聖者
---父の教え---
「お父さんはどうしていつもそんなに優しいの?」
「どうしたんだい?」
「だってお父さん、さっき酷いことを言われたでしょ? でも怒らないで騒ぐこともしないで……怒ったっていいって私は思うのに。そうじゃないとウチの教会の神官様は怒らないって噂が流れて、また沢山の酷いことを言われちゃう」
「こう見えて腹の中では怒っているよ。表情に出さないだけだ」
「出さないだけ?」
「そう、物凄くものすごーく苛立っていて、腹立たしいとも思う。だって人間だからね。アイシャが酷いと思うことを言われたら、誰だって平常心ではいられない」
「でもお父さんは、」
「これは功徳を積むためにしていることだ。それに、言ってきた側だってなにか大変なことがあったかもしれない。辛いことがあったかもしれない。それも逃れられない苦しみや悲しみを背負っていたかもしれない。そう思うとお父さんが感情を表に出して叱咤なんてしたら、もっと酷いことが起こってしまう。私たち神の御使いは、人間であっても人間らしくあってはいけないんだ」
「そんな……そんなの、なんにも良いことないじゃん」
「そうだね、無いかもしれない。でもお父さんは神の御使いとしてまだこうして頑張っている。なぜだか分かるかい?」
アイシャには難しいことは分からない。
「人の汚いところよりも人の綺麗なところをずっとずっと見ていたいからだよ。教会で神の御言葉を説いていたら、多くの人は救われたような顔をして感謝してくれる。さっきみたいにそんな嘘をつくなと言われることもある。けれど、そういう人たちだってお父さんは救いたいし、そんなことを言われたからって神父を辞めてしまったら、それこそ救いを求めている人たちが苦しんでしまう。奉仕をよくタダ働きと勘違いする人が多いけれど、奉仕はタダで働くことじゃない。無償で人に幸福を与え、そしてお父さんたちも無償で感謝を受ける。たとえば無償で道の清掃をすれば多くの人は気持ち良く道を歩くことができるだろう? その歩いている人が私たちに感謝の意を示してくれれば、それだけでお父さんたちは十分なんだ。なんなら綺麗になった道を歩いているところを見るだけでも心地良い。与えられたのならば授かるべきで、授けるのならば与えるべき。これはタダ働きとは決して違うんだ」
「それを繰り返して……なにか意味はあるの?」
「意味はあるさ。神様は常に人の生き様を見てくださっている。功徳を積めば、祈りを捧げ続ければいずれは神様も感謝の意を私たちに伝えてくださる。神の御業にだっていつか手が届くだろう」
「そうなの? でも、少しでも道を外したらどうなるの?」
「どうもならないさ。少しぐらい道を外れても、正道に戻ればそれで神様は許してくださるし、これまでの全てをまっさらにしてまた一からなんてことは言わない。だからね、アイシャ? 道を間違えることはあっても、ちゃんと正しい道に戻るんだ。アイシャは特別だから」
「特別?」
「お父さんはもう神様から御言葉を戴いているけれど、教えることはできない。でもそれはお父さんにとってとても誇らしいことで、とても喜ばしいことなんだ。だから、常に正しさを問い続けなさい」
「正しさ? もっと詳しく教えてはくれないの?」
「予言は伝えてしまえば現実にならないものと伝えることで現実にするものの二通りがある。お父さんが戴いた御言葉は誰にも伝えられないものなんだ。だから、我慢してほしい」
「そんな……」
「不安に思うことなんてなにもないさ。ただ……そうだね、振り返ることはあっても前を向いて人生という名の道を歩き、正しい行いをしても不遜な態度は取らず、困難を前にしても堂々としていて、問題を抱えても解決のために奔走し、他者との関わりを大切な繋がりと思い、決して復讐なんて考えない真っ直ぐな生き方をしている人を見つけなさい」
「え? そういう人と結婚しろってこと?」
「違う違う。そういう人にだけ、強く強く願うんだ」
「願う?」
「“もう一度”、と。“祝福を”と。アイシャがこれからも変わらず祈りを捧げ、神を信じ仰ぎ続けるのならきっと」
「きっと?」
