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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第14章 前編 -国外し-】
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目覚め


 全ての雑音が、全ての景色が急速に急速に体内へと吸い込まれるような感覚が起き、強い眩暈を伴ったのちに全身を包み込んでいた灼熱のような暑さが一気に放出されていく。


 荒い息遣い。汗だらけの寝間着。喉が渇いて目に留まったコップに注がれていた水をゴクゴクと一気に飲み干す。


「驚いた」

 ハッとしてアレウスは声のした方を見る。

「…………リゾラ? どうして君がここに?」

「あなた、私の手紙を肌身離さず持っていたでしょ? 未練がましくも」

 そう言ってリゾラはアレウスに手紙の端を持ちながらヒラヒラと見せる。

「ここにいる私は手紙に注いだ魔力が織り成した幻影だけど、手紙をあなたが持っていたせいで死んだことが分かって仕方なく見に来たってわけ。『教会の祝福』を受けていたから甦るとは知っていたけど、念のため」

「……心配したか?」

「そんなわけ」

 リゾラは表情一つ変えずに断言する。

「迷惑なのよ。さっさとこの手紙は破り捨ててちょうだい。あなたを縛っていた縄を切ったのはそのためなんだから」

 両手両足と言われて自身の手首や足首を見る。擦り傷と強く縛られていた痕がハッキリと残っている。そして切れた縄はベッドの下にダランッと垂れ下がっていた。コップの水を飲めたのも、どうやら彼女のおかげらしい。


 手紙を受け取り、アレウスはそれを彼女の幻影の目の前で破ることを強制される。


「僕が死んで、何日が経った?」

「三日よ。三日間、あなたはあなたじゃなかった。だから急にあなたに戻ったから驚いたのよ」

「想像よりずっと短いな……」

「いわゆる『衰弱』からの復帰ってやつ? 冒険者は大変ね。魂を『聖骸』に定着させたあと、魂の記憶ともいうべきロジックを『聖骸』――新たな肉体に書き込み直さなきゃならないんだもの。肉体がしばらくは反発するわ」

「ああ、でも……甦った」

「一回切りの人生が尊いのに」

「そりゃ君みたいに一回切りの命で復讐が果たせるくらい強ければ良かったけれど、あいにく僕は足りていなかった。でもあのときに決断してよかった。でないと甦ることができていなかったからね」

「そのときは私が魂と死体を定着させてあげたのに」

「屍霊術で留まりたくはないよ」

 リゾラの幻影が少しずつ消えていく。

「ドナとエイミーって人があなたの様子を見に来るわ。私はそろそろいなくなるわね」

「どこかで……また、会えるか?」

「会えるかどうかは分かんないけど、私の復讐を手伝ってくれたんだから私もあなたの復讐の手伝いくらいはしてあげるかもね。気分が変わったら別だけど。じゃ、次は死の知らせ以外であなたのことを知らされたいわ。あなたの死を知ったとき、私の様子がおかしくなったってオーネストとアンソニーがうるさかったのよ。今もなんだか盗み見られているし」

「僕たちのロジックはどうしようもないところで繋がっている。君もどうか死なないでくれ」

「なに言ってんの? 私は永遠の命に興味なんてないからお婆ちゃんになって死ぬわよ?」

 老齢になるまでは死ぬ気はない宣言を受け、アレウスは苦笑する。

「元気で」

「そういうのはいらない」

 彼女の幻影はそこで消える。破いた手紙の切れ端は魔力の残滓となって砂と化した。アレウスは閉め切られていた窓を開き、入り込んだ一陣の風が砂を遠くへと連れ去った。


「白騎士の強さは異界獣と同格か、比肩するほどだった。でも、あれは油断じゃない。油断ではなくて読み間違えた。その上で純粋に強さで負けた。あの矢を防ぐ術を僕たちは持っていなかったし、あの矢に僕たちは対策を取らずに打倒しようとした。守りを捨てた速やかな攻撃。正しくはあったけど、攻撃を攻撃で返された」

 しかし、もっと耐え忍ぶべきだったとも思えない。白騎士の性質を読み間違えたのちの判断ミス。推測が推測の域を出ず、外れてしまったがゆえの勘の鈍り。そしてサジタリウスの弓矢を持っていたことによる動揺。


