馬車を追う怪物
「こうして外を眺めている分には平穏なのに、その薄皮を一枚剥がしてみるとああいう光景があそこ以外にもあるんだよね……」
シオンさんは呟く。
「アレウス君はなんで兵を出さないんだと思う?」
「僕が答えるんですか?」
「答えを知っていそうだから」
自身よりも人生経験は豊富そうに見えるシオンから頼まれるのは違和感を覚えた。アレウスにしてみれば、すぐにでも答えは出て来るものなのだが。
「戦争で村を侵略されたわけじゃないからですよ。魔物の襲撃で滅んだのなら、それは冒険者ギルドの管轄になるんです……きっと。国を揺さぶるような事件や事故が起こった際にすぐにでも出せる兵を辺境の村に出せないんです。だって、兵士たちは教会の祝福を受けていません。魔物との戦闘も何度か経験があるのかも知れませんが、兵が死んでしまえば国の戦力は衰えます。だったら、国家間の戦争で使われない冒険者を向かわせた方が良いわけです。侵略だったなら、兵士で取り返しに行くこともあるでしょう。だけど、村一つの領土のために国が動くかと言うと……また難しい話です」
「動かないの?」
「まず最初に国同士で交渉が行われると思います。村を放棄する代わりに、その分のお金を要求する……とか。いわゆる誘拐における身代金ですね。村は人質のようなものというわけです。とは言え、小さくとも領土は領土。国のお偉いさんが戦争狂いなら、ひょっとしたら兵士は動くんじゃないでしょうか。これらは全て、国境に近い村で起こる小競り合い……になるわけですが」
小競り合いで村とそこに住まう人々の運命が決まるのは、アレウス自身で口にしていても随分とおこがましいことであると思った。どちらの国の領土であっても、暮らしている人々の命は平等である。それを領土という言葉だけで、平穏な日々を奪われるのだ。国と国とのシーソーゲームの裏側で、喪われる膨大な命の量については、想像もしたくもない。
「いやーホント、頭良いよ。ビックリしちゃう」
「昔からそう。アレウスは冒険譚や英雄譚を読むけど、それと同じくらい別の分野について頭が良い。私はそっちは、全然だから」
それは別にアベリアとは別の方向の知識を付けたいと思ったからではなく、冒険者としてアベリアを守る場合、形式としては必ずリーダーにならなければならない。リーダーに求められるのは統率力と人望である。後者はどのようにすれば得られるのかは漠然としているが、統率力に関しては国家についての本を読めば僅かながら身に付く。国のトップとは即ち、国民を統べる者であり、統べる権利を与えられた者である。過去、そして現在に至るまでの政治的な活動、或いは兵士を動かした歴史、そして大きな戦争から小さな紛争まで。どちらから始まり、どちらの勝利で終わったのか。その時、兵士を動かす者はどのような判断を下したのか。それらを学ぶことはプロパガンダに染まることではなく、シミュレートすることに繋がる。
「ヴェインも、こういうのは得意だろ?」
「得意だけどアレウスほどに俺は決断力が乏しいから。アレウスとアベリアさんの意見を尊重する、ってよく言うだろ? あれって、いわゆる思考停止なんだよ。悪い癖だとは思っているんだけど、俺よりアレウスの方がしっかりとした判断を出せるんじゃないかと思って、いつも逃げてしまう」
「けれど判断が間違っていたら意見はするだろ?」
「そりゃ、俺の頭でも間違っていることをアレウスが言い出したなら口を挟まざるを得ないよ。今のところ、そんなことは無いんだけどこれから先はあるかも知れないね。うん、ちゃんと考えておこう」
「あたし、アレウス君は本当に面白いヒューマンだと思っているよ。なかなか居ないんじゃないかな。判断力、決断力を差し置いて、言ったことをちゃんと遂行してくれるんだろうなっていう安心感を与えてくれるリーダーって。ニィナちゃんもそこのところはかなり評価していたよ。向こう見ずなところもあるにはあるけど、マズい状況にある時ほどアレウス君は冷静だから落ち着いて動けるって」
「それは褒め過ぎだな」
これだと互いに褒め合いになってしまうため、そうやって持ち上げ続けてもどこで終わりが見えるとも分からない。だからアレウスは外の景色を見て、話を切った。雰囲気は良い。空気感も悪くない。一緒に居て心地良さすら感じる。パーティとして一番大事なところが仕上がっている。この調子で固定の仲間を四人目、五人目と増やして行きたい。
