世界の色
「俺が敷いた範囲の魔力が乱されるだと!?」
ルナウルフは天を照らすほどの強烈な発光が近くはなくとも決して遠くもない距離で起こったことに驚き、更には空を覆った闇夜が一部晴らされたことに怒りを見せる。
「どんなときにも予想外のことは起こるってことだ」
ノックスはこの隙を逃さんとばかりに迫り、短刀を振るう。右に左に体を逸らし、半身を引いて彼女を引き込みながらルナウルフは剣の平で腹部を打つ。
「姉上!」
「来ると思った」
姉を退かせるためにセレナがルナウルフの注意を惹こうと間際に迫るがそれを予測した男は剣を薙ぐように振るって、二人纏めて打ち飛ばす。
「上下に断たれなかっただけ良かったと思え」
赤く瞳が染まり、ルナウルフは狼のように遠吠えを上げて天を仰ぐ。未だ空に見える赤い月からの光を浴び、全身に赤い魔力を浸透させて肉体強化を行い、瞬間移動を続けては自身に急襲を仕掛けてくるユズリハに超絶的な反射神経で対応し、古刀を剣で防いでやはり力で押し込んでユズリハを蹴り飛ばす。
「友人に容赦無しか、ルナウルフ」
「友人だと? 俺を友人などと思っているはずがない」
「思っているとも」
「ではどうして俺を人間にもなれるようにした?! 誰が人間になりたいと願った!? 俺は狼のままで構わなかった。獣のままで構わなかった! 言葉など通じ合わせずとも心で通じ合わすことができていると思っていた! だが、貴様は俺の信頼を裏切った!」
「ヤツガレは、お前に話してほしかった」
「それは貴様の欲望だ」
再び瞬間的な移動を繰り返してルナウルフを攪乱しながらユズリハは接近するが、やはり反射神経だけでルナウルフは対応して今度は剣ではなく拳を打ち込む。ユズリハは腹部を押さえて、その場に崩れ落ちる。
「欲望だけで獣の俺を人間に変えた。人間になるだけならばまだマシだ。だが狼にも戻ることができてしまう。俺はなんだ!? 獣か?! それとも人間か!? そのどちらでもない俺は! どのようにして生きればいいと貴様は言うのだ?!」
獣か人間か。どちらかであれば自身をそのように意識し、捉えることができる。しかしどちらでもあってどちらでもないルナウルフはアイデンティティを喪失した。もはや男は獣でもなく人間でもない。それでいてどちらのコミュニティにも所属することができない。
「貴様のせいで俺は俺を喪った! 俺では無くなった! あのとき、貴様と共に生きていた俺は死んだのだ」
「そんなことを、言わないでほしい。友よ」
「友であるのなら、実験を終えたのちに俺を放置したその浅ましさは一体どこから来たのか答えろ。貴様は俺に実験を行って成功して満足し、興味を失ったのではないのか!?」
「ヤツガレはお前を人間にして、一人占めにしてはならないと思った。自由に生きてほしいと思った」
「だったら!」
ルナウルフの剣が赤い月の力を借りて光り輝く。
「実験をするべきではなかった! 貴様が思う、親友に!」
まったくその通りだとユズリハが思い、そう口にするよりも早くにルナウルフの剣は彼を古刀ごと切り伏せる。
「……ヤツガレは、友と呼べる者が一人もいなかった」
折れた古刀を落とし、ユズリハは裂かれた腹を魔力で回復しながら呟く。
「話し相手が、欲しかった。話してくれる友が、欲しかった。そう、お前の言うようにこれはヤツガレのただの欲望で、願望。決してお前に押し付けるべきものではなかった。そう……ただ、勇気がなかったのだ。話し相手を見つけるために話しかけるという、勇気が。だから、身近で最も傍にいてくれた狼が話せたならば……などと妄想し、罪を犯し、森を追われた」
ユズリハはルナウルフを見つめる。
「だが、私はお前を思わなかった日々は一度もない。それだけは真実だ。それだけは、本当だ」
「ルナウルフ!!」
ノックスが叫びながら男に飛び掛かる。短剣と剣を打ち合いながら鍔迫り合いに持って行き、『本性化』の表れとして彼女の体毛や獣耳、尻尾が強く逆立つ。
「人と異なるから人から離れたのなら! なぜ冒険者になった!?」
「そこにしか俺のよすがはなかった」
