咎と罪
「……」
「……」
眩い朝日の光が射し込む部屋の中に、時が止まったかのような重苦しい沈黙が満ちる。
「……どういう事だ?」
ようやく信玄が口にした一言は、微かに震え擦れており、彼が受けた衝撃の大きさを表していた。
兄の問いかけに、信繁は黙ったまま、床に頭を深々と垂れる。やはり、兄に事実を述べるのは、戦場で幾千の敵に向かって突撃をかけるよりも、ずっと勇気が必要だった。
信玄は青白い顔を更に白くして、背を丸めた弟の姿をじっと見つめていたが、小さく息を吐くと、その背中に向かって言葉をかけた。
「……次郎。何があった?」
「……」
「武田左馬助信繁!」
「……は」
声を荒げた信玄に諱で呼ばれ、信繁は遂に腹を括った。武田家の副将として、ありのままを当主に報告せねばならぬ。――たとえ、どんな叱責や罵倒や憎悪を、兄から受けようとも。
信繁はゆっくりと顔を上げると、厳しい顔をした信玄の目をじっと見つめ返した。
「……お屋形様。ありのままをお話し致します。――昨夜、躑躅ヶ崎館にて何が起こったのかを……」
◆ ◆ ◆ ◆
信繁の長い話が終わってから暫くの間、信玄はじっと目を瞑ったまま、何も言葉を発しなかった。
その前で平伏する信繁も、微かに唇を噛みながら、伏し目がちで頭を垂れている。
――と、遂に信玄が口を開いた。
「……兵部。――飯富兵部が、父上を刺したのか」
「……はっ」
信玄の問いに、微かに震える声で答える信繁。
「あの時、激昂し、斬り捨てようと刀を振り上げた父上から某を守ろうと、兵部は某の前に身を投げ出し、凶刃への楯としたのです。……某の代わりに、致命の一撃を受けた兵部は、父上を止める為に最後の力を振り絞って、父上を刺し――その後、事切れました」
「……」
「嘗ての主を弑したとはいえど、それは、あくまでも某を――そして、若殿や武田家を守る為でござります。……それに」
そこで一旦言葉を切り、信繁は己の胸に手を当てて、真っ直ぐに信玄の目を見据えて言葉を継いだ。
「――此度の件で、父上が執拗に駿河攻めを促すその真意がただただ私的な怨念に基づいている事に対して危機感を覚え、その身を害せんとしたのは、他ならぬ某自身にござります。故に、父上を弑した罪に対する処断は、兵部ではなく、某にのみ下されるべき」
「……」
「お屋形様」
そう言うと、信繁は脇に置いた刀を、静かに信玄の前に差し出した。
「某の覚悟は出来ております。切腹を申しつけるなり、お手討ちになさるなり……お屋形様の御心に従い申す」
「……」
信玄は、信繁の言葉を聞くと、ゆっくりと手を伸ばして差し出された刀を手に取り――信繁に突き返した。
「!……お屋形さ――」
「罪? ……何の事だ? 典厩も、兵部も、ただただ武田家の行く末を憂い、その未来の為に行動しただけであろう。元より、罪を犯した者など何処にも居らぬ」
「……」
「――いや、違うな」
信玄はそう呟くと、小さく頭を振った。
「……罪を犯したのは、寧ろ、この儂だ。――父上の甘言を受けて軽々に乗せられ、甲斐を危うくしかねぬ駿河攻めに踏み切るところであった。――我が子である太郎の立場や心情も顧みずに、な」
「――兄上……」
「儂とて、今川家と手切れし、北条をも敵に回す危険は重々承知しておったさ」
信玄は、そう言うと、湯呑みを手に取り、静かに啜った。
そして、湯呑みからゆらゆらと揺蕩う湯気をじっと見つめながら、ポツポツと言葉を継ぐ。
「……だが、それ以上に、父上が儂に期待をかけてくれている――その事の方が、儂にとってはずっと大切だったのだ……。お前は、情けないだ軟弱だと思うやも知れぬがな」
「いえ……その様な事は……」