「なんだ、あれは!?」
馭者の素っ頓狂な声にアレウスは閉じ掛けていた瞼を開き、外を見る。
黒い靄のような物を放ちながら、キャラバン隊の近くをなにかが並走している。アレウスの目でも、黒い靄の向こう側になにが居るのか見当も付かない。
「退いて」
シオンは右側から左側へと移動し、黒い靄を睨む。
「馭者の小父さん! あれを近付かせちゃ駄目! お馬ちゃんには悪いけど全力疾走させて!」
「だが、私の馬車だけ速めても前の馬車が速度を変えんと激突してしまう!」
「街道から右側に逸れて! 早く!」
「しかし、他の馬が動揺してしまってはキャラバンが――」
シオンの指示に戸惑っていた馭者のこめかみを矢が貫く。即死した馭者の体から力が抜け、そのままズルリと落ちてしまいそうなところをヴェインが身を乗り出して馬車の中へと抱え入れる。
「当たり前だけど……死んでいるよ」
ヴェインは貫通している鏃の先を折り、残りを引き抜く。そして馭者の瞼を閉じさせる。
「お馬ちゃんはあたしが乗りこなす。みんな、どこかに捕まっていて!」
「あれがなにか分かるんですか?!」
「アベリアちゃん! “灯り”は使える? 使えるならそれを黒い靄の上で強く発光させて!」
それだけ言ってシオンは幌から飛び出し、馭者の代わりに馬の手綱を握る。
「巡れ……“光”」
言われるがままにアベリアの杖から放たれた光球が幌から抜け出て、黒い靄の上で一際強く発光した。
「な……ん、だ?!」
目の窪んだ馬が三匹。その後ろで手綱を握っているのが、同じく目の窪んだオークのような、それともヒューマンのような、どちらにも似ていて、どちらにも似ていない醜悪な怪物がアレウスには見えた。そしてその怪物が握っていたのは弓であり、そしてつがえられた矢である。
直後に馬車が街道から右に逸れる。衝撃でアレウスたちが馬車の中でもみくちゃになりながら倒れる。刹那に頭上を怪物から放たれた矢が掠めて行った。
「チャリオットだよ……それも、最低最悪のチャリオットだ」
「戦争用の馬車だって言うのか!?」
右に逸れたアレウスたちの馬車はそのまま平原を駆け抜ける。しかし、チャリオットに乗る怪物の指示からか、窪んだ目の馬が嘶き、アレウスたちを追うように街道を横切る。キャラバンの後続の馬車に接触し掛けた時、怪物はなにも言わずに握り拳を振るって馭者を殴り飛ばした。同時にチャリオットに馬が突っ込み、馬車が拉げて宙を舞う。一台、二台と巻き込んだところで残りの馬車は緊急停止した。チャリオットもまた街道の中央で動きを鈍らせていたが、すぐさま馬が起き上がり、黒い靄を噴出させながらシオンが手繰る馬車の走る平原に移る。
「俺たちを狙っているのか?!」
「後続二台が巻き込まれた」
ニィナの馬車は先頭に近かったはずなので、恐らくは巻き込まれていない。
「仕方が無いよ。馬車は急には止まれない。それにチャリオットに横切られたんじゃ、人を運ぶだけの馬車が敵うわけがないんだ」
それよりも気になるのはクルタニカだ。この襲撃に対して、どうして彼女は動かないのか。
「いや、動けないのか……?」
キャラバンのリーダーとして、襲撃を受けている馬車を放り出して自分だけが戦いの場には赴けない。リーダーとして、残っている馬車が安全圏に逃れるまでは手立てが無いのかも知れない。
「そんなのはあとだ……あれはなんなんですか?」
アレウスはシオンに問う。
「ギガースだよ」
「ギガース?」
「あたしのお母さんはこう呼んでた。復讐鬼って」
その呼び方はアレウスや、あの男だけが用いていたものだとばかり思っていた。
「……あのチャリオットの馬……も、あとは、あのギガースって魔物も、生きて……ない」
アベリアは心底、気色の悪い物を見たかのように青褪めており、そしてガタガタと震えている。
「あんな、グチャグチャになった魂……が、誰かの命令だけで、動いている、の」
もう一度、アレウスは後ろを追い掛けて来ているチャリオットを幌の中から顔を出す。
窪んだ目の馬からは生気の欠片も無い。それどころか、その体の一部は腐乱している。そして骨や内臓すら見える。醜悪な怪物もまた同じように、まるで生気のこもっていない瞳を持ち、そして矢をつがえているのが見えた。
「シオンさん!」
「分かっているよ!」
