出生地にて恋に落とす
*
「ラタトスクの調査であればアベリアが最適ですのに、どうしてわたくしがこのような場所に……」
しおらしく、また全くと言っていいほどに覇気がないクルタニカはボソボソと不満を口にする。
アルテンヒシェルとオルコスの話を聞いてすぐにアレウスはクラリエと共に現在、シンギングリンに滞在している仲間たちに報告した。ヴェインたちにも帰り次第、家にいる仲間が伝えることになっており、リスティはギルドへ合力については伏せたまま情報提供を行い、同時に協力を要請した。
だか、その場にクルタニカがいなかったのでアレウスはアベリアに事情を説明してから納得してもらい、次の日に二人でギルドの『門』を用いてアレウスの故郷だと考えられるラタトスクへと足を運んだ。
「リオン討伐後にクラリエが『門』の機能を回復させていて正解でした」
「そういえば、『異端審問会』によって機能を停止させられていたんでしたか。それほどまでにラタトスクを調べられることを彼らは拒んでいたことになりますね……」
「……いつもの口調はどこに?」
「わたくし、自分自身の無力さに打ちひしがれているところです。強がりや強気であっても、周囲に迷惑を掛けることばかりをしていますから……普段通りにいようと思っても、限界があります」
どうやら相当に落ち込んでいる。
「『冷獄の氷』に初めて触れたときも、ラブラの元に自らの意思で向かったときも、そして今回の『百合園』に関しても……空回りばかりで、もうそろそろ自分自身の生き様を考え直すときが来たのではと思っている真っ最中です」
「考え直す?」
「もう冒険者は辞めて、教会での仕事に専念すべきではないかと」
彼女からはとにかく意欲が感じられなくなっている。彼女の中で特にトラウマ級の失敗に『百合園』の一件が据えられてしまっているのだ。
「『百合園』だけど、あれは誰だって想定できることではなかったはずだ」
「ええ、でもわたくしは上級冒険者として想定するべきでした」
「別のテッドが出て来ることさえ想定しなければならないと?」
「ええ、ルーファスならば出来ていたと思います」
ルーファスを比較の対象として出されるとアレウスはどう声を掛けていいのかすら分からなくなる。ルーファスにアレウスは師事をしていたが、彼の冒険者としての一面はほとんど見ていないからだ。それはむしろクルタニカの方がよく知っていて、自身が口を挟めばすぐにでも反論されて言い返す余地を失うだろう。
「アレウス? アベリアではなくわたくしとラタトスクに来たのは、別にわたくしを慰めたいからだけではないのでしょう?」
「慰めようとしていたのはバレていたのか」
「バレバレです」
溜め息をつかれる。クラリエも同じような溜め息をついていたが、やはり気が利かないという点では女性陣にはこうして呆れられることの方が多いようだ。
「残念ですが、ちょっとやそっとじゃわたくしを慰めることはできません。あなたとわたくしでは生きてきた長さが違い、あなたの経験で語られたところでわたくしはそれより長い経験から、なにも得られることも学ぶこともできないんですから」
ヒューマンより長生きであること。むしろヒューマンがどの種族よりも短命である点が、こうして一つの壁として立ち塞がる。
「だったら、慰めることは後回しにしてちょっと手伝ってほしい」
慰めることも説得も今は難しい。だったらそれは先送りにしてしまおう。アレウスはクルタニカの溌剌さの欠片もない表情を見てそう決める。
「手伝うとは?」
「ここは僕の故郷で、僕の住んでいた形跡があるはずなんだ」
「それは、前回の調査でなにも残っていなかったと分かったのではないですか?」
