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叱責と確執

 結局、この日の評定は、嫡男義信の中座に列席者たちが動揺したのか、盛り上がりに欠けたまま解散となった。

 恒例であった評定後の酒宴も取り止めとなり、重臣たちは日が暮れる前に相次いで躑躅ヶ崎館を辞去していった。信繁もまた、与力の武藤昌幸を引き連れて、甲斐府中の自邸へと戻った。

 屋敷に帰った信繁は、ゆったりと湯に浸かって疲れを癒やし、冷めた夕餉を摂ってから、自室で火鉢に当たっていた。

 すると、襖の向こうから、嫡男の信豊が声をかけてきた。


「……父上、お客人です」

「ん? ああ――」


 信繁は、顔を上げると、小さく頷く。もう、夜も更けた時間帯ではあったが、来客が来る事は予測していた。


「分かった。母屋の奥間へ通せ」

「――畏まりました」

「……ああ、それと」


 と、信繁は、襖越しに信豊を引き止める。


「あ……はい、何でしょう、父上」

「昌幸も、まだ起きているはずだ。彼奴(あやつ)にも、母屋へ来るように伝えてくれ」

「――喜兵衛めで御座いますか? ……分かりました」


 襖の向こうから聞こえた信豊の声には、微かに訝しむ響きが含まれていたが、信繁の命を素直に承った。

 微かな衣擦れの音が聞こえた後、その気配はだんだんと遠ざかっていく。


「……さて、と」


 信豊の足音が聞こえなくなると、信繁は、火鉢にしがみつこうとする己の手を半ば強引に引き剥がして、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、ぶるりと身体を震わせる。


「今宵は一段と冷えるな……」


 そう、独りごちると、しきりに両手で二の腕を擦りながら、自室から出て行った。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「さて、待たせて済まないな。――兵部」


 奥の間に入った信繁は、平伏している男の背中に労りの言葉をかけた。


「いえ……こちらこそ、こんな夜分に押しかけまして、申し訳御座いませぬ」


 と、頭を畳に擦りつけながら答えたのは、飯富兵部虎昌であった。彼の傍らには黒い頭巾が小さく畳まれて置いてあった。

 信繁は、虎昌の言葉に小さく頷くと、上座の円座(わろうだ)の上に腰を下ろす。

 彼の後ろについて、奥の間に入った昌幸は、恭しく頭を下げると、襖の脇に立膝をついて腰を下ろした。

 虎昌は、昌幸の姿を目にして、怪訝な表情を浮かべるが、


「昌幸は、我が与力だ。それに、西上野でお主らと共に戦った真田弾正の息子でもある。この者が、此度の事を決して口外せぬ事を、この儂が保証しよう」

「左様で御座る。どうかご安心下され、飯富様」


 という、信繁と昌幸の言葉に、「承知いたした」と、渋々ながらも頷く。

 信繁は、虎昌の返事に頷くと、二の腕を忙しなく擦りながら言った。


「おお寒い――ここ最近、めっきりと冷え込むようになったな。この部屋は滅多に使わぬ故、火鉢なども置いてはおらぬ。――どうだ? 身体を温める為にも、ここで一献――」


 信繁の提案に、無類の酒好きである虎昌の喉がゴクリと鳴ったが、彼は激しく頭を振った。


「……有り難く、かつ魅力的なお言葉ではありますが、結構で御座る。――それより」


 信繁の申し出をやんわりと断りながら、虎昌は膝を躙り寄らせ、早速本題に入ろうとする。


「評定前にお伝え致しました、御相談させて頂きたいという件で御座います。――早速ではありますが、それをこれから……」

「……良い。昼間の評定を見て、お主らが何にそこまで怯え、憤っているのかは大体分かった。――お屋形様の、四郎に対する扱いの事だな」


 信繁の言葉に、虎昌は浮かぬ顔で、小さく頭を振った。


「……いえ。――確かに、お屋形様は四郎様に些か甘い様に見受けられますが、その点は、拙者も若殿も、そこまで気には留めておりませぬ。寧ろ……」


 虎昌は、そこまで言うと言い淀んだ。

 その様子を見た信繁も、眉を曇らせる。


「……であれば、気に掛かるのは、お屋形様の、太郎に対する態度の方か……」


 信繁の言葉に、虎昌は黙って首を縦に振った。


「……確かに、ここ最近のお屋形様と若殿との間には、壁のような隔たりがあるのを感じますな」


 襖脇に控えている昌幸が、ボソリと言った。

 信繁は視線を上げ、昌幸を見た。


「……壁?」

「はい」


 訝しむ信繁の呟きに小さく頷き、昌幸は言葉を継ぐ。


「典厩様はご存知ないと思いますが、お屋形様と若殿は、二年前の八幡原の戦いの後にひと悶着ありまして……」


 昌幸は、当時の事を思い出そうとする様に、その切れ長の目をやや伏せて、ポツポツと語り出した。


「あの日……典厩様の隊が総崩れになった後、上杉軍の中枢によって、本陣が急襲された事はご存知ですね?」

「……ああ。知っている。その際に、お屋形様自ら、軍配を手に敵を迎え討ち、手傷を負われた事もな。――とはいえ、その頃の儂は、槍で身体に穴を開けられて昏倒していた故、又聞きでの内容しか知らぬが」

