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真心という存在

作者: 分我羅者

哲学や信仰による求道の果てにヒトは

何を期待するのか?心の指針、自身の

感情や判断をコントロールする根本の

法則だろう。だが同時にヒトはソレに

ついての検討から目を背けた。何故?

自身を裁く可能性を恐れたから、又は

単に「そんなコト考えつきもしない」

から。何のキッカケも無く道を求める

ワケがない。要は苦悩から求道が生じ、

疲れた心は適当な解答でギブアップ、

「そこまで到達するコトなく」結局は

狭量な価値観で決めつけた「それしか

ない」を「狂信」する前者か、人生を

特段に「何故」なんて悩む場面も無く、

過ごせた後者か。大抵のヒトは後者だ。

だが結構マジで悩んでトコトン考えた

のがお釈迦様だ。あの人の信条「ハン

ニャハラミータ」は「根性据えて答を

見つける」で、実際、命に関わる程の

苦行、修業を経て、例の「止めとき、

何か色々やったから見つかるとかいう

モンやない。最初から我々に宿っとる

モンなんや」というお経に・・・なる、

んだと思う。我々に宿るモノとは何か?

揺るがない事実で解を導こう。それは

「真の心」だ。価値に毒された自尊心、

感覚や感情、立場や知識、知恵よりも

以前に在る心を忘れているから全てが

「虚無、虚飾」になる。では真心とは

如何なる心なのか?「世界のあらゆる

存在は、ただ、そこに在る」そして

「存在の中に生命という性質を有する

モノがある」、さらに「生命には感覚

があり、中には知性を持つモノがある」

とココらで人類の出番だが、知性より

少し前、感覚と同じぐらいのトコロが

「真の心」だろう。打算も比較もない

始まりも終わりも、存在という概念も

知らない素の心。そこから「痛み」や

「空腹、満腹」「味覚、触覚」「快と

不快」が「欲徳、損得」「善悪」やら

となって積み重なり「真心」を隠して

しまう。忘れられた「真心」の悲しみ、

寂しさが苦悩の種だ。なら真心を思い

出してコトに当たろう。個々の事情は

千差万別で「どんな選択や対応が真心

的に正解」なんて言えるワケがないが、

何の価値も条件も付けず、ただ存在を

認めてくれたなら「あぁ、優しいなぁ」

「幸せだなぁ」と感じませんか?ソレ

が真心に触れた感覚。その心持ちで、

「ギャーテギャーテハーラギャーテ」

「レッツゴーレッツゴーエブリボディ

レッツゴー」みんなで優しい世界を

作ろう!というのが自称、在家の弟子

が唱える門前の経です。

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