影に潜む
「魔王に取り込まれたのに自我を保っていられるのか」
「あなたたちが十一の自我を黙らせてくれたからね。魔王そのものの意思はほとんど無いも同然だよ」
取り込まれたはずのヴァルゴだったが、次第に魔王であった存在は先ほどまでの彼女と変わらない姿へと変貌していく。
「気を付けろ、頭骨はまだ吸収されていないはずなのに十一という数字を使っている。僕たちを惑わせるつもりだ。多分だけどこのままこいつはシンギングリンに向かう」
「あれはもう空っぽだよ? 私はカプリコンが討たれて頭骨が保管されるまでの間に食べたもん」
想定外のことを言われる。一つでも欠けていれば魔王にはなり切ることができない。だからシンギングリンに頭骨があればヴァルゴはそれを欲しようとするに違いなかった。魔王として不完全であること、そして完全になる欲望。それらは隙となってアレウスたちに有利に働くはずだったのだ。
「私があんな街にずっとずっと執着するわけないじゃん。私が執着するのはこの世界と、神様だけ!」
純黒の軽鎧にクリノリンで形を崩れぬようにしつつ板金を張り付けたようなスカート。この姿は赤騎士――アレウスが屈服させた赤い淑女と非常に似通っている。違うのは色と気配。或いは放たれる異常震域。魔王のオーラとでも言うべきだろうか。この場に立ち、見ているだけで眩暈がするほどに重苦しい。鎧の隙間に見える衣服の生地には人間の悲鳴、残響、苦痛、それらを模したような意匠が見え隠れしており、どうにも気色が悪い。なによりも触れてしまえば体が弾け飛んでしまうのではないかと思うほどに猛々しくも穢れ切った魔力に満ち溢れている。
「あなたたちを空間に閉じ込めたいところだけど、狭い空間はアレウリスの独壇場になってしまうからやめておくね」
魔王はアレウリスに対して不敵な笑みを浮かべながら言う。この一言だけで空間を操る術を持っていることは確定した。ならばヴァルゴが用いていた魔力の糸も当然ながら扱えるだろう。
ヴァルゴに対しての共通点は幾つか通用するはずだ。こちらを観測するための魔物、視界を遮る霧、そして人間の悲鳴を奏でる鎧の音。心を乱されれば一瞬で取って喰われる。
だったらその一瞬に全てを懸ければいいとも考えられるが、どう転ぶかも分からない最初の一手に全てを懸けることはできない。
「先陣は僕が切る」
「アベリア、集中して」
「もし追い付かなかったらリゾラが支えて」
後方でアベリアとリゾラがいつでも魔法を詠唱できる構えを取り、アレウスは竜の短剣を構えて火炎を噴出させながら魔王へと切り掛かる。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ぁ、はっはっはっはっは」
見下すように嗤いながら魔王はアレウスの炎の剣戟を避ける。挫けずに連続で剣戟を繰り返し続け、詰めた間合いを広げられないように努めるがどうしても剣戟が当たらない。避け方は一見して雑で、どう見ても避けられるはずがないのだがその雑な避け方で剣戟から逃れている。力の差か、それとも見極めの差なのか。理不尽さをこの十数秒のやり取りの中で押し付けられる。
「“軽やか”」
アベリアの『重量軽減』の魔法を受けてアレウスの動きは加速し、剣戟の一つが魔王の鎧を掠める。急激な動きの加速に魔王は不快そうにしながら即座にその速度に対応し、再び剣戟は当たらなくなる。
「勝てると思っているの?」
「思っていなきゃ! ここには立っていない!」
火炎を振り回すように短剣に乗せる。剣戟は当たらずとも放たれる炎は魔王を捉える。
「力を合わせれば、力を束ねれば、魔王すら討つことができる。それぐらい絆の力は、人と人との繋がりは強く固く、そして深い。そう言いたいの?」
答えずにアレウスは短剣を振るのをやめない。
「馬鹿でしょ」
魔王の手がアレウスの腕に触れる。
