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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第13章 -只、人で在れ-】
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β-13 異世界へようこそ


 高い建物の屋上から飛び降りようとしている女の子がいる。彼女にはどうやらイプロシアは見えていないらしい。ロジックからこちらの世界にやっては来たが、未だ自身は霊体と変わらないようだ。この状態から顕現するには、このクールクース・ワナギルカンが産まれ直す前の存在に干渉しなければならない。

 この女の子の死が、クールクース・ワナギルカンの存在を確定させる。つまり、死んでくれなければイプロシアはこの世界に渡る術を得られないのだ。

 翻り、飛び降りるのをやめようとしている。そんなことはさせまいとイプロシアは霊体のまま、彼女の衣服に手を掛ける。


 共に宙へと落ちる。彼女は重力によっていずれ地面に叩き付けられるだろう。その瞬間になにを見ているのか。その目になにを映しているのか。イプロシアは知るよしもないが知る理由もない。


 やがて鈍く、なのにとても高い音が世界を満たす。同時にイプロシアの体は女の子の死体の片隅へと放り出される。


 急激に体中に世界の理が押し寄せてくる。見たことのない景色、見たことのない空、見たことのない建物。

 不意に眩暈が生じ、吐き気に逆らえずにその場に吐瀉する。

 顕現とはかくも苦しいものなのか。見限った世界に比べて理が違い過ぎて、体を思うように動かすことにさえ少々の時間を要する。

 なんと、意味不明な光景だろうか。見るもの全てが怪奇で、こちらをチラチラと見てくる人間たちは見たこともない意味不明な衣服を身に纏っている。

「あ、はははっ、本当の本当に、渡れた」

 とはいえ、興奮はあった。高揚はあった。どれほどに体を動かし辛くとも、いずれは適応する。だからこそそんなことは気にも留めない。

 血溜まりが広がり、自身の体を濡らしていく。しかしそんなことは気にしない。この身を血で汚すことになっても、今は渡れたことへの達成感と充足感が強い。

 男がなにか喋っている。しかしなにを言っているのかさっぱり分からない。

「あははははっ! 全く分かんない! なに? なにを言っているの? 驚いているの? 怯えているの? 分かんないなぁ」

 精霊の気配がない。この世界に精霊はいないらしい。しかし大気はあの世界と似ている。魔力の流れも感じ取れない。


 だが、イプロシアの中には『神樹』がある。


 自身の中にある『継承者』としての力を発現させ、辺り一帯にまず魔力を散布する。範囲一帯をイプロシアが魔法を詠唱可能な空間へと変える。これを少しずつ広げていけば、いずれはこの世界全土を自身の魔力で覆い尽くす日がくるだろう。

 木の根を生やし、花を咲かせて樹木が生い茂る。

「待ってね? あなたたちがなにを言いたいのか私なりに解読してあげるから。これは『勇者』と話すときにもよくやっていたことだから難しくないはず」

 彼の言葉はなにもかもが意味不明で、聞き取ることができなかった。発声が違うのか、それとも彼自身の声帯からでは再現不可能な発音が含まれているのか。次第に彼は言語でのやり取りを拒み、無口となり、話すことを諦めた。

 けれど、この世界の言語は彼が私たちに一生懸命に語り掛けていたその言語と酷似している。いやそのものと言っても過言ではないだろう。だからこそイプロシアには、解読することができる。

「『女の子と一緒に落ちてきた?』、『友達二人での自殺か?』、『とにかく警察へ連絡を、あと救急車!』、あとは雑音みたいな悲鳴ばかりかな」

 イプロシアの背後には死体がある。よほどに高いところから落ちたのであろうその肉塊は、産まれ直す前のクールクース・ワナギルカンの死体だ。ここで死んで、彼女はあの世界へと産まれ直した。

「心外だな。まるで私が一緒に自殺したみたいな。高いところから一緒に落ちたみたいな……違う、そうじゃない。彼女の死は運命付けられていて、あの世界で産まれ直すのも決定事項だった。つまりこれは、未来の先取り! クールクース・ワナギルカンがあの世界で産まれ直し、私が私としてこの世界に渡るための運命を先取りした! 都合の良いように、解釈をすれば、ね? でもね、そんなのは神様がいたらの話。この世界に、神様はいるのかしら? それは空想? 幻想? 偶像? それとも現人神? まぁなんだっていいわ。押さえ付けて、屈服させて、追い出してあげる。その席は私のものだから」

 興奮冷めやらぬ様子でイプロシアは立ち上がり、爛々と目を輝かせながら未知の世界と光景に胸を馳せる。

「あそこを走っているのはなに? あの人たちが手に持っているのはなに? こんな大きな建物は一体どうやって建てられたの? この道はどうしてこんなにも固いの? ああ、凄い。知らないことばかりで楽しくて仕方がない。でもまずは、摘み取ることから始めましょうか」

 笑顔のままに狂気を宿し、イプロシアは自身の間近に樹木を生やし、枝葉が棘を成して、自身を中心にして周囲一帯へと放出する。


 白色の魔力が燃えるように周囲へ広がり、イプロシアの放った棘から人々を守り抜く。


 心臓が跳ねる。興奮や高揚からではない。一種の生存本能から来る危険信号。そしてなによりも、自分自身が死に近付いているような異様な感覚。

 翻り、イプロシアは枝を千切ってタクトとして振るい、魔力の障壁を張って自身を襲う短刀の一撃を防ぎ、その持ち主たる存在に狂気の笑顔のまま相対する。

「まさか追ってくるなんて思わなかったわ! クラリェット!」

「あたしはお母さんを止めるって言った」

「母親を殺すために世界までも渡るなんて!」

「この世界の人々を殺そうとしたの?!」

「親孝行もここまで来ると反吐が出るわ!」

「そんな凶行が、この世界でも通じると思っているの!?」

 短刀の一撃一撃が酷く重い。どれもこれもに白色の魔力が込められており、クラリェットが纏う『白衣』がもたらす異常なまでの攻撃力はイプロシアの張った障壁を砕かんとしている。

