なにもない
出発の準備は滞りなく進み、ギリギリまでグズっていたニィナも当日になると諦めの境地に至ったようで街門での待ち合わせに遅れずにやって来た。
南部への森へは馬車が出ていないのでギルドから馬を借りた。馬術はこれまで少しずつ習っていた。白騎士に殺されてアベリアたちを救出したのち、皇女捜索までの期間になにもしていなかったわけではない。最終確認はリスティにしてもらい、ようやく一人での乗馬が出来るようになった。そのことにアベリアはどこか寂しげであったのだが、今後のことも考えればいつまでも彼女の背にくっ付いているわけにもいかないので納得してもらった。
今日、そのことが逆に彼女の機嫌を損なわせることになった。なぜならニィナがアレウスの駆る馬に乗りたがったからだ。彼女自身、乗馬を倣っていないわけではないのだがギルドから借りた馬は二頭で、誰かは誰かの背に委ねられる。いつもならアベリアと二人乗りをするところなのだが、ニィナがアレウスと二人乗りじゃないと行く気がしないとゴネた。
いつも二人乗りをしていたアベリアからしてみると自身の特権を奪われるも同然で、仕方なく同意したアレウスは彼女に信じられないほどの冷たい眼差しを向けられた。しかし、こんなことで出発が遅れるなど馬鹿らしいにもほどがあるため、どうにかアベリアを宥めてシンギングリンを発った。
一日や二日で到着する距離ではなく荷物には食糧以外にも馬の餌や留め具、留め金など様々な物を積むこととなったがそれらのほとんどは荷鞍で運べたため体力は単純な馬術に消費された。精神面は馬に乗っている最中、これでもかと抱き付いているニィナによって消耗したのだが思えばアベリアに乗せてもらっていたときもアレウスはこれぐらいしっかりと抱き付いていた。彼女はそれを苦ともしていなかったのだが、なぜか自身はそうはいかないらしい。
「ニィナはアベリアと二人乗りで良いんじゃないか?」
出発したその日の夜。交代で見張りをする就寝前にアレウスはそう提案した。どうせゴネられると思ったのだが割とすんなりとニィナはそれを受け入れた。だったら出発するときにその割り振りで良かったんじゃないかと頭を悩ませるアレウスを見て彼女は心底嬉しげで、そして楽しそうだった。アベリアはアレウスに小声で「個人的に十分楽しんだからだと思う」と言われたが、なにをどう楽しんだのかがまるで分からなかった。次の日、あっさりとニィナはアベリアと共に馬へ跨った。本当になにを楽しんだのかが分からずじまいだったが、二日目は体力面は相変わらずだが精神的な消耗はほぼ無くなり景色を見る余裕すら出来た。帝国領内はどこもかしこも平和――と言い切れない場面を幾つか見ることになったが成り行きを見守ることもせずに書簡を届ける仕事にだけ専念することにした。こんな仕事を請け負っている最中に、他の揉め事や困り事にまで首を突っ込んではいられない。特に今回は急務である。寄り道はしていられない。二日目の夕方に見えた村で食糧と馬の餌の購入、そして休養する。事前にリスティから伺った通りに物事は進んでいる。快く部屋を貸してくれた民家にてアベリアとニィナの清拭を覗こうとした若い男連中を締め上げて村長に突き出す仕事が間に挟まりこそしたが、負担は軽い。万が一、覗かれていたら締め上げるだけでは済ませられなかったので早い段階で捕まえたが、どうやら村長曰くその内の数人は「常習犯」であるらしく、さすがに村から追放も検討しているらしい。
アレウスは数人の若い男に恨まれたが、そもそも悪いことをしていながらも反省の色を見せないままに同じことを繰り返している側が悪いため、どれほどに罵られようと罪悪感は全くなかった。むしろそれらをアベリアやニィナが聞いていなくて良かったとさえ思う。彼女たちは恐らく許しはしなかっただろうから。
次の日――出発して二日目の朝に二人はアレウスに「なにかあったの?」と訊いてきたが、「なにもなかった」と伝えて村を発った。知らない方がいいのか知っている方がいいのか。判断の難しい内容だったので保留とした。しかし、このことは今後聞かれても同じように返すだけになるだろうとアレウスはなんとなく思った。
