幻想譚のように
異界から世界へと飛び出してすぐにアレウスは体勢を立て直し、周囲への警戒を行う。信じられないほどに汗を掻いている。これまで何匹かの異界獣と戦ってきた。ヴァルゴもその内の一匹であったが、今回ばかりは冷静ではいられない。そもそもこれまでヴァルゴは霧が正体だと思っていた。鎧の乙女は尖兵で、観測を行う尖兵を使役する非常に器用で小賢しい異界獣だと考えてもいた。
「元は別の世界で人間だったけど、この世界に転生したときに異界獣の力を手に入れた」
転生した者たちにだけ与えられる特別な力。そんなものが本当にあるのかとアレウスは考え、すぐさま現実として存在していたのだと答えを出す。
アレックスはこの世界で唯一の『勇者』の称号を持つほどの力を持ち、シロノアはこの世界で唯一、ロジックに文字を焼き付けることができる。そしてあの女は世界で唯一、ヴァルゴと呼ばれる異界獣の力を持った。最悪なのは化け物が異界獣の力を持った点だ。さすがにあの女とシロノアを同列には語れない。どちらがよりアレウスにとっての復讐すべき相手かと問われればシロノアと即答するが、どちらがより悪かと問われればあの女と断言できる。
人が持ち合わせている憎悪を、悪意をあの女は巧みに利用して自らの糧へと変えた。『異端審問会』は異界獣によって組織され、利用されていた。
それら全ては個人的な神への反逆のため。あの女は神を殺すためならこの世界を壊せる。神を殺す条件に世界を壊すことが必要なら平気でやる。
「顔色が悪いぞ。一体どうした?」
異界から脱出したアレウスたちに水で作り出されたカプリースが声を掛けてくる。
「ドラゴニア・ワナギルカンは討てたのか?」
「俺とクルスで討った。討ったが、同時にとんでもないことになっちまった」
「とんでもないことだって? 今だってもうとんでもないことになっているけれど」
「カプリース、決戦の場にいる全員に王都周辺から大きく退避するように伝えてほしい」
「いつものアレウスらしくもない」
「ドラゴニア・ワナギルカンやシロノアを倒したあとに全ての元凶が現れるのは想定内。そいつが魔王を再誕させようとするのも想定内。青騎士が出てくるのも想定内。だけど、その存在が人と呼べるほどの人間性が欠落していたことだけが想定外だ。ついでに自分自身が魔王になるとまで言い出したことさえ想定外だ」
「予定変更か?」
「いいや、変わらない。変わらないが、本当にただの異界獣を相手にする方がよっぽどマシだと思うレベルの化け物と戦うことになる。その覚悟はしておいてほしい」
「分かった。各国、あと種族の代表者は大きく下がらせる」
カプリースを形成していた水が弾けて消えた。
「お前も下がれ、クルス」
エルヴァはクルスに離脱を要求する。
「嫌よ。私はエルヴァが行くなら絶対に離れない」
「アンジェラからもなにか言ってやってくれ」
「私はクルスのやりたいことを尊重するだけ、見守るだけ…………にしたいけど、今回ばかりは我慢ならない」
言うことを聞かないクルスにアンジェラがどのような言葉を向けるのかとエルヴァは期待する。
「私はあの神様を殺すとか言っている化け物を絶対に倒す。神への反逆がどれほどに怖ろしいことかその身で味わわせてやる。クルスも手伝って」
しかし期待とは裏腹の言葉が出てきたため、エルヴァは大きな溜め息をつく。
「違うだろ」
「違わないわ。このまま王国は異界から解放されても、あの女がこの世界に戻ってきたら大変なことになる。民草を守るために私たちは戦うしかないのよ。私が王となることを証明するためにも」
分かりやすいくらいにエルヴァが苛立っているのがアレウスには分かるが、その苛立ちを深呼吸で抑え込み「分かった」と呟いて納得する。
崩れていく異界の王都からあまりにも巨大な腕が飛び出す。崩壊する異界に蓄えられていた魔力――王都を水中へと誘っていた魔力を糧として山すら悠々と越える巨人が形作られていく。
「アレウス!」
「今まで見てきた異界獣よりずっとずっと大きいんでしてよ!」
ノックス、クルタニカがアレウスたちに合流する。
「セレナは?」
「ここにいる」
