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狼煙と意図

 急報を受けた信繁と義信、そして虎昌と真田親子は、息せき切って葛尾城の物見櫓を昇る。

 物見櫓を登り切った一同は、身を乗り出して北の空を凝視した。

 確かに――夜が迫り、藍色に染まった空に向かって、二条の赤い煙がたなびいていた。山に遮られて煙の元は見えないが、確かに海津城の方角から立ち上っている。


「赤二条……確かに、『敵見ユル』の狼煙ですな……」

「海津城から視認できているという事は、葛山城 (現在の長野県長野市)は既に抜かれた――という事なのか?」


 義信は、微かに顔を青ざめさせて言うと、「早すぎる……」と呟いた。


「いやいや」


 そんな義信の呟きに頭を振ったのは、一番最後に櫓に昇ってきた幸綱であった。彼は、小太りの身体を強引に捻じ入れるようにして、義信と信繁の間に割り込む。


「……! これ、真田殿! 無理矢理入ってくるでない! 狭い!」


 後方へ押しのけられる形になった虎昌が抗議の声を上げるが、幸綱は全く意に介さず、目を細めて狼煙の方角を見据えた。


「十中八九、寄手は越後勢でしょうが、城を落としながらここまで到ったというのは、いくら何でも早すぎますな。――恐らく、手勢の中から最低限の分だけ割き、我が方の城ひとつひとつに張り付かせておるのでしょう。我が方の城兵が、城から出てくる事の無いように」

「そうか……」


 幸綱の推測に、信繁は頷いた。


「上杉の本城である春日山城 (現在の新潟県上越市)から川中島までは、大体二十里 (約80km)ほど。途中に点在する我が方の城を無視して進めば、二日で海津まで到る事も可能か……」

「……では、上杉勢は、昨日の朝頃には春日山を発った事になります。……それは、こちらの動きが読まれていたという事でしょうか?」


 そう言って、不安げな表情を浮かべる昌幸を一瞥した幸綱は、「いや……」と、再び首を横に振った。


「その可能性も無くはないが、それにしてはあまりにも、越後に情報が伝わるのが早すぎるのう。――恐らく、上杉輝虎の方も、ウチのお屋形様と同じ様な事を考えついたのであろうなぁ」

「……同じような事? ――父上と、輝虎が?」

「左様で御座ります、若殿」


 眉を顰める義信に、大きく頷き返す幸綱。


「――恐らく、向こうさんは、箕輪に援軍を出しづらい状況なのでしょうな。……北越の国境(くにざかい)は、蘆名がギラギラと目を滾らせながら、付け入る隙を狙っておる。……まあ、蘆名は蘆名で、越後と全面的に()り合う程の余裕は無さそうですが。かといって、北越勢を上野に向かわせて、北越をガラ空きにする程の隙は流石に見せられぬ――」

「かといって、春日山から上野に兵を送り込むには日数がかかり過ぎて、援軍が到着するまで箕輪城が保たない。――なれば、逆に春日山から奥信濃に攻め入って、行軍する我が軍を、奥信濃救援へと向かわせ、箕輪城から引き剥がそう――そう考えたという事か……」

「左様」


 上杉方の意図を読み解いた信繁に向けて、ニヤリと笑いかける幸綱。

 その傍らで、ふたりの推測を聞いた虎昌は、腕組みをして唸った。


「そうか……。川中島あたりまで出張って、箕輪へ向かった我が軍が引き返してくれば良し。引き返してこなければ、そのまま葛山城や海津城を落として、奥信濃を手中に収めてしまえば良い……そういう二択か」

「そういう事ですな」


 幸綱は、虎昌の言葉に小さく頷くと、額をボリボリと搔きながら言葉を継ぐ。


「まあ――恐らく輝虎は、絶対にお屋形様が引き返して奥信濃を守りに来ると踏んでいるでしょうがのう」

「……何故、そう言い切れるのですか?」


 訝しげに訊く昌幸に、幸綱は静かに答える。


「――三年前の事があるからのう……」

「三年前……。八幡原の戦いですか?」


 と、問い返す昌幸に、幸綱は「そうじゃ」と答えて、煙管を吹かした。


「あの時――上杉と、文字通りの死闘を繰り広げた結果、我が方は、勘助や諸角殿などの多大な犠牲を出した。あの辺りは、そこまでの痛みを伴ってまで手に入れ死守した土地じゃ。これから手に入れようとしている()()()()()などとは、重みが遙かに違うわい」

