復讐と激昂
「アレウス!!」「近付いちゃ駄目だ!」「だけどアレウスが!」「俺が行くから、アベリアさんは回復魔法を唱えてくれ!」
二人の会話が、耳鳴りのように響く。自分のことを恐らく話しているんだろうなと思いつつも、そっちにまで意識が回ってはくれない。痙攣していた筋肉がようやく言うことを利き、弛緩する。引き締め、しかし痙攣していたことで疲労した筋肉は弱々しく、立つことさえ覚束ないほどに震えて、近くの地面に突き立っている剣すら握っても持ち上げられない。
それは痛みなのか、別のなにかなのか。思い返せば、この感覚は経験したことがある。
異界に堕ちた時、アレウスは確かにこれを経験している。そして堕ちる前の拷問においても、経験済みである。
死が目前に迫っていることの恐怖。生きることへ執着すればするほどに膨れ上がるそれは、さながら妄想より現れ出でた死神の鎌が首筋に触れているかの如く、体から熱が吹き飛び、その凍えそうな寒さに口元すらも震える。
経験しているから、では済まされない。一度目も二度目も、思ったのだ。“もう味わいたくない”と。それをアレウスは三度、味わわされている。
何故、怖ろしいのだろうかとアレウスは逆に自分自身に問う。自分自身はすぐに答える。「死にたくない」と。
生と死は乖離しているからこそ、尊い。つまり、近付けば近付くほど、それは畏怖に変わり、交わったその時、諦観に至る。しかし、諦観に至るまでの最中は迫り来る死に対して、ちっぽけな精神で、たった一人で抵抗しなければならない。
死は平等である。ただし、訪れる時は平等では無い。だからこそ、アレウスは独りぼっちの抗戦をしなければならない。死を感じていないアベリアに、この感覚を共有させることは、共に死に掛けることが無ければ永遠に訪れない。
「動け……うご、け……動け動け動け動け…………」
剣を震える手で握りながら、アレウスは震え上がって、そして縮こまってしまっている自身の体に訴える。抵抗を求める。反抗しろと指令を送る。なのに体は全く、動かない。
ギガースは黒い靄を吹き出し、それを剣で掻き切りながら咆哮を上げる。さながらそれは勝鬨にすら聞こえる。
いや、実際に勝鬨であるのかも知れない。澱んだ魂が冒険者のように技能を有しているのなら、魔物を倒せば倒すほどに力を増すその技能も、人種を殺せば殺すほど力を増すように流転しているに違いない。
怪物は、アレウスと対峙する前に馭者を殺し、そしてチャリオットが強引に介入したことで更に何人かが死んだか、重傷を負っただろう。
考えは至らなかった。あの時に上げた咆哮もまた、“勝鬨”であったなどとは。
つまり、アレウスは勝鬨の技能によって一時的に筋力ボーナスを受けていたギガースの剣戟を受けていたのである。そしてアレウスは底上げされた筋力でもって蹴り飛ばされたのだ。
生きた心地はしない。体が拒否を示す。もう一度、あんな一撃を喰らいたくはないと。しかしそれとは裏腹に体は動かない。恐怖がアレウスをその場に縛り付けている。剣で迎え撃つ構えを取っているが、それは形だけのものだ。もう頭の中に、受け流すという動作は介在していない。
死にたくない。それだけが脳内を満たしている。そのためにどうするべきなのか、なにをすべきなのか、そしてどう動くべきなのか。そんなことまでは考えは至らない。
「その場から動かないと君は死ぬぞ?!」
ヴェインが叫び、アレウスに飛び掛かり、共に地面を転がってギガースの突進を間一髪で避ける。
「アレウス! 聞こえているか?!」
「聞こえ……聞こえ……?」
「良いか?! 『祝福知らず』は君が選んだことだ! 君が身勝手に選んだことなんだ!! なのに早々と死ぬなんてことは、俺が許さない!! それとも、死に抵抗する意思すら持たずに君はそんな酔狂に足を踏み込んだのか!? その覚悟は伊達だったとでも言うのかい!?」
反射的に体が動く。ヴェインの言葉に触発されてなのか、それとも本能に火が再びくべられたからなのか、判別出来ないことだったがとにかく動いた。動いて、呼吸をして、生きていることへの実感を取り戻す。
とにかくヴェインから離れることでギガースの追撃を彼から逸らす。続いて襲い掛かって来る剣戟を一つ、また一つと避けて、死線を潜る。