「いや、やっぱり調査が足りていないんだと思う。『百合園』の一件で思ったんだよ。人がいた形跡や痕跡というのは消したくても消し切れないこともある。どんなに消し去る努力をしても、必ずどこかに綻びが出る。だって、人が生きていたんだ。人がこの場所にいたんだ。そんな事実が、ロジックを書き換えただけで全てどうこうできるわけがない」
「でも記録にも残っていなかったのでは?」
「クルタニカはヘイロンの告解についてもう聞いたか?」
「ええ、アベリアから昨日の内に」
「記録というのはさ、公式に残されていたり残される気配がなくてもあんな感じで非公式に残るんだと思った。結局、人それぞれが抱く記憶を残したいという意思が書き物に残される。ヘイロンもいつかはあの告解を読んでほしいという願いからあんな風に隠した。書いたのであれば、いずれは誰かに見つけたほしい。その願いは、誰だって当たり前に、当然のように抱いていることだと思うよ」
「つまり、ただの文字、文章、無機物的な無感情な記録ではなく……感情と想いが込められた記録を探したいんですか? 住民台帳ではなく、人々の日記帳のような。ですが、それこそロジックを書き換えられた住人たちは全て廃棄しているのでは」
「住民全てのロジックを本当に書き換えることができたのか。そして、書き換えられていたとしても本当に記録の全ては抹消されているのか。この村の公式的な記録では抹消されていても、やっぱり僕は僕自身がいた痕跡が全て完全にここから消えてなくなっているとは思えないんだ」
口元に手を当て、クルタニカは考え込む仕草を見せる。それから手を降ろし、小さく息を吐いた。
「そこまでの熱意があるのでしたら、付き合いましょう。無駄足になるかもしれませんが、それであなたの気が済むのなら」
元気はないが、アレウスへとクルタニカは微笑する。塞ぎ込んでしまっている彼女には恐らくそれが精一杯だ。いつもの通りなら高らかに笑いながら、むしろアレウスを引っ張るようにして歩き出している。
大人しいクルタニカを連れて、村を歩く。家々を訪問し、単刀直入に日記帳を見せてほしいと言ってみるが誰もが首を横に振る。
「もっと遠回しに言うべきでは?」
「どっちにしたって人の内緒にしたいことが綴られた日記帳を読ませてほしいって言わなきゃならないだろ」
「まぁ、それはそうですけど」
「だったら許可が得られるかどうかすぐに分かる方がいい」
「人へ与える印象を考えたりは?」
「クルタニカはいつも考えているってことか?」
そう問われ、彼女はしばし沈黙しながらアレウスのあとを付いて行く。
「考えていますよ。どのようにすれば目立てるのか、どのようにすれば自分自身に興味を抱いてもらえるのか。そんなことばかり考えています」
「普段の口調もその辺りに理由があったりするのか?」
「いいえあれは……親友との約束なんですよ。親友が女らしさや女性らしさを私的な部分以外では捨て去らなければならなくなったので、だったらわたくしが彼女の代わりに女らしく、女性らしい気品高い口調を用いようと」
「かなり独特な口調になっていると思うけど」
「当時のわたくしにとっては、あの口調が最もそれらしいと思ったからです。もう癖になってしまっているんですよ。よほどのことがない限り抜け落ちない、過去のわたくしの残影です」
今はよほどのことがあるから抜け落ちていると言いたいらしい。
「あまりふざけたことを言えるような元気はありませんから」
アレウスが思ったことへの返事をクルタニカは行う。
「『百合園』について、わたくしがどうしてここまで落ち込むのか。どうしてこんなにもトラウマめいたものを抱いているのか。アレウスは完全に分かっていらっしゃいますか?」
「いいや、分からない。いつものクルタニカなら、すぐに立ち直ることができているから」
