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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第14章 後編 -神殺し-】
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アリスとシロノア


 城門を潜り抜けた先はまさに水底(みなそこ)。外から見えていたのは王都を守る城壁であったためその内部まではハッキリと確認することはできなかったが、異界の王都には人だかりのようなものはまるで見えず、ただただ静けさだけが漂っている。これではまるで本当に水中に沈んでしまったかのようだ

 呼吸について即座にアイシャへ視線を向け、彼女も詠唱するためにどこかに呼吸できるような場所はないかと探しているが、そもそも自分たちの体は水中にありながら浮力は感じられなかった。それどころか重力――地上に立っているにも等しい状態であったため、アレウスは止めていた呼吸を緩やかに戻していく。

「……息が出来る」

 口からゴボゴボと空気の泡を吹き出しながらアレウスはみんなに言葉を紡ぐ。水中ならばこの声は届かない。しかしアベリアもアイシャも揃って止めていた息を吐き、同じように空気の泡を口から放出しながらも自分たちが当然のように呼吸できていることに驚いている。

「ピスケスの異界だったのに性質を変えられたのかもねぇ」

 クラリエが髪の毛を梳きながら呟く。

「水気を感じる。外となんにも変わりないけど、水中なのは確かだよ。だから空気のある場所に入ったらあたしたちはびしょ濡れで大変なことになるんじゃないかな」

「びしょ濡れって……」

 ジッとニィナがアレウスとアベリアを見る。

「『原初の劫火』を封じられている……?」

 アベリアがニィナの視線の意味を言葉に変えた。

「のかもな」

 そこのところは分からないが、アレウスとアベリアにとって不利な環境であることは間違いない。びしょ濡れの状態からでも着火は用意であることはカプリースと戦った際に証明済みだが、あのときは異界ではなく世界。異界の特殊な水質によって思うように貸し与えられた力を発揮できない可能性は拭えない。

「進むしかないだろう」

 ガラハは懐に隠していたスティンガーを放ち、周囲を飛び回らせる。

「オレは帰還のためにアーティファクトを残しておきたい。だが、帰還云々を考えられないほどにマズい状況ならためらわず使う」

「ああ、よろしく頼む」

 彼のアーティファクトはアレウスたちにとっては異界から世界へと帰還を確約するものであるが、戦闘で用いれば勝利に導いてくれるものでもある。ガラハの判断でどちらに用いるか決めてもらった方がいいだろう。そもそも負担が大きいだけで一回限りという制限があるわけでもない。

「って言うか」

 クラリエが辺りを見回す。

「クルスちゃんとエルヴァージュ君は?」

 ハッとしてアレウスも辺りの気配を探る。しかしこの地点ではクルスとエルヴァの気配を感じることができない。

「異界に飛び込むときは手を繋いでいれば離れることはほとんどないけど、僕たちはその余裕もないままに飛び込んだ」

 少しでも躊躇すれば後方からユズリハやノックス、セレナと戦っていた男がこちらに刃を飛ばしてくる。そんな危険な状況だったからこそ飛び込むときの一番気を付けるところを省略してしまった。

「でも、僕たちはバラバラのところにいない」

 クルスとエルヴァだけが傍にいない。これは異界の“穴”の特性とは呼べない。

「呼び寄せられた……のかもな」

 どのような対策を取っていても二人はアレウスたちから離れるようになっていた。そのように異界の主となったドラゴニア・ワナギルカンが施していたとも考えられる。異界獣は異界においてありとあらゆる権限と、そして異界の法則を決めることができる。異界獣は人間の選別などしないが、ドラゴニア・ワナギルカンは王である自身を討たんとする者と『異端審問会』を狙う者で選別したのかもしれない。

「だったらお二人は」

 アンソニーは王都の先にある王城を見る。

「あそこに……?」

「考えられるってだけで、確定しているわけじゃない。なんにせよ、二人との合流を検討しつつ僕たちは『異端審問会』を探そう」

 リゾラの呟きと質問にも似た首の傾げ方からアレウスは説明を行う。

 無事であることを知らせるのには理由がある。共に異界へと飛び込んだ者の生死が分からないまま王に挑むのは心に僅かばかりの迷いを残してしまう。だからこそ万全の状態で挑ませるためにはなんとかして合流、もしくは無事を知らせる。それこそが現状における最善策なのだ。


