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息子と妻

 泡を食った老女が、転び出るように部屋を飛び出して行ったのを、信繁は朦朧としたまま、じっと布団の中から見ているだけだった。

 それも致し方ない。相変わらず、彼の身体は鉛のように重く、指ひとつ動かす事が出来なかったからだ。

 信繁は、フワフワとした意識の中で、老女がひっくり返した(たらい)と、畳の上に零れた水の煌めきをじっと眺めていた。

 ――と、

 やにわに、騒がしい足音が襖の向こうから聞こえてきた。

 足音は複数で、どんどんこちらに近付いてくる。

 そして、半開きだった襖が乱暴に引き開けられた。あまりの勢いに、襖が柱に勢いよくぶつかり、けたたましい音を立てる。


「父上……父上ぇッ!」


 真っ先に部屋に入ってきたのは、寝間着姿のまだ若い――まだ少年と言っていい幼い顔つきの男。月明かりに照らし出されたその顔は、信繁がよく知る顔だった。


「……長老……か?」

「おお……父上――本当にお目覚めに……!」


 弱々しい信繁の声を耳にした男は、思わず声を震わせ、目を潤ませた。彼は、枕元に膝をつくと、信繁に顔を近づけて大きく頷いた。


「左様で御座います! 長老でござる! ――尤も、今の名は長老ではござらぬ。先年、元服いたしまして、今は六郎次郎信豊と名乗っております」


 そう言うと、信繁の嫡男・長老改め六郎次郎信豊はニッコリと微笑(わら)う。

 と――、彼の言葉を聞いた信繁は、驚愕の表情を浮かべた。


「……元服? お主がか? ……それに、()()とは――どういう……?」

「――はい」


 混乱する信繁に、再び頷き、信豊は言葉を継いだ。


(さき)の川中島――八幡原での戦いで重傷を負われ、ずっと眠り続けておられた父上に代わり、この家の差配を取り仕切る為に、お屋形様のご指示で元服いたしました」


 信豊はそう言うと、残念そうに顔を曇らせる。


「――本来でしたら、父上の前で元服を行いたかったのですが……」

「……左様であったか」


 信繁も、信豊の言葉に瞑目して、小さく頷いた。


「苦労をかけたようだな、長老……いや、今は六郎次郎――か」

「――いえ、(それがし)は苦労など……」


 信繁の労いに瞳を潤ませながらも、信豊は頭を振ると、自分の背後を振り返りながら言った。


「むしろ、苦労なされてきたのは――母上です」

「――!」


 彼の言葉に、襖の向こうで静かに座っていた影が、ビクリとその身を震わせた。


「さあ、母上! そんな所にいないで、早う部屋の中にお入り下され! 父上がお目覚めになったのですよ!」

「あ――い、いえ……私は……」


 信豊の呼びかけにも、人影は躊躇するように首を横に振っていたが、


「……桔梗――か?」


 信繁が擦れた声で名を呼ぶと、微かに肩を震わせた。そして、彼女は畳に額を擦りつけんばかりにして、深々と頭を下げる。


「……お、お久しゅう――ございます。主……様――!」


 桔梗の言葉は、中途で嗚咽に変わった。寝間着の袖を口に当て、必死で声が漏れるのを堪えようとするが、丸めた背中が小刻みに震えている。

 信繁は、布団の中から、声を顰めてさめざめと泣く妻の姿をジッと見ていたが、僅かに顔を緩めると、優しい声色で彼女に声をかけた。


「桔梗……済まなかったな。さぞや大変だった事であろう……。ほれ、もっと近くに来て、顔を見せてくれ」

「……いえ、私はここで――」


 桔梗は、信繁の言葉を聴くと、一瞬その顔を綻ばせたが、精一杯の自制心を発揮して、固辞した。

 信繁は少しだけ顔を曇らせるが、彼が知る桔梗は、いかに実の息子とはいえ、他人の目の前で夫に縋り付くような女ではない事を思い出した。

 彼は、「そうか……」と呟くだけに止めて、それ以上言う事は控える。

 その代わりに、彼は信豊の方に視線を向け、掠れた声を震わせながら訊いた。


「六郎次郎……。今は何月じゃ? いや――儂が眠って……どれほど経っておる?」

「……は」


 信豊は、父の問いかけに小さく頷き、簡潔に答える。


「――今は、永禄六年 (西暦1563年)の九月にございます」

「な――?」


 信繁の表情が、驚愕で強張る。

 彼が、立ち込める霧の中、八幡原へ陣を構えたのは、永禄四年 (西暦1561年)の九月だったはず――。


(と、いう事は――?)


 信豊は、そんな父の表情の変化に心を痛めつつ、厳然とした事実を告げる為に、その重い口を開いた。


「……つまり、まるまる二年間、眠り通しだったのです、父上は」

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