「……」


 幸綱の言葉に、一同は黙りこくった。この場にいる者は全員、三年前の激戦のただ中に居た。だから、幸綱の言っている事が痛いほど理解できたのだ。

 ――と、その沈黙を破る形で、昌幸がボソリと呟いた。


「……で、あれば。越後勢が攻め込んでくる前に、軍をふたつに分けていたこちらの策を、上杉輝虎は想定していなかったのではないですか?」

「……うむ」


 昌幸が口にした事に、幸綱は同意を示した。


「恐らくな。上杉が攻め寄せてきたと知ったお屋形様が、軍を割る可能性までは想定しておったじゃろうが、自分が侵攻する前に既に軍が分かれておる状況は、輝虎の意想外であろう。その点は紛れもなく、向こうよりもこちらの方が優位に立てる要因になる」


 上杉輝虎は、武田軍が、自軍の侵攻に気付いて軍を引き返してくるまでに、少なくとも三・四日の余裕があるものと計算しているであろう。

 が、実際には、五千の別働隊が、海津城まで半日もかからない距離に位置する葛尾城に、既に到っている。

 じきに、上杉方もその情報を掴むだろうが、今さら知ったところで、さしもの上杉輝虎であろうとも、すぐに狂った計算の修正に移る事は難しいだろう。


「――であれば、我々は今すぐ葛尾城(ここ)を発ち、海津へ向かうべきではないか? 城を囲まれてからでは、せっかくの優位を失う事になるのでは……?」


 義信は、そう捲し立てながら、今にも物見櫓を降りて出陣の下知を下そうという剣幕だったが、


「いや、若殿。それは拙速でござる」


 信繁が彼を止めた。

 止められた義信は、顔を朱に染め、その黒々とした眉を吊り上げる。


「――叔父上? 何故ですか! この好機を逃しては……!」

「……現状では、情報が少なすぎる」


 義信に詰め寄られながらも、信繁はキッパリと首を横に振った。その隻眼で、義信の目をしっかりと見据えると、諭すような口ぶりでゆっくりと言った。


「敵の数も、陣立ても、様相も分からぬままだ。それに、もう既に日は暮れた。五千の兵を、夜闇の中で動かす事の危うさは分かるであろう?」

「……しかし!」

「――それに、兵達の士気もございます」


 なおも食い下がる義信であったが、脇からかけられた言葉に、ハッとして目を剥く。

 そんな様子の義信に、静かな口調で進言する昌幸。


「今、兵達は軍装を解き、山道を行軍した疲れを癒やすべく、夕餉の支度に勤しんでおります。それなのに、再出発の下知を下してしまっては、大いに士気が下がり、逆に不平不満が増しましょう」

「ぐ……」

「ここは当初の通り、葛尾城にて夜を過ごし、兵達の英気を存分に満たした上で、明朝出立した方が宜しいかと……」

「……むう」


 昌幸の言葉に、義信は喉の奥で唸る。その肩に優しく手を置いて、虎昌も言った。


「ご安心なされよ、若殿。時間的に考えて、敵方も準備万端での出撃ではない事は予測がつきます。……それに、海津城を守るのは、あの“逃げ弾正”香坂弾正殿でござる。如何に上杉輝虎相手だとしても、そう易々と城を落とされる事はございますまい」

「……」


 義信は、黙ったまま、暫しの間瞑目する。黙考する総大将を前に、信繁たち配下一同は、静かに彼が下す決断を待つ。

 そして、その目を開くと、皆の顔を見回しながら、毅然とした態度で言った。


「……そうだな。皆の言う通りだと思う。――よし、今夜はこのまま、この葛尾城に泊まり、明朝早くに出立する事とする! その旨、兵達に遍く伝えよ――良いな?」

「ハッ!」


 義信の命に、一同は背筋を伸ばし、そして深く頭を下げるのだった。

 武田軍が強かった理由。そのひとつに、「情報戦に優れていた」という点が挙げられます。遠くの情報を、他国に比べて、格段に早く正確に把握する事が出来たのです。その情報網の要として、武田家中で重用されていたのが、“狼煙”です。

 信玄は、領国内に狼煙のネットワークを張り巡らし、伝令を走らせるよりもずっと早く、国境近辺の情報を得る事が出来ました。

 川中島の戦いの際にも、上杉謙信の襲来を察知した海津城将香坂昌信が、狼煙を使って急報し、遙か遠く(37里=約150km)に位置する甲斐府中まで、僅か二時間半で情報を伝達したのです。


 武田家の象徴である“四如の旗”の一節、「疾き事風の如く」を実現する為、狼煙は大いに活用されていたのです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 信玄から託された(名目上の)大将である義信の教育が一つ出来ました。
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