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過去と未来

 信繁と昌幸は、廊下を歩き、奥間への襖の前に立つ。

 昌幸が膝をつき、襖の引手に指をかけて、信繁に目配せした。


「……開けます」

「おう……」


 昌幸の言葉に、やや緊張の面持ちで頷く信繁。その場に腰を下ろし、両手をついて頭を下げた。

 信繁の体勢が整ったのを受けて、昌幸はゆっくりと襖を開く。


「……お待たせ致しまして、誠に申し訳ございませぬ」

「おう、次郎兄。御苦労様に御座りまする」


 開口一番、詫び言を繰る信繁に陽気な声をかけてきたのは、彼の弟である逍遥軒信廉であった。

 そして――、


「苦労を掛けたな、次郎」


 奥の間の上座に座る人物が、僅かに枯れた声を上げる。

 信繁は、一層深々と頭を下げると、上座に向かって言った。


「いえ……武田家の副将――いえ、彼らの叔父として、当然の事をしたまでで御座います……お屋形様」

「ふ……“お屋形様”は止せ。ここは、お前の屋敷だ、次郎」


 慇懃な言葉遣いをする信繁に、武田家の当主にして信繁の兄である信玄は、僅かに口元を綻ばせる。

 その言葉に、信繁も表情を和らげ、ゆっくりと上体を上げた。


「では……失礼致しますぞ、兄上」

「おう……いいぞ」


 信玄は鷹揚に頷くと、手にした盃を呷る。

 それを見た信繁の顔が曇った。


「兄上……まだ、床上げなさってから間もないのです。御酒を召されるのは控えられた方が……」

「何じゃ次郎。儂の事を、いつまでも病人扱いしおって」


 信繁の言葉に、信玄はムッとした表情を浮かべる。


「儂は、もうこの通り、全快だ。法印からも太鼓判を押されておる」

「――ですが、『くれぐれも無理をなさいますな』と、釘も刺されておりましたでしょう?」


 意気軒昂の様子で胸を張る信玄だが、信繁も譲らない。ふたりは、口をへの字に曲げて、互いに睨み合う。

 と、緊迫する二人の間に、信廉が割って入った。


「まあまあ。次郎兄も太郎兄もお止めなされ。せっかくの兄弟水入らずなのですから……」

「逍遥! お主もお主だ! 病み上がりの兄上が御酒を召されておるのに、お止めしないとは――」

「いやいや! それは行き過ぎでありましょう」


 信繁に叱責され、思わず首を竦めた信廉だったが、掌を大きく左右に振りながら抗弁した。


「法印殿も、『日頃の鬱屈を紛らわす程度ならば』と、嗜む程度の飲酒は寧ろ推奨しておられたではございませぬか。あまりきつく締め付けをなさるのも、太郎兄の身体には宜しくないと思いまするが」