「……わたくしは仲間を危険に晒してしまったことへの後悔も抱いていますが、それはどんな冒険者であれパーティリーダーとなった際には抱かなければならない罪悪感です。それは処理することができます。ただ今回ばかりは……奴隷商人と対話させてしまいました。奴隷商人の悪逆非道の言葉を聞かせてしまい、最低最悪の事態にまで物事が発展しかけました。あのとき、アレウスが来てくれなければニィナは柔肌を奴隷商人の前に晒し、そして彼女だけでなく全員がそのような状況に追い込まれていたでしょう。わたくしは、仲間である女性たちに好きでもない異性に素肌や柔肌を晒すかもしれない恐怖を与えてしまいました。簡単な話ではありません。男が見せる獣の一面を凶悪に露悪的に、露骨なまでに見せられる。それは、耐性があろうとなかろうと心の傷になるものです。魔物への恐怖ならば戦い続ければ払拭できます。戦えないのであれば一線を退いてしまえばいい。魔物と出会わないように村や街に引きこもるだけで大体が済みます。でも、男性とはこの世界においては女性と二分する存在。否が応でも必ずどこかで出くわす相手。そんな相手を見るたびに、あの瞬間を思い出しかねない。そんな心の傷を与えてしまったわたくしの罪は大きい。だって、ただ普遍的な生活を送ることさえ困難になり得るのですから」
「アベリアたちは平気そうにしていたけど」
彼女たちは恐怖こそ与えられはしたが乗り越えている。アイシャはかなり怪しかったが、アレウスへの嫌悪感へ変換することでなんとかなっている。あのあとニィナとの面会をギルドに申請してそれとなく聞き出したが、アイシャの眠りや生活を妨げるほどの脅威にはなっていないことが分かっている。
「では今後、わたくしが二の轍を踏まないと言い切れることができますか? 今度はアベリアたちではなく、あなたの知らない女性冒険者たちを連れていた場合、どうなると思いますか?」
クルタニカは優しすぎる。自分たちが大丈夫ならそれで良いという考えには至らないのだ。同じことがアベリアたちではない女性冒険者と同行したときに起こった場合を考えている。
ヒューマンはどの種族よりも短命だ。それはどんな種族もヒューマンより長生きすることを意味する。クルタニカは未来を見ているのだ。アレウスたちとの冒険が終わったあと――アレウスやアベリアがヒューマンとしての生を終えたあとの新たな人生を踏み出した先のことを考えている。そのときに同じように冒険者であるかどうかは関係なく、もしも冒険者だったならと想像している。
「わたくしは教会に属する者。教会に属している以上はありとあらゆる恐怖を取り除くことが信条。なのにわたくしは恐怖を与える可能性を感じてしまった。それがとても怖ろしい……最近は少しばかり夢見が悪いのです」
本当にどうこう言うことができない。アレウスが『異端審問会』に受けたのは拷問で、性的ななにかを伴うものではなかった。だからこそ奴隷商人に対しては嫌悪と憎悪しか抱くものがない。
どうなるかは知っている。アベリアが抱えていたトラウマを見ている。フードで顔を隠させ、水浴びも人気の少ない場所でアレウスが周囲を警戒できる場所と定めた。あれは一種の独占欲でもあったが、単純に彼女が抱くトラウマが強く発露しないように無意識に行っていたことだ。
彼女はアレウス以外の男にはヴェインと出会うまで心を開けなかった。冒険者になるまでの一年は語るほどでもないが、語れるほどに簡単な毎日ではなかったのも確かだ。
言葉が出てこない。アレウスの表情からクルタニカも察するものがあったらしく「探し物を続けましょうか」と言われてしまい、この話題が一時的に途切れる。
「アレウスが住んでいた場所ってやっぱり分からないんですか?」
「おぼろげにしか記憶がない」
想い出となるような光景を思い出しても、どこも一致しない。村の形が変わっているせいだ。