アイシャの頭を父が優しく撫でる。
「奇跡はアイシャの手に委ねられる」
*
アンソニーには『星眼』をその身に宿したそのときから幾星霜の歴史が見えている。神々の時代から竜の時代、人間の時代に起こった恐怖の時代。それ以外の有象無象に消えて行った数々の時代が見えている。
「怯えないで? お姉さんが守ってあげますから」
それゆえにフェルマータを見た瞬間にアンソニーには言葉では言い表せないほどの庇護欲に駆られた。
産まれたときから奪い合いの毎日だった。食べ物も寝床も、果てには命も。奪い、奪われ、奪い合い。そんな日々を過ごしていたアンソニーにとっては他人のことなどどうでもいい。常に自分本位でなければ命を摘み取られる。命を奪われてしまう。だからこそ他人のことなど信じることはできないし、他人の命を常に狙う。なぜなら命を奪うことが最も身を守る方法で、同時に飲み食いするための金銭を得るのに効率の良い行いだったからだ。
思いやりの感情などない。既にこの心は壊れている。壊されたのはアンソニーにとって物心が付く前だと思っている。しかしながらアンソニーはその出来事を思い出せない。思い出してはならない記憶だと本能が拒み、鍵を掛けている。開錠方法は知らない。
だが、開かないからといって心が壊れないわけではない。記憶を垣間見ないから幸せであるわけでは決してなく、心を平穏に保つわけでも決してない。なぜなら常に闘争が傍にあり、奪い合いの中でしか生きてこなかったからだ。
しかし、それは神に選ばれてから一転する。『聖痕』をその身に宿し、『聖女見習い』として新生したそのときから、アンソニーはとにかく他人のことを思いやることに努める。壊れた心ながらに一生懸命に他人を理解しようと努力する。だが、どれほどに取り繕ってもどれほどに優しい笑顔を向けても、自分自身の心に思いやりや愛情といった感情が芽生えることはなかった。
無いからこそ、有るように見せる。優しそうに、それでいて他人の死に対して激情的になっているかのように見せる。どんなときもそうやって偽って人生を歩んできた。『聖女』になってからもそれは変わらない。
――テメェはどうして壊れた心を直さないんだ? まだまだ痛め付けて、粉々にしたいのか?
オーネストと初めて出会ったときにそう言われた。アンソニーは初めて他人に自身の壊れた心を見抜かれた。見抜いてもらえた。キッカケはそれだけ。あとは彼女に勝手に付き纏った。『聖女』としての在り方も、生き方も、戦い方も全てオーネストを見て学んだ。とはいえ、いつも彼女の傍にいたわけではない。
別に一緒にいたいわけでもない。むしろアンソニーは独りであることを至高としている。奪い合いの恐怖から逃れることもできるし、オーネストから自分がなにかを奪おうとすることもないからだ。彼女から一度だってなにかを奪えたことはないのだが。
フェルマータは言葉にならない声を発している。指先が空を滑る。幻想で編み上げられた魔力に生命が与えられて、魔物と化してアンソニーへと襲い掛かる。
「無駄だよ、アンソニー! その子のロジックはもうぼくが書き換えている。目に映る全ては彼女にとっての恐怖の対象で、同時に倒さなければならない敵だと認識するようにしている」
「同じ『聖女』にロジックへの干渉能力なんて」
「その子は『聖女』の経験なんて一つもない。ただ『竜眼』を持っているだけ。ぼくたちと全く異なる過程で『聖女』の素質を持っているけれど、ただそれだけの子供だ」
ルーエローズはリゾラの放った複数匹のスライムを避けながら笑う。
「アイシャ・シーイングには面喰らってしまったけれど、結局は全てはぼくが奪えばいいだけだ。あいつに『天眼』があったところで使いこなせないんだから奪うのは容易いし、『竜眼』か『星眼』かどっちかが死にかけてくれればぼくはそのどちらかを奪い、同時にもう一方を殺して奪うだけでいい。ははっ♪ 考えてみれば状況は好転している! このぼくに!」
鬱陶しい声だが、ルーエローズについてはリゾラに一任してしまった方が良いとアンソニーの『星眼』は言っている。『滅眼』など真正面から相手にはしたくない。
