乱破と腕前
――乱破とは、平たく言えば忍者の事である。
変装や偸盗術、そして暗器の扱いに長け、しばしば大名と契約を結んで、敵国での諜報活動や暗殺、戦場での後方撹乱などを請け負った。
武田家もまた、多数の乱破を雇い、勢力拡大の大きな力として活用している――。
「元々、佐助の一族は、佐久の海野や笠原などの土豪と結んで活動していた乱破でして……。両家が滅んだ後は、一族はちりぢりとなってしまったのです」
「……」
昌幸が、彼の境遇を伝える間、佐助は鋭い目を光らせて、信繁をじっと睨んでいた。
「まだ幼い身で主家を失った佐助は、根無し草となって信濃の豪族の間を渡り歩いておりました」
「ふむ……」
「三年前、こやつは海津城内へと忍び込み、お屋形様のお命を狙わんとしました。ですが、それに気付いた我が父麾下の乱破によって捕らえられ、それ以降は真田の手の者として働いておったのです」
「ほう……、お屋形様のお命を、な……」
信繁は、昌幸の言葉に眉を上げた。
彼の一族が仕えていたという、海野家と笠原家を十数年前に滅ぼしたのは、他ならぬ武田家であった。
信繁は、油断の無い視線を佐助に向けながら、静かに彼へ問いかける。
「――それはやはり、ちりぢりになった一族の仇として、命を狙った……という事か?」
「……………………いや」
佐助は、信繁の問いに少し考え込んだ後、小さく首を横に振った。
「一族の興隆も没落も、所詮は時の勢い次第だ。オレの一族は時の勢いに抗えなかった。だから滅んだ。――終わってしまった後に、信玄の命を獲ったところで、死んだ者や離散した一族が元に戻る訳も無し……」
佐助は、一瞬瞑目した後に、静かに言葉を継いだ。
「信玄の命を狙ったのは、その時飼われていた村上義清に命じられたから……それ以上の事は無い」
「……ほう」
信繁は、佐助の言葉に目を細めた。
と、昌幸は佐助の袖をグイッと引っ張った。
「おい、佐助! 典厩様の御前だぞ! もうちょっと神妙な態度は取れんのか!」
「……神妙な態度? 何故だ、源五郎? 別に、オレはこの男から雇われている訳でも、弱味を握られている訳でも無い。だから、這い蹲る必要も無い」
「いや、でもお前、親父殿の前でも同じ態度だよな? ……あ、いや、そういう事では無くて……」
ケロッとした顔で言い放つ佐助に辟易する昌幸。その顔を見た信繁は思わず頬を緩ませた。
「まあ良い。話を進めよ、昌幸」
「――あ。も、申し訳ございませぬ、典厩様。無骨な奴で……」
佐助の分まで覿面に恐縮した様子の昌幸は、信繁に深々と頭を下げると、言葉を続ける。
「拙者が、この佐助を典厩様に引き合わせたのは――今後、この男の能力が、典厩様のお役に立つのではないかと思ったからでございます」
「……役に立つ? 儂の?」
信繁は、昌幸の言葉を繰り返した。
昌幸は大きく頷いて言った。
「先日、飯富様が持ち込まれた話――お屋形様が、今川に攻め込む算段を整えようとしているという疑惑の件、お忘れではありますまい」
「……無論だ」
信繁は、一転して表情を曇らせ、そして、昌幸の顔を見た。
「――そうか、この佐助とやらを使って、内実を探れ……そう言いたいのだな」
「左様で」
そう言う信繁に、昌幸は力強く頷く。
「佐助は、言葉と態度こそなっておりませぬが、乱破としての腕は一流です。きっと、典厩様のお役に立てましょう」
「……いや、そうは申してもな――」
昌幸の自信たっぷりな様子を前にしても、信繁の顔は晴れなかった。
「乱破は、お屋形様の周囲にも数多おる。恐らく、秘密裏に進めている駿州往還の拡張の現場にもな。百戦錬磨の手練れの乱破どもを相手にするには、佐助は些か若すぎるのではないか……?」
「――典厩様、佐助の腕を侮られては困ります。この男は、確かにまだ年若いですが、乱破としての才能は天賦のものです。如何に武田の乱破が手強いといえど、この男が後れを取る事はございませぬぞ!」
信繁の疑念に、目を吊り上げて反駁する昌幸。
と、
「……源五郎。いくら言葉を重ねようと、キリが無いぞ。――よく言うだろう、『論より証拠』……とな!」
佐助は、そう言うや否や、突然爪先で床を蹴った。音も無く、そして素早く信繁に向かって突進してくる。
「――ッ!」
だが、その不意打ちに対する信繁の反応も早かった。彼は咄嗟に傍らに置いた脇差しを掴み、素早く抜き放つと、接近してくる影に向かって真っ直ぐ横に薙いだ。
――が、手応えは無い。
「……どうだ?」
「――!」
佐助の囁き声が耳元で聞こえ、信繁は左目を剥いた。同時に、右の首筋にひんやりとしたものを当てられたのを感じ、ゾッとして固唾を呑み込む。
「佐助! 典厩様に無礼は止めろ!」
血相を変えた昌幸の声に、佐助は信繁の後ろでフッと息を吹き、
「……ご無礼仕った」
と、言って、あっさりと信繁から離れた。そして、
「お返し致す」
と、先程まで信繁の首元に突きつけていたものを、彼の目の前に差し出した。
それを見た信繁の目が、驚愕で見開かれた。
「それは――儂の扇子……か!」
彼は慌てて、腹の辺りをまさぐった。確かに、帯に差していたはずの扇子が無くなっている。
「さっきの一瞬で、脇差での抜き打ちをかいくぐり、更に儂の帯から抜き取ったのか……」
そう呟きながら、信繁は脇差しを鞘に納め、佐助から受け取った扇子を広げた。一輪の梅が咲いた枝に止まる不如帰の絵――確かに、それは信繁の扇子に間違いなかった。
「うむ……全く分からなかった……」
「どうだ?」
佐助は、心なしか胸を張って、信繁に向かって訊いた。
「これでも、オレが武田の乱破どもに後れを取ると思うか?」
「……いや」
信繁は、首を横に振った。
「……見事な腕だ。確かに、これだけの腕があれば、我が武田家お抱えの乱破共とも、互角以上に渡り合えよう」
そして、口の端に微笑を浮かべると、改めて佐助の顔を見た。
信繁は、佐助の声の高さから、彼がまだ年若いだろうと踏んでいた。だが、燭台の蝋燭の黄色い光に照らし出されたのは、その想像以上に若い。
――まるで、抜け目のない小猿のような童顔だった。
「……成る程、だから“猿飛”か」
そう呟くと、信繁は思わず頬を緩ませた。
佐助は、そんな信繁の顔を見て、不機嫌そうな声を上げる。
「……何が、『成る程』か……?」
「あ……いや……すまぬ」
乱破――忍者というと、口から火を吹いたり、矢鱈と分身したり、蝦蟇を口寄せしたり……というイメージがありますが、現実には諜報活動や戦場での後方撹乱を担っていた集団でした。
中には、前回のあとがきでチラッと触れた飛び加藤や、『爆弾正』の異名で(一部で)有名な、戦国の梟雄・松永弾正久秀を、ビビり倒させた果心居士の様な、幻術めいた異能を持っていた忍びも居たようですが……。
なお、この物語では、極々現実的な乱破の姿を書くつもりなので、口から火を吹いたり、蝦蟇を口寄せしたり、多重影分身の術などで戦ったりはしませんので、予めご了承下さいませ。