アレウスがアベリアとヴェインの頭を手で掴み、強引に伏せさせる。シオンが手綱を握ったまま体を横へと逸らす。矢が馬車の中を、そしてシオンの真横を通り抜けて行った。
「屍霊術士が一枚噛んでる。ギガースは魂を澱ませて、怨霊に変えてから元とは違う死体に詰めることで生まれる人工的な魔物なの。魂になにを吹き込んだか、死体になにを吹き込んだかで復讐する対象を永遠に追い掛け続ける。魂が果てるまで!」
「魔物でもない、人でもないのは?!」
「魔物の体に人種の魂を詰めたんだよ。魔物に魂は存在しないから、必然的に死体が使われる。その時、体は魂の方へと寄って行くから中型の魔物でも人種の平均より大柄って程度まで縮む。逆に大きくなってしまう場合もあるけど、あれは最初に言った方。あのお馬ちゃんたちも、死んだはずの魂を澱ませて、詰め直しているから死んでいるのに無理やり走らされているの」
シオンが全速力で走らせる馬に比べ、チャリオットの馬には疲れというものが感じられない。馬力も馬脚もまるで異なるその速さに徐々に追い付かれて行く。
「お馬ちゃんがもう限界だって言っているから、止めるしかない。止めたら戦うことになる。準備して、そしてタイミング良く飛び出して!」
指示通りにアレウスたちは馬車から飛び降りる瞬間を今か今かと待ち構える。シオンが手綱を強く引っ張り、馬が速度を落として行く。
「“軽やか、四つ分”!」
それでもシオンの言うようにタイミング良く飛び出すことなど出来ず、どちらかと言えば投げ出された。それを中空でアベリアが唱えた魔法により、着地による体への負荷を軽減してもらい、ほぼ無傷で平原を転がった。しかし、シオンは馬と馬車諸共、横転して倒れたまま動かなくなる。
「みんな、っ!」
大丈夫か、と問う前に間近までチャリオットが迫っていた。アレウスは負荷軽減が掛かっている間に右へと大きく走りながら、そして跳躍して轢殺を免れる。チャリオットは弧を描くようにして方向転換をして、またアレウスへ向かって来る。しかしここで魔法が解ける。自身に掛かる本来の負荷に足を取られ、走り出そうとした間際にはもはや逃れることの出来ない死が徐々に迫りつつあった。
「“沼に、沈め”!!」
地面が泥沼と化し、チャリオットを引いている死んだ馬の脚が沈む。そのまま前方に崩れ落ちたためにチャリオットからギガースが勢いよく投げ出され、地面へとそのまま激突する。アレウスはしばし観察していたが、土煙を腕で払い、ギガースは何喰わぬ顔で起き上がっていた。そして咆哮を上げながら体格に見合っていない鉄の剣を抜き、自身へと走り寄って来る。
「アベリアでもヴェインでもシオンさんでもない。僕を狙っている……のか」
アレウスも剣を抜いて応戦の構えを見せる。キャラバンで休息を取った際に刃は簡易的にではあるが研ぎ直している。それでも切れ味は当初より落ちているのは気掛かりだが、ギガースの持つ剣に対して短剣で挑むのは無謀にしか思えなかった。
ギガースの剣が空間を滑る。アレウスは下がって避けるが、振り切ったところでギガースは距離を詰め直し、再度、剣戟を繰り出して来る。ゴブリンやコボルト、オークやオーガはただ持っている得物を振り回しているだけで、距離など考えはしていなかった。しかし、剣術が怪物にはある。初歩的な動きに限らず、応用も欠かさない。それを人並み外れた膂力で振るわれるのだから、こんなものは剣でまともには受け切れない。
だから受け流す。剣戟を受けつつも、そこから来る力を剣身を斜めにして流す。直角に受けるように逆らえば、ギガースの膂力がそのまま剣に伝わってしまう。それだけでなくアレウスの両腕の骨さえ折れかねない。だから常にギガースの剣戟を真正面から受けないように努める。だが、これは軌跡を追わなければならない。腕の振り方、剣の流れ、そのどちらにも注視して、一切の思考がアレウスには与えられない。
押され、押され、押され続ける。どうなっているんだと思うほどの剣の冴えに、全く太刀打ちが出来ない。そもそも反撃が出来ない。ギガースの剣戟は終わりがなく、そして疲れが見られない。どれだけ凌いでも、どれだけ受け流しても、剣戟が止まらないのだから攻勢に出る余地が無いのだ。アレウスの疲労は蓄積されて行き、生と死を分ける集中力が削がれて行く。
「“風よ”!」
怪物とアレウスの間に一陣の風が巻き起こり、それは強風となってアレウスを大きく吹き飛ばす。ギガースは強風の中、吹き飛ばされることもなく佇んでいる。
