信と頼
年が明けた。
永禄七年の正月、数えで十八となった四郎は、異母弟の五郎と共に、躑躅ヶ崎館に祀られた武田氏重代の至宝・御旗楯無の御前にて、元服の儀を受けた。
その際に、武田家当主にして四郎の父である信玄の口から、四郎が諏訪頼重を最後に絶えていた、母方の諏訪宗家の名跡を継ぐ事が明かされた。
これより四郎は“諏訪四郎勝頼”を名乗り、併せて信濃高遠城の城主に就く事となる。
信玄が滅ぼした諏訪家の血を引く男児として、陰で勝頼を“鬼子”と呼び、忌み怖れていた一部の宿老たちは、勝頼が諏訪家を継ぐ事になり、武田宗家から外れた事――そして、彼が武田氏の通字である“信”の文字を与えられなかった事に、ほっと胸を撫で下ろした。
が、
(兄上は、よほど四郎が愛おしいようだな……)
と、元服の儀に参列していた信繁は、心中で苦笑していた。
“勝頼”――確かに、四郎に与えられた諱には、武田氏の“信”ではなく、諏訪氏の通字である“頼”を採られている。両方の通字を採り、“頼信”または“信頼”と名乗る事もありえたが(実際、同時に元服し、信濃の名族仁科氏の名跡を継いだ五郎は、“信”と仁科氏の通字である“盛”を両方採り、“仁科五郎盛信”を名乗った)、信玄はそうはしなかった。
家臣の中――或いは血族の中に、四郎が武田一族の人間として振る舞う事に激しい拒絶を覚える者が居るであろう事を考慮し、配慮した結果であろう。
しかし、その代わりに、信玄は四郎に“勝”の字を与えた。
“勝”の字は……、
(――兄上の幼名“勝千代”から採ったのだろうな……)
わざわざ、己の幼い頃の名前から一字を採って授ける……通り一遍の“信”を付けるよりも、よっぽど信玄の四郎に対する愛情の強さを感じる。――信繁はそう感じた。
(――やはり、兄上は、太郎よりも四郎を……)
信繁は、あの日――冷え込んだ自邸の奥の間で、武藤昌幸と飯富虎昌と話し合った時の事を思い浮かべた。
(確かに、お屋形様は四郎様に些か甘い様に見受けられますが、その点は、拙者も若殿も、そこまで気には留めておりませぬ)
あの時、飯富虎昌は四郎――信玄の勝頼に対する執着を、そう述べたが、
(……これは、あまり看過出来ぬ事になるやもしれぬな)
正装に身を包み、僧衣姿の信玄によって加冠の役を受ける四郎の端正な横顔を見つめながら、信繁は微かに眉を顰めるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「主様、お役目ご苦労様にございまする」
「うむ――遅くなった。帰りがこんな夜更けになってしまってすまぬな、桔梗」
その日の深更、自邸に戻った信繁は、自室で差料を妻の桔梗に預けながら、疲れた顔で首筋を揉んだ。
「むう、久方ぶりに堅苦しい格好で一日を過ごしたせいで、すっかり肩が凝ってしまった」
「あら――左様でございますか」
戯けた調子で言う信繁に、柔らかく微笑みかける桔梗。
信繁も、優しく微笑み返して言った。
「――湯から上がったら、肩を揉んでくれぬか? 久しぶりに、お前に身体をほぐしてもらいたい」
「あ――はい! 畏まりました」
「……あ、いや。やはり止めておこう。もう、夜も深い。桔梗も眠いであろう?」
桔梗を気遣った信繁の言葉だったが、桔梗は顔色を変えて、必死の様子で首を横に振った。
「い――いえ! 大丈夫です。どうか、お気遣いなさらず……!」
そして、その頬を染めて俯きながら、囁くような声で付け加える。
「……主様のお疲れを癒やす事が出来るのなら……何なりと……」
「……」
桔梗の恥じらう声に、信繁もその意味を察して、急に自分の顔が熱くなるのを感じた。
彼は、嫋やかな桔梗の姿を前にして、やにわに全身を巡る血が滾るのを感じる。
信繁は、ゴクリと生唾を呑み込むと、優しく桔梗の肩を抱き寄せた。
ふたりの顔が徐々に近付いてゆく。
そして――、