 それらが自身の死へと繋がった。


『アレウスさん、入りますよ?』

 ノックし、エイミーがやや表情を強張らせながら扉を開く。

「今日はまだ廊下に聞こえるほどの叫び声を出していないようで良かっ……アレウスさん?」

 ドナが独り言を発しつつ、顔をこちらに向ける。そして提げていた果物の入った籠を落とす。

「どうしたんですかドナさ……」


「ご迷惑を掛けてすみません。ここはシンギングリン……ですよね? なら、魔物の群れは掃討できたってことですか? 僕が死んで、『衰弱』状態だった三日間について教えてほしいんですけど」


 そう訊ねるアレウスに二人は黙ったまま近付き、迷わずに抱き寄せられる。

「え、いや、ちょっと……! ヴェインに怒られますよ?!」

「これは愛情の抱擁ではなく、神への感謝の抱擁です。ですよね、ドナさん?」

「あなたがすぐに戻ってきてくれたことへの感情の表し方にこれ以上の方法はありません」

 強く強く抱き締められて十秒ほど経ってから二人が離れる。


「あと今のくらいはヴェインも許してくれます。普段から沢山のことを許しているのだからこの一度切りくらいは許してもらわなければ困りますから」

 エイミーはドナが落とした籠から転がった果物を拾い出す。

「ええと、まずはお医者様に報告して、それからギルドへ報告でしょうか。あ、でも、お医者様からギルドへ連絡してくださるかもしれません」

 ドナはアレウスを抱き寄せたことで起きた服のシワを整える。

「ではお医者様に伝えてきます。魔物やギルドのことは私は分からないので、お願いできる?」

「お任せください」

 病室をドナが出て、全ての果物を拾って籠に戻してエイミーはベッドの傍の小さな机にそれを置く。

「僕のパーティなんですが、僕以外は死んでませんよね?」

「死んでいたら私はあなたではなくヴェインを優先していますよ」

 それはそうだ。婚約者を放ってこんなところにエイミーは来ない。

「なら、ちょっとだけ安心できました」

「私たちは安心できていませんでしたが」

「さっきから言葉の端々が刺さるんですけど」

「稚拙な感情表現だと思ってください」

 どのような感情表現なのか。訊ねたいが、訊ねられない気配がある。ヴェインはこの気圧される感覚を受けていても平気そうにしているがアレウスには耐えられない。

「ええと、あの、なんか、御免なさい」

「先ほど謝罪は受けました」

 謝罪すら許してはもらえない雰囲気だ。もはや言葉も出てこない。

「……私は、甦るのだから冒険者の死に一々動じることはないと常々に思ってきました。異界で死にさえしなければ、甦る。だから怖がることも怯えることもないのだと自身に言い聞かせてヴェインに『行ってらっしゃい』と言って送り出していました」

 椅子に腰掛けてエイミーは感情を吐露する。

「けれど、アレウスさんが死んだと聞いて……頭がおかしくなりそうでした。気を狂わせずに踏ん張れたのはヴェインが生きていたことと、あなたが甦った事実を目にすることができたからです。村長だった祖父の死を乗り越えていたはずなのに、故郷の村での出来事を一気に思い出して、それはもう……どうすることもできない衝動が湧き起こりました。だから、改めて言わせてもらいます」

 彼女の言葉の続きをアレウスは待つ。

「そんな簡単に死なないでください。これはきっとあなたの傍にいる誰もが強く願っていること。いいえ、あなたの傍にいなくてもあなたのことを知っている遠くの人たちも願っているはずです。そして、ヴェインが何度も死ぬことがないように……守ってください。お願いします」