「だったら貴様も同じじゃねぇか! 一人で生きることよりも、人と共に目指すことを! 『至高』を目指すことを決めたんじゃねぇのかよ!?」
「冒険者はどんな経歴を持っていても能力さえあれば認められる。認められないとすれば世間に轟くほどの大罪を犯した者ぐらい。半端な存在の俺が一人で生きるために必要なことは、人間が形成している環境に適応すること。金、名誉、力! それらを一挙に手にすることのできる冒険者! それこそが『至高』に登り詰めた理由だ! そう、生きるためだけに『至高』となった! それ以外に理由など! 大望など! 魔王を討ちたいがためになったわけでは! 無い!!」
鍔迫り合いは文字通り、鍔と鍔での押し合いである。剣身に力を込め続ければ刃は割れ、次第に砕けていく。どちらもそれを避けたいからこそより相手の剣戟を鍔で受け止め、この駆け引きに持っていく。どちらが鍔で阻み、どちらが鍔で受け止められたか。この時点で優劣を付けることはできないが、気持ち的な優劣は起きる。だからこそ押し合いは片側の弾きで解消され、片側の反撃によって再び起きる。
だが、ノックスの短剣は骨で作り上げられている。刃も滑らかではなく荒々しくギザギザ。通常の鍔迫り合いは間合いにおいて圧倒的にルナウルフの剣が有利。しかし、まさに剣身と剣身での打ち合いによる駆け引きでは――
「剣が、っ!」
鋸の如き刃を持つノックスの方が相手の武器を摩耗させることができる。そして“曰く付き”のノックスの短剣はアレウスが握る短剣のように刃こぼれを起こさない。
「舐めるな!」
刃を削った彼女は一気に攻勢に移り、短剣と爪で猛攻に移るがルナウルフの咆哮は彼女の聴覚を麻痺させ、三半規管を揺らし、短剣の軌道が直前で逸れたところで剣が振られる。
セレナが手甲で剣戟を受け止め、ノックスと共に薙ぎ払われるがその最中に空間を叩いて『闇』を渡って離脱する。その少しあとにルナウルフの薙ぎ払いによって生じた強烈な飛刃が周囲を駆け巡る。
「逃れたか」
ルナウルフは真横に立っているユズリハを目を向けることなく折れた古刀を剣で受け止める。
「貴様よりもあの前キングス・ファングの娘は強い」
「次代の冒険者はどいつもこいつも規格外なようだ」
「即ち、隠遁していた貴様など俺が見るほどもないということだ」
赤い月の光を身に浴びて、二足歩行のまま狼の姿となって膨らみ切った筋肉を軽く動かすだけでユズリハを古刀ごと押し退ける。
「だが二人掛かりで『至高』にようやく辿り着く貴様らなど! 個別に殺していけば済むだけのこと!」
「ワタシは」
「ジブンは」
「「一人じゃないから戦えている」」
「一人じゃテメェには敵わねぇよ」
「でも一人じゃありませんから」
「「どこまでも上を目指す気になれる」」
ルナウルフは二人の眼光を受けて身震いする。
「そうか、その目か……」
勇猛果敢に強者へと挑みかかる者の目を二人がしている。それは狼にもなることができるルナウルフも持ち合わせている。獣同士でしか持つことのできない代物である。人間の瞳には邪念も宿るが、獣の瞳には一心が宿る。自らの地位を揺るがし、或いは命を奪い取りに来る強者に対しての絶対的反抗心。強者を屠り、より強者を目指す獣だけが宿すものだ。
「二人で来ると言うのであれば」
赤い月の光を狼男は浴び、赤黒いオーラを纏いながら剣を握り直す。
「全力で俺も貴様らを殺し切るだけだ」
オーラだけで弾け飛びそうなほどの力を秘めたルナウルフは小さく吠え、威嚇してくる。
「姉上」
「ああ」
『不退の月輪』の力を互いに解放し、『継承者』と『超越者』の役割を得る。いつもはその役割を回転させて混沌を生み出すが、ここで行えば大橋すら巻き込む。
大橋を維持しつつ、ルナウルフだけを討つための力。それを求めるにはセレナが『継承者』でありノックスが『超越者』でなければならない。
「ジブンのことは気にせずに」
「気にはする。お前はワタシの妹なんだから」
「……はい」
「『不退の月輪』よ。キングス・ファングの群れに訪れさせた呪いの顕現たるジブンたちに力を」
「どのような代償であってもワタシたちは受け入れる」
「だから、目の前に立つ者を討つ力を我らに!」