――カラカラ
「典厩様、お帰りでし――わっ」
「!」
「!」
おもむろに襖が開かれると同時に上がった驚きの声に、ふたりは仰天して振り返った。
「あ……あの、し――失礼をば致しました!」
「ま――昌幸!」
ふたりに負けず劣らず、その顔を真っ赤にした昌幸が、慌てて襖を閉めようとしていた。
「あ――あの、も、申し訳ございませぬ! とんだ不躾を……。せ、拙者は、すぐに消えます故、おふたりは安心して続きを……」
「よ、よいよい! 何じゃ、何の用だ、昌幸ッ!」
尻を捲って退散しようとする昌幸を、信繁は大声で引き止めた。……心なしか、怒りの響きが混じっているのは、しょうがない。
信繁の言葉を受けて、背中を向けていた昌幸は振り返った。その顔には、信繁が今まで見た事のない神妙な表情が張り付いている。
「……あ、主様! 私は、お茶を淹れて参りますっ!」
桔梗は肩にかけられた信繁の手を振り解くと、真っ赤にした顔を伏せたまま、昌幸の横を擦り抜けるようにして、小走りで部屋を出ていった。
「あ――き、桔梗様……!」
「……良い。奥には、後で儂が言っておく」
桔梗を引き止めようと手を伸ばす昌幸を言葉で制して、信繁は大きな溜息を吐いた。着ていた裃の襟元に手を入れて寛げ、円座の上に腰を下ろす。
そして、平伏する昌幸をジロリと睨んで言った。
「だがな……、儂に限らず、人の部屋に入る時には、必ず襖の前で声をかけてから開けた方が良いぞ。――以後、気をつけろよ」
「あ、ハッ! かしこ……畏まりましたッ!」
信繁の言葉に、更に身を縮こまらせて、畳に額を擦りつける昌幸。
その滑稽な様子に、信繁は思わず吹き出した。
「ふ、ふははははっ。……もう良い。顔を上げよ、昌幸。――急用か?」
「……は、はい……」
信繁の言葉に促されて面を上げた昌幸は、小さく顎を引いて頷いた。
彼は畳の上に座り直すと、咳払いをひとつしてから切り出した。
「実は、典厩様にご紹介したい男がおります」
「……紹介?」
「はい」
昌幸は簡潔に答えると、その身を横にずらした。
と――、
「――!」
信繁は隻眼を見開き、思わず身構える。――いつの間にか、彼の全く気付かぬうちに、昌幸の背の陰に隠れるように、ひとりの男が蹲っていたからだ。
「典厩様、ご安心めされ。この男は敵ではありませぬ」
警戒を露わにする信繁に、落ち着いた声で昌幸が言った。
「紹介したいと申したのは、この男の事です」
「……何奴だ」
昌幸の言葉にも警戒は解かず、隻眼で蹲った男を注意深く監視しながら、信繁は誰何した。
暗闇の中、身じろぎもせずに蹲っていた男は、信繁の声にその顔を上げた。
「オレは……」
男が発した声を聞き、信繁は意外そうな顔をした。――思ったよりも若い……寧ろ、幼い少年のような甲高い声だったからだ。
戸惑う信繁をよそに、少年は言葉を継ぐ。
「――オレは、佐助。……佐久の乱破だ。又の名を……“猿飛”と言う」
本文中で触れた、「勝頼の“勝”の字が、父信玄の幼名“勝千代”から採られた」という解釈については、完全に筆者の想像です。ただ、書いていて、何か、いかにもありそうな話だなぁとは思いました(笑)。
結果的に出歯亀しちゃう昌幸。何か、この作品ではなかなか無かったコメディチックな展開になってしまいましたね(笑)。元々過去の作品では、主にコメディを書いていた人間なので、どうかご容赦下さいませ……。
最後の最後で出てきたのは猿飛佐助! 限りなく架空の人物ですが、忍びを出す展開にするなら、彼は外せませんね。
実在人物だったら飛加藤の方が相応しいんですが、永禄七年時点で、既に死んでるんですよねえ……(信玄によって処刑)。まあ、その内、「死んだと見せかけて実は生きてました」展開にして、敵方の忍びとして佐助と戦う展開にするってのも楽しそうですね(笑)。
……小説の趣旨が変わりそうですけど。