 立ち上がり、頭を下げられる。

「力強く肯くことはできませんが、『はい』とは言っておきます」

「……では、その見返りとは言ってはなんですが」

 唐突に言ってエイミーが寝間着の下腹部に手を伸ばしてきたので抗い、ベッドの隅に逃げる。

「意味の分かんない使命感に駆られるのやめてくれませんか?」

「着替えや汗を掻いた体を拭くのを手伝うだけですが」

 それにしては手を伸ばす方向に違和感しかなかった。わざとそう感じ取れるように装ったのであれば、この人はアレウスを試している。

「僕はヴェインと一生の親友でいたいんです。さすがに親友の婚約者に体を拭かせるなんてことはさせられませんよ」

「それを言われてしまっては、冗談もこれで終わりにするしかありませんね」

 本当に冗談だっただろうか。パッと表情から責任感や使命感といったものを消し去ったので、そのメリハリの良さはやはり冗談であったと思わざるを得ない。


 エイミーは得体の知れない女性である。ヴェインしかその全容を知らない。そもそもあのヴェインを尻に敷けるのだからアレウスに測り知れる人物ではない。


「もしかして、体を拭く以外のなにかを期待しましたか?」

 やはり、この一連の会話は単純にエイミーがアレウスという男を試している。言葉に乗る必要もなければ乗る理由もなく乗りたいとも思わない。

「まさか。そんな期待を抱けばヴェインとはパーティを組めないし、親友ではいられなくなります」

 一切の嘘を含めない本心をアレウスが見せたことでエイミーが微笑む。

「では、お医者さんが来るまで今日までのことを報告します」

 からかい気味の艶やかな表情から普段の人付き合いで好かれる表情に戻る。まだアレウスを試していたらしい。回復して早々に人間性を試されるとは思ってもみなかった。


 溜め息をついたのち、ようやく彼女から語られる三日間の出来事をアレウスは耳にするのだった。


「――という感じです」

 エイミーは話を纏めるのが上手い。無駄な部分は省略して簡略化されており、聞いていて話の接続に違和感を覚えることもなくスッと頭に入ってきた。

「百合園とミスリル採掘か」

「ミスリルってどうなんです? 危険はないんでしょうか?」

「鉱山はどうしても落盤の危険性はあります。ただミスリル鉱石が掘れるところは比較的地盤が安定しているところなのでよほど穴だらけにしていない限りはシンギングリンの鉱夫の仕事より安全ですよ。ただ、魔物が徘徊している可能性はありますが」

「鉱山に魔物? ミスリルがエルフのエンチャントに向いているのとなにか関係が?」

「エンチャントが付与しやすいということは魔力を付与されたのちに保持できるということです。エルフのエンチャントはいわゆる無機物のロジックへの干渉なので」

「だから魔物が寄ってくると……なるほど。では、落盤よりも魔物が危ない?」

「その二つの比率で言うと魔物になりますけど、あの三人が今更ミスリル採掘で出会う魔物に殺されることは多分ありません」

 エイミーはグッと固めていた拳を緩ませる。あまり顔には出さないがヴェインを心配している。アレウスに訊ねてきたのも不安を和らげるためだろう。

「むしろ怖いのは百合園の方です。修道院の書庫を探索しているときにその手の文献に目を通す機会があったんですけど……」

 言いつつアレウスは視線を窓の外へと向ける。

「終末個体は引き寄せないにしても厄介な魔物を引き寄せます。ユニコーンは目撃数が激減しているので恐らくはいないとは思うんですが……」

「不安……ですか?」

「……いいえ、恐らくは大丈夫なはず」

 花に関する魔物が現れるというよりは花を荒らす魔物が現れやすい。例に挙げるならば蛇や鳥型だ。しかし、クルタニカやクラリエが同行しているのなら引き寄せられる魔物の知識はあるはずだ。

「僕が一番不安だったのは『衰弱』から回復したときに全員がここにいたり、全滅して全員が『衰弱』状態だったとかですかね」

 そのどちらも現実にはならなかった。仲間は生存して各自の判断で依頼を受ける選択を取った。


「アレウスさん、もうすぐお医者様がいらっしゃいますので」

「それでは、私も邪魔になりそうなのでこれで」

 ドナが廊下から伝え、エイミーが椅子から立ち上がって帰り支度をする。

「お医者さんを困らせるようなことは言わないようにしてくださいね」

 アレウスが言うこと前提で彼女は釘を刺し、ドナと共に退室した。ベッドの上でアレウスはそれを見送ってから、本調子ではない体を動かして部屋の隅まで歩き、置いてあった二本の短剣を手に取る。

「“曰く付き”が他の手に触れて、暴れたりしなくてよかった」

 握った瞬間に体に魔力が流れる感覚はあったが、どちらの短剣も変化はない。こうして甦ったのちに握ったことで主が死んでいないことを認識しただろう。

「……すぐに握ることができたから、回復が早かったのか?」

 甦った直後にアレウスは二本の短剣に数秒だが触れたはずだ。あれは意識的だったか無意識だったかは思い出せない。とにかく手が勝手に動いた。そのせいで混濁した記憶の海の中にまで淑女の声が響いてきた。しかしあれらはアレウスが勝手に思い描いた幻聴だ。赤い淑女はアレウスのロジックに潜んでいるが、アレウスの記憶の海にまで現れるほどの存在ではない。