「ははっ、来ると思っていたよ」

 その声にアンソニーが躊躇いなく走り、拳を打ち込む。声の主は泡のように溶けて別のところに姿を現す。

「殴られるのは織り込み済みさ」

「『泡眼』ですか」

「ああ、『聖女』から頂いたものだ。でも」

 ルーエローズの手元で眼球がフルフルと震え、内部からの膨張に耐え切れずに弾ける。

「もう使い物にならなくなってしまった。やはり『聖女』の魔力は馬鹿にはできない。いや、持ち主の魔力から切り離した時点で徐々に腐ってはいたんだけれど、こうして一回しか使えないほどに脆くはなかったはずなんだよ」

 知識をひけらかしながらルーエローズはアレウスを一瞥する。

「そんな男のなにが良いのか、ぼくにはまるで分からない」

「ええ、私もあなたが慕っている男のなにが良いのか分からないからお互い様ね」

 表情に揺らぎはなく、さも当たり前のような返事をリゾラはする。それがルーエローズの癪に障ったようで地団太を踏んでいる。

「鬱陶しい。鬱陶しいなぁ君は。どうしてこんなにも鬱陶しいんだ」

「さぁ? 選ばれなかったから分からないんじゃない?」

「だからさぁ、選ばれていないのは君の方だろ」

「私は別に選ばれなくても構わない。でもあなたは違うじゃない? 選ばれないわけがない。選ばれないはずがない。選ばれなかったら死ぬ。そんな限界ギリギリ、一杯一杯の感情で生きているでしょ?」

 リゾラが立っている地点に天から雷撃が落ちる。黒焦げになった石畳と彼女の姿が跡形もなく消えたため、アレウスは激情に駆られかける。

「大丈夫。こんなことで死なない」

 ルーエローズのようにリゾラもまた別の場所に立っており、その瞳は自身に雷撃を落としたのであろう彼女から逸らされることはない。

「それよりも推測できることがあるでしょ? 水中なのに雷撃は私だけを狙い撃ちした。つまり水中のようであっても法則は全て地上と変わらない。普通だったらあなたたちも有機物を伝って感電しているはずだもの」

 純水でない水は電気を通す。不純物が電気の通り道を担うからだ。しかし先ほどの雷撃はリゾラにのみ落ち、他に被害が出てはいない。

「いや、むしろ地上よりも不思議だ。傍にいた僕たちが無傷なんだから」

 たとえ地上と同様の法則が働いていたとしても雷撃のすぐ傍に立っていたアレウスたちが感電しなかったのは法則から離れてしまっている。

「魔力の雷撃なんだとしても、不自然だ」

「そう……つまり、今のも」


「正解、正解、大正解。あっははは、相変わらず頭だけは回る。さっきの雷撃もぼくのコレクションの一つによるものさ」

 左手にあった眼球は弾けていたが、開かれた右の手の平にはまた別の眼球が見える。

「大盤振る舞いだよ。ぼくは今から君――リゾラベート・シンストウとアンソニー・スプラウトを殺すためだけにこれまで掻き集めた『魔眼』を使い倒してあげるのさ。そして、必ず君たちの眼を奪う。必ず、必ずさ」

 用意はいいかい?

 そんな台詞でも吐きそうな臨戦態勢にアレウスもゆっくりとだが短剣を引き抜こうとする。

「この人は私とリゾラさんでどうにかします」

 参戦を止められる。

「元よりそういうお約束ですからお気になさらないでくさだいね。むしろ女同士の約束、そして決意表明をあなた方がお邪魔立てするようなら、それはそれで容赦しませんから」

 問答無用で死の魔法すら使ってしまいそうなアンソニーの忠告と宣言に身震いし、アレウスは短剣を鞘に納め直す。

「そうさ、ぼくはここでアレウリスを殺したいってわけじゃない。だってアレウリスたちはシロノアが殺してくれるんだから。ぼくはシロノアの言う通り、リゾラとアンソニーを殺すだけ。それで全部解決。全部が綺麗になる」

