではないか!」


 興奮で顔を真っ赤にしながら、義清は目を剥いて、景綱へと詰め寄る。


「――その様な小僧の弄する小手先の策など、この五千の軍勢ならば――否! 我ら信濃衆だけでも容易に蹴散らせましょうぞ! 儂が先陣を切りて突撃致します故、直江殿達越後衆は、我らの後を、どうぞごゆるりとついて来て下され!」

「――ッ! 村上殿! 斯様な過信と驕りは、貴殿の身を滅ぼしますぞ!」


 義清の傲慢な言葉に、景綱は眦を決して窘める。

 が、その言葉は、義清の癇癪に、更に火を点けた。


「か、過信? 驕りぃ? 否! 断じて否でござる! ――これは、余裕というものでござる!」

「……その激昂っぷりの、何処が“余裕”か――?」


 義清の言い草に、鼻白んだ景綱だったが――、


「な――直江様ッ!」


 ふたりの乗騎の前に片膝をついた伝令が発した叫びに、彼らの意識は逸らされた。


「何じゃ! 今は取り込み中――」


 こめかみに青筋を立てて怒鳴りつける義清だったが、


「た――武田軍に動きが!」


 その絶叫を遮り、伝令は捲し立てた。


「武田……武田がどうした?」


 一方の景綱は表情を強張らせて、鋭い口調で伝令に問い質す。

 伝令は、その剣幕に気圧されながら、辿々しく言葉を吐いた。


「は……! た、武田の陣から……坊主がひとり出てきて――か、川縁で……さか――酒盛りをしておりまする――!」

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