 あのとき、孤独でないことを望んだ。問い掛けに答える相手を求めた。それが赤い淑女の声となったのだ。


 つまり自覚していた。『白のアリス』の記憶が混在したそれが、もう一人の自分の記憶そのものなのだということを。その疑問についての確証を赤い淑女に押し付けて幻聴に変えた。


「もう一人の自分は、この世界でなにをしようとしているんだ?」

 フラフラとベッドに戻り、腰掛けながら虚空に問い掛ける。しかしその答えを今度ばかりは赤い淑女の声として返ってくることはなかった。


「白騎士は矢で対象を捕捉する。視覚はない。そこまでは当たっていた。でも、僕を殺すと決めていたし僕を狙っていた。ここを念頭に置けなかった。あとは二匹だったこと」

 自身が死んだ原因、そして考察に入る。仲間との情報共有が足りなかったこともそうだが感知を頼りにした位置取りを普段から心掛けていたために大事なところで大事な立ち位置に入ることができていなかった。

「サジタリウスの弓矢を今、持っているのは白馬の方。あのケンタウロスは誰かから命じられていた。でも、それが誰なのかまでは分からない。異界獣からなのだろうけど」

 しかし主人であるサジタリウスは既にクリュプトンに討たれている。ならば別の異界獣に仕えているとも考えられるが、主と同一とも言うべき弓矢を手に、他の異界獣の力を借りに行くものだろうか。

「乗る魔物と乗らせる魔物。真に気を付けるべきは後者で、次に遭遇したときも恐らく鎧の魔物を乗せている」

 手の内を知られているのなら最初からケンタウロスとしての姿を晒すかもしれない。

「あのまま放置しているわけにはいかない。どうにかして居場所を突き止める。でないと犠牲者が増えるだけだ」

 そしてアレウスが生きていると知ればまたシンギングリンに現れかねない。いっそのことシンギングリンを離れるべきだろうか。

「…………矢の処理と、ケンタウロスに追い付ける足。そして、逃げ場所をなくすための包囲や特殊な地形への誘い込み。これらを解決しないと白騎士は倒せない。それで? 白と赤と黒。お前たちはこれで全員か?」

 アレウスは淑女の短剣に問い掛ける。

『我だった者について聞いているのなら』

 幻聴ではない赤い淑女の声が聞こえる。

『勝利の上に勝利を重ねる白騎士、戦火の象徴たる我だった赤騎士、大地を闇の色に染め上げる黒騎士。あと一人』

「あと一人?」

『死を彷彿とさせ、死そのものであり、そして死を与える青騎士』

「勘弁してくれ」

『だが青騎士が現れるときには人間は絶滅している』

「これっぽっちも安心できないことを言ってくれてありがとう。僕から訊ねておいてあれだけど、大人しくしておいてくれ」

 どうせアベリアから貸し与えられた力を充填しても、しばらくは竜も淑女もアレウスに力を貸してくれないだろう。肉体がまだ短剣が備えている力を制御できずに逆に身を焼かれてしまう。


 医者が早足で病室に入ってくる。瞳孔の確認や耳鼻咽喉の確認、そして脈拍や臓器の動きを調べられる。

「身を捧げた聖者に感謝を。今ここに再び英雄の魂はあなたの骸を得て輝く。あなたの平和への願いは英雄が引き継ぐことをここに約束いたします」

 医者は看護師と共に祝詞を唱えて祈祷する。

「生命活動におけるほとんどは問題ないようです。呼吸すると息苦しさを感じていますよね?」

 肯いておく。出来ることなら誤魔化したいが、医者の前で肉体の不調は隠せない。

「いきなり全速力で走らないようにしてください。肺に穴が空きます」

「気を付けます」

 さすがに怖いことを言われたので逆らわないように言うことに従うことを心に決める。

「あと固形物は控え、ここ数日は消化の良い物を食べるようにしてください。この果物もすり潰して食べるように」

「もしそのまま食べたらどうなりますか?」

「消化能力が衰えていますので吐くことになります。アレウリスさんの臓器はまだ甦ったことを血が行き渡っていても理解していません。ただ、これは『聖骸』とアレウリスさんのロジックの統合ができていないだけで今日中には落ち着くかと。それまでは下痢との戦いになります。耐えてください」