「リゾラ」

「行って」

「でも」

「あのねぇ……その優しさがあなたの悪いところなの。その優しさは暑苦しい。信じてよ。アンソニーはともかく、私は絶対にこんな女なんかに負けないから」

「あー酷い酷い酷いでーす。私だって負けませんよー!」

 深呼吸をして、アレウスは仲間たちを見やり、続いて大通りに体を向ける。

「行こう」

 その言葉通りに仲間たちが――ガラハが先陣を切って走り出す。

「リゾラ」

 アレウスは立ち去る前に呟く。

「君が死んだ未来なんて僕は考えたくないから。生きてくれ」

 その言葉を置いて、アレウスは仲間たちを追い掛け、追い越し、ガラハに追い付く。


「お前は罪な男だな」

「死んだと噂されて街を焼き尽くそうとするドラゴニュートに好かれている男が言うな」

「別に好かれてなどいない」

「いや……ガラハにそういうのは求めていない」

 照れ、否定、そのどちらもガラハとは縁遠いものだと思っているのでそういった態度を取られると自らの発言の幼稚さが目立って逆に恥ずかしくなる。

「ルーエローズが王都にいたのなら、他の構成員も近くに潜んでいるんじゃないですか?」

「だねぇ。感知の技能に引っ掛かってくれると良いんだけど」

「私の目でも捉えられたらいいんだけど」

 ニィナは持ち前の視力で遠くを見渡せるが、未だに家屋の屋根に飛び移ろうとしない。

「なんか嫌な予感がするのよ」

 これだけ離れればリゾラたちの邪魔にはならないだろうところまで走ったところで一旦、足並みを整える。走るだけで体力を消耗するわけではないが走ることで感知の技能がやや散漫にはなってしまう。だから無軌道に走り続けずにやがて立ち止まり、アレウスとクラリエ、そしてニィナの感知の技能で辺り一帯を探る。

「人の気配が本当にどこにもないわ」

「犬や猫の気配もないねぇ」

「……王都が異界に堕ちて、住民はどこに行ったんだ?」

 一部は魔物たちに襲われただろうが、全員がそうなるわけではない。魂の虜囚を逃れる方法は幾らでもあり、異界獣から隠れ潜む方法だってある。ドラゴニア・ワナギルカンに気付かれずに済んでいる命がないわけがない。全ての異界に集落があったように、異界となった王都にも同様に人が集っている場所はあるはずなのだ。

 そもそもドラゴニア・ワナギルカンは王なのだ。民草を全て魂の虜囚にしたり魔物に喰わせることは決してしない。王は民草に讃えられるからこそ王であり、民草がいなければ王という称号はただの飾りへと成り果てる。あの男は王に拘り、王座を簒奪し、再び王となった。だからこそ民草は絶対に残す。

「教会や集会所を探そう」

「違う、違います」

 アイシャが首を振る。

「上……上を見てください」

 そう言われてアレウスたちは天を仰ぐように見上げる。


 おおよそ人の形を捉えられる高さのところで人々の往来が見える。犬や猫、果てには馬すらも見えている。


「僕たちより界層が上なのか」

 住民たちは水中であることさえ気付かないままにいつも通りに日常を送っているように見える。確かに彼らにとってそれは日常なのかもしれないが、家屋や建物を真下から覗き込んでいるアレウスたちにとってそのワケの分からない光景は異質でしかない。

「あたしたちには見えていても、上から下は見えないのかもねぇ」

 恐らくはクラリエの推測通りなのだろう。アレウスたちは住民たちが生活をしている界層よりも下にいる。だからここは深層だ。しかもルーエローズがいたということは『異端審問会』にとって真の意味での侵入者を排除するための界層に違いない。


 それらが次々と発覚し、そしてそれを待っていたかのように周囲の家屋がグシャリと崩壊していき、空を泳ぐように大量のフロッギィやマーマン、マーメイドなどが現れる。

 しかしそういった魔物の一切合切を丸呑みして複数のキメラが立ち塞がる。


 牛の頭に人間の屈強な肉体。馬の頭に同じく人間の肉体。

牛頭(ごず)馬頭(めず)。ミノタウロスと……」

 ニィナはアレウスから学んだ知識を反芻するように呟いているが、悠長なことをしている彼女の腕を掴んで投げる。最初は声を荒げようとしたニィナも、自身が立っていた場所に馬頭が握り締めていた人の腕で織り成された狂気染みた鎗を投擲していたことを知って青褪める。