「まあ、それを言えば、妻女山奇襲の別働隊に組み込まれていた拙者や飯富様も、直に見た訳では御座いませぬ」


 昌幸は、そう言って薄く微笑むと、言葉を続ける。


「――その際に、総崩れになりかけた本陣を救ったのが、他ならぬ若殿でした」

「ふむ……」

「若殿は、八百の手勢を纏めて、上杉軍の横腹に攻めかかりました。若殿は、隊の先頭に立ち、自ら手槍を振るって、上杉の兵を散々に蹴散らしました。その為に、上杉軍は一時混乱。お屋形様は虎口を脱し、その直後に着到した我ら別働隊が合流し、戦況が逆転致しました」

「素晴らしきお働きであったらしいです、若殿は」


 昌幸の言葉を受け、虎昌は厳つい顔を綻ばせるが、すぐにその顔は憂いに沈んだ。


「……問題は、その後」

「……問題?」

「はい」


 問い返した信繁に、力無く頷く虎昌。


「戦いの後、夥しい戦死者の埋葬を終え、海津城に集められた我々の前で……若殿は、お屋形様より、強い()()を受けたのです」

「叱責……だと?」


 虎昌の言葉に、信繁は思わず耳を疑った。


「なぜ? お屋形様の窮地を救った上に、上杉軍の勢いを削ぎ、別働隊が来るまでの時間を稼いだ……賞賛されこそすれ、叱責される謂れは無いのでは……?」

「は――。それは、その場に居た我々の殆どが同じ事を思いました」


 昌幸の言葉に、虎昌も大きく頷いた。


「しかし、ただひとり、お屋形様だけはそう思われなかったようで……いえ、少し違いますな」

「あの時、お屋形様は、こうおっしゃいました。――『武士(もののふ)としては抜群の働きであり、天晴ではあるが、貴様は違う。貴様は、武田の跡取りである。ゆくゆくは家を背負う者が、戦場(いくさば)の矢面に立ち、矢雨と剣林にその身を晒すなど、愚の骨頂! 己の身を弁えよ!』……と」

「あの時の若殿の哀し気な顔……おいたわしや……」


 虎昌は、昌幸の言葉でその時の事を思い出したのか、沈痛な面持ちで唇を噛む。

 信繁もまた、難しい顔をして腕を組んだ。


「うむ……確かに、太郎は他の侍大将とは違う。大切な武田の跡取りだ。万が一にも討ち取られる危険を犯すべきではない……。お屋形様の仰る事も一理ある。――一理あるが……」

「――他の諸将が居並ぶ前で言うべきではありませんでしたな」


 信繁の呟きに、昌幸が冷めた口調で付け加えた。信繁も頷き、彼の言葉に同意の意を示す。


「一体、何故お屋形様は、敢えて諸将の面前で、太郎の矜持を傷つける様な真似をなさったのだろうか……」

「恐らく、戦の直後ということあり、お屋形様ご自身の気も、大きく昂ぶっておられたのでしょう。……勘助殿や諸角様らの戦死や、典厩様の負傷の報に、大層気を落とされておられていたご様子でしたから……」

「……それが、ふたりの確執となって、今日にまで到っている――そういう事か?」


 信繁はそう言って、同意を求める様に虎昌の顔を見るが、彼は、目に複雑な光を宿して、真っ直ぐに信繁を見つめ返して、微かに声を震わせながら言った。


「……確かに、それも一因かと思われますが、それだけではないかもしれない――それが、それこそが、典厩様にお話ししたかった事なのです」

 第四次川中島の戦いにおける、武田義信の働きは、抜群でした。武田の本陣を破り、一時休憩をしていた上杉軍の本陣を寡兵800を以て急襲し、一時は、総大将の上杉謙信が自ら手槍を振るって防戦に努めなければならない程の窮地に追い込みました。

 まるで、謙信が父信玄の本陣に乗り込んで、一騎討ちに及んだ事への痛烈な意趣返し。もしも、ここで義信が謙信を討ち取っていたら、歴史の流れは大きく変わった事でしょう――。

 ただ、信玄は義信の働きを良く思わず、ふたりの確執が深まる一因となってしまったのは皮肉な所です。


 そんな川中島での華々しい奮戦から僅か六年後に、義信があの様な事になるとは……無情ですね……。

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[一言] 武士型の義信を廃して立てた勝頼も武士型という悲劇が…
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