「絆とかそんな言葉で自分自身が強くなれるわけがない。それでもし強くなれるんならそれは絆なんかじゃなくて、本気を出していなかっただけ」
魔王を押し退けようと炎を放つが、身を炎に包まれても魔王はアレウスの腕から手を離さない。
「絆を感じるということは、そこに互助が成り立つ可能性を得るから。相互において得することがあるから。報酬があるのとないのとじゃ人間の労働意欲は変わる。絆があれば報酬が大きくなる。絆が無ければ報酬は薄い」
「……お前はさっきからなにを言っているんだ?」
「それに、あなたたちの言うところの絆って要は数の暴力のことでしょ? 主義主張が異なるときに使われる多数決はその典型。一人でも人数が多ければ勝つ。数の優位性を崩さないように団結して少数を叩く。人が古の時代から数を暴力として使っていた証拠。それを暴力と呼ばず民主的と呼ぶのはホント頭がおかしいわ。数が多ければいいの? 数字が高ければいいの? 多ければ少ない方を叩いていいの? 傷付けていいの? 笑っていいの? 苦しめていいの? 理解してよ。多数決は公平でも平和でもなんでもない。絆もまた正義でもなんでもない。団結することで排除する。そういうのを圧制、排斥主義って言うの。産まれ直してもまだそんなことにも気付いていないんだ?」
物事を大きく広げることで本質を曖昧にして討論を避ける。自分の持ち合わせている知識で叩いて、肝心の焦点となっている部分をはぐらかす。魔王となった少女の言葉はどれもが子供同士が行う強い言葉の押し付けでしかない。
「絆が暴力だと言うのなら、魔王に群がる魔物たちもまた数の暴力のはずだと俺は思うけど?」
ヴェインが真横から祓魔の力を玉として放ち、アレウスの腕を掴んでいた手を打つ。その衝撃でアレウスは解放されてやや後退する。
「あと俺は報酬云々を飛び越えて神を信仰していると思っている」
「与えられたならば授かり、授かったならば与えるべき。あなたたち信徒は無償の奉仕をそうやって良いように言っているけど、そんなのは本音じゃない。綺麗な言葉の裏には汚い言葉があって、綺麗事ばかりで信仰は成り立たない」
「どういう意味だい?」
鉄棍で魔王に喰って掛かる。
「信仰するためにはお金がいる」
「いいや、信じ仰ぐ者にお金は必要ない」
「でも生きるためには食事を摂らなきゃならない」
「清貧であれとよく教えられるよ」
「だからって飲まず食わずでは生きられない。衣食住のためには金銭が必要不可欠。奉仕によって与えられる寄付金がまさか湯水のように湧き出る代物だと思っているの? 分かる? あなたたちは無償で神の御言葉を説いているわけじゃない。教会は信仰を売っているの。目に見えないものを売り付けているのよ」
理解してよ、と言いながら魔王はヴェインを裏拳で打ち飛ばす。
「あなたの信仰のために、誰かが心血注いで働いて得たお金が使われている。神官、僧侶、そのどちらも感謝すべきは神じゃない。あなたに信仰の自由を与え、あなたに冒険者としての道を許し、あなたを今も思いやっている家族。あなたの生活基盤を安定させるためにお金を工面してくれた両親以外にはない。決して神があなたの信仰に応えてくれたわけじゃない」
「でも俺たちはお金を渡されなければ信仰を説かないわけじゃない」
「多くはそうでしょうけど、世の中の全ての教会がそうだと言える? 帝国で1ビトンも払わない貧民に神の御言葉を与えるあなたみたいな僧侶もいれば、お金を出さなければ教会に入ることさえ許さない神官や僧侶だっている。『異端審問会』に所属する神官だけが悪道に堕ちているとは限らない」
屁理屈をこねている。理屈っぽくは聞こえる。世の中の裏を突いたようにも感じ取れる。だがそれらは事実として機能しても人の心に宿るには至らない。