動かなければ死ぬ。動かなければ勝機すら見えない。そうだとしても、眼前で暴れるギガースに回避だけで立ち回るのは、アレウスらしくはあっても無謀である。
だからこそボロが出る。元々、無理矢理、奮い立たせていただけに過ぎない。それはいずれ消え行く、ただの虚栄である。
ほんの一瞬である。ほんの一瞬、気を抜いた。その刹那がギガースにとっては一瞬ではなく、剣戟を滑り込ませるだけの隙と化してしまっていた。
首が飛ぶ――寸前に、小さな鞄に入れていた『身代わりの人形』が飛び出し、強大な魔力を放出してアレウスの体を包み込み、ギガースの必殺の一撃を魔力の膜で受け止め、そして跳ね返す。
効力を失った『身代わりの人形』はチリチリと燃え始め、やがて灰となって風に乗って消え去る。
「一回……死んだ。今、僕は……死んだんだ」
アイテムを持っていなければ、その一回でアレウスの冒険は終わっていた。そして、もう『身代わりの人形』は無い。これからは無茶も無謀も、愚策も愚考もなにもかもを捨てなければならない。
捨てて、活路を求める確かな答えに行き着かなければならない。でなければ、今度こそ冒険が終わる。人生が終わる。生き様が閉じる。
「不快なのよ、この歪んだ魔物は」
影から這い出るかのようにシオンが姿を現し、ギガースの首元に短刀の刃を当て、静かに滑らせる。黒い血が噴き出るが、痛みを感じず、更には出血すらもどうとも思っていないのかシオンの腕を掴み、怪物は自身の体から彼女を引き剥がすようにしてそのまま地面に叩き付ける。
「……ぁ、首刈り……叔父さんみたいには、行かなかった……」
血を吐き、動けないシオンを見て、ギガースは横槍を入れる者が他に居ないか周囲を見回し、剣を軽く振ってから投擲する。魔法の詠唱を中断しアベリアが横へ跳ね、この剣を避けるも体勢を崩して足を挫く。
大きな声を張り上げながらヴェインがギガースに鉄棍をぶつけに行くが、腕で払われる。その際に左肩が外れたのか、握り締めていた鉄棍を落とす。
黒い靄を激しく噴出させながら、怪物は雄叫びを上げる。
心がザワつく。心臓の鼓動が加速する。血液の循環速度も上がる。しかしそれらは恐怖を感じて起こっていることではない。
アベリアを傷付けられたからだ。自分自身が傷付いたことではなく、彼女へ敵意を向けたことに激昂する。彼女に死の危険が迫ったことに対して、ギガースへこれまで感じたことのないほどの怒りを抱きながら睨み付ける。彼女は教会の祝福も持っている。『身代わりの人形』も持っているだろう。しかし、アレウスにとって彼女を傷付ける者は、たとえ強大な力を持つ魔物であっても唯一の例外無く、敵である。
それだけには留まらない。ヴェインもシオンも、ギガースのアレウスへの攻撃を妨害するために尽力し、傷付いた。アレウスは自らの責任を持って、守り抜かなければならない。
瞳に光が満ちる。輝きが戻る。死に対する恐怖を跳ね除け、アレウスは猛々しく叫びながらギガースへと立ち向かう。
腕力では明らかに負ける。しかし、ギガースは剣を投げた。剣術を捨てたとも言える。どれだけ腕が立とうとも、刃物に敵うわけがない。敵うとするならば、それは骸に入れられた魂が格闘術の技能を持っていた場合に限る。体格でも劣る。しかし、アレウスは剣は届くが拳は届かない間合いを維持して全身全霊で立ち回り、怒りの炎に瞳を揺らめかせながら、歯を喰い縛り、息をすることさえ忘れながらに懐へと入り込む。
ノーリスクで魔物を退治できるのならばそれが一番良い。しかし、アレウスはギガースと対峙し、向き合い、歴然とした力の差を見せ付けられた中で、この怪物をノーリスクで倒せる方法など無いのだと理解した。危険であろうと、飛び込まなければ勝ち筋さえ見えない。激昂したアレウスは身を投げ打つような足運びでギガースを翻弄し、そして剣でその体を切り裂いて行く。
止まってはならない。停止は死を招く。ギガースが復讐の炎に身を燃やすと言うのならば、アレウスは怒りの炎に身を焦がす。一発でも喰らえば死がやって来る。もう眼前まで死は近付いている。しかし、それでもアレウスは動くことをやめない。抵抗をやめない。怪物に一人、声を唸らせながら剣を振るう。