「なによあいつ。あっちの方がずっとヤバいじゃない」

「そうです、ミノタウロスはまだキメラと呼べます。でもあっちは」

「『悪魔』。それも今まで見てきた木っ端の『悪魔』じゃない。正真正銘の、悪魔を束ねる大悪魔。“観測せよ”」

 アベリアが『観測』の魔法を唱えて馬頭の正体を探る。

「オロバス。偉大なる君主。大いなる悪魔の内の一柱(ひとはしら)

「なにそれ、そんなのあたし聞いたことないよ。多分、イェネオスやエレスィだって知らないんじゃないかな」

 長命のエルフにすら知れ渡っていない。それはつまり、あの大悪魔がこの世界の法則から外れていることを意味する。

「……これは僕の勝手な解釈なんだけど、この大悪魔は異世界から召喚されている」

「こっちの世界の『悪魔』じゃないってこと?」

「多分だけど僕やシロノアの世界の存在だ。いや、存在していた……存在するとも言われているだけで確証のない存在。それがこの世界で顕現しているんだ」

「なんでそんなこと確信を持って言えるのよ。そんなにアレウスの産まれ直す前の世界って物騒だったわけ?」

「創作の世界においては物騒だったよ」

 しかし、『悪魔』は『天使』と同様に創作と言い切れる代物では決してなかった。だからこの世界での召喚を可能にしてしまったのだろう。

「大悪魔は私の祓魔の術でなんとか……でもそっちに集中していたらミノタウロスの攻撃に対処できません」

「なるほどな……」

 なにかを唐突に理解してガラハが三日月斧を構える。

「要はここで俺たちをアレウスやアベリアから切り離したいのだろう」

「『あたしたちがここで足止めするからアレウスたちは先に行って』。そう言って二人が王都から王城へと目指す。それが『異端審問会』の筋書きってわけか」

 クラリエも短刀を引き抜いた。

「どうする、アレウス?」

 ニィナも弓に矢をつがえている。

「みんな、相手の手練手管に乗ってやろうって気しかしてないだろ」

 意見を求めてはいるが答えは決まっている。

「だってここであんたが足止めを喰らったら誰がシロノアを止めるのよ」

「向かってくる人数を最小限に絞って僕を殺す気だ」

「だったら殺し返してしまえばいい」

 短絡的な返しをガラハがしてきて、アレウスは思わず笑ってしまう。

「数を減らせば、一対一や二対二ならば勝てると思い上がっている連中に現実を見せつけてやれ」

 数的有利を失わせる。それがシロノアはそれだけでなくアレウスに仲間を気遣わせ、迷わせることを狙っている。

「大丈夫、行けます! 私たちは絶対に勝ちます!」


 ならば迷わずにシロノアの元へと辿り着くことは彼にとっての焦りに変わるのではないか。


「出し抜くことは考えなくていい」

 むしろこうなるような気はしていた。自然とアレウスも望んでいた。シロノアとの少数での対面を。

「アベリア」

 彼女の手を掴み、ミノタウロスとオロバスの横を駆け抜ける。キメラも大悪魔も、それどころか魔物ですらもアレウスたちを追ってはこないのだからやはりそういうことなのだろう。


 人気のない大通り。崩れていく家屋。潰れていく街並み。アレウスとアベリアが進めば進むほど異界の深層はハリボテの景色を壊していく。もはや取り繕わなくてもいいかのように――