「この世界にとって私たちはまだ異質。世界に受け入れられるまでは全ては夢や幻みたいなもの。現実として認識しないまま終わるか、それとも現実として認識して恐怖に至るか。それはまだ分からないけど、私が神になれば誰もが認めざるを得ない存在として確立することができる」

「だからそんなことはさせないって!」

 『白衣』が伸びて障壁を砕き、イプロシアへと迫る。

「言っているでしょ!!」

 叩き付けをかわし、樹木の鞭で『白衣』を逆に地面へと叩き付け、自身は木の根に片手を引っ掛けて導かれるように後方へと下がる。

「どうやって世界を渡ったかまでは分からないけれど、私との血の繋がりを辿ったことぐらいは分かる。でも、それだと王女様は死んじゃうわよ? まぁ私がこの世界に留まり続けるだけでも死んじゃうんだけど、もっと早く死んじゃうって意味で」

「……どうして王女のロジックで世界を渡れると思ったの?」

「『産まれ直し』のロジックには必ず読めないテキストが付随している。けれどごくまれに読めないテキストが読める存在がいる。それが死の瞬間だろうとなんだろうと、記憶が『神官の祝福』によって授けられたロジックに異世界の景色として焼き付いている。つまり、王女は産まれ直したあとと産まれ直す前の両方の景色を知っている。それは二つの世界を表と裏で持ち合わせているのと同義。だから王女のロジックから、この異世界は繋がっているはずだと仮定した。そのために増殖するテッド・ミラーと、ロジックに寄生するヘイロン・パラサイトの研究も王国に行わせた。その結果、一部が自我を持って野心家になってしまったけれど、その一部のテッドとヘイロンのおかげで私は私自身を他人のテキストの更にその奥――表記されている内容の更にその奥に潜んでいるテキストまで入り込み、この世界へと至ることができた」

 白の魔力を跳ね除けて、一部を動きを止めている人々に向ける。だがそれらを『白衣』が伸びて起こす炎のような揺らめきが全て防ぐ。

「お母さんは舞い上がっているみたいだけど、これは仮初だよ」

「仮初?」

「結局はロジックの中にある世界に入り込んでいるだけ。異世界に渡っているわけじゃない。異なる世界の、異なる環境。そのどれもこれもは、王女様が体験した産まれ直す前の世界の記憶でしかない」

「だとしても! 私がここに留まり続ければ、この世界は永遠になる! リブラのように毎日を人間たちに繰り返させる! それだけで人間の生活サイクルは一生変わらない! 私はこの世界で好きに生きることができる!」

「違う! 全然違う! それは世界を制覇し、神になることとは全く違う!」

「違わない! 私は神のように! 人々の生殺与奪を握ることができるのだから!」

 それに、とイプロシアは続ける。

「ここが本当にロジックの中の――王女様の記憶の世界だと思っているの? 私は王女様の産まれ直す前の人間の死によって、顕現することができていて、それ以降も時間は流れているのに。あなたのそれが真実なのだとしても、現実に今ここで流れている時間を、あなたは否定することができない。つまり、ロジックの中であると同時にロジックの中ではないという事象が二つ存在している。だったらあとはどちらに傾けさせることができるか! 私が手繰り寄せれば、この異世界は確定した世界となる!」

 イプロシアの言葉をクラリェットは必死に理解しようとしているようだが、やはり彼女には自身の思考に至ることはできないらしい。

「私の娘なのに、私の言っていることが分からないなんて悲しいわ。お爺様なら、分かってくれるのに」

 バシレウスはイプロシアの語る全てを様々な理論で返してくれていただろう。そのときの討論ほど楽しいこともなかった。『ロジック』の魔法を作った瞬間も、その実験で起こる様々な要因の追究も、なにもかもが楽しくて仕方がなかった。それは知らないことへの挑戦への喜び。知らないことから生じる想定外の事象。なにもかもが知らないことだからこそ、調べ尽くしたくてたまらなかった。


 あの世界にはもう、調べたいことがない。魔王を討伐して、けれど魔王はいずれ復活する。そこまで調べたあとはもう、なにも残っていない。イプロシアには分かる。

 魔王が復活すれば再び討伐し、そしてまた魔王は復活するために十二の断片となる。永遠に、人間と魔王の戦いは終わらない。その果てしなく続くサイクルなどに興味はない。なぜならイプロシアは、『勇者』と共に魔王を討ったことがあるのだから。


「王国がクローンの研究を始めたのはお母さんのせい?!」

「正確にはテッドと、彼を宮廷魔導士として受け入れていた、(とき)の王に吹き込んだのが私! テッドは私が取った弟子よ」

「研究させてお母さんはその成果物と、研究結果を手に入れた」

「私が吹き込んだことだもの。それなりの報酬は得なきゃやっていられないわ。私も少しばかり知恵を貸すこともあったもの」

 クラリェットの斬撃はどれも油断ならない。あの世界では児戯にも等しい『緑衣』を振り乱してばかりいたが、ここでは『白衣』を自在に操っている。ナーツェの血統でもないのに、白の魔力を使いこなしており、血の重みにも苦しむことなく素早く駆け回る。

