旗印と仇
武田軍二千が、目的の雨宮の渡しに近付いていくにつれ、信繁たちの耳に、喧騒が届いてきた。
金属が打ち交わされ擦れ合う甲高い音や、地鳴りのような雄叫び、狂奔する馬の嘶き、蹄が川岸の砂利を踏む音――。
「――いかん。もう、交戦しておる!」
と、虎昌は上ずった声を上げると、乗騎の横腹を蹴って速度を上げる。
更に駆けると、千曲川の対岸で、沢山の甲冑姿が蠢いているのが見えてきた。
直上に昇った真昼の太陽の、強い日射しに照らされた刀身や槍の穂先が、ギラリギラリと剣呑な光を放つ。
雨宮の渡しを守る為に配置された武田の守備兵と、奪取したい上杉の隊が衝突し、激しく入り乱れながら戦っているのだ。
「“上”一文字の旗印……村上に御座ります!」
信繁と並んで馬を駆る昌幸が、そう叫んで川の向こうを指さした。
昌幸の言葉に、信繁も左目を凝らす。――確かに、藍色に白く“上”の字を染め抜いた旗印が、強い風を受けてたなびいていた。
村上とは、かつて北信濃の大部分を支配していた豪族・村上左近衛少将義清の事である。
義清は、信濃に進出してきた武田晴信と激しく争い、上田原の戦い、そして砥石城と、二度にわたって晴信に苦杯を呑ませるほどであったが、なおも激しく攻め寄せる武田の勢いに遂に敗れ、天文22年 (1553年)に越後へと逃れた。
その後は、越後上杉氏の元に身を寄せたが、信濃を武田の手から取り返したいという望みは、未だに捨てていない。三年前の川中島合戦にも参戦した。
そして――、
「……思い出すな、あの日の事を――」
信繁はそう独り言つと、己の右目から頬へ走る刀傷にそっと指を這わせた。
――あの日、彼の率いる隊が最後に刀槍を打ち交わしたのは、紛れもなく、あの“上”の一文字を染め抜いた旗指物を背負った者たちだった。
自身に二年も眠り続けるほどの瀕死の重傷を負わせ、腹心の臣であり、無二の親友でもあった山下幸実の命を奪った敵軍と、三年の時を隔てて同じ地で再び相まみえる……信繁の胸に、何ともいえない感情が過ぎる。
――が、彼の血が滾ったのは、ほんの一瞬であった。
(――敵が何者であろうと変わらぬ。我が軍が勝鬨を挙げる為に、目の前の障害を排するのみ!)
信繁はグッと歯を食いしばると、軍扇を振るい、背後の騎馬武者たちへ、大音声で叫んだ。
「見よ! 雨宮の渡しを守ろうと、味方が奮戦しておる! 皆の衆! 存分に働き、味方を救い、己が手柄とせよ!」
「オオ――ッ!」
信繁の叱咤に、麾下の将兵は大いに奮い立ち、万雷の如き雄叫びを挙げる。
「――典厩様! お先に御免ッ!」
そう言い捨てて、馬に鞭を入れたのは、朱染めの具足に身を包んだ飯富虎昌だった。
彼は先行して駆けながら、手にした朱槍を頭上に掲げ、吠えた。
「赤備え衆ッ! ワシに続けぇいっ!」
その声に応じるように、虎昌と同じく真っ赤な鎧を纏った騎馬衆が、その速度を上げる。まるで燎原を走る炎の帯のように、赤い一団がするすると集団の中から抜け出していった。
そして、虎昌率いる赤備え衆は雨宮の渡しに到ると、騎馬の勢いを殺す事無く、次々と千曲川の中へと駈け入る。
夥しい水飛沫を上げながら、流れの速い千曲川を横切っていく赤備え衆。
もちろん、対岸の村上軍も、すぐに敵軍の接近に気付く。
騎馬に跨がった武者が手にした采配を振ると、駆け足で弓兵が集まり、川岸に一直線に並び弓に矢を番えた。狙うはもちろん、川の水を蹴り散らしながら接近してくる赤い甲冑を纏った騎馬武者たち。
「――放てぇ――い!」
組頭の号令と共に、ひょうっという音と共に、無数の矢が放たれる。緩やかな放物線を描き、甲高い風切り音と共に、無数の矢が赤備え衆に襲いかかる。
が、赤備え衆は怯まない。ある者は兜の眉庇を傾け、ある者は手槍を振るい、ある者は手綱で騎馬を巧みに操りながら、雨のように降りかかる無数の矢に対した。
――と、川向こうの弓兵が再び矢を番え、第二射、そして第三射を放つ。今度は、矢を受けた何人かの騎馬武者が落馬し、呻き声を上げながら激しい水飛沫を上げる。
が、赤備え衆の殆どは矢雨を無傷で潜り抜け、遂に向こう岸に辿り着いた。川岸の砂利を踏んだ騎馬は、その速度を更に上げて、みるみるうちに敵弓兵の一団へ接近する。
この距離まで接近されてしまっては、弓は用を為さない。