「それは……そうだが……」

「……それに、な」


 信廉の言葉を前に思わず口ごもる信繁に、信玄が口を開く。


「儂に隠れて、お前ひとりでこそこそと斯様な美味い酒を飲みおって。そのくせ、儂には酒を禁じるのか、お前は」

「あ……! そ、それはもしかして……!」


 信玄の言葉を聞いて、信繁はようやく気が付いた。

 今、信玄が呑んでいる酒が、自分が越後から取り寄せた酒だという事に――。

 驚きの表情を浮かべた信繁に、してやったりとほくそ笑みながら、信玄は盃を干した。

 信繁は、盃から唇を離して感嘆の息を吐く信玄におずおずと尋ねる。


「兄上……、一体どこで、その酒の話を……?」

「近習の金丸平八郎が、嬉しそうに話しておったわ。『酒宴の際に源五郎が持って来た、典厩様秘蔵の酒が美味うござった!』――とな」

「おのれ、平八郎の奴め! ……ペラペラと……!」


 信玄の種明かしに思わず顔を顰めたのは、信繁の後ろに控えていた昌幸だった。


「ふふふ……源五郎。ぬかったのう」


 悔しそうな顔をする昌幸に、ニヤリと笑いかける信玄。昌幸はバツの悪い顔をして、頭を掻く。

 ――と、信繁は、おずおずと信玄に向けて言った。


「ですが……実は、その酒は……」

「知っておるさ。『越後の酒だ』と、いうのであろう?」

「! ……ご存じだったのですか?」


 あっさりと答えた信玄に、再び信繁は驚きの表情を浮かべる。


「で……では――」

「……まあ、越後の酒が、甲斐の(わが)国の酒よりも美味いのは、些か癪だが――」


 そう呟くように言いながら、信玄は手酌で酒を注ぎ、盃を一気に呷った。


「――それでも、酒に罪は無いからな。特別に赦してやろうぞ」

「ははは……典厩様と同じような事を仰いますな、お屋形様も」


 信玄の言葉に、声を上げて笑ったのは、昌幸である。


「……さすが、ご兄弟と言いますか、何というか……」

「ふふ……そういうお主も、そのようなモノの言い方、だんだんと弾正に似てきたように見えるぞ?」

「え――?」


 そう、信廉に指摘され、呑気に笑っていた昌幸の表情が凍りついた。

 彼は眉を顰めると、信廉の顔を恨めし気に見る。


「さ……然様な気色の悪い冗談はお止め下され、逍遥様。よりによって、あの飲んだくれ親父殿と拙者が似てきたとは……断固として信じませぬぞ!」


 そう言い放って、身震いすらした昌幸の仕草に、信玄たち三人は思わず噴き出した。


 ◆ ◆ ◆ ◆



 それから、三人の兄弟は、盃を酌み交わし、ささやかな酒宴を始めた。

 ――そのさ中、


「……で、彼奴らの様子は、どうであった?」


 信玄は、信繁の盃に酌をしてやりながら、さりげなく尋ねる。

 彼の問いかけに、信繁は小さく頷いて答える。


「はっ……。最初はぎこちない様子でしたが、太郎が積極的に心を開いて四郎に歩み寄ろうとしておりました。四郎もそれに応えようとする様子でしたので、彼らに関しては、もう心配は無いかと思います」

「……そうか」


 信繁の答えに、信玄は微かに安堵の表情を浮かべた。信虎の件があって以来、信玄は彼なりに、己の息子たちの関係について考え直し、些か憂う所があったようだ。

 彼は、盃をくいっと呷ると、信繁の顔をじっと見て、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。


「……本来ならば、父親であるこの儂が、彼奴らを良く見て、互いの仲を取り持ってやるべきだったのだが……。出来の悪い父だな、儂は」

「いえ……そのような事は――」

「儂が不甲斐ないばかりに、お前に要らぬ苦労をさせてしまったようだな、次郎」


 そう言うと、信玄は信繁に向かって深く頭を下げた。


「――すまなかった」

「どうか――どうか、頭をお上げくださいませ、兄上……!」


 頭を下げた信玄に、慌てて声をかける信繁。


「何も不甲斐ない事などございませぬ。兄上は、武田家の当主として多忙を極めておったのです。それで、子供らへの目が行き届かなくなったとして、誰がそれを責められましょう?」

「次郎兄の言う通りでございますぞ、太郎兄!」


 信繁の言葉に続いて、信廉も口を開いた。


「然様な事は、太郎や四郎も、今は充分に解っておりますぞ。何せ、太郎兄に似て、聡い子たちですゆえ」

「……」

「過去は取り返せませぬが、未来は変える事が出来ます」


 信廉の言葉を聞き、沈黙する信玄に、信繁は静かな口調で言った。


「過去にできなかったのなら、これからすればいいのです。太郎にも四郎にも、そして、兄上や逍遥、そして、某にもあるのです……未来が」

「……未来、か」


 信繁の言葉を、信玄は反芻するように呟く。


「儂に、彼奴らを導いていく事が……」

「出来ないはずがありませぬ」


 珍しく気弱な素振りを見せる信玄に、信繁は柔らかな笑みを向けながら、言葉を継いだ。


「もちろん某は、これまで通り……いや、これまで以上に兄上を輔けて参る所存です。……この命が尽きるその日まで」

「――無論、私もで御座いますぞ、太郎兄!」


 信繁の言葉を受けて、信廉も大きく頷いた。


「……そうか」


 そんなふたりを前にして、信玄は僅かに目を潤ませながら、こくりと頷き返して言う。


「典厩、逍遥……。これからも、宜しく頼む」

「「はっ!」」


 信玄の声に、信繁と信廉は声を合わせて頷いた。

 そんなふたりの弟を前に、信玄は満足げに微笑み、ふたりに聞こえぬほどの小声で呟いた。


「次郎、孫六……。お前たちのような弟が居て、良かった……」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 今回は講談というよりも人情噺。 先代圓楽師匠に語ってもらいたい。
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