 そして周囲に常に『白衣』が展開し続けることで、イプロシアと彼女の衝突で生じる様々な影響の余波から人々を守り続けている。

「じゃぁ、全ての元凶はお母さんなのね……! エルフの森を滅茶苦茶にした元凶だけじゃなく! 王国が歪んでしまったのも全部!」

「そうよ!? でも私は王国だけじゃなくて沢山の国に息を吹きかけているわ! だって私はお爺様を除けば唯一無二のハイエルフ! 私が知る時代から現代に至るまでのあらゆる国々の生き死にを眺め、そしてそれらに関わるありとあらゆる事象に力を貸した! 全てはハイエルフの悲願である異世界に渡るために!」

「お父さんと旅をしていたのも、正義感からじゃなかったって言うの!?」

「アレックスとの冒険が楽しかったのは事実よ。アレックスは私に知らない世界のことを沢山教えてくれたもの。『産まれ直し』ではなく転生してきた彼は、色々な不自由を抱え込んでいてコミュニケーションを取ることさえ一苦労ではあったけれど、その分だけ神に愛されていた! 神に愛されていたから魔王を討つことができた! あのときほどの感激を私は知らない」

「だったら!」

「でも、そこで英雄譚は終わり。魔王を討ったあとの私たちなんてお払い箱! なんなら存在そのものが邪魔臭い! だってあらゆる国の王よりも名の知れた者たちが世界のどこかを未だに歩き回っているなんて薄気味悪いじゃない?! そんな救世主がいたら、国王は安心して王座に腰を下ろすことさえままならない! 救世主の言葉一つで民草は反旗を翻し、救世主の持つ力一つで王の首は刎ね飛ばされかねない! 私たちは『至高』に到達した最初の冒険者にして、最初の厄介者だった」

「そんなのは勝手な思い込み! みんなはお母さんたちのことを口を揃えて素晴らしい冒険者だと! 『大賢者』だと言っていた!」

「ただの幻想ね! 下々にとっては強い光であっても、上に立つ者にとっては煩わしい光! だから私は百ヶ所目の『門』を作ろうと旅立ち、そこで息の根を止められたんだもの! あのロゼ家の異端児! クリュプトン・ロゼの両親にね!!」

 斬撃に対して樹木の怪物で応じる。あれを一瞬で断ち切れるのはエレスィ・ジュグリーズだけだ。どれほどに『白衣』が優れていようともクラリェットごときに樹木の怪物が瞬殺できるはずもない。

「ふふっ、この世界に私も馴染んできた。魔力も段々と満ちてきた」

 『神樹』による世界への侵略は順調で、精霊はいないが魔力は存在し続けている。魔法を唱えることはできないが、魔法に似たことを魔力で行える。これも全て詠唱をほぼ捨てて、言葉を紡ぐだけで魔法を使えるようにしてきた経験の賜物だろう。

 イプロシアは狂気の笑顔を絶やさずに、ひたすらにクラリェットを攻め立てる。

「答えて」

「なにを?」

「お母さんは百ヶ所目の『門』を作って、一体なにをしようとしていたのか」

「……あら? そんなところに気が付くなんて、私の娘らしくないわね」

「その『門』は、ロゼ家――いいえエルフだけじゃない。人間にとって、作ってはいけないものだったんじゃないの?」

「ふふふ、ふふふふっ。あははははははっ! 大正解! 私はあそこにね……ふふふっ! あっはははははっ! 異界獣を世界に呼び出す『門』を作ろうとしていたのよ。結果的には阻止されて『門』は崩れたけど、崩れる前にサジタリウスは出て来たわ! そしてクリュプトンは両親という犠牲を払って『赤衣』を『焦熱状態』へと至らせ、その矢でサジタリウスを射殺した。『人狩り』が『星狩り』と謳われていた頃の話よ? その名誉を持って、彼女は『灰銀』でありながらも認められ、森の外で冒険者として生きることを許された。ただ、その冒険者の日々は彼女にとっては隠れ蓑でしかなくって、再誕する私を殺すためのありとあらゆる根回しの日々でしかなかったようだけど」

 ここでクラリェットは殺す。ならば真実を打ち明けて、動揺を誘うことが有効だ。イプロシアはクラリェットの『白衣』の揺らぎをジッと待つ。

「だから、クリュプトンは自分の正義を捻じ曲げなかった……永遠に、自分自身の行いが正義であると、信じ続けるようになった」

 イプロシアの考えとは裏腹にクラリェットの『白衣』は激しさを増す。

「そうじゃないと、自分の生き方を信じ抜くことができなくなってしまったから!」

「な、に……? なにが起こっているの?」

 『白』が『赤』に変わり、クラリェットは体に『赤衣』を纏う。

「な、ぜ?! あなたが『赤衣』を?!」

「『赤』は使命に身を捧げる覚悟の色! 仇敵を討つと心に決めて! その手を血に染めながらも正義を貫く赫灼(かくしゃく)の力!」

 赤の魔力をクラリェットが魔力で生み出した短刀に乗せて、投擲する。赤い矢よりも遅くはあるが確実にクリュプトンと同格の力を宿した力を前にしてイプロシアは魔力の障壁を展開しながら樹木の怪物を盾にして防ぎ切る。