格が上か下かは考えたくないが、ルーエローズをアンソニーが抑えることは難しい。『死の魔法』も範囲で影響を及ぼしてしまう都合上、カプリコンと戦っている人々を巻き込んでしまう。そしてカプリコンは『悪魔』の権化なので、『死の魔法』に耐性がある。『呪詛』と『石化』の魔法を使える以上は放置しておきたくもないが、重要なのはなにを優先するかである。
現状、アンソニーとフェルマータの身には『呪詛』の影響はない。『聖女』であることを記しているロジックが守ってくれているのかもしれない。或いは効果が薄いだけで完全な耐性ではないだけか。どちらにしてもフェルマータはアンソニーのように信仰心を近接格闘術に変換できるほどに魔力の扱いに長けているわけではない。耐性があったとしても、先にカプリコンの『呪詛』に捕まるのは彼女の方だ。無論、そんなことはあってはならない。
救いたいと思ったのだから救わなければならない。オーネストはずっとやってきた。救える範囲、見える範囲の人々を救って守り通してきた。それだけしか出来ないと本人は言い続けていたが、アンソニーにはそれすらも出来ないままだ。
いつもいつもいつもいつも、誰かを救おうとすれば大勢の人々が死ぬ。たった一人を救うために百人単位で人が死んできた。『死の魔法』を使ってしまうこともそうだが、死が間際に迫った人間が持つ『死んででも殺す』という強い意志に歯向かうために殺さざるを得ないのだ。
奪われてきたからこそ、奪ってくる者の心の機微に敏感で、過剰に命を防衛してしまう。
「なにが怖いの? お姉さんが聞いてあげるから」
フェルマータが生み出した魔物を全て一掃する。『竜眼』は無機物や有機物を問わずにロジックからロジックにテキストを移行することができる。魔力に植物の生命を移行するだけで植物は枯れ果てるが、魔力は生命を得て魔物と化すのだ。
本意ではない。恐らくそんな使い方を彼女はしたいわけではないのだ。それでも書き換えられたロジックのせいで、目に映るありとあらゆる恐怖を排除するために慣れない『竜眼』の使い方をしている。魔力の使い方が拙く、放出量も膨大で、こんなことを繰り返せば彼女はあっと言う間に力尽きてしまう。
どれだけ呼び掛けても声は届かない。だったら届くまで呼びかけ続けるだけだとオーネストなら言うだろう。しかしアンソニーはそこまで我慢強くはない。
「アンソニー! なにも彼女に拘らなくてもいいじゃないか! いいや、そもそもぼくと君は似ているんだから、そちら側に無理をして立つ必要は全くない!」
「私と戦っているのに茶々を入れるのが好きなのね」
「心の余裕だよ。ぼくは『魔の女』との勝敗に拘る理由はない。ひたすら場を掻き乱して、欲しい『魔眼』を奪う。ただそれだけ」
ルーエローズがフェルマータの背後でロジックを開く。
「そのためならとことんまで追い詰める方法をぼくは知っている」
干渉に間に合わないものの、リゾラとアンソニーがほぼ同時にルーエローズへと魔力の塊と打撃を与える。
「君たちが言うところの繋がりはぼくからしてみれば独りで生きていけないことへの言い訳さ」
魔力の塊も打撃も確かにルーエローズを捉えていた。しかしそれはリゾラですら見抜くことのできなかった幻影だった。
「“サモン”」
リゾラがガルムを複数匹放出し、ルーエローズの魔力の残滓とその臭いを追わせる。そして自身もガルムに横乗りして去っていく。
フェルマータが頭を抱えて激しく激しく髪を掻き乱す。
「死んで! 死んで死んで死んで死んで!! 死んでください!」
怨嗟の声が響く。呼応するようにカプリコンの尖兵である魔物が集まってくる。『悪魔』の権化は負の感情に強烈な興味を抱く。だからこそその尖兵もまたフェルマータの発する負の感情を餌として得ようと群がっているのだ。
だがそれを彼女は逆手に取る。『竜眼』を用いて尖兵のロジックから『カプリコンの従僕』である事実を無機物に移行することで、自身を守る番兵へと変える。
「“一番星、」
さすがに数が多すぎるため『星眼』の力を拳に込める。
「煌きの星”」