三日目の夜は一日目と同じく野宿となった。魔物の数は異界獣が討たれていく過程で少しずつ減少傾向にはあるのだが、普段から行っている小瓶に入れた血を撒いて小物の魔物を追い払いつつ、野宿する場所も、もしも魔物が群れで襲い掛かってきても密集できないようなやや複雑な地形を選んだ。
四日目。食料がやや心許なくなってきた昼の頃。アレウスたちはようやっと南方の森近くの村に身を寄せることができた。小さな小さな村で旅人が来ること自体が珍しいといった具合で村中のあちらこちらから三人を見ようと村人が現れるほどだった。ここにある食糧を金銭で本当に分けてもらっていいものなのかどうか。その悩みは野菜類を運んでいる行商人が村へと入ってきたことで解決する。村単位での食料のやり取りを行っている商人ではなく、売れずに余った物をどこかで買い取ってくれないかと困りつつも近場の村から回っていた最中だったと言う。渡りに船とはまさにこのことで帰りの食糧を購入し、行商人に感謝しつつ僅かばかりの休息を取って森の近くに馬を寄せ、分かりやすい木に縄で留めて待ってもらう。
「アイシャの『天眼』はどう?」
「私からはあんまり見られている気はしないけど、多分大丈夫。なにかあったら話しかけてくると思う。今のところ念話がないのはここまでは順調だからかな」
アベリアにそのように答えつつニィナは森の奥をジッと見つめる。
「魔物がいる感じはしないけど、アレウスは?」
「僕の感知にも引っ掛からないな。アルテンヒシェルの禁足地と同じかな」
「同じって?」
「僕自身は足を運んだわけじゃないんだけど魔物や人が近寄らない仕組みみたいな。自然の魔物除けが出来ていたりとか」
「…………そんな風には、見えないわよ?」
アレウスの言葉を聞いて、ニィナはもう一度とばかりに森の奥を観察しながら言う。そのことについては同意せざるを得ない。アレウスたちの目の前に広がっている森は、本当にただただ普通の森なのだ。鳴子が仕掛けられていたり、入り辛い地形であったり、魔物除けのような魔法陣が敷かれているわけでもない。人が入るための道などなく、獣道だけが目に付く。しかもその獣道は魔物が作ったものではなく自然に出入りを繰り返した小動物が作ったような本当に分かり辛い獣道だ。そしてそれがアレウスたちの目的の人物が住んでいるところまで続いているとは限らない。
「でも入る気はあんまりしないわね。『百合園』より鬱蒼としてそう」
「鬱蒼としていたのか?」
「アレウスは見てないんだっけ?」
「見てないんじゃなくて『百合園』の性質のせいで見えなかったんだよ。見えるんだったら見たかったし、入れるんなら入りたかったよ」
どんな動植物よりも複雑怪奇な魔物の全容を調べることが出来ればどれほどに楽しいものか。表情からアレウスの言いたいことを察したらしくニィナはやや引き気味となってアベリアの後ろに身を隠した。
「ここで魔物講座をするのはやめよ?」
どうやらアイシャも誘った魔物講座のせいでニィナはアレウスからその手の解説が始まるのではないかと戦々恐々としているらしい。アベリアもどこか憂鬱そうに提案してきているので、気持ちは後ろに隠れている彼女と一緒のようだ。
「するつもりはないけど」
「嘘だ! さっきの目は絶対に私たちに沢山の魔物の知識を放り込む気持ちの込められた目だった!」
『百合園』の生態に興味を抱きこそしたが、そこから魔物講座を開こうとまでは思っていない。彼女たちが過敏な反応を示しているだけだ。
「分かった、しない。しないと約束するから普通に森に入って大丈夫かどうかの意見をくれ」
「見た目はただの森。だけど一歩踏み込んだらエルフの森みたいな認識阻害で奥地に入れないようになっているかも」
「魔力の類は感じないけど」
ニィナの意見に対してアベリアが呟く。
「ただ。侵入者に対して反応するような魔法陣だったら魔力を感じないのも当然かも」
「踏み入って、なにかこう死ぬようななにかが起こると思うか?」
凄く曖昧な表現で二人に訊ねてしまった。
「いや、聞き方が悪いな。それを調べるのは僕の役目だ」
気配を感知できずとも罠感知の技能がある。魔法陣を罠として認識はできないのでそこはアベリアに任せるとして、いわゆる鋼糸などを用いた侵入者を殺すための装置などがないかは調べられる。
