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戦場と大局

 躑躅ヶ崎館を発った、信玄率いる武田軍は、若神子城から諏訪を通り、小県(ちいさがた)へと抜ける進路を取った。途中、諏訪にて、諏訪衆が勝頼の麾下に入る為に合流するなどもあり、甲斐府中を出てから五日後、塩田城 (現在の長野県上田市)に入る頃には、その軍勢は一万三千を超えていた。

 塩田城は、小県……いや、信濃国最大の規模を誇る城砦のひとつであり、その麓には塩田平を東西に走る鎌倉街道があった。

 鎌倉街道を東に行けば、碓氷峠を抜け、上野へと出る。逆に西へ行けば、川中島のある善光寺平を抜けて、越後へと到る。

 つまり塩田城は、信濃における戦略上の重要な拠点だったのである。



「お屋形様、ようこそおいで下されました。お疲れで御座いましょう。本殿にて、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」


 塩田城では、赤一色の軍装に身を包んだ飯富虎昌が、大手門にて主君を迎えた。塩田は地理上の要衝故、武田家譜代の中でも最強の部隊である“赤備え衆”を率いる飯富虎昌が城主に任じられていた。


「うむ」


 騎乗した信玄は、恭しく頭を垂れる虎昌に向けて鷹揚に頷き、ゆるゆると馬を進める。

 その後ろを、副将格である信繁と義信が並んで進んだ。

 更に、その後に続いて、武田軍の将兵たちが隊列を乱さず、粛々とついてゆく。

 信濃随一の大規模城砦である塩田城の各郭は、たちまち戦装束に身を固めた男たちで満ちた。



 夕餉を摂り、湯船にゆったりと浸かってさっぱりとした信玄は、自身の室に信繁と義信を呼び寄せた。

 少しして部屋に入ってきたふたりの姿を見て、白の夜着の胸をはだけて団扇で扇ぎながら、湯で火照った身体を冷ましていた信玄は、呆れたように言う。


「何じゃ、お主ら。その様な格好のままで……」


 信繁と義信は、信玄とは打って変わって、旅塵に塗れた軍装のままだったからだ。

 義信は、信玄の発した棘のある言葉に、ムッとした顔をするが、信繁は穏やかに苦笑して答える。


「申し訳御座らぬ。兵達の差配や、補充物資の手配などに追われておりました故、具足を脱ぐ余裕も無く、この様なむさ苦しき格好のまま、参上仕りました」

「そうか。――いや、別に咎めだてておる訳では無い。ご苦労だったな、ふたりとも。楽にしてくれ」


 信玄は、鷹揚に言うと、目線でふたりに座るように促した。

 信繁と義信は、一瞬だけ視線を交わして頷き合うと、腰に差していた刀を右脇に置き、信玄の前に並んで腰を下ろす。

 信玄は、ふたりが座るのを見ると、団扇を置き、夜着の(あわせ)を整えた。

 そして、やや前屈みになると、声を顰めて切り出す。


「――明日は丸一日、この塩田に留まり、皆の疲れを癒やす事とする」

「はっ」


 信玄の言葉に、ふたりは小さく頷いた。

 諏訪から小県までの道のり――険しい山々の間を縫うようにして、塩田城まで到った武田軍の将兵たち。やはり、疲労は蓄積している。この後、鎌倉街道を東に進み、信濃と上野の国境(くにざかい)に聳える碓氷峠を越えなければならない。その難所を前に、将兵たちに休養を与え、英気を養わせるのは良策だといえた。

 と、信玄は、ふたりの顔を順に見回すと、ふたりとの間に信濃の地図を広げた。そして、団扇で塩田の地を指すと、言葉を継ぐ。


「そして、ここで軍をふたつに分ける」

「……軍を、分ける?」


 信玄の言葉を聞いた義信は、思わず耳を疑い、その目を見開いた。

 一方、隣に座る信繁は、落ち着いた顔のまま、小さく頷く。


「……やはり。一方を箕輪へ、もう一方を川中島に向かわせるのですな」

「うむ。さすがは典厩だな。読んでおったか、儂の考えを」


 信玄は、満足そうに口元を綻ばせた。

 信繁は、帯に差した扇子を抜くと、地図の一点を指した。


「箕輪の地は、西上野の要。ここを我らに落とされてしまっては、関東に進出したい越後の上杉にとっては、大きな痛手となります。当然、相応の救援を、箕輪に送り込もうとするでしょうな」

「ああ。もちろん、それは想定済みよ。そう思って、()()に邪魔をされぬよう、予め、出羽 (現在の山形県)の蘆名を動かそうとも思ったのだが、なかなか上手くいかぬようでな」