拳を避ける。蹴撃をかわす。足を引き戻す前に足首を、その踵を切り裂く。腱を切られたギガースが次にその足に力を込めて大地を踏み締めた直後、大きくよろめいた。腹部を剣で切り裂き、反撃として繰り出される拳を剣身で受け流す。体勢を立て直そうとする怪物に対し、アレウスはそんな暇など与えないとばかりに強く強く、攻め抜いて行く。
五分にも及ぶ攻防戦。立ち上がれずにいるギガースであったがアレウスには的確な反撃を繰り出し続け、しかしそれでも怪物を上回るほどにアレウスは怒りの奥にある殺意を加速させる。
左の拳をギガースが振り抜いた。剣で受け止めるが、衝撃で刃が折れる。
ほくそ笑んだ怪物は、数秒後に表情を硬直させる。アレウスは剣で受け止めはしていたが、折れることを前提として両手から力を抜き、手放していた。剣を握り、力に対して直角に対抗するのではなく斜めに流す。それを続けていたからこそ、この拳もまた受け流される。ギガースはそう思っていたのだろう。
だから次の拳までの一連の動作は止まらない。剣を手放していたアレウスは、その一発すらも読んでいたかのように身を捻らせて凌ぎ、短剣を抜いてその刃が怪物の左胸部に突き立てる。
「屍霊術士が骸に魂を入れる際、それが一時的にアンデット化するのには条件がある。それは、心臓が潰れていないか否か!」
短剣に更に力を込める。
「心臓は魂の象徴だ。そこが潰れていたんなら、魂を入れても動かない。だから!」
怪物は拳を振り上げるが、アレウスが更に深く短剣を刺し込んだことで動きが止まり、握られていた拳はやがて解かれてアレウスに押される形で仰向けに倒れた。
「ずっとそこだけを、狙い続けていた。さっき剣が折れた時にようやく、隙を見せてくれた。ほくそ笑んだ……おかげで“間を盗めた”」
黒い靄が掻き消えて、澱んだ黒い光の粒が魂のように怪物の体から浮き出し、やがて白い光の粒へと変化して天上へと昇って行く。魂によって縮んでいた体が膨らんで行き、アレウスが短剣を引き抜く頃にはオークの骸として、そこには横たわっていた。
「下賤な輩、無事です……の?」
キャラバンを安全な位置まで走らせたのち、単身で引き返して来たのだろうクルタニカがオークの骸と、その前で膝を折って今にも倒れそうなアレウスを眺める。
「ギガースを、中級が……ですの? いえ、そんなことに驚いている暇はありませんわ。アベリア・アナリーゼ!? 動けますの?! 僧侶の殿方も、無事ですわね!? でしたら早急に下賤な輩とシオンに“癒し”を唱えるんですのよ!」
「戻って来るの、早くないですか?」
「わたくし自身は遅過ぎたと思っているくらいですのよ? 風に乗って、急行しても間に合わないだろうと、そう思っていましたもの……失礼、間に合っては、いませんでしたわね」
「“癒し”」
「“癒しよ”」
まず倒れているシオンに回復魔法が掛けられ、続いてアレウスに。そして三回目の「“癒し”」はアベリア自身に掛けられる。
「下賤な輩――いいえ、アレウリス・ノールード。あなたは血を流し過ぎですのよ。それとシオン、あなたも倒れてから一歩も動けていないようですわね。二人ともブラッドポーションを飲みなさい」
アベリアの方へと歩き出そうとしたその一歩でフラつき、倒れそうになる。自身ではあらゆる攻撃を紙一重で避けていたつもりだったが、それは完全な思い込みのようで体中の至る所で傷の縫合が行われていた。
回復魔法によって傷が塞がり切ってから、言われるがままにアレウスは自身で用意していたブラッドポーションを飲み、そしてシオンにはアベリアが手渡していた。上半身を起こしたシオンもまたアレウスと同じように小瓶に入ったそれを飲み干した。
「僕を追い掛けて来たギガースのせいで、馭者も……あと、二台の馬車が……」
「その後悔も責任感も不要ですわ。あなたの過失で、あなたのミスで起こった悲劇ではありません。むしろ、後悔すべきはわたくしの方。復路であったがために、気を緩ませてしまっていましたわ……上級冒険者として、不甲斐無いばかりに……後進の者たちに、多大なる恐怖を与えてしまいました……」
クルタニカは自身をなじるように言い、そして戻って来た馬車に全員が乗せられる。
その馬車が街に向かい出しても――それどころか街に帰還し、別れる時も、クルタニカは決して喜びの表情を見せることはなかった。