「私も調べてみる」
単純に踏み入ることはせずに、森の端からアレウスとニィナは姿勢を低くして張った糸などが木々に結ばれていないか調べる。しかし、やはり調べたところでその手の罠は見当たらない。
「やっぱり魔力を感じない」
「アレウスはなにか見つけられた?」
「いいや……入って確かめるしかないのか」
こういったとき、なにかと茶々を入れてくる淑女の短剣も反応がない。カプリコンとの戦いを終えてからずっと大人しいが、もしかするとヴェインの祓魔の力によって清められてしまったのだろうか。聖者だったヴィオールを殺す際に用いたのもマズかったかもしれない。性格は邪悪であったがヴィオールの身は清められた肉体だった。淑女の短剣に潜む存在が悪魔に近いのかどうかもまだ不明だが、とにかくそういった対象に用いたことが悪い方向に働いている可能性がある。
そこまで考えてアレウスは首を横に振る。赤い淑女の身を案じる必要などないのだ。むしろいなくなってくれた方が安心する。決して悪い方向ではない。
もしくは、力を蓄え直している最中か。どちらにせよ頭の片隅で意識はしておかなければならない。屈服させてはいるが、反抗しないわけではない。
「まず僕が一歩踏み込む。そのときに魔力の流れや罠の作動音がするかどうか調べてくれ」
二人が肯いたのでアレウスは森へとすぐに片足を踏み込む。
「ちょ、心の準備とかないわけ?」
そう驚くニィナであったが、彼女に心配は無用とばかりにアレウスに作動した罠や魔力の類が降りかかる気配は全くない。
「……まさか本当に、なんの対策もしていないのか?」
片足のみならず全身を森へと入れるが感知の技能は一切反応しない。後方で備えていた二人も首を横に振っている。
「これだけ注意深くしていた私たちが馬鹿みたいじゃない」
「それが狙いなのかもな」
「どこかで見ていて笑っているってこと? 性格悪すぎでしょ」
「まぁまぁまぁ」
やや怒っているニィナをアベリアが宥める。とはいえ、これは少々拍子抜けである。『至高』の冒険者が暮らしているのだから徹底的な魔物や不審人物の対策を取っていると思っていた。
アレウスが促し、二人も森へと入る。アベリアの魔力に反応するかとも注意してみたがやはりそれは無駄に終わる。道のない森の中、草木を掻き分けながら進む。
「あちこちに棘の生えた木が生えている。気を付けよう」
木々のほとんどは気にするほどもない単なる木に過ぎないのだが、一部の木々は所々に鋭い棘の生えた枝を持っている。油断して手で払おうものなら一気に傷だらけになってしまう。なんなら顔の高さにある枝すらも危険極まりない。とはいえ、これだけで侵入を阻めるとは思えない。生えている位置もバラついていて侵入の意欲こそ削げるが撃退や近付くことを諦めるほどに密集はしていない。
進み、進み、進んで視界が開けた。
いつ崩れてもおかしくない古民家。そう呼ぶしかできない家がある。茅葺屋根の木造であるが、手入れをしていないのが見て分かるほどなのだ。
「幽霊屋敷……か?」
そんな表現が一番合っている。人が住んでいるとは思えない。しかし人工物と呼べそうなものは開けた視界の中にはその古民家しかない。アレウスは二人を連れて近付く。ここまで来てようやく人の気配を感知する。ニィナもそうだったらしく目で合図を送りつつ、アレウスは短剣の柄を握り、彼女は弓矢を構える。
これでは物盗りだ。しかし相手は『至高』の冒険者だ。不意打ちされてしまえばアレウスたちに勝ち目はない。
アベリアが扉を叩く。中で返事がして、あまりに無防備なまま耳の長い男性が姿を見せる。またも拍子抜けしてアレウスは手を短剣から離して、ニィナも弓矢を納めた。
「『至高』の冒険者のユズリハさんですか?」
「……………………あぁ、そういえばそのように呼ばれていた頃もあった」
長い沈黙ののちに口を開き、そう答えてから興味なさげにアレウスを見る。
情熱がない。熱意もない。瞳からは闘志を感じられず、未来への期待など一切込められていない。
ただただ虚無。ひたすらに諦観。我欲はなく無欲。瞳からは生気があるかどうかすら怪しい。