「お母さんには絶対に分からない」

「分かんなくていいわ」

 汗を掻く。暑くもない、そして心が燃えているわけでもない。なのに額から汗が噴き出した。イプロシアは自分自身がそれを冷や汗として認識するのに数秒掛かる。

 樹木の怪物を再生成して時間を稼ぐ。

「『青』は強者に刃を向ける挑戦の色! どのような障害も自らの手で切り開くと誓いを立てた、迷いを断ち切る紺碧(こんぺき)の力!!」

 『赤』が『青』に変わり、『青衣』を纏ったクラリェットが握る短刀は青の魔力によって延伸され、その刀の一瞬の閃きが樹木の怪物をイプロシアが想定している以上の速度で切り捨てていく。

「あなた、まさか……!」

「『黄』は悪しきを打倒する制圧の色! 悲しみを背負いながらも奮い立ち、己が拳に全てを懸ける黄金(おうごん)の力!!」

「全部の色を使えるとでも……言うの!?」

 『黄衣』を纏ったクラリェットに魔力の壁を拳で粉砕され、その衝撃を受けながらイプロシアは地上に叩き付けられる。

「くっ!」

 辺りに種子を放つ。

「『白』は弱者を守るための鉄壁の色! 育まれし命からあらゆる脅威を退けると約束し、自らの血に問い続けた純白(じゅんぱく)の力!!」

 周囲に放った種子を『白衣』から伸びた炎のように揺らめく布が防ぐ。意識をイプロシア以外へと向けることでクラリェットの勢いを殺す策略だったが、たったの一手で全てが止められてしまった。

「ああ、マズい……」

 イプロシアは自然と劣勢になっていることを言葉で零していた。まだまだ戦う気ではあるのだが、心が折れかけている。冷や汗を掻いていたことも、体が段々とクラリェットの力とその気配に屈服している証明でもある。

「マズいけど、私は私の理想を諦めるわけにはいかないのよ」

 『神樹』の力を完全に開放し、樹皮の衣を纏って、タクト一つで木の根を幾つもクラリェットへと向かわせる。そこから絶やさず、ひたすらに樹木の怪物と巨大な種子による掃射、そして頭上からの大木の投下を延々と続ける。

 延々と、延々と、延々と。

「言ったでしょ、お母さん」

 しかし、全くもって通用しない。

「『白』は弱者を守るための鉄壁の色だって」

 強すぎる。一体、なにがどうしてクラリェットはこれほどの強さを手に入れたのか。


「なにか見落としている……としたら。“観測しなさい”」

 ある可能性に気付き、イプロシアは光球をクラリェットへと放ち頭上で炸裂させる。

「そう……そういうこと。あなた……ギルドで『至高』を与えられるレベルじゃない」

 レベルはイプロシアよりもまだ低いが、『至高』の域に到達した冒険者たちの間に存在するレベル差はそれほどに重要ではない。『至高』に立てるかどうか。そこまでのレベルに上がれるかどうか。最後の最後の重たい扉を開き、あらゆる冒険者の上に立つことができる才覚を持っているかどうか。

 その域に達すれば、『至高』同士の戦いには優劣はつきにくい。

「いいわ、だったら私も『至高』としての全てを出してあげる!!」


 久し振りの全身全霊。このあとに起こる魔力切れでの疲労感や肉体の酷使による一切合切の行動不能。それら全てを無視しての全力の魔力解放。それに応じるようにクラリェットの『白衣』も一際強く輝く。


「冒険者同士の戦いは能力値が絶対!! あなたは魔力で私には絶対に勝てない!」

「でも俊敏性は勝っている」

 背後に回られ、短刀を振るわれる。寸前で木の根で阻み、打ち飛ばすが遅れてやってきた飛刃がイプロシアの頬を軽く裂く。

「どれだけ素早くても筋力が低いんじゃ私の防御は突破できない!」

「けれど攻撃回数はあたしが稼げる」

 なにかが上回っていれば、別のなにかが上回っている。『衣』によって能力値が底上げされていることもあって本来ならばクラリェットでもイプロシアに届かないところに届いてしまっている。


 赤、青、黄、白。四色の『衣』の帯が伸びて、各色の魔力を宿した短刀がクラリェットの周囲を自在に飛び回り、イプロシアが起こす『神樹』の力による事象をなにもかも切り捨てている。


「…………くっ」

 歯軋りをして、続いて唇を噛み締める。クラリェットの攻撃に対して防戦を続けさせられるイプロシアに笑顔はなく、激しく懊悩し、悔しくて悔しくて声にならない高い音を発声したのち、彼女を睨む。

「分かったわ、クラリェット。母親として、あなたの話を聞いてあげる。なにが望みなの? 私にどうしてほしかったの? 言ってみて?」

「お母さん」

「ええ」

「もう遅いよ」

 なにか、イプロシアの中で力が抜けていく。

 遅いとはどういう意味なのか。分かっているのに、理解を拒んでいる。理解してしまえば命が尽きるような。そんな物凄く、意味不明な理論が脳を満たす。

「もう遅いんだよ!! もうあたしたちの間に話すことなんてないの!! お母さんが! あのときにあたしの話を聞いて止まってくれていれば! 遅くなることもなかったのに!」

 青の魔力が体を切り裂く。黄色の魔力が腕を打つ。白の魔力がイプロシアの樹木を寄せ付けず、赤の魔力が胸を貫く。

「ふ、ふふふ……そう、そうなの……遅い。遅いんだ? じゃぁ、じゃぁさ」

 イプロシアの体から力が抜けていく。同時に自身のロジックに潜むアーティファクトの脈動を感じる。

「遅くなる前に聞いてあげれば、良いんだよねぇ? あたしは『逝きて還りて』でリルートするわ。今度こそ、この世界を掴み取るために」

「させない。忘れてないでしょ? あたしにはお母さんの血が半分流れているんだよ?」

 『逝きて還りて』に身を委ねる前、イプロシアへと怖ろしくも柔らかな声が耳に響いた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「やっと気配を発した。やっと見つけた」