「家々の形が変わっているせいで、思い出せなくなるはずがありません。私たち人間の想い出は家にも残りますが道にも残ります。道さえ残っていれば、人はそこを歩けば当時の光景を思い出すことができるのです。どこになにがあり、どこでなにをして、どこでどのようなことが起こったか。全ては道にあり、全ては道を歩けば思い起こせること。それで思い出せないと言うのなら、ここはアレウスの故郷では全くないという事実のみが発覚します」
「それはそれでありがたいな。他の村を調べることができる」
しかし、ここは間違いなくアレウスが暮らしていた村のはずだ。リオンの異界の穴が変わらずこの村にあって、そしてその穴に飛び込んでヴェラルドやナルシェの魂と戦い、外ではリオンと決着を付けた。
この場所以外に、あり得ないのだ。
「……なんだ?」
「どうかしましたか?」
「今、なにか聞こえなかったか?」
「いいえ、なにも」
ならば幻聴だろうか。しかしアレウスの耳には確かに懐かしい音色が聞こえたような気がした。その音色のする方へと足を向け、歩き出す。
リオン討伐のためにラタトスクは帝国軍人によって一時的に占拠された。村人を保護するために一時的に村は明け渡され、その際にアレウスは村の中を歩いたが、軍人に不審に思われる行動は慎まなければならなかった。だから村中を歩くということは難しく、ただ村という景色を全体的に眺めることぐらいしかほぼ出来なかったと言える。
だが今回は違う。寒村ながらも村人たちは普段の生活を送り、何気ないことで笑い、食し、語り合っている。これが本当のラタトスクという村の光景で、あのときは見ることのできなかった確かな人々の生き方だ。
道を歩いている内に、全身の神経に指を滑らされたかのように総毛だった。
「僕はあそこの木に登ろうとして母さんに止められた」
危ないことをしてはいけないと叱られた。
「僕はあの場所で転んで泣いて、父さんに抱きかかえられて家に帰った」
擦り傷一つで泣いて、父さんたちを困らせた。
「僕はあの曲がり角で、友達を分かれて家に帰った」
周囲の家は形を変えている。だが曲がり角はそこに変わらず残っている。
「僕は……僕は……僕の、家は…………」
そう呟きながら早足で進むも、辿り着いた場所に家はなかった。
「……それは、そうか」
ロジックを書き換えて、『異端審問会』によってアレウスたちは異端審問に掛けられ裁きを受けた。それはつまり罪人にも等しい。罪人が住んでいた家など壊されて当然で、罪人の住んでいた土地に新たな家を建てることなど誰もが拒む。空き地ではなく、地鎮の祈りを込めたのであろう祭壇はアレウスたちが悪霊となって村を脅かす存在にならないようにというせめてもの願いが込められている。
「ならさっきの音色は、どこで」
「だからそのような音色はどこからも……いいえ、聞こえます」
否定気味だったクルタニカが唐突に呟く。
「こっちです」
言われるがままに付いて行く。
なんとも家と呼べるかどうかも怪しい、今にも崩れてしまいそうな民家があった。窓から中の様子を窺うと老人が座っているロッキングチェアがゆらゆらと揺れている。その隣にあるテーブルに置かれた箱から音色が聞こえている。
こんな遠くの、しかも民家の中から聞こえる音色をアレウスたちは聞いていたのかと自分たち自身の耳の良さに驚かざるを得ない。
「オルゴールか」
「おるごおる? おるごーると言うんですか?」
「え、あ、知らないのか?」
「知りません」
深層に眠っていた知識から自然と発していた名称がこの世界では珍しいものであることに驚く。
「ネジを巻いたら、巻いた時間だけ旋律を奏でてくれるんだ。それも箱を閉じていると止まって、開くと鳴るようにできている」
「見たことがありません」
帝国ではほぼ見ないのだろう。では王国などでは見かけるのだろうか。
「誰じゃ?」
窓から様子を窺っていたのがバレた。アレウスたちは玄関口に回って扉を叩く。
「なんじゃなんじゃ、お主たちもワシがボケただのなんだのと笑いにきおったのか? もういいもういい、ワシはボケた老人で構わん。なにを言っても信じてもらえんのじゃから」