「ギルドから召集の書簡が出ています」
「……そう、そうか」
アレウスの差し出した書簡を開き、斜め読みしてから数秒後に彼女は破り捨てる。
「興味がない、価値がない、行きたくない。そのように伝えてくれ」
そう言って扉を閉じようとするのでニィナが足を隙間に挟み込んで阻止する。
「待って待って。あなたは『至高』の冒険者なんでしょ? なんでギルドの頼みを無下にするの?」
「ギルドに所属こそしているが支配されているわけではない。好きに生きて好きに余生を全うする。それのなにが悪いのか。ヤツガレには全く分からない」
「やつが……?」
「『僕』や『俺』と同じ一人称だ。へりくだっているから普段は使わない」
戸惑っているニィナにアレウスが説明する。
「ヤツガレが他人に己の一人称を晒すものか。晒すのはヤツガレが一片も疑いようのない友人だけだ」
そう言ってから男性は冷ややかに笑う。
「人のロジックに寄生している『不死人』か。まさか本当に存在しているとはな。賢者様も冗談は言わないらしい……もう死んでしまったらしいが。まぁ『不死人』らしく教養がなさそうだ」
言葉より先に手が出そうになったニィナをアベリアが背後から抑え込む。
「イプロシア・ナーツェを知っているんですか?」
「知っているもなにも『神樹』を手にして真っ先に賢者様はヤツガレのところにやってきた。『勇者』より後の時代に生じた『至高』の冒険者。邪魔をされないために始末を付けようとしたのだろう」
アレウスは瞳を見つめ続けていられない。彼女が備えている虚無に飲まれて感覚が狂ってしまいそうになる。
「だが、ヤツガレに価値がないと分かった途端に殺すのをやめた。殺す価値もなかったということだ。他の数人も同じように賢者様の邪魔をしないと分かったようで、殺しはしなかったようだ」
「あなたは……あなたはどうして、そんなにも虚しい瞳を持っているんですか?」
アベリアは聞き辛いことをエルフの女性に訊ねる。
「恐怖の時代が終わったから」
「な、んだって?」
思わず聞き直す。
「ヤツガレにとって『至高』を目指す意味は、魔王を討つため。魔王を討つための日々は冒険者としての日々に等しい。いつか『勇者』に追い付き、そして追い越してヤツガレが魔王を討ってみせる。そのように思い至り、日々精進し続けたこともあった。だが、恐怖の時代は終わった。『勇者』が魔王を討ったからだ。確かに当時、喜んだ。喜んださ。しかし一日もしない内に心に穴が空いた。目標も目的もなくなった。ならばどうして冒険者で居続ける必要がある? 分かるか? 恐怖の時代が過ぎたのちに『至高』に登り詰めたところで、この力を振るうべき相手はこの世界のどこにもいないという絶望が」
「異界獣は放置していたんですか?」
「あんなもの、戦う価値もない。幽世に逃げ込んだのは魔王の一部でしかない。魔王を上回っていなければ、いずれ誰かが滅する。だったらヤツガレが関わる必要性を感じない。ヤツガレにしか出来ないことではなく、誰にだって出来ることならば力を振るう理由にはならない。そうは思わないか?」
「……だから今まで隠居していたってことですか?」
内からなにかが込み上げてくるが、アレウスは耐えつつ訊ねる。
「どう見てもそうだろう? 君もヤツガレを見て分かったはずだ。ヤツガレにはなにもない。抗う気はなく、歯向かう気もない。ヤツガレは世界にとっていらない存在だ。だから誰も見向きもしない。この南方の小さな小さな森で住んでいても、ヤツガレが『至高』の冒険者であると分かって訪ねてきたのは賢者様と、君たちだけだ。魔物も襲いにはこないし、動植物はヤツガレをいないものとして扱っている。現にヤツガレの家はどれほどに手入れをしても、堂々と植物が生い茂ってくる」
手入れをしているとは言うが、それが真実かどうかすら瞳からは伝わってこない。
「君たちはギルドに頼まれてヤツガレを呼び出そうとしている。だからこそ問う。ヤツガレである必要があるか? この世界に、ヤツガレだけしか出来ないことがあるか? かつてユズリハと呼ばれたこのヤツガレが、ヤツガレである意味が君たちの呼び出しによって得られるか?」