二人の間で巡るアーティファクトの力が安定し、貸し与えられた力をノックスは噴出させながら骨の短剣を握り直す。
「悪魔を降ろすほどの闇を抱えし月夜の力よ! 俺に力を!」
ルナウルフは剣をノックスに向けて投擲する。その剣をセレナの生じさせた『闇』が飲み込んでノックスへ直撃させない。
だが、もはや狼男に剣は不要。両手に備える強靭で鋭い爪を携え、果てには赤い月の光を浴びて発しているオーラを両手の爪に押し流しながら突っ込んでくる。
「獣剣技、」
「「獣剣技」」
ノックスが上段を、セレナが下段を務める。そのためセレナはノックスが懐に隠していたもう一つの骨短剣を引き抜く。
「“狼王刃”」
単独で放たれる気力の刃にルナウルフは乗る。それを前にしても二人は動じずに自らの構えから短剣を振り抜く。
「狼頭の牙・上段!」
「狼頭の牙・下段!」
「「合剣、“狼王刃”!!」」
二頭の気力で編み上げられた大きな狼が大橋で激突する。
「力の放出を続けます!」
セレナはアーティファクトの力を緩めず、むしろ自身へと受け入れていく形で全てを放つ。
「砕け散れ、獣人の姫ども!!」
赤月の狼がノックスとセレナの合剣を押し込んでいく。
「俺の怒りが! 悪魔をも照らす赤き月の力が!! 貴様ら二人など喰らい尽くす!」
凄まじいまでの邪気、そして怒気が衝撃波になって二人の体を染め上げていく。鈍く、重く、体の機能を少しずつ奪い取られていくような感覚に晒されながらも『本性化』を果たした二人の気力は、瞳は、変わらずルナウルフを捉え続ける。
「避けろ、ルナウルフ」
「俺に語り掛けるな! 欲望に沈んだエルフが!」
「避けないと君は」
「俺の力が! 『至高』が沈むことなど、無い!!」
合剣の狼が赤月の狼を喰い千切り、四散させながらルナウルフへと向かう。
「ば……馬鹿なっ!」
「ワタシが握っているのは兄貴の骨」
「ジブンが握り締めているのは父上の骨」
「「見誤ったな、ルナウルフ」」
「ワタシは妹だけでなく」
「ジブンは姉上だけでなく」
「「兄と父の誇り高き意志を剣として握っている」」
ノックスとセレナの力だけで越えたのではない。前キングス・ファング、そしてその長兄。それらから放たれる合剣がルナウルフの獣剣技を喰い破ったのだ。
「く、ぐ……ぉ、うぉおおおおおお!!」
正面から合剣を浴びて、ルナウルフの体を引き裂いていく。それを見かねてユズリハが折れた古刀を振って幾つもの障壁を男の前に展開する。
「なんのつもりだ?!」
「ヤツガレは欲望のままに、話してほしいからと君を人間に変えた。嫌われてしまった、間違ってしまった、前にも後ろにもヤツガレは進めなくなった。しかし、だが、君に死んでほしいなどと願ったことは一度もない」
ユズリハは負傷したままルナウルフの前に出る。
「命を弄んだのであれば、ヤツガレがこの命を支払って君を生かしてみせる」
障壁が砕け散る。
「危ねぇ! 逃げてくれ!」
「止められない……抑えられません!」
「ヤツガレは友のためにこの身を犠牲にする」
「認めぬ!」
ルナウルフがユズリハを掴み、投げ捨てる。
「この結末は俺が浴びねばならぬ結末! 誰の物にもさせはしない! それともまた奪うか!? 貴様自身の欲望、願望によって俺の結末を!! 奪わせはしない! 誰にも! 誰にもだ!!」
爪に、牙に、衝撃に、そして力場に体中を喰い破られながら叫ぶ。
「ただでは死なん! 貴様らが二人で一人だと言うのであれば! この俺が引き裂く!」
ルナウルフの片腕が振るわれ、爪の飛刃がノックスに迫る。
「なりません!」
セレナが庇いに入り、飛刃を浴びる。
「俺と同じ目に遭いながらも! それでもまだ絆だ願いだ姉妹の繋がりだなどと言えるならば! 俺は輪廻の元で貴様らに頭を下げて詫びてやろう。どうせそんなことは出来もしないだろうがな!」
狼男が絶叫と、合わせて極悪の笑い声を上げながら合剣に切り刻まれ切って、仁王立ちのまま果てる。
「セレナ!」
息を切らしながらノックスは代わりに飛刃を受けたセレナが崩れ落ちるところを抱き止める。
「姉上……ジブンは」
「大丈夫だ、大丈夫」