「あ、え、ええと」
「珍しい音色が聞こえたので思わず外から覗き込んでしまいました。そのことについては謝ります」
クルタニカが老人に頭を下げる。
「良ければ少し、お話を窺ってもよろしいでしょうか? たとえば、そちらのオルゴールはどこから? 帝国ではあまり見たことがないものでして」
「ああ、これは」
そこまで言って老人はしばし躊躇いを見せるが、やがて口を開く。
「そこの家にあった物じゃ。そこの家と言っても、もう影も形もないがのう。ワシもこれがどこの国のどのような土産物なのかは知らん」
「では家を壊す際にせっかくならと貰い受けたものですか?」
「貰い受けた? 違う、これはワシが意地でも譲らんと声を張り、守り通した物じゃ。それ以外は守れんかったが、こればかりは……こればかりは、誰にもやらんかった。この村は五年、いやそれより以前から急になにもかもが変わりおった。ワシが北方の海に出ている内にじゃ。たった三ヶ月じゃぞ? たった三ヶ月の漁を終えて、その給料を貰って帰ってきたときにはもうなにもかもが変わっておった」
「そのお体で漁に?」
「ふんっ、信じられんという目で見るがのう。あの頃のワシはまだまだ若かった。今のワシは…………もうなにも出来なくなってしまったがのう」
老人はそう言ってロッキングチェアへと戻り、腰掛ける。特になにも言われはしなかったが応答していたクルタニカが家に入ったのでアレウスも続く。
「その地鎮を込められた祭壇が見えるかのう? そこにはさっき言った通り、家があった。余所者が住んでいた家じゃ。こんな村になにをしに来たのかも分からんし、移住するにしてもどうしてこの村なのか、誰もが怪しみ訝しんでおったわ。言うてワシもその内の一人じゃ。じゃが近所に住まれてしまっては仕様もない、挨拶ぐらいはせねばなるまい? ワシは仕方無しに余所者の家を訪問した」
オルゴールのネジを老人は巻き直す。
「旦那とその奥さんの二人暮らし。しかし奥さんはワシが見ても明らかなほどに腹が膨らんでおってのう、妊婦じゃとすぐに分かった。最初は強気で接し、どうにかしてこの村から出て行ってもらおうなどと考えておったが、妊婦じゃぞ? 強い言葉でなじって追い出すことなどできんよ。ワシは村人の端くれではあるが、同時に人間の端くれじゃ。妊婦を夫と共に追い出したなど、ワシの人生の誇りにかけて許すことはできん。じゃから、せめて赤子が産まれるまでは我慢しようと決めた。しかし、その日を境に旦那がなにかとワシの家に訪問するようになった。村の規則や村での生活の仕方、様々なことを訊ねてきた。追い返してもよかった。じゃが、しつこいのでさすがにワシが折れた。妊娠しておる奥さんのことも鑑みて、旦那がこの村にいられないなどと考えて唐突に村から出ようなどと考えるかもしれん。それは駄目じゃ。妊娠している奥さんはただでさえ神経質であろうに、更に負荷のかかるようなことをさせてはならん」
オルゴールが再び音色を奏でる。
「ワシは村での生き方を色々と教えた。特に重要な村の会合での立ち回りは熱心に。村で開かれる会合は必ず参加し、与えられる役職は必ず全うせねばならない。この規則を破れば、村人から余所者であるという目を消すことはできん。じゃが、余所者にまず与えられる仕事は必ず重労働となるもの。そうやって任せ、負荷を掛け、潰して村から追い出す。それがこの村のやり口じゃ。だからこそ、ワシが口利きをした。この旦那の仕事はワシが面倒を見ると言った。村では年寄りほど発言権があるんでのう、ならばワシに任せると村長も仰った。おかげでワシの苦労も増えてしもうたが、産まれてくる赤子のためならば仕方がない。翌日から旦那と共に村の仕事を始めた」
「手伝ったんですね」