「次は自動修復の魔法も加えた方がいいのかしら。それとも弾かれても尚、追い続けるような追尾性能?」

「お母さん!」

「傍の騎士が離れてくれた方が成功率が上がるから、もうしばらくは泳がせる? でも、矢はもう放ってしまったし、あの人に見つかってしまうととっても面倒臭い」

「ねぇ!」

「そもそも王女様の能力をちゃんとは見ていないのよね。天使が傍にいないのも気掛かり。もうちょっと消耗させて、疲れているところを狙うべきか」

「ねぇったら!!」


 ここでイプロシアは以前、クラリェットに対して「うるさい」と一蹴した。それでは異世界に渡っても、彼女は追い掛けて来る。追い掛けてくる上に自身の手に負えない力で殺してくる。


「どうしたの? クラリェット?」

 優しい言葉を投げかける。

「お母さんが話を聞くから、まずはその短刀を下ろして? ね?」

 優しく、優しく。声音を穏やかに。

 クラリェットから殺気が消えていく。手に握る短刀は震えており、やがてゆっくりと下ろされた。

「お母さん、なんで、なんでこんなことをしたの?」

「異世界に渡るのは私の、いいえ、ハイエルフの悲願だから。お爺様が果たせなかったことを私が果たす」

「そのために、罪のない人たちを……殺したの?」

「落ち着いて、クラリェット。仕方がないことだったの」

「仕方が……ない?」

 クラリェットは再び短刀をイプロシアへと向けてくる。

「仕方がなくなんてない!! エウカリスが死んだことが! 仕方がないことなんて絶対にない!!」


 殺気が宿り直す。そしてなにか、超常的な力が彼女の体へと乗り移った気配を感じ取ってイプロシアは魔力の障壁を張る。


「『赤』は使命に身を捧げる覚悟の色! 仇敵を討つと心に決めて! その手を血に染めながらも正義を貫く赫灼(かくしゃく)の力!」

 『赤衣』を纏ったクラリェットが、短刀に全力の赤い魔力を乗せる。

「どうして今のあなたがその力を?!」

「言ったでしょ。あたしにはお母さんの血が半分流れているんだって!!」

「『逝きて還りて』を観測するだけじゃなく……! 私のリルートしたこの瞬間に! あのときのあなたが乗り移ったって言うの?!」

 わざわざ『神樹』を手に入れてからこの瞬間までをやり直してきたというのに、異世界で戦ったクラリェットはイプロシアが画策した今、この瞬間のリルートに反応して今、ここにいたときのクラリェットに乗り移っている。

「お母さんを絶対に! 異世界に渡らせない!」

 この地点でのリルートは駄目だ。もっと以前でリルートしなければならない。『神樹』を手に入れてから、クラリェットと接触する以前だ。彼女が近場にいては、あらゆる色の『衣』を操るクラリェットがその瞬間のクラリェットに乗り移ってしまう。


 赤の魔力を帯びた短刀を胸に突き立てられながらイプロシアは次に飛ぶ『逝きて還りて』の先を決定し、死に身を委ねる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「書庫の警備はそのままに、芽を与えた外界の全てのエルフを新王国に向かわせなさい。私は先に向かわせてもらうわ。王国を後押ししつつ、新王国の王女を捕まえなさい。別に国を滅亡させてとは言わないわ。どんな方法を使ってでも、私のところに王女を連れて来てくれればそれでいいから」

 神樹の指揮棒を揺らし、イプロシアは“門”を生み出す。


 ここにクラリェットはいない。ここならばクラリェットに左右されずに戦況を整え直すことができる。王国軍の動きも、新王国側の防衛方法も手に取るように分かる。エルフを向かわせる方角は変えて、なるべくクラリェットに接触しないようにして王女の出撃と同時にそのロジックを取りに行く。リッチモンドやマーガレットなど深く考えなくていい。とにかくロジックに入り込んでしまえばイプロシアの勝ちなのだ。


「俺はなにをすればいい?」

「覗き魔は一人じゃなかったみたいね。まぁ、恥じらいなんて過去の果ての果てに置いてきているからどうだっていいんだけど、その手で私の体に触れたら身が弾けることだけは言っておくから」

 黒騎士をそうなじりながら“門”に半身を進ませる。


 シェスの剣が“門”を断ち切り、イプロシアは移動を阻害されて弾き出される。


「なにを、しているの……? 黒騎士――いいえデルハルト! 今すぐにシェスを殺しなさい!」

 黒騎士は月毛の馬に跨り、鎗を手にしてイプロシアへと駆けてくる。

「なんで!」

 障壁を張り、木の根に体を引っ掛けて避けてタクトを振る。樹木の怪物を二人へと向かわせる。 

「今、テメェを殺さないと俺の罪は晴らすことができないと感じた」

「イプロシア様、申し訳ありません。あなたは、この世界にとっての邪悪だ。たとえあなたに力を分け与えられていたとしても……いいえ、力を分け与えられているからこそ、ここで我がその命を終わらせる」