ゆっくりと人ではなく、妹が狼の姿に変わっていく様を見ながらもノックスは優しく囁く。
「どんな姿になろうとも、ワタシはお前を突き放したりはしない。お前がワタシを突き放すことがあろうとも、ワタシは絶対にお前を見捨てない、絶対に!」
「大げさなことを言わないでください。ただ獣と人を行き来するだけのこと。これまでとなんら変わりはありません。むしろ父上のようになった、そう思えばいいだけです。だから、ジブンは必ず姉上のお傍に、ずっと、ずっと」
姿が狼になってしまったセレナをノックスは抱き続けながら、涙を零す。
「まだ人になるコツを知らないだけだ。ルナウルフのようにいずれまた人の姿を取り戻す」
ボタボタとユズリハは血を流しながら二人の傍まで行く。
「いや、こんな言葉など慰めにもならないか。全てはヤツガレが生み出してしまった魔法の罪……」
「……そのままじゃ、死んじまうよ」
顔を上げたノックスがユズリハを心配する。
「これはヤツガレの怠慢だ。ヤツガレがずっと放置し続けた責任だ。命で償えるなどとは思ってはいないが、相応の支払いにはなるはずだ。しかし、なんとも凄まじい力だ。ヤツガレの中の魔力が安定しない。受けた力場で乱されている。これでは回復魔法を唱えることさえままならないのだからな」
言って、ユズリハはやはり血を流し、足を引きずりながら果てたルナウルフの元へと戻る。
「ふ……ふふ、その死すらも、死す誇りすらも奪いかけてしまった。死に誇りがあるかどうかなどエルフのヤツガレには微塵も分からないが……お前には、あったのだな。どうしていつもこうなるんだろうな。ヤツガレにはやはり、他者や動物の心の機微が……分からなかったのかもしれない」
古刀を拾い、死んだルナウルフの肩を叩く。
「せめて、その命を異界ではなく輪廻に、送らせてくれ。友として、などとは言わない。ただ、弔わせてほしいだけだ。ルナウルフ……私は、私は、君にとっては友ではなかったが、私はずっと君を、友と……どんなに離れていても言い続けていたよ。自己中心的な物言いで済まないが……君と、共に、生きられたなら……どんなに、良かったか」
スゥーっとユズリハの瞳から光が喪われる。その後、一瞬だけ項垂れて、続いて思い出したように全身の筋肉が動き出し、古刀が崩れるようにしてヒイラギとヤドリギの特徴を合わせ持った枝となる。
優しい動きで振って、見惚れるほどに繊細な舞を踊り出す。一歩から、一呼吸から、枝の一振りからシャンッと鈴の音が成る。
「な、んだ……?」
ノックスは失ったはずの気力が一気に湧いて出てくることに驚く。そして狼となってしまった妹が同じように瞼を開いて、彼女の胸から離れて四足歩行で立つ。彼女もまた気力を使い果たしていたはずだが、姉の目の前で力強さを見せている。
「『御霊送り』のときだけ、“大いなる『至高』の冒険者”を上回るんだった、か?」
その上回るという面が一体どういったことなのかノックスどころかアレウスですら聞いてはいないらしいのだが、ユズリハの舞が周辺から魂とも表現できる光の粒を空へと奏上させている点から彼が『御霊送り』をしていることは確かなことだ。
それを見ているからか、それとも聞いているからか、もしかすると舞によって起こる空気の流れの変化か。とにかく彼を中心にして途轍もないほどの生命力が放出されて、キメラたちは起き上がらずとも傷付き倒れていた冒険者や兵士たちが次から次へと起き上がる。自身に起きている変化に驚き、そして状況に追い付けてはいない。
「魂の舞……なのか」
自分自身だけでなく、魂を空へと送り届けながらも辺りで眠りかけていた魂を揺さぶり起こす。ユズリハはそういった『御霊送り』を踊るのだ。僧侶や神官の讃美歌すら届かないところであっても、その歌声よりも遠く、空気の振動が辿り着くところまでならば彼の踊りは魂に届き、響き、奮い立たせる。
「分かんねぇけど、こんな舞を踊ったら」
ユズリハもただでは済まない。そう思ったノックスが様子を窺おうとするが、もはや気配で分かる。
彼は既に死んでいる。死んでいながら肉体は踊っている。死ぬ間際、ユズリハが肉体に全て注いだ力だけで踊っているのだ。