アンソニーの頭上に現れる巨大な金属の球体が激しく回転しながら身を削り、無数の金属片を周囲一帯へと放ってフェルマータの番兵を切り裂き串刺しにして倒す。
だがフェルマータの『竜眼』が『煌きの星』からアンソニーの支配権を移行し、暴走状態に変える。
「待って! それはあなただって……!」
現在、アンソニーは魔力供給を断っているが残された魔力分だけ『煌きの星』は回転をやめず、そして金属片は放たれ続ける。それも両者の意思が介在しない。どちらをも傷付け、どちらをも殺すだけの魔法となってしまっている。
自分らしくもないことをした。アンソニーは走り出し、気付けばフェルマータを庇っていた。しかし、無謀に庇いに行ったわけではない。星雲の障壁を張って、『煌きの星』を遮りながらである。身を切り裂かれることはあっても串刺しにされることはない。そう、これは自身の命も守りフェルマータの命も守る最も最善の方法――のはずだった。
「あっはっは♪ だから言ったじゃないか。彼女には全てが敵に見えていて、殺すべき対象なんだって」
フェルマータが握り締めている『煌きの星』から放たれていた金属片がアンソニーの体に突き立っている。抱き寄せて、怖くない怖くないと頭を撫でていたはずなのに、自身の腹部から大量の血が流れている。
「あ~ぁ、私は……いっつもそう。そう……そうだった」
守ろうとして全てを逆に多くを失う。
「怖くない……怖くないよ」
フェルマータは気が狂ったようにアンソニーに何度も何度も何度も何度も金属片を突き刺してくるが、アンソニーは変わらず聖母のごとく彼女を抱き締め、頭を撫で続ける。
徐々に徐々に彼女の腕から力が抜け、金属片が手から落ちる。
――お姉ちゃん!
「あれ……? 私、お姉さん、だったんだっけ……?」
――どっちかに一つだ! 妹を売って金を得るか! 自らを売って妹を助けるか!
「あぁ……そう、だったんでしたっけ」
そのとき自身はどっちの選択を取ったのか。そこまでは思い出せない。
「でも、まぁ……良いかぁ」
「わた、私……私は……なんで、こんな、こんな……ことを」
「怖くない怖くない、大丈夫大丈夫。あなたを傷付ける人なんてどこにもいないの。ただちょっとだけあなたが怖がりなだけ。怖がり屋さんなのは別に悪いことではないけれど、怖いからってあれもこれも攻撃していいってことじゃ、ないんだよ?」
「死、死なないで……死なない、で」
「それはちょっと無理……かなぁ」
「無理とか言うなこの性悪女」
リゾラが巨大なスライムを半球状に膜を広げさせて、周囲を遮断する。
「あんたはそんなこと言いながら死ぬ性格してないでしょ。“ヒール”」
何度も刺されたアンソニーの腹部が少しずつ縫合されていく。
「死なせてくれないんですかぁ?」
「死なせないでしょ。あなただって人を殺した罪を清算できていないんだから。まさか死んで帳消しになるとでも思ってんの?」
「ルーエローズを放っておいたらどうなるか」
「放ってないし。あんただって本物の私を見つけられてなかったんだから」
そう言われて、ようやっとアンソニーはリゾラがすぐに駆け付けられた理由に至る。
あのルーエローズをガルムで追い立てていたリゾラは彼女自身の魔力で作られた幻影だったのだ。そのことにアンソニーもルーエローズですら気付いていなかった。彼女はただ、この危うい状況を見ていた。
「でも、私……助からないと思うんですよねぇ~」
流した血が多すぎる。傷が縫合されても、失血死という形で自分は死ぬ。そのように悟ってしまっている。
「リゾラさん、この子のことお願いします。争いと全く関係のないところで……苦しいとか悲しいとかとは最小限のところで、ただ楽しく幸せに生きられるように」
「ふざけないでよ。あなたの役目を私に押し付けるな!」
「でも、あなたの魔力でも私の命が……消えていくのは、分かっているはずでしょう?」
「いいえそんなのは絶対にあり得ない!」
「……なんですか? 私のこと嫌いなはずだったのに、今更になって名残り惜しさでもあるんですかぁ~?」
「ええそうよ、その通りよ。だから死ぬんじゃないわよ、アンソニー!」