「妊婦でなければ追い出しておったわ。しかし、旦那は一見してすぐにでも弱音を吐いてしまいそうな男じゃったが、なんとも辛抱強い。ワシがイヤミを言おうともそれを学びとし、めげず、励んでおった。気付けばワシは旦那を家に呼び、お酒を勧めることさえあった。しかし旦那は『妻が出産を終えるまでは酒を飲まないと決めている』と言って決して飲まんかった。会合でも酒が出たが、『妻の出産を終えるまで』と必ず拒んでおった。任せた仕事はしており、ワシが横におって、村長もさすがに強気になることはできん。時には家に村人たちが押し掛けることもあったが、『妻の気に障りますので』と玄関で立ち塞がっておったくらいじゃ。さすがにそれでは遺恨が残るということで村長のみを通し、そうして村長が村人に旦那の言っていることは本当だと告げて、ようやくその日は落ち着いた。妊娠していることが嘘という噂がまことしやかに流れておったらしく、村人はそれで楽をしようとしているのだと旦那を糾弾しようとしておったのじゃ」
咳き込み、老人は近場にあった水を飲む。
「次の日から村人の旦那への当たりは柔らかくなった。奥さんのためにと働く旦那に少しずつ村人が心を開いていった。ワシのところに奴は嬉しそうに報告し、毎日のように感謝を伝えてくるようになった。感謝など妻に向け、こんなジジイの家に長居などせずに早く家に帰れと、ワシの当時の口癖じゃった」
アレウスは今、自身の誕生の秘密について知ろうとしている。そのことに、なにか感慨深いものがあって自分自身という存在が遠くに行ってしまうような、強い強い高揚感もあった。
「赤子が産まれた。男の子じゃった。その日は村人も仕事など手に付いておらず、ウロウロとあの家の周りを歩き回っておった。産婆が家に入ってどれくらいの時間が経った頃か、赤ん坊の泣き声が聞こえたときに村人たちは大きな声を上げて喜んでおった。ワシもこの家の中で、どれほどに喜んだことか。そしてその日の当日じゃ、夜も遅い時間に旦那がワシの家に訪ねてきおった。日頃の感謝を告げて、そうして酒を持ってきた。『約束していたことですからね』と言って、旦那が注いだ酒をワシは旦那のグラスにも注いで、共に飲んだ。二杯ほどで酔い潰れてしまう旦那に、ワシは心底笑うてしもうたがの」
ロッキングチェアは老人の重心の移動でゆらゆらと揺れる。
「そこからの毎日は、語り明かせないほどに充実した毎日じゃった。あれやこれやと、沢山の……そう沢山のことがあった。鮮明に思い出せるほどに、強烈な毎日。悲しいことも楽しいことも、笑えることも……なにもかも…………そう、あの毎日にはなにもかもがあった。なのに…………その年は村全体での収穫が悪く、収入が良くなかった。じゃから何人かが希望して北方の村まで出て、漁をすることとなった。旦那が率先して行こうとしておったが、ワシが行くと言って止めた。子供は随分と育っておったが、まだまだ面倒を見なければならん。子供の成長は親にとって想い出以上の価値がある。日々変わりゆく子供から目を離すべきではない。そう諭して、ワシは漁に出た…………三ヶ月後、なにもかもが、無くなってしもうたが」
「一体なにが?」
「異端審問があった。村人はどいつもこいつもそれしか言わん。旦那と妻とその息子がどうなったか、誰も知らんの一点張り。なにより許せんのは旦那たちの家を潰すともう決めておったことじゃ。ワシは急いで家へと向かい、扉を開け、中を見た。どこにもおらん、おらんのじゃ。そして中にあった沢山の書き物や子供が描いた絵も、なにもかも無くなっておった。あったのはこの箱のみ。この音の鳴る箱だけじゃ。それすらも処分しようとしておったからワシはなにがなんでもこの箱だけは、この箱だけはと奪い取り、激しい暴力に見舞われたが……なんとしてでも守り通した」
長く伸びた前髪が揺れ、見れば老人の片目は潰れている。