いわば、究極の付与魔法。ただし、ユズリハが死んでいる以上、この一時的な能力強化は二度とこの世界で再現不可能となった。
「ワタシが、止められていたなら」
合剣はアーティファクトの力を注ぎ込んでいたことで、止めることができなかった。むしろノックスもセレナも吸い取られるような、込めた気力になにもかもを吸い取られるような錯覚さえあった。
「まだまだ……弱い……ワタシは」
再び涙ぐむ。
その涙に気付いた狼が傍に戻り、へたり込んでいるノックスの頬をペロペロと舐める。
「一生を懸けて、お前を人の姿に戻れるようにする」
抱き締め、ノックスは新たな使命をその身に背負った。
「この力は?」
「分からん。分からんが都合が良いから使うに越したことはないじゃろう」
水流の上を滑るカプリースが自身の内から湧き上がる力に驚き、水流の中を泳ぐクニアが調子付く。
「よろしいですか、クニア様」
「なにがじゃ?」
「現在、ピスケスをほぼ追い詰めている状況ではありますが、これまでの異界獣と同様に強烈な一撃を与えない限りああいった魔物は倒れはしません」
「アクエリアスもカプリコンもそうじゃったな」
「異界獣にも意地があり、魔物と比べ物にならない魔力が馬鹿げた回復能力を与えているのです。世界に飛び出していることで異界からの加護は消え失せていますが、その馬鹿げた魔力を撃ち破れるほどの馬鹿げた力を必要とするわけです」
なので、とカプリースは続ける。
「この水流の先の先で僕たちはピスケスと真正面からぶつかることになるはずです。そのときに、貸し与えられた力を解放してください。そして僕も『継承者』として全力を放出し、討伐します」
「それは」
言いにくそうにクニアは切り出す。
「無理じゃな」
「無理? どうしてですか?」
「わらわには見えておらん」
「見え……?」
「わらわの目はピスケスを捉えられておらん。気配だけでわらわは立ち回っておる」
「は?」
「わらわの目は世界を白黒でしか捉えられんと以前に言ったじゃろ?」
「はい」
「この戦場。沢山の魔力で溢れ返っておる。そしてなにより、先ほど闇夜に包まれつつあったところで強烈な光が瞬いたじゃろ? そして更には赤い月の光を消し飛ばす気力の流れもあった。もう白黒の世界がグチャグチャなのじゃ」
いつものように弱音を吐いているのだと思いきや、しっかりと国を失った頃のショックで起きた後遺症を語ってくる。カプリースもこれを聞き逃すことも聞き流すこともしない。
「じゃから、わらわが正面からぶつかることで囮となり、カプリが」
「なりません」
カプリースは水流の中に潜る。水中でも呼吸をすることは魔法でどうとでもなるが、水流に乗って泳ぐことはできないためにもがいているところをクニアが腕を掴んで引き寄せる。
「なにをしておる?」
「これから僕は個人的な都合であなたに無茶苦茶をします」
「無茶苦茶?」
「あとで裁くなりなんなりしてくださって構いませんので」
「お主はなにを、っ?!」
水流の中でカプリースはクニアの手を頼りに彼女を抱えて、口付けを交わす。クニアは混乱し、思わず水流の中から飛び出しそうになったがどうにか自制を利かせて水流に乗り続ける。
「なんで今なのじゃ!? どうして今、接吻を必要としたのじゃ?!」
口付けが終わったのちクニアはカプリースから離れず、片手同士を重ね合わせたままもう一方の手でポカポカと彼の頭を叩く。
「クニア様、景色はどう見えていますか?」
「じゃからさっきも言ったはずじゃ。白黒に……あれ?」
彼女が見ていた白黒の世界が、足りなかった色を足したかのように豊かな色彩で溢れ出す。
「な、な、なにが起きておるのじゃ?!」
「これですよ」
「これ?」
カプリースはクニアにガラス玉を見せる。
「これがなんじゃと言うのだ?」
「これは光の当て方で様々な色を反射し返すというとても複雑な構造のガラス細工なんです。このガラス細工の構造を応用すれば、あなたが捉えられていなかった色を補うことができると思いました。でも、構造を知っているのはこれを工芸品として取り扱っている王国の村だけ。そして理屈をしっかりと学ばなければ応用することもままなりません」