「……もうそろそろ、一年になるかのう。お前が目を醒ましてから――」
信玄は、つと目を天井に向けると、囁くように言った。
突然、話題が変わり、信繁は戸惑いの表情を浮かべながら、小さく頷いた。
「……は。某が昏睡から目覚めたのは、昨年の九月だったかと。それが――?」
「覚えておるか? 儂が目を醒ましたお前を初めて見舞った日の事を?」
「は。――もちろん」
忘れるはずもない。滅多に感情を表に出さない兄が、嗚咽で身を震わせながら自分を抱き締めた時の感触や温もり――今でも昨日の事のように思い出せる。
だが、それを口にするのは気恥ずかしく、信繁は穏やかな笑みを浮かべるに止めた。
そんな弟の様子には気を留めず、信玄は言葉を継ぐ。
「――あの時、お前は、目覚める直前に見ていたという夢の話をしておったな」
「ああ……幼い頃、兄上と孫六と三人で山の中を彷徨った時の夢でしたな。――兄上は覚えていないと仰っておった……」
「……それは、嘘だ」
信玄の言葉に、信繁は微かに目を見開く。
また湯呑みを一啜りし、信玄は言葉を続ける。
「忘れるはずもないのだ。――あれは、儂が父上に褒められた、唯一の事だったのだからな」
「父上に……褒められた?」
「ああ……」
信玄は、弱々しい微笑みを浮かべると、頭を巡らし、開け放たれた襖の間から見える青い空に目を遣った。
「あの時……、ようやくの事で館に帰り、駿河や母上にこっぴどく叱られた後……、儂は父上の居室に呼ばれたのだ」
「……」
「儂は、またいつものように雷を落とされるなと、覚悟して父上の許に行ったのだが……。父上はただ一言、『よくぞ、弟を守って無事に戻ってきた』と仰り……この短刀を下さった」
信玄はそう言うと、腰に差した短刀を優しく撫でた。
「……その時胸にこみ上げた、何とも言えぬ嬉しさは、未だに忘れられぬ。……もっとも、ただの父上の気まぐれだったのかも知れぬがな」
「……兄上」
「二年前、父からの書状が、初めて京から届いた時、考えずにはおれなかった。『ここで、父上の期待通りに駿河を攻め落としたならば、またあの時の様に褒めてくれるのではないか』――とな」
信玄は、大きな溜息を吐くと俯いて、両のこめかみを右手の指で押さえた。
「今は、それがただの妄執に過ぎぬ事が判るが……その時は違った。――儂は、私心を優先するがあまりに、武田家の将来を大きく脅かしてしまうところであった。……その結果、お前の手を父上の血で汚させ、飯富兵部の命を喪わせてしまった……」
「それは――」
「故に、此度の件は、お主らへ問うべき咎も、負わせるべき罪も無い。全てはこの儂――武田家当主にして、お前の兄である、この信玄の責だ」
そう言うと、信玄は、真っ直ぐに信繁を見て、大きく頷きかけた。
「だからな、お前が今後気に病む事はないのだ。……すまなかったな、次郎。到らぬ兄で」
「兄上……」
信玄の温かい言葉を耳にしながら、信繁は視界が潤んでくるのを感じた。
と、信玄は左手を伸ばし、信繁の盲いた右眼の傷に触れる。
「……いつも儂は、お前に助けられてばかりだ。――思えば、この傷もそうだった」
「兄上……」
そして、にこりと微笑った信玄は姿勢を正すと、両手をついて、深々と信繁に向けて頭を下げた。
「典厩……これからも、この到らぬ儂を支え、正してくれ。武田家の副将として――そして、儂の弟として――」
「あ――兄上……!」
そんな兄を前に、信繁は驚愕の表情を浮かべ、慌てて平伏した。
「――勿体無きお言葉。この武田典厩信繁……武田家の為――兄上の為、元より粉骨砕身の覚悟で尽くす所存にござります!」
伏せた信繁の隻眼から、朝日を受けてきらきらと輝く涙が滴り落ち、床で弾けた。