ノックスは自身の隣にいる狼を抱え上げて示す。
「ルナウルフの呪いを浴びた。人の姿にも戻れるらしいが、そこは全部が終わって体。そんなもんは大したことじゃねぇ。あれはお前が言っていた異界獣か?」
セレナが新たに抱えた問題。それを彼女は『そんなもん』と一蹴した。事態を鑑みて私情を抑えている。
「絶対に元に戻す。だからもうしばらく辛抱してくれ」
アレウスはノックスが求めているかはともかくとしてセレナが浴びた呪いについては解決策を模索することを口約束ながら誓う。すると険しかった彼女の表情は少しだけ綻んだ。
「暢気に話し込んでいる場合じゃない」
カーネリアンが翼を広げる。
「私は一度、ガルダたちを空へと退避させる。あれへの対応についてはまたあとで話そう」
そんな時間が与えられているだろうか。アレウスはそう伝えようとも思ったが、ガルダは理由付けをもって地上へと干渉している。異界獣と戦うかどうかはまた話し合いで決めるはずだ。
「君の力を借りたい。だからなんとか言い包めてほしい」
「任せておけ。あれは地上のみならず空すら征服しそうだ。すぐにガルダの間で答えは出るだろう」
空へとカーネリアンはエキナシアを連れて飛翔する。
両腕を成し、胴体が、そして足が作られ始める。
「あたしたちがここにいるのもマズくない?」
「お前たちは先に逃げろ。オレは斧を回収してくる」
「なに言ってんの? そんなの探す暇なんてないよ!」
クラリエがガルダを引き止める。
「だがあれはオレの武器であり大切な物だ」
「でも、」
「大切なら易々と奪われないでよ」
頭上から三日月斧が落ちてきて、ガラハがそれを両腕で受け止める。
「ヴェインが言ってくれなかったら拾えなかったんだから」
見上げれば火竜がヴィヴィアンの姿となって降り立つ。
「助かる!」
「だーかーらー少しは反省して」
冷たくガラハに応じてから彼女はアレウスを見る。
「大体の状況は察しているつもりだよ。戦って勝って、でも戦えなくなったみんなは王都から離れてあなたを待ってる。早く行ってあげて。私は取り残された人たちを拾い上げていくから」
「待て、オレも行く」
「あなたは、」
「お前の背に力任せに人を放り投げて乗せられるのはオレぐらいだ」
「……はぁ、お節介だけどありがと。ガラハを借りていい?」
「勿論」
二人が決めたことに介入する理由は見当たらない。ガラハは再び火竜となったヴィヴィアンの背に乗って飛び立った。
「急ぎましょう」
クルスが言って、鎗の穂先で行く先を示す。
「ここから直進すれば新王国が布陣している拠点に着くはずです」
全員が彼女の言葉を信じて撤退する。背後では両足が生み出され、巨人として誕生した異界獣の気配が強く強く感じられる。空間が震撼し、異常震域が辺りを駆け抜ける。共振できなければ異界獣に傷を付けることさえままならないその能力はあまりにも強く、力場のようにアレウスたちの足を重くさせる。
だが、響く鈴の音がアレウスたちの止まりかけた足を再び動かす力へと変える。
「今のが最後だ」
ノックスが呟いた。
「今ので、ルナウルフと戦って死んだユズリハが残した『御霊送り』が終わった」
犠牲は出るものだ。ユズリハは友と呼んでいた『至高』の冒険者と戦ってくれた。そもそもこの地に訪れる前から友と相討ちになる覚悟でもあったのだろう。しかし、自分自身の事情だけで全てを終わらせることなく自身に与えられた『至高』のランクに相応しく、他の者たちを奮い立たせる『御霊送り』をしてくれたことを感謝しなければならないだろう。
「見てあれ!」
アベリアが振り返って大きな声を上げたのでアレウスも振り返る。
巨人が片腕をとても重たそうに、その僅かな動作は近場で見れば非常に速い速度であるに違いないのだが、遠目からではとてもゆっくりな動きに見える。とにかく動かした片腕は陸地ではなく反対側――海の方角へと向いている。
「なにをする気だ……?」
集中して見ているわけにもいかないので足を動かしつつ、偶に後ろを確認する程度で状況を読み取ろうとするが、分からない。
人差し指を向け、そしてその指先に魔力が収束しているのが見える。