 おかしい。従順だった二人がここで反逆することなどあり得ない。イプロシアは鎗撃と剣戟を避けながら状況を整理する。

 ここに戻ってくるまでになにか変なことをしなかったか。このリルートの瞬間にクラリェットの気配はしたか。考えても、そのどちらもない。どちらも記憶にはない。

「じゃぁ、なんだって言うの……」

「テメェは」

「あなたは」

「「ここで死ぬ運命だ」」


「まさか、まさかまさかまさかまさか!!」

 攻撃の隙間を縫って逃走を試みるが、芽を宿したエルフたちに取り囲まれる。

「っ! あなたたちは一体、自分がなにをしているのか分かっているのかしら!?」

 力ずくで拘束されるが、『神樹』の力を解放して跳ね除ける。


 樹木の怪物をシェスの剣が断ち切る。その剣には青の魔力が宿っているのが見えた。そして、デルハルトの投げた鎗がイプロシアの胸を貫く。その鎗には赤い魔力が宿っていた。


「私が事象を先取りしたら、クラリェットは事象を後取りしてくるって言うの?!」

 イプロシアは『逝きて還りて』によって死んでやり直す。それは即ち、事象の先取り。自身が異世界に渡るために王女の産まれ直す前の死を先取りした。それ以外にも死に戻りすることで沢山の運命を先取りしてきた。しかしクラリェットは、その先取りした事象を後取りしてくる。イプロシアの死という事象を後からリルートした瞬間に取ってくる。

 先取りすれば後取りし、先乗りすれば後乗りされる。先に生還の事象を取っても、クラリェットの力が後からイプロシアの生還の事象を奪ってくるのだ。

「そんなの、絶対に認めない……! だったら、あなたが産まれる前まで、戻ってやるだけ!」

 血を吐きながら『逝きて還りて』にイプロシアは身を委ねる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「おい、さっさと目を開けろ。休憩はもう終わりだ。支度を済ませて野営を片付けて、あとはまぁのんびりと次の村を目指すぞ」

 オーネストの乱暴な声が聞こえる。イプロシアは起き上がり、周囲を見つめ、そして身構える。

「どうした? お前がそんなにも身を強張らせるなんていつ以来だ? いつもは魔物に囲まれたって平気な顔して夕食のリクエストを出していただろ」

「……いいえ、なんでもない」

「支度はあなたも済ませてください。半裸で活動されるのは困る」

「はっ、欲情するか?」

「どこの誰に? 死んでもそんなことはあり得ない」

 アルテンヒシェルがいつものようにオーネストを注意し、オーネストがいつものようにアルテンヒシェルに喧嘩を売る。

「アレックス? 本当にこの者たちと共に魔王を討てるのか?」

 オエラリヌの質問に『勇者』は笑顔だけを見せて、返事とする。


 時間軸としてはドラゴニュートのオエラリヌと戦い、和解して数ヶ月経った頃。ようやく彼がパーティに馴染んできた時期だろう。


「ここなら、来られないでしょ……?」

 クラリェットはまだ産まれていない。それどころかその命は未だ自身を宿していない。産まれていない場所にクラリェットは後取りすることができないはずだ。

 かなりの年月を再び送ることになる。面倒だが再び魔王を討つことにもなる。だが、リルートの瞬間さえ注意を払えば、最も厄介な存在と成り果てたクラリェットを産まずに異世界へ渡る方法を見つけ出すことはできるはずだ。

 オーネストと野営を片付け、上裸(じょうら)の彼女に上着を羽織らせ、一息ついてからアレックスの傍へ行く。

「ねぇ、アレックス? 次はどんな村で、どんな依頼を…………え?」


 アレックスが抜いた剣がイプロシアの腹部を貫いている。


「なんだ!? 一体どうしたんだアレックス!?」

 オーネストが驚き、アレックスとイプロシアを引き剥がす。

「今のイプロシアは未来のイプロシアが乗り移り、意識を統一した存在らしい」

 オエラリヌがアレックスの視線から意図を汲み取る。

「殺さなければ、未来でこいつが悪行を働くようだ」

「……そ、んな……そんなこと、を……そんな、ワケの分からないことを、信じるって言うの……? ねぇ、オーネスト! 魔力を、練ることができないの。回復魔法を、唱えられないの……!」

「未来のイプロシアが乗り移っている……ねぇ? にわかには信じがたいが、お前はそういうことをしそうな雰囲気はある」

「アルテンヒシェル……!」

「僕はそんな風に命乞いをするイプロシアを見たことがない。一回死なせて復活させた方がいい。アレックスが理由もなく仲間を刺すわけがない」

「どうし、て……そんなに、私のことを、信じてくれない、の……?」

「「「未来ではなく、今のイプロシアを信じている」」」

 二人は揃って同じ言葉を口にし、だが声を揃えた同士で嫌そうな顔をする。

 イプロシアはアレックスを見る。


 アレックスの剣には黄色の魔力が宿っている。


「私との血の繋がりじゃ、なくて……『勇者の血』を、辿って……」

 『勇者の血』はロジックに刻まれたテキストだ。このときのアレックスにも『勇者の血』は流れている。つまり、そのテキストを辿ってクラリェットの意識がイプロシアを追いかけてきた。

「過去に……戻っても、駄目なら。未来……そうだ、未来。私なら、未来を先取りすることぐらい……『逝きて還りて』の先を未来に合わせることぐらい、できる!」

 そう言ってイプロシアはその場に倒れ、『逝きて還りて』に身を委ねる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 意識が戻り、すぐさまイプロシアは身構える。