「本当にワケが分からん。ワシは亡霊にでも化かされてしまったのかと、気でも狂ったのかと思った。いいや、そう思わされた。村人たちが声を揃えてワシを変だと、ボケただと言い始めたからじゃ。徐々にワシは村で発言権を失い、こうして今ではいずれきたる天寿を待っているだけの人間となった」
老人はアレウスを見やる。瞬間、目を見開く。
「お主…………名は、なんと言う?」
「僕ですか?」
「早くせい」
「アーノルド・エイデンですが」
「……なんじゃ、ワシの気のせいか。ふっ……世にはワシがよく憶えておる名前の冒険者がおるらしいが、それもきっとワシの耳が遠くなってしまったか、ワシの思い違いなのじゃろうな」
老人は力んでいた体を再びロッキングチェアに委ねる。
「少し、この箱を見てもよろしいですか?」
「好きにせい。壊すのも、持ち運ぶのも許しはせんがな。ボケた老人であっても、物盗りであれば抵抗はするぞ」
アレウスは許可を得てオルゴールを調べる。
「見たところ、箱の中にはなにもありませんが」
「入れ物にしては小物を一つ入れたら限界に見えないか?」
「それは、そうですが」
「オルゴールは機械仕掛け。その部分が損傷しないように箱を開けても触れられないように覆われている。そしてその覆われている部分がこの箱では取り外せるようになっている」
「なんでそんなこと」
「よく知っているから」
箱の中で更に蓋となっていた小板を外す。四角く折り畳まれた紙を手に取り、丁寧に蓋を元に戻して箱をテーブルに置いた。
紙を開き、中を読む。
「これは、あなたへの手紙ですね」
「なんじゃと?」
「僕たちには価値がない物なので、あなたが持っていて構わないはずです」
そう言ってアレウスは手紙を老人へと渡す。
「感謝しています。息子にとって、その人は近くに住む好々爺でしかなかったと思いますけど、右も左も分からない土地であなたという協力者を得て、両親はきっと感謝しかなかったと……思います」
「おぉ………これは、ワシは……ワシの日々は、決して作られたものでは…………待て、両親?」
「その手紙に書かれていたことから掬い取ったことですよ」
老人にアレウスは頭を下げる。
「ありがとうございます」
「…………あぁ、その言葉でワシは、この手紙でワシは、ようやく天寿を全うする覚悟ができた。まだまだ、死なんがのう」
アレウスはクルタニカの手を引いて老人の家をあとにする。
「偽名を使わずともよかったのでは?」
「察してもらう程度で丁度良かったんだよ。『もしかしたら』があの人にとっては、これからの生きる力になるから」
「あの手紙、ご両親から老人への感謝を込めた言葉が詰められていました。もしものことがあった場合に事前に仕込んでいたものなのでしょうね」
「ああ、だから僕の両親は『異端審問会』がこの村に訪れることを事前に予期していた。いや、来るかもしれないと思っていた」
「ではあなたのご両親は『異端審問会』に追われる身だった。ですが、追われているということは」
「……僕の両親は構成員だったのかもしれない」
憎んでいる集団が、実は両親が追われるまでは拠り所としていた集団。そんなことが分かってしまった。
「どうするんです?」
「どうするもなにも、僕のやることは変わらない。追われていたかもしれないってことは、僕の両親は『異端審問会』と敵対する道を選んだってことだろ。まだ雰囲気でそうだと考えられるだけで、確定付けるものはない。もしそうだったとして、いやそうじゃないんだとしても、僕は僕の復讐を果たす」
そこで一呼吸――深呼吸をする。
「クルタニカさん」
「敬語はやめてと言ったはずですが」
「いいえ、クルタニカさん。僕はあなたに感謝を伝えなければなりません。あなたがピスケスの異界で先んじてやって来てくれたおかげで僕たちは助かりました。あなたがいてくれたことでアベリアはシンギングリンで魔法を高めることができました。あなたがいてくれたおかげで、崩壊した街での適切な冒険者の生き様を見ることができました。あなたがいたおかげで、」