「あっちにはファスティトカロンがおる」
「リリス!?」
「ワラワと行動しておった冒険者はもうユークレースに任せ先に逃がしたが、こちらに逃げる姿が見えたのでな」
「それよりファスティトカロンって」
クラリエがリリスに言葉の意味を求める。
「アクエリアスの残骸があるじゃろ?」
瞬間、巨人の指先から魔力の光線が海へと放たれ、一点を奔る。
「カプリース! 見えているなら応じてくれ、カプリース!」
「そんな大きな声を出さなくても君たちのことはちゃんと見えている」
水の分身が再び現れる。
「ファスティトカロンはどうなった!?」
「ひとまずは無事だ。あんなものを見せられたら僕もクニア様も黙っていられないところだったが、ファスティトカロンとその背にある海底街に被害はない」
「なら、リリスの言っていたように?」
「そうだ。『水瓶』だけが光に吸収されるようにして消えた。あれそのものはもう祀り上げてもいないし、クニア様や僕との繋がりも断たれているが、それでも異界獣にとっては特別な代物なのは分かっているだろう? だからこそ、奪われたくはなかったけれど奪われた。でも、あんな風に奪われるんじゃ防ぎようがない。そもそも防いだらどうなるのかさえ分からない。異界獣にそのまま取り込まれるかもしれない」
魔王の一部をヴァルゴが回収した。あとこの世界に残っているのはサジタリウスの弓矢、カプリコンの頭骨、リブラの天秤剣、そしてリオンの爪だ。その内の爪と剣はオーディストラによって王国側へと運ばれる算段になっている。
運ばせた理由はリスクの分散である。頭骨、剣、爪のどれもが帝国にあってはヴァルゴは真っ先に帝国へと向かってしまう。だからそれぞれをバラバラのところに運ぶことでヴァルゴの行く先を制限するつもりだった。
だが、あのような回収方法をされるのであれば剣も爪もオーディストラに運ばせるべきではなかったかもしれない。アレウスの作戦に小さな穴を空けられてしまった。この穴を塞ぐことは難しい。大きく広がる前に別の作戦に切り替えなければならない。
「魔物の背に乗る勇気はあるかしら?」
必死に走るアレウスたちに横付けするように複数匹のハウンドが走る。
「身構えなくていい。リゾラが使役している魔物だ」
反射的に攻撃を仕掛けそうになったノックスが慌てて骨の短剣を止め、狼のセレナも飛び掛かるのを中断する。
「言っておきますけどー乗り心地は最低ですよー」
ハウンドに跨るアンソニーとリゾラの姿が見えた。
「御免ね、アレウス。ルーエローズはちゃんと殺したんだけど魂の虜囚になって反抗されるとは思わなかった」
「それはどうしようもない。僕だってヴァルゴがシロノアを騙しているなんて思わなかったんだから」
「アレウス、この魔物たちの背中には本当に乗って大丈夫なんでして?」
「信用していい」
その返事を聞いてクルタニカがハウンドに飛び乗る。ハウンドは暴れ回ることなく彼女を乗せたまま疾走を続けており、それを見て仲間たちが他のハウンドの背に飛び乗っていく。
「ヴァルゴ……もう一人の私をフリをしていた子でしょ? だったら、もう他人事で済ますわけにもいかないわ」
アベリアの手を掴み、リゾラは自身が横乗りしているハウンドに乗せる。
「協力するわ」
「リゾラが?」
「ええ」
「嬉しい。やっと一緒に戦える」
和解は済んでいてもわだかまりはあり、どこかよそよそしさがあった二人が微笑み合う。この極限状況において、また一つの繋がりの進展を見たが感じ入っている暇もなくアレウスもハウンドに飛び乗った。
「それより、私たちに作戦を立て直す時間なんてあるの?」
「ある」
水の獣がハウンドに並走しながらリゾラの問いにそう返す。
「へぇ? 言ってみて」
「僕たちも『水瓶』をただ奪われたわけじゃない。君も恐らく知っていると思うけど、『清められし水圏』のろ過装置として僕はいて、あの『水瓶』はクニア様たち王族の血を糧にして霧の魔法を維持していた」
「だから? あまり回りくどいことを言われるのは好きじゃないの」