言わせてやった。それだけでアンソニーは満足である。
だからもう瞼を閉じて、やって来る死を受け入れるだけだ。
「“祝福の目覚め”」
「……………………え?」
アンソニーは意識が落ちた感覚があった。確かにあれは死の感覚だった。経験があったわけではないが、全ての生物が本能的に持ち合わせている死の感触というものを強く感じていた。
なのに、アンソニーは今、自らの意識がハッキリとしていることに驚きを隠せない。
「黙って入ってきてしまってすまないと思っている。でも、消えそうな命を見逃すことができなかった」
ヴェインがそう言ってリゾラに近付く。
「リゾラベートさんは『魔眼収集家』と戦い続けることはできるかい?」
「……誰に向かって言っているの?」
「いや、いやいや待ってくれ。俺はアレウスの知り合いで……あぁ、怖いなぁ」
怯えながらもヴェインは言葉を続ける。
「『魔眼収集家』の横槍がなければカプリコンを仕留められると思うんだ」
「そう……なら、私は言われた通りにするまで。アンソニー? あなたはこの『竜眼』の子をシンギングリンまで逃がしなさい」
リゾラはスライムの膜を払い、走り去る。その姿もまた本物か幻影なのか、アンソニーどころかヴェインやアイシャですらも分からない。
「え……あ~、なんで私、生きているんですかぁ~?」
あれだけ血を流したというのに、体中から力が抜けたというのに、もうアンソニーは起き上がることも立ち上がることもできてしまっている。
「蘇生魔法さ。でも唱えたのは俺じゃない。彼女だよ」
アイシャがヴェインに促されるようにしてやって来る。
「これまでの長い長い回復魔法の歴史の中で、研究されても誰一人として完成させることのできなかった蘇生の魔法を彼女が使った。俺も辛うじて助かって、そして今、ここに立てている」
「ふ、ふふふ……あははははっ、なんですかそれ~。『魔眼収集家』さんって本当に見る目がないじゃないですか~。こんな凄いことができる神官を、屍霊術師を目覚める予定の『魔眼』が使えないからって手放しちゃったとか」
スッとアンソニーは笑顔という仮面を一瞬だけ剥がす。
「これは天上よりの命令である。“出廷せよ”」
そうして唱えられた祓魔の術は周囲一帯を駆け抜けて、全てのカプリコンの尖兵が発していた『異常震域』を消失させる。
「これで共振しなくても戦えるようになりました。多くの方々に掛かっていた負担も軽くなったはずです」
アンソニーは震えているフェルマータを抱き上げる。
「でも私たちより劣――いいえ、私の目は節穴でしたね」
ヴェインを一目見て、アンソニーは考えを改める。
「あとはお任せします、聖者様」
ヴェインは首に掛けていた十字架の紐を千切り、手に握り締めながらカプリコンに向かって歩き出す。
「どんな困難が待っていようとも、どれほどの苦渋を舐めることになろうとも、どれほどの理不尽に遭おうとも、どれほどに俺を、俺たちを破滅へと導こうとしても……歩くのはやめない」
肩で風を切るように歩きながら呟き、その一歩一歩は大地に眠る亡者すらも浄化させて輪廻へと還す。
「不幸の数だけ悲しみがあり、悲しみの数だけ苦しみがある。その連鎖にまつわる全てに関わっているとまでは言わない。けれど、『悪魔』も魔王も、それら全ては俺たちに恐怖と死を与えてくる。だからこそ、祓わなければならない。生命は幸福の中でこそ燦然と輝くのだから」
「嘘だ」
ヴェインから発せられる独特のオーラを遠くで感知しながらルーエローズが動揺の言葉を吐く。
「この世界に聖者が降り立ったのなら、『信心者』が死んだってことになってしまう!」
「だったら、死んだってことじゃない?」
情勢が傾くのを待っていたルーエローズだったが、もうリゾラに追い付かれている。それも反撃してようやく消し飛ばした幻影ではない本物である。どうやってここまでの距離を一切合切無視して近付いてきたのかを理解することができていないようにリゾラには見えた。
「私にとっては嬉しい話。だって、まともな人が聖者になったのなら世界はきっとまともな方向に導かれるってことなんだから」