なぜなら、芯を突いているように思えることは大抵、人を騙すための言葉に使われるからだ。
「あなたは何一つとして生きることについて分かってない」
リゾラが断言しつつヴェインをガルムに乗せて後退させつつ、複数のハウンドを魔王にけしかける。このタイミングでクラリエとガラハも後退したアレウスに代わって前に出て、魔王を四方八方から攻め立てる。
「そうやって大人を言い負かしたからってあなたが偉くなるわけじゃない。強い言葉を用いたらあなたが強いことにはならない。強い言葉で屈するのはより弱い人間だけ。でもあなたはその自分よりも弱い人間が屈した面だけを捉えて、自分は強いんだと勘違いする。口先だけで現実を見ていないお子ちゃま」
「お子ちゃまとか、今時誰もそんな言葉使わないよ?」
一言でリゾラの言葉を切り捨て、魔王はハウンドを両腕で跳ね除けたのち魔力の糸を彼女の周囲に展開させる。
「馬鹿にしたんなら馬鹿にされる覚悟ぐらい持ったら? 顔を真っ赤にして暴力で語り掛けているお子ちゃまさん?」
その言葉に反応したように展開された魔力の糸が一斉にリゾラへと押し寄せ、彼女の体を肉片へと切り分けた――と思ったそれは幻影であり、本物のリゾラは魔王の背後を取っている。
「『空蝉』か。使ったのは、」
「あたし」
リゾラがどのようにして窮地を脱したのかを理解した瞬間、正面で戦っていたクラリエが幻影として掻き消えて魔王の頭上を急襲する。
「『首刈り』」
呟きながら魔王はクラリエを捉えるも、それより早く彼女の短刀が魔王の首を掻き切った。
「倒した?」
地面に転がりながら着地しながら彼女は魔王に向き直る。
「いや」
アレウスは目の前で起こった状況を飲み込めない。
「嘘……首を切った感触はあったはずなのに!」
首をクラリエが掻き切った瞬間、魔王の姿が消えた。アレウスの目から見ても――いや、この場にいた全員はクラリエが魔王の首を掻き切ったその刹那を見届けたはずだ。
なのに魔王はどこにもいない。
「なんだ……どこだ? どこにいる? 魔力の流れを追ってくれ」
ガラハはスティンガーを放って周囲を警戒させる。
「空間を操ることもできるはずだ。アレウスを意識していたって言っていたけど、それ自体が嘘なのかもしれない」
ヴェインがガルムの背から降り、自身に回復魔法を掛けてから戦線に復帰する。
「追えないか?」
アレウスの問いにアベリアは首を横に振る。
「なにか変。さっきまで魔王が立っていた場所から一瞬で魔力も、気配もなにもかも消えた」
『フフフ、フフフフフ』
魔王の声だけが木霊する。
「互いの位置を把握してくれ。どこからの奇襲でも応じれるよう、に……!」
先ほどまでアレウスの目には魔物たちを連れて身構えているリゾラが見えていたが、数秒だけ目を離した。その数秒後に再び見たリゾラは背中から血を流して倒れている。
「アベリア!」
「“大いなる癒やし”」
アレウスはアベリアを守りつつリゾラの傍に共に駆け寄り、彼女の回復魔法中も警戒を解かない。気配を探る。だがどこにも魔王の気配はない。いや痕跡はある。痕跡はあるが、魔王の首をクラリエが書き切った直後からの痕跡はない。
いるはずだが、いない。
「どうなっている?」
ガラハも惑いつつアレウスたちのところまで後ろ歩きで下がる。
「……ちょっと待って、ヴェインは? ヴェインはどこ?」
クラリエがハッとして辺りを見やる。
ヴェインもまた背中から血を流してうつ伏せに倒れている。
「なんで!? 気配なんてどこにもなかった! あたし、さっきまでヴェインのすぐ傍にいたのに!」
言いながら彼女はヴェインに駆け寄ってまだ息のある彼にポーションを飲ませる。
「リゾラの回復が落ち着いたらヴェインも頼む」
「うん」
「一体なにが起こっているんだ……?」
「スティンガーを戻らせた方がいい」
「そうだな。戻ってこい」