「アクエリアスが再誕したとはいえ、あの『水瓶』には未だ『超越者』――クニア様の魔力が満ちている。『水』のアーティファクトではなく、『超越者』の魔力だ。それも僕がクニア様に貸与する力には浄化の力が含められている」
するとどうなるか。アレウスは首を動かし、更には上半身を捻りつつハウンドの進行方向とは真逆にいる巨人の様子を探る。
動きが止まっている。『水瓶』を吸収したのであろう直後からヴァルゴは腕も、そしてその巨体も動かせてはいない。
「幾ら魔王として誕生しようとしていても、浄化の力は奴らにとっては真逆の代物だ。体に混じったものを穢れ直すのには時間が掛かる。あれはまだ魔王になろうとしているヴァルゴなんだから。もしかするとこのまま動けずに力尽きるかもしれない」
ヴァルゴは霧や鎧の乙女、観測の尖兵を使うがその実体は元人間の化け物だ。ならば間違いなく浄化の魔力を毛嫌いしている。
「力尽きることはない」
ただし、アレウスはカプリースの希望的観測を否定する。
「あいつは魂の虜囚と亜人を争わせ、更には亜人同士を争わせる蟲毒を異界で行っていた。冒険者の技能を丸ごと喰っている。浄化の力への対抗手段、それを穢れさせる外法も『異端審問会』の構成員から学び、熟知しているはずだ。図体が大きい分、処理に時間こそ掛かるだろうけど必ず動き出す」
「一日ってところかしら」
リゾラは巨人を見てからアレウスたちに告げる。
「一日経ったら多分だけど動くわ。というか、一日だけ猶予をくれると思う」
「なんでそう思うんでして?」
「あれはそういう性格の持ち主だから。私も捻くれているけどあれはそれ以上の捻くれ方をしている。余裕で動けるようにはなるんだろうけど、私たちに効いているという憶測を与えて希望を抱かせる気でいる。あとでそれを潰して絶望に染め上げるために」
逆に言えば、とリゾラは続ける。
「ヴァルゴを討てば、私たちに一日与えてしまったことを後悔させられる。そう考える方が色々と気分が楽ね」
「いやなんにも変わんないけど!」
クラリエがリゾラの価値観を理解できないとばかりに大声を張る。
「変わりはせんが、嗜虐心がそそられるのう」
しかしリリスはどちらかと言えば彼女の言葉を好意的に受け止めている。
「サジタリウスの弓矢じゃが、白騎士を討った際に一緒に消し飛んでおる。どうやって回収するかは不明じゃ」
「概念――ロジックさえ残っていればあいつは吸収するだろうな」
「ふっ、ちぃとばかし幸運じゃと思ったのが無駄になってしまったわ」
「でも概念を拾うにはやっぱり時間が掛かる。消し飛ばせているならそれはそれでありがたい」
アレウスがそう答えると「そうじゃろそうじゃろ」とリリスは自身の手柄の如く嬉しそうに肯いている。
「口調も合わせてどこか似ているのが癪に障る『不死人』だ」
「けったいなことを申すな。ワラワもハゥフルの女王も別の命を持っており、別の人生を歩んでおる。似ているからと押し付けるな、期待するな。人は皆、別人なのだから」
「そんなことを夢の中で様々な人のフリをする『不死人』に言われたくはないわ」
リゾラはリリスにアレウスと合わせて夢の中で仕掛けられたことを未だ根に持っているらしい。
「どちらにせよ、泣いても笑っても最終決戦だ。爪、剣、そして頭骨。この三つ全てを奪い取られる前に魔王になろうとしているヴァルゴを討つ」
ハウンドが新王国軍の拠点前で立ち止まり、アレウスたちが背から降りる。
「待っていたよ、アレウス」
ヴェインとアイシャ、ニィナが迎え入れてくれる。拠点にはリスティやオラセオとマルギットの姿まで見える。
「さぁ、しっかりと準備をしてパザルネモレで言っていたように俺たちで魔王を倒しに行こうか」
彼は絶望には染まらない。この状況であっても前向きな発言を続ける。
そのおかげでアレウスも腹を括ることができる。
「みんな、力を貸してくれ。『接続』の魔法も使って各国、種族の代表とも話がしたい」
アレウスはそう言って拳を強く握る。
「必ず僕たちであの化け物を討つ。なんにも怖がることなんてない。ありとあらゆる幻想譚では必ず化け物は倒される運命だ。僕たちは今、その最終章に立っているだけだ。物語の主役のように、自らの正義感を押し付けに行こう」