「耐える以外には?」

「ありません。そもそも『衰弱』であった際も垂れ流しだったのに今更、なにを思うこともないでしょう?」

 意識があるときと無意識であるときとでは辛さが異なるようにも思うのだが、医者はなにかと無茶を言う。

「これが早すぎる回復に伴う代償です。本来はもっと時間を掛けて肉体と意識が同調し、あらゆる臓器が甦る以前と変わらぬ調子に戻るものです。稀に『聖骸』との相性が良く、代償が軽いままにすぐ動ける方もいらっしゃいますが、アレウリスさんは違ったようですね。とはいえ医者としてはまず正気に戻ったことは喜ばしいことです」

「ご迷惑を掛けたようで」

「ギルドと連携を取ると決めたときから沢山の迷惑を受けることは承知の上です。ここにいる医者や看護師は覚悟を持って臨んでいます。それでも辞める人の方が多いのが現状ですが。かく言う私も理由がなければこんな病院はすぐにでも辞めてしまいますよ」

「そうですか……」

 あまりにも淡々とありのままを話すのでアレウスが逆に申し訳なさを感じてしまう。


「……娘が冒険者の男に(とつ)いだんですよ。ですが、その冒険者はパーティの崩壊と共に死んで甦り、三ヶ月を掛けて回復しました。でも、もう二度と魔物の前に立つ勇気は戻ってこずそのまま娘の前から姿を消してしまいました。今、娘は二人目の夫と仲睦まじく暮らしてはいますが、私はね……あの冒険者の男が語った多くの言葉は心からのものだったと思っています。そんな男でさえも挫けてしまう『衰弱』に立ち向かうことが私の使命です」

「……ええと、」

「まぁ普通の病院勤務よりも稼ぎが良いという理由の方が七割を占めていますが」

 様々な言葉を思い浮かべて、言おうとしたところで紡がれた医者からの言葉にアレウスは絶句する。

「不思議なものです。もう二十年以上も前のことだと言うのに、まだ鮮明にそのときのことを思い出せるのですから。そう、あのとき彼は百合園の依頼を受けて意気揚々とシンギングリンを出発したはず。当然、百合園に男性は入ることができないので女性冒険者を連れて、彼は百合園から脱出した仲間をすぐさま守るために控えていたと聞いています」

「ちょ、ちょっと待ってください。二十年以上前の百合園……?」

「おや、ご存知ではないのですか?」

「二十年以上前の百合園の発生については知りません。そのとき、冒険者に一体なにが?」

「全員が石化して死亡し、甦ったはずです。記録も取ってはいますが、患者に見せることはできないので修道院の書庫などを漁ってみるとよいかもしれません」

 やはりあそこでの調査は様々な面で有効なようだ。

「石化……石化か。ユニコーンよりも、冒険者にとっては厄介かもしれない……か」

 それでもクラリエとクルタニカがいるのならその魔物の正体を突き止めることは難しいことではないはずだ。

「ご無理はなさらずに。もはやアレウリスさんとそのパーティはシンギングリンでは有名人です。あなたたちの活躍で街は奮い立ちますが、たった一度の死が、たとえ甦るとしても街に大きな不安を与えます」

 アレウスがウズウズとすぐにでも退院したがっている雰囲気を感じ取り、医者は静養を要求する。

「……だったらこんなことではへこたれてはいられません。僕はすぐにでも街に出て、元気になった姿を見せれば街の人たちも元気になる。そうでしょう?」

 シンギングリンを出ることも考えたが、まだしばらくは検討の域から出すことはできなさそうだ。そして、今からアベリアたちを追いかけることもできそうにない。素直にアレウスは仲間の帰りを待つことにした。

「ええ、でも」

 医者が呟いた直後に自身の胃腸が悲鳴を上げる。

「数回出してしまえば急速に胃腸が整うとは思われます。それ以外の臓器も食事さえすれば一気に回復するでしょう。これは『衰弱』から回復した際に一時的に起こる急速な自然治癒力によるものです。夜までにはほとんど今まで通り、逆に言えば夜までは安静にしていてください」

 アレウスは肯きつつも病室を出て、自身の尊厳を守るために急いでトイレへと向かった。

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