狼狽し、浮き足立つ弓兵は、這々の体で後方へ下がり、入れ替わりで長槍を持った足軽隊が前に出た。足軽たちは長槍を前に突き出して、騎馬の進行を妨げる針の壁のように立ち塞がる。
だが――、
「怯むなぁーっ!」
飯富虎昌の一喝に、赤備え衆は一斉に馬の横腹を蹴った。速度を落とすどころか、より一層速さを増した騎馬武者達が、槍衾を手槍で振り払いながら、次々と突入する。
その勢いは、練度の低い足軽衆には、とても止められるものでは無かった。
たちまち、草原に放たれた野火の様に、赤い甲冑が黒い陣笠の足軽達を蹂躙しはじめる。
その頃、信繁が指揮を引き継いだ足軽隊と、昌幸が率いる武藤衆も、次々と千曲川を渡り切る。
「――昌幸! お主ら武藤衆は、大回りして、上杉軍の背後に回れ!」
信繁は、昌幸を呼ぶと手短に命じた。
「はっ! 上杉軍を袋の鼠にするのですな!」
得たりと頷く昌幸に、信繁は「……いや」と首を横に振った。
「――袋は完全には閉じるな。一カ所だけ、奴らが逃げられる隙を作っておけ。今回の目的は、この雨宮の渡しを守り切る事だ。『窮鼠猫を噛む』というであろう? あたら敵軍を殲滅しようとすれば、頑強に抵抗されて、こちらにも少なからぬ損害が出る!」
「……なるほど! 承知仕りました! ……が」
信繁の言葉に、昌幸は大きく頷くが、ふと表情を曇らせた。
「……どうした?」
「……宜しいのですか?」
少しだけ躊躇する様子を見せた昌幸だったが、意を決した様子で口を開く。
「――上杉方の指揮を執っているのは、村上義清です。……三年前、典厩様に瀕死の重傷を負わせ、数多の配下が討ち取られた――」
「……」
「この場は、借りを返す――仇を討つ格好の機会では無いのですか? いや、むしろ――ここは、義清を討ち、自分たちの無念を晴らしてくれ――そう、三年前の戦いで散った者たちが整えてくれた場のように感じます。そんな好機をみすみす逃そうなど……宜しいのですか、典厩様は?」
「…………宜しいも何も無い」
昌幸の言葉に、一瞬だけ言葉を詰まらせた信繁だったが、ゆっくりと瞳を閉じると、大きく頭を振った。
「……儂は、この場に仇討ちに来たのではない。武田家の――兄上の一層の飛躍に力を尽くす……それだけだ」
「……典厩様」
信繁は、フーッと息を吐くと、目前の乱戦にジッと目を据えて、言葉を継いだ。
「……今は、義清の首ひとつより、今後に備え、一兵でも少ない損耗で、この雨宮の渡しを確保する事の方が大切だ。――解ったら、早く行動に移せ! 良いな、昌幸!」
「――ハッ!」
信繁の言葉を聞いた昌幸は、ハッとした表情で背筋を伸ばすと、大きく頷いた。
そして、「御免!」と一声残すと、馬首を巡らせると、自隊の方へと走っていく。
「……」
信繁は、昌幸の背中を見ながら、左掌で右頬にそっと触れた。
(……幸実)
彼の盲いた右目の奥に、友の顔が浮かぶ。
(……すまぬな。お主の仇は、いずれ必ず討つが――もう少し、待っていてくれ)
瞼の裏の幸実に向かって、信繁は心の中で詫びた。
飯富虎昌が率いた武田の赤備えは、武家の次男以下の男子を集めて結成された騎馬のみの部隊でした。
武家は基本的に長男が継ぐ為、次男以下は『部屋住み』として長男の下に甘んじるか、跡継ぎの居ない他家に養子入りするしか無かった為、行き場を無くした次男三男たちの受け皿として組織されたものだったのです。
その攻撃力は高く、他国へもその威名は轟いていました。
永禄八年に、飯富虎昌がクーデター未遂事件の責任を負って切腹した後は、弟である飯富三郎兵衛昌景(後の山形昌景)が隊を継ぎ、徳川家康と戦った三方原の戦いなどで、抜群の働きを見せます。
武田家滅亡後、旧赤備え衆は徳川家康に召し抱えられ、徳川重臣の井伊直政の麾下に組み込まれます。『武田の赤備え』から『井伊の赤備え』となった赤備え衆は、以後、小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで活躍します。
また、旧武田家臣である真田家の真田信繁(幸村)も、大坂夏の陣において、自分の家臣の甲冑を赤に統一させ、『真田の赤備え』を編成します。真田隊は、最期の戦いにおいて、徳川家康の本陣を襲い、家康に死を覚悟させるほどの働きを見せたのでした。