「――それで、我が軍の一部を川中島方面へ進め、上杉輝虎めの動きを牽制しようという訳ですな!」


 ようやく、ふたりの話す内容の意味に気付いた義信が、目を輝かせた。信玄は、嫡子の言葉に首肯する。


「川中島から、長尾の本城・春日山城までは、たったの二十里 (約80km)ほどだ。そんな至近に我が軍が展開したと知れば、景虎めも迂闊には箕輪へと向かえまい」

「なるほど……」


 義信は顎に手を当て、信玄の言葉にうんうんと聞き入っていたが、ふと不安げな表情を浮かべた。


「……もし、それでも越後勢が箕輪城の救援に向かってきたら……どうされますか?」

「――簡単な事よ。そうしたら、川中島の別軍が、海津の香坂や奥信濃の諸城から兵を掻き集めた上で、そのまま春日山城を落としに行けば良い」


 義信の疑問に、事も無げに答えたのは信繁だった。信玄もまた、深く頷いて、信繁の意見に同意する。

 信繁は、地図に落としていた目を上げると、信玄を真っ直ぐに見て問うた。


「して――、どの様に分けまするか? 軍をふたつに……」

「そうだな……」


 信玄は、口髭を撫でながら、半目を開けて、暫し考える。

 そして、考えが纏まると、その大きな目を開けて、決然と言った。


「――箕輪へは、儂と馬場、工藤らが一万の軍を率いて向かう。……初陣の四郎も連れて行く。――川中島へは、お主らふたりと、そして飯富兵部を付けた五千。その様に振り分けるとしよう」

「はっ。畏まりました」


 信玄の下知に、信繁は小さく答えて一礼をした。

 だが――、


「ち――父上! わ、私も、箕輪攻めに加わりとう御座います! 何とぞ……」

「……む?」


 義信の懇願に、信玄の太い眉がピクリと上がった。

 そんな父の表情の変化にも気付かぬように、義信は血相を変えて詰め寄る。


「も、元々、箕輪……西上野攻めは、私が父上から命ぜられていたもので御座る。せめて、落城の場に立ち会わせて頂きた――」

「たわけッ!」


 捲し立てる義信を、信玄は声を張り上げて一喝した。

 彼は、怒気を露わにして、怒声に竦む息子を睨みつける。


「お主は、ゆくゆくは一国の主となる男であろう! それなのに何だ? 己の意地だか矜恃だか知らぬが、たかが山城ひとつに拘泥しおって! 儂の跡を継ぐ気があるのなら、斯様な些末な戦場(いくさば)のみを見るのではなく、もっと大きな目で大局を見定めよ! それが、“国主”としての戦というものだッ!」

「……!」


 信玄の叱責に、顔面蒼白となり、唇を噛んで俯く義信。


「……若殿」


 そんな甥に、静かに声をかけたのは、信繁だった。

 彼は、興奮して荒い息を吐いている信玄に目配せすると、ゆっくりと諭すように義信に語りかける。


「お屋形様の仰る通りで御座る。お屋形様は、ただ単に、若殿を箕輪攻めから外した訳では御座らん。より重要な役割として、越後の上杉……長尾景虎への牽制の任を、若殿にお任せなさったのですぞ。別働隊の()()――お屋形様の名代(みょうだい)として」

「……大将? ……名代――。そうか!」


 信繁の言葉を聞いた義信の顔に、赤みが差した。


「左様で御座ったか! この義信、しかと理解致しました! そういう事であれば、喜んでその任、承りましょうぞ! 父う――お屋形様の()()として、川中島へ出張ると致します!」

「……あ、いや、大将は――」


 先程までとは打って変わって意気軒昂たる様子の義信に、当惑顔で何事か言いかける信玄。彼は、義信の隣に座る信繁の方へチラリと視線を送る。

 だが、信繁は小さく首を振って、それを制した。


「……」


 信玄は信繁の目が訴えかけた事の意味を察した。小さな咳払いをひとつ吐くと、義信を厳しい目で見据えて、厳かに言った。


「……うむ。別働隊の指揮は、お主に任せよう。長尾の動きをよくよく観察し、隙があるようならば、機を見て越後国内へ攻め込むも良い。――典厩は、太郎の補佐を頼む。……今、そなたも見たように、大将としては、まだまだ未熟なところもある故、しっかりと手綱を引いてやってくれ。――頼んだぞ」

「ハッ! 畏まりました!」

「畏まって御座る」


 信玄の命に、義信は嬉々として、信繁は落ち着いた所作で答える。

 信繁が顔を上げると、信玄が複雑な表情で、彼を見ていた。

 その目は、(別働隊は、お前に任せるつもりだったのだが……)と言いたげだった。

 ――信繁は、口元に微かな苦笑を浮かべると、そんな兄の視線を当然のように無視した。

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