「ここはどこ!? どれくらいの未来へと私は飛んだ?!」

 辺り一帯は漆黒の闇が広がっている。世界そのものがどんよりと暗く、踏み締めている大地も延々と闇が広がっている。

「待っていました、お師匠様」

 光球が暗がりを照らし、杖を持ったエルフが立っている。

「お師匠様?」

「私は563番目のテッド・ミラー。そう言えば、伝わりますか?」

「テッド……? でも、一体どうして」

「エルフの一人に私の呪いを施しておきました。輪廻に還った私が、再びこの世界へと生まれ落ちる呪いを」

「だからあなたはエルフの姿をしているのね」

「はい。ようやっと、ヒューマンから脱却し、この長き命を有効に活用して沢山の知識をこの体へと宿らせました」

「クラリェットは? アレウリスたちはどうなった?」

「死にました」

「……死んだ?」

「ええ、寿命です。彼らは多くの栄光を、多くの救世を行ったのち、この世を去りました。それも遥か以前の話です」

 肩の力を抜く。

「そう……」

「お師匠様、これからどうするおつもりですか?」

「しばらくここで解決策を考えるわ。私が異世界へ渡っても尚、生存できる方法を」

「なるほど、ここで」

「ええ」


「待っていた甲斐がありました」

 杖をテッドは振る。光球が幾つにも分裂し、それらが熱を持って炎と化す。

「ようやく私は使命を全うできる」


「テッド?」

「私は563番目のテッド・ミラーとして産まれました。ええ、平和ボケした連中への復讐をずっとずっと、その好機を待ち続けておりました」

 魔力を練ろうとするが練れない。

「歳月とは怖ろしいものですね。あなたが持つ魔の叡智も、この未来においてはもはや古臭くなり、通用しません。ですので、もはやあなたの魔力では魔法を唱えることは叶いません」

「あなたはどうして私を殺そうとしているの?」

「……私は、復讐をやめたのです。産まれ、すぐに分かったのですが……呪いを受けて私が産まれることが分かっても、母親は私を産み育てることを決意しました。父もそれを受け入れ、更には多くの母の友達がそれを支えてくれました。私はそのときに、愛情を知ったのです。この身に沢山の愛情を注がれて、沢山の想い出を作ってもらい、母の友達とその子供たちと多くの時を過ごし、そして悲しい別れを繰り返しました。そうした数々の感情の果てに、私は復讐を捨てました。私は私に注がれた愛情に従うことにしたのです。過去の罪を洗い流せるわけではありませんが、そうやって生きることこそが……人間の在り方なのだと」

 炎がイプロシアに迫ってくる。

「私の最期の役目は、あなたを待ち、あなたを見つけ、あなたを殺すこと。託されたこの役目を果たし終え、私はようやく永遠の眠りにつくことができるのです。もはやこの世界も朽ち果てて、終わりを迎える最中にあります。ええ、数々の出来事が起き、数々の戦争と平和が繰り返され、世界のどこにも安らぎの地は残されてはいませんから。それでも、私が家族と、そしてその友達と、その子供たちと過ごした時間は決して、決して無意味ではなかったと。胸を張って言えるのです」

「未来でも……未来でも私に、楯突くのか……クラリェット!」

「いいえ、違います。世界に楯突いたあなたを、世界が拒んでいる。ただ、それだけです」

 白色の魔力を帯びた炎がイプロシアを焼く。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「どこに…………どこに、行っても…………私の命は、あなたに後取りされる……」

 異世界でのクラリェットとの戦いまで意識が戻る。数々のリルートを試みるために『逝きて還りて』を用いて、自身の残滓から死の戻りを繰り返したがそのどれもが事象の後取りによって阻止されてしまう。そしてもう『逝きて還りて』を使う気力が――アーティファクトを行使するという執念が失われた。イプロシアの意識は元の自分自身まで戻ってきた。

 『神樹』の力を感じられない。『逝きて還りて』を使い過ぎたがために魔力もほとんど残っていない。『神樹』による再生力に頼ることもできない。

「ねぇ、お母さん? 愛情は、利用していいものじゃないんだよ」

「……なにを言っているの?」

「あなたに無償の愛を注いでくれた人が世界に一人くらいいたでしょう?」

「私に? アレックスにすら仮初の愛情しか与えなかった私に? そんな人、いるわけが……」

 そう呟いてから、不意にバシレウスとの記憶がよぎる。

「お爺様……」

 呟いたイプロシアにクラリェットの白い魔力が注ぎ込まれる。

「最後だよ、お母さん。あたしはもうこの世界から元の世界に帰る。最後に死に戻りするお母さんを私は追いかけない。ただ、ここに残されたお母さんは抜け殻になってしまうから……死んで、しまうけど」

 クラリェットは目に涙を溜め込み、それはやがてゆっくりと頬を伝っていく。

「どうして、どうしてこうなっちゃったかなぁ……あたしは、お母さんと…………沢山、沢山、話したいこと、あったのに。なのにあたし、全然お母さんの言うこと……分かんなくって……全然、共感することができなくって……」

「私は共感なんて求めてなかった。実の娘にすら分かってもらおうとなんて思ってない」

 本音など吐きたくはないのだが、これでクラリェットとの因縁が終わるというのなら吐いてしまおう。

「私の娘なら、誇らしく思いなさい。悪道に堕ちた『賢者』を討ったエルフ。その名は、やがて世界に轟く。誇らしいわね、本当に。それでいて…………心の底から、あなたのことなんて大嫌い。顔も見たくない。二度と私の前に現れないで」