「大丈夫かい?」
吹き飛ばされた先で転がりながら、ヴェインの声を耳にする。そして伸ばされた手を掴み、立ち上がる。しかし、同時に大きくフラつき、荒い呼吸を取る。受け流すだけで相当の疲労感である。それどころか息をする間すら与えてはくれていなかったのではと思うほどに脳も体も酸素を求めてやまなかった。感じてはいなかったが、体中から汗が噴き出していることにも気付く。
「助けることが出来た……とも言えないか」
ヴェインが見ている方向をアレウスも見る。ギガースは素振りを行い、自らの剣戟の質を高めている。
「僕が狙われている。傍に居ると巻き込まれるぞ」
「だから離れろって? それは無理な相談だ。だって俺は君の仲間なんだ。異界に堕ちた俺に寄り添うために危険を冒してまでやって来てくれた君の傍を、離れるわけがないだろう?」
「いつだって一緒。いつまでも一緒……! そうでしょ?」
アベリアもまた、アレウスの傍へと寄って来る。
「どうすれば勝てる?」
「ロジックは開けない」
「もう既に死んでいて、魂を入れられた器の生き様は失われている」
「魔法は?」
「痛みを感じていないのなら効果は無い。だが」
「足場を奪うことくらいなら出来るかも?」
「そうだ。だけど、脚力が僕たちの想定を越えるなら、泥沼さえ抜け出て来る」
「シオンさんの呪言は?」
「死んでいる以上、呪いは掛けられない」
「ヴェインの魔法は?」
「重みを感じていないのなら、動きは鈍っても歩けてしまいそうだな。あれは復讐を果たすまでは、止まらない」
「うん……」
ヴェインの介入を寄せ付けない会話をアベリアと交わし、アレウスは感じていた焦りや妙な不安感を分担してもらう。
二人はいつだってそうだった。これからだって変わらない。これからも、楽しみも喜びも分かち合うのなら、悲しみも不安も恐怖も分かち合う。
「体が大きければその重量を逆に利用して泥沼にも、ヴェインの酸素供給の魔法を枷にすることも出来る。でもあのギガースはヒューマンの平均以上の体躯と呼べる程度。なのにそこに秘められている筋肉の全ては、僕たちを圧倒的に凌駕している」
オークを仕留める際に用いたアベリアとヴェインの魔法での強力な足止めも、通用するか分からない。試さなければ分からないのだが、試した際にもしも通用しなかったなら囮となったアレウスに再度、あの凄まじいまでの剣戟の嵐が襲い掛かる。もう一度、あの止まらない剣戟を凌ぎ切る自信はアレウスにはない。
そして逃走すればどうこうなる相手でも無い。何故なら、復讐を遂げるまでは魂が抜けないからだ。でなければあの怪物がシオンすら畏怖するほどの存在として呼ばれはしないだろう。
ギガースが剣を強く握り、上腕の筋肉が張り上げられ、想像を絶する速度で走り出す。アレウスは二人より前に出て、疾走によって勢いが乗せられた刺突を剣で受けて、流す。しかし怪物は止まらない。それどころか未だ走り抜けようとしているのか、蹴撃が迫る。
「“火の球、踊れ”!」
一つの大きな火球がギガースの頭部を焦がす。燃える顔面など気にせず、疾走は止まらない。剣を引き戻す暇が無い。アレウスは怪物の足に蹴り飛ばされて宙を舞う。
蹴り飛ばされると分かっても体は動かなかった、動けなかった。そして蹴撃を受けた今、体から来る激痛などまず訪れない。まず全身を巡ったのは、違和感である。蹴り飛ばされ、宙を舞っている。その事実を脳が認識しない。何故、宙を舞っているのか。まずその部分に激しい疑問を抱き、あらゆる思考が巡り、その果てに至ってようやく理解が追い付く。追い付いたその時、脳が押さえ込んでいた防波堤が決壊し、全身から送られて来る痛みの信号が駆け巡る。
地面に叩き付けられ、倒れたアレウスは苦悶を通り越し、激烈な痛みから顔面の筋肉が引き攣り、なにもかもが崩壊した体でその場をのたうち回る。
「“癒しよ”!」
全身の砕けた骨が繋がり、筋肉が結び直される。臓器も縫合が開始されたのかも知れないが、受けている痛みが取れることはなく、咳き込みながら吐血する。そこでようやく呼吸が出来た。それまでは呼吸を忘れていた。どうして窒息死しそうなほどに息苦しいのだろうかと思ってはいても、脳は呼吸することを訴えず、ただただ痛みの信号にありとあらゆる神経が焼き切れそうになっていた。