「ま、待ってください。いきなりなんですか!?」
「あなたはあなたが思っている以上に、僕たちを救えていることを伝えたいだけです。いいえ、沢山の人を救えているのだと知ってもらいたいんです。あなたは自分が目立とうと躍起になれば、ほとんどが空回りに終わると仰っていますが、それはあなたが成功ではなく失敗を常に見ているからです。常に反省をし続けているからです」
「反省……」
「人は成功の余韻に強く浸れることができますが、失敗はすぐに消し去りたいために忘れる努力をします。あなたは忘れない努力をしています。それがきっと、あなたの根強い成功体験を埋もれさせ、自身の失敗体験を強く強く感じさせる要因になっているんです」
「だから……だから、なんだと言うんですか? 失敗は失敗です」
「いいえ、あなたにとっては失敗であっても多くの人にとっては成功です」
「だって『百合園』の一件はあなたが来なければ、わたくしは」
「僕が来たんだからいいじゃないですか」
「へ?」
「想定外のことが起こった。でも僕が来て、リゾラがいて、それでどうにかなった。それでいいじゃないですか。それともクルタニカさんはこれからも自分自身が失敗一つせず、全てを必ず成功に導くために身を粉にするのですか? そんなこと、神様以外には出来るわけないじゃないですか。物事は常に時の運、物事には常に不測の事態が付き纏います。失敗かと思いきや成功となり、成功が唐突に失敗に変わる。そんな中で失敗になりかけたことが一つの事象で引っ繰り返って成功に変わった。奴隷商人はリゾラの手に任され、僕たちは多くの奴隷を救うことになった。これは成功です」
「でも、心の傷が」
「だったらアベリアたちに聞いてみてください。きっとクルタニカさんに対して文句や憎悪の言葉を向ける人は誰一人としていません」
「それはわたくしがあなた方の仲間だから」
「そう、仲間だから」
アレウスはクルタニカの手を固く握る。
「未来を見据えるのは構いませんが、今の仲間を見つめることも大切なことです。今、あなたの周りにいる人たちのことを見てください。あなたを慕う人たちを見てください。あなたは僕にとって尊敬に値する人で、誰よりも努力を続けている人。僕たちに先輩冒険者とはかくあるべきだとその背中で見せ、己の生き様に正直で真っ直ぐで、誰に向けても誇って語れる人なんです。博打に弱いのが、玉に瑕ですけど。だから、自信を持ってください。あなたはあなたのままでいて欲しいんです。後輩の冒険者として、あなたに出会えて良かったと本気で思っている僕がいることを忘れないでください」
「ば、ば、ば…………馬鹿じゃないの?!」
完全に全ての仮面が剥がれ落ちたクルタニカの素の大声が発せられる。しかし、そこで彼女は取り繕い、立て直す。
「わ、わたくしはクルタニカ・カルメンでしてよ! 落ち込んでいるように見えたのはただのフリ! あなたの思い込みなんでしてよ!!」
「クルタニカさん」
「クルタニカちゃん」
「クルタニカちゃん様」
「でしてよ!!」
いつもの調子が戻ってくる。
「あなた、わたくしにそこまで言ってただで済むと思っているんでして?」
「え?」
抱き付かれる。強く強く、抱き締められる。
「アベリアと契り、結婚したあと、わたくしは絶対にあなたの愛人になってみせますわ。体だけの関係でも構いませんわ。その間、あなたはわたくしを見てくれるはずなんでしてよ。そうなりたくないのなら、さっさと特例を得るために励むんでしてよ! わたくし、愛人よりも重婚であろうとも結婚の方が興味ありありですわ!」
寒村であってもそんなことを大声で言われ、さすがのアレウスも全速力で彼女を抱えてギルドの『門』へと向かって走り去るのだった。