妖精はガラハの一声で彼の懐まで舞い戻る。その間、ずっとアレウスはスティンガーの動きをジッと見つめ続けていたが魔王の気配も、妖精が傷付けられるその瞬間は訪れなかった。
「見張っていれば襲い掛かってこないのか……?」
だが、それではヴェインの周辺で気配を探っていたクラリエの視線から逃れられるとは思えない。
『アハハハハハッ!』
魔王の声だけはハッキリと聞こえる。
『恐怖の時代。魔王がいるだけで、魔物が押し寄せるだけで恐怖の時代だなんて呼ばれない。だったらどうしてそう呼ばれるようになったのか。その様をあなたたちは今まさに目の当たりにしている。これはとってもありがたいことなんだよね。だって、私があなたたちに恐怖を与えてあげようって気になるくらいには本気ってことなんだから』
「ヒントでも出しているつもりか?」
言葉でけしかけてみるが、反応はない。あくまで自論だけを押し付けてくるつもりらしい。
「クラリエたちの方が心配だ。ガラハ、アベリアを――」
真横でガラハが背中から血を流して倒れる。
「ガラハ!?」
やはり魔王の気配はどこにもなかった。どこにもなかったが、ガラハが倒れている。
「“大いなる癒やし”」
アベリアはリゾラへの回復を一旦終えて、今度はガラハへ回復魔法を唱える。
ゾワゾワと、言いようのない妙な感覚に囚われる。これが恐怖だと言うのならまさにアレウスは魔王の言葉通りに恐怖を目の当たりにしていることになる。だがこんなもので人は傷付けられない。人は血を流し、倒れない。
なにか理由がある。深手を負う理由があるのだ。
「アレ、ウス……」
リゾラが声を発する。
「動けるか?」
「アベリアのおかげで、血も止まったし大丈夫」
顔色が悪い。血を流しすぎたせいだ。アレウスは彼女にブラッドポーションを飲ませて、血液の増幅を待つ。
「なにをされた? どこから攻撃を受けた?」
「……そう、そうだ……そうだった」
自身が襲撃を受けたことと血の巡りの悪さから頭の回転が鈍っていたのであろうリゾラはアレウスの問いで自身の身に起きたことを思い出す。
「アレウス!」
リゾラから聞き出す前にアベリアの悲痛な叫びが聞こえる。先ほどまでヴェインを介抱していたクラリエが血を流して倒れている。
「クソッ!」
立ち上がり、クラリエの元へと向かおうとするアレウスの手をリゾラが掴む。
「行っちゃ駄目!」
「このままだと死んでしまう!」
「だけど行っちゃ駄目なの!」
彼女の言っていることを全て把握できない。しかしアレウスは仲間を見殺しには出来ずに彼女の手を払って、ヴェインとクラリエの元へと走る。
「気を付けてアレウス!」
自身の言葉に従わないことは百も承知とばかりにショックの一つも受けていないリゾラはせめてとばかりに大きな声で警告する。
「魔王はここにはいない!!」
「それは一体どういう、」
「魔王は今! あなたのロジックの中にいる!!」
ゾゾゾゾゾゾッとアレウスの全身を痺れにも似た怖気が駆け抜ける。そのあまりにも強い痺れにアレウスの足は止まる。
ヒタリ、ヒタリと――
辺りが暗闇に包まれて――
振り返ると――
紅に染まる瞳が赤く爛々と輝いて――
その手に握るは淑女の短剣の如き、鍔に比べて極端に細い剣身の短剣が暗闇の中で一際強くまたたいて――
背中を貫かれた瞬間、辺りを包み込んでいた暗闇は晴れて――
アレウスは前方に倒れる。急に体中の筋肉に力が送れなくなった。溜め込んでいた炎も爆ぜて、再び纏めることができない。
背中から熱湯でも浴びせかけられたかのような激痛。困惑によって脳が思考を制御できずに考えが纏まらない。
ただ、背中に感じる熱は決して湯をかけられたわけではなく、出血によるものだということだけは分かった。
「アハハハハハハハハハハッ! アハッ♪ ウ、フフッ、アッハハハハハハハ♪」
狂った笑い声が木霊する。