クニアはカプリースが個人的な都合で決戦に向かう前に寂れた村に訪れていたことを思い出す。
「では、あのときに」
「正確には聖都ボルガネムでこのガラス細工を競り落としたときから、ずっと通い詰めていました」
そして、と続ける。
「先ほどの口付けであなたの眼球を僕の魔力で包み込みました。あなたの目に差す光は僕の魔力を通過する際に色を補っています。あなたの目が白と黒しか視覚神経に送らないのであれば、僕の魔力がそれ以外の色の情報を神経にではなく魔力で脳に送り込むわけです。ただこれはこの世界だから出来ること。僕のいた世界では、こんなことは絶対にでき、っ!」
今度はクニア側から強烈な口付けをカプリースは受ける。
数十秒そのままで、クニアが満足して口を離す。
「カプリ! カプリカプリカプリ!」
「落ち、落ち落ち、落ち着いてください」
「落ち着いておらんのはお主の方じゃろ?! わらわとの接吻がそんなに良かったか? ならばこれからも会うたびにしてやろう」
「な、なななな、な」
「でなければわらわの目をお主の魔力で補色できんじゃろ?」
「魔道具として眼鏡のようにすれば済むだけですので」
「嫌か?」
「……嫌じゃないです」
「そうじゃろそうじゃろ」
クニアがカプリースを抱き締めたまま水流から外へと跳ね、再び水流に飛び込む。
「世界が! 世界が色に溢れておる! こんなにも世界は美しいのか?! こんなにも、こんなにも世界とは尊いものなのか?!」
「美しいと呼べるほどこの景色は綺麗ではありませんが」
「ならば! この戦いが終わればもっと美しい世界を見ることができるのか?! これよりもっともっと良い景色を見ることが?! 嬉しい、わらわは嬉しいぞ、カプリ!!」
クニアはカプリに見えるようにピースサインをする。
その笑顔は、
その喜びようは、
昔にカプリースがクニアと共に遊んでいた頃のように無邪気で、綺麗で美しく、なによりも眩しく尊かった。
「やれますね? クニア様」
「出来んわけがない! お主が景色に色を与えてくれたのであれば! わらわはもう誰にも負けん! 異界獣にすら!」
「その意気です」
カプリースは水の羽衣を纏い、クニアは水のフィッシュテール調のドレスを纏う。
ピスケスが見えてくる。カプリースが水流から出てその上を滑り、水の鎗を構える。クニアも水流の中で鎗を生み出して構える。
「「水獣鎗技!」」
二人の気力が形となり、蛇となる。
「「水天の蛇!!」」
水流から、そしてその水上から二匹の気力の蛇が飛び出し、ピスケスへと向かう間に絡み合う。
「「合鎗技、廻る世界蛇」
絡み合う蛇はそのまま掘削機のように激しく回転しながらピスケスの開かれた口元へと突入し、一直線に異界獣の内部を貫いて弾け飛ぶ。一見してピスケスは変わらずに泳ぎ二人の真横を通り過ぎた。しかし、やがてその勢いは削がれていき、徐々に内部から肉体が崩壊を始める。その身を地面に激突させ、やがて肉体のどこも動かなくなって絶命する。
「愛の勝利じゃな!」
「違います。あとまだ勝っていません」
「わらわはお主としか子は産まんぞ」
「畏れ多い上に他の人が聞いたら僕が処刑されそうなことを言わないでください」
「満更でもないクセに」
「……そりゃぁ、そうですが」
カプリースがこの世界で恋に落ちたのはクニア・コロルという姫君であり、そして今では女王となったハゥフルただ一人だけだ。
「ハゥフルを纏め上げたのち、アレウスが戻ってくるまでは苦戦している兵士の掃討に向かいましょう。キメラは冒険者でも相手することができますが、王国軍をどうこうすることは彼らはできませんから」
「うむ」
「あと、口付けしたからといって毎日のように公衆の面前でするようなことはありませんから」
「なんでじゃ!?」
「僕の口付けはそんなに易く、覚悟を伴っていないわけではありませんので」
精一杯の言い訳をする。
そんなカプリースはこの世界に産まれてきてから初めてと言えるほどに頬を紅潮させ、零れそうになる笑みを必死にこらえていた。