 王城前の広場。そこに男が立っている。


「人生で二度とない経験だ」

 男は呟きながら振り返る。

「異世界への転生、そして、違う生き様を歩んできたもう一人の自分自身とこうして対面することなんてな」

「シロノア……」

「黒の……アリス。俺はお前であり、お前は俺だ。つまり僕だった俺は、俺という僕を見ている」

「やっと、ようやくだ。ようやく巡り会えた」

 会話の歯車は噛み合っていない。だが互いに感情を吐露し続けている。

「だが悲しいことに俺は僕を殺す立場にあり、僕は俺に殺される立場にある」

「理空より先に死んだ僕と、理空よりあとに死んだお前。僕は『産まれ直し』で、お前は転生した」

「肩を並べるべき存在なのだろう。叶うならばそうでありたかったとも思う」

「同一の存在は同じ場所に存在し続けるべきじゃない」

「同一ではないな」

 ここで初めて会話を噛み合わせようとシロノアがする。

「俺とお前は同一じゃない。お前は俺じゃないし、俺はお前じゃない」

「分かっている、そんなことは」

「いいや、分かっていない」

 男は――シロノアは剣を抜く。禍々しくも妖しく輝く剣を。

「お前は良いよな。好きな人が死ぬ前に死ねたんだから」

「羨ましいとでも?」

「ああ、羨ましいとも。なんだ? 羨む環境に自分は立っていないとでも思っていたのか?」

 シロノアは高らかに笑う。

「こんなに面白い話はない! 自身の恵まれた環境を! 恵まれていないなどと勘違いしている馬鹿がまさかのもう一人の俺だなんてなぁ!」

「……だったら教えてやるよ」

 アレウスは短剣を抜く。

「僕の環境が本当に恵まれていたのかどうかを、その身に」

「それは俺が言うべきことだ。俺がお前に刻んでやる。お前は恵まれていたんだ、とな」

 二人の張り詰めた雰囲気の中で静かにアベリアは話の行く末を見守る。クローンではなく真の意味での同一人物。ただこの世界に降り立った過程が異なり、死んだタイミングがズレているだけ。この二人の不思議な、それでいて決して引き剥がせない因果になど口を挟むなどできるわけがないのだ。

「僕を異界に堕としたのはお前だな、シロノア?」

「わざわざ幽世に葬ってやったというのに俺の前に立つとは思わなかったよ、アリス」

「どうして」

「どうして? そんなのは簡単だ。お前が合力を持ち合わせていたから。本来ならば『異端審問会』から逃げ出した両親ごとこの世で葬りたかったが、お前が合力を持っていたことでそうもいかなくなった。俺たち『異端審問会』以外が合力を手にすれば、世界を牛耳ることさえ困難になる。だからこそお前をこの世から消し去らなければならなかった。その前に合力のために耳を、目を、腕を奪った。視覚、聴覚、そして哺乳類の――それでいて人間のみが持ち合わせている器用な指先。それさえあれば、あとは合力先の魔物と合わさってもどうとでもなる部位ばかりだ」

「つまり、堕とすときに僕がお前だということには気付かなかった?」

「はは…………気付いていなかったからなんだと言うんだ? いいや、お前は気付けなかった俺を少しばかり揺さぶろうとしているんだろうが無駄な話だ」

 剣先が石畳を打つ。

「気付いていないとでも思ったか? お前は忘れてしまっているが、俺はあのときあの場所にいて、お前に確かな尋問を行った。具体的には紙に文字を書いてみせた」

「……漢字か」

「知っての通りこの世界に漢字はないんだよ、アリス」

「だが漢字が読めたからって」

「俺はこう書いたんだよ。『神藤 理空』と。お前は俺が知っている通りに読んだ。『しんどう りぞら』と」

 自身の落ち度について、やはり思い出すことはできていない。死んだときに見た記憶の中にもシロノアとのやり取りは一切なかった。

「そのときから確信を持って俺はお前を葬ろうとした。異界から世界に帰ってきたこともすぐに察知し、粘着し、執着し、ありとあらゆる嫌がらせを行い、お前がどこかで死なないかと常に心を躍らせながら策を練り続けた。だが、こうしてお前は俺の前に立っている。だからこその終着点だ。俺とお前の終着点。俺がお前を殺すことで終わるズレた時間軸から異なる方法でこの世界にやってきた同一人物の物語がようやく終わる」

「そうか……それで、言いたいことは終わりか?」

「なんだ? 感傷にでも浸りたいか?」

「いいや、別に。とっくの昔にそんな拘りは捨ててしまっている。ただの確認だよ。復讐されて死ぬ前に、もっと言いたいことがあったなら言っておけという」

 シロノアの感情には飲まれない。

 並行世界のズレた時間軸からやってきた自分自身だからなんだというのか。


 変わらない。なにも変わらない。

 走るだけだ。そう復讐にひた走るだけ。


 なぜならシロノアとアレウスは同じ存在であっても、この世界での生き方は全く異なるのだから。だったらもう別人である。顔を見ても大人になった自分自身への憧れのような、どこかしらの感じ入るなにかは全くなかった。

 ただ殺したい。

 殺意だけが前のめりに走っている。だからここに己自身を重ねてしっかりと走り出さなければならない。


「死ね、シロノア!!」

「こっちの台詞だ、アリス!!」


 アレウスの目にも止まらない速さでの接近にシロノアはしっかりと剣を合わせ、二人の剣戟がぶつかり合う。

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