「あたしは……大好きだったよ。大好きじゃないわけ、ないじゃん。お母さんは、お母さんなんだから」

「ああ、そう…………お母さんらしいことなんて一つもしたつもりないんだけど……」

 親から子への愛情も、子から親への愛情も無償である。

「なんだ……お爺様だけじゃ、なかったんだ」

 それに気付いたときには、全てが手遅れだった。


 なんと手遅ればかりの生き様か。


 だからこそやり直さなければならないのだろう。


「あぁ、クラリェット。あなたは、私の……」

 なんだったのか。言えないままにイプロシアは『逝きて還りて』を発動する。

「あなた、ここから帰ることはできるの?」


「『緑』は……私を世界に帰らせてくれた友情の色。好きも嫌いも共有して、あるべき場所へ帰してくれる『翡翠』の力」

 『緑衣』が広がり、この異世界の出口思わしき場所へと帯が伸びていく。

「そう……心配無用か」

 イプロシアは自らの死に身を委ねる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 意識が戻り、イプロシアは自身の手がバシレウスのロジックを開こうとしているその瞬間であることに気付き、その手をもう一方の腕で思い切り下げる。

「……キュクノス? 私のロジックを変えるのでは、なかったのか?」

 バシレウスを縛り上げていた魔法を解いて、イプロシアは――キュクノスはその場にへたり込む。

「お爺様、御免なさい」

「なぜ謝る?」

「私は、もう異世界に渡ることを……諦めます」

「急に弱気になって一体なにがあったのか。アーティファクトに悪い夢でも見させられたのかい?」

「はい……私は、異世界に渡る資格なんて、なかったんです。こんな、こんな不肖の弟子を、愚かなハイエルフを……お許しください」

「…………キュクノス?」

「お叱りは幾らでも受けます! でも私は、異世界に渡るよりも……そんなハイエルフの悲願よりも、お爺様と過ごしたい。魔王を討っても私たちの手には負えない出来事が起きて、もう一度魔王を討てなどと言われてもそのような……そのような勇気はもう、どこにも」

 バシレウスの顔を見ることができない。立ち上がらず、床をジッと見つめてキュクノスはどのような罵声と叱咤を浴びるのかとビクビクと震える。


 異世界に渡り神になろうと画策するほどに思考を狂わせたが、たった一人の師匠であり育ての親であるハイエルフに怯える。キュクノス自身もまさかバシレウスにここまで怖れている自分という存在がいることに驚きを隠せない。


「顔を上げなさい」

 怒られることに恐怖していたキュクノスにバシレウスは優しく言葉を投げかける。

「君がそのように思うのであれば、それが正しいのだろう」

「怒らない、んですか?」

「怒ってほしかったのかい?」

「……いえ」

「そんな、今から怒られるんだと自覚しながら怯え竦み上がっている君を私は怒ることができないよ」

 頭を撫でられる。少年のように幼くなっているバシレウスの手は小さく、しかしながらとても温かい。

「異世界に渡る。これはハイエルフの悲願だった。けれど、もう悲願ではなくなった」

「どうして?」

「君が諦めると言ったからだ。私に出来ず、君が諦めるというのならそれはもう悲願ではない。残された私たちが決めたことをとやかく言うハイエルフたちもいない。手放すのは確かに勿体無い気もするが、私は君に多大なる責任を背負わせて、多大なる犠牲を払わせて、多大なる苦しみを担わせてまで果たしたい願いなどもうないんだ」

「お爺様……!」

 自然と涙が溢れる。自分自身にそんな感情が残っていたのかと思う。泣く資格があるのかとも思う。だが、涙は止まらず嗚咽も止まらない。

「私は、愚かなハイエルフでした! 負の感情に! ただその感情に従って、なにもかもを捨て去って! 異世界で神のごとく振る舞おうと思いました……! けれど、どんな世界にも人間はいて! どんな場所にも概念はあり、理はありました! それを壊すことなど私には……私には!」

「良いんだ、キュクノス。もう、良いんだ。そうか、思い直したのではなくアーティファクトで未来を体感してきたのか。だから私のロジックを書き換えることもやめた、と」

「御免なさい!」

「……だからね、キュクノス? もう良いんだよ。君は謝っても謝っても気が済まないのかもしれないけれど、今、この場所にいる私は君を許すと言っている。未来で多くのあやまちを犯すのであろう君も、今、この場に留まればその未来は訪れない。違うかい? まぁ君がまた、見て体感した未来と同じ道を歩むと言うのなら別だろうけれど」

 バシレウスは怒らず、ただキュクノスの頭を撫で続ける。

「多くの未来を壊しました」

「だろうね、君は私の弟子に留めておくには惜しいほどに才能に満ち溢れ、そして魔王を討った『賢者』だ。それぐらいはやるだろう」

「私が外に出ないことで、沢山の事象に変化が起こるかもしれません」

「それは枝葉の揺らぎだろう? この時間軸から発生する君が『異世界へ渡ることを決断した世界』と、君が『異世界を渡ることを諦めた世界』は並行世界として存在し、決して交わらないままに互いに可能性の枝葉を伸ばし、その先で花を咲かせて実をつける。あっちはあっちで変わらず時間は進み、こっちはこっちでまた違う時間を進む。ああ……なんだ、簡単なことだったんだ」

 バシレウスはそう言ってから座り込んだまま立ち上がれないキュクノスに手を伸ばす。

「異世界へようこそ、キュクノス。君がいた世界とこれから君が見るこの世界は全く異なる変化を見せるだろう。君は悲願を果たせなかったのではなく、その身で見事に果たしてみせた。観測できなかったのが悔やまれるけれど、これでハイエルフが甦るようなことがあっても文句を言われるいわれはないよ」

 キュクノスの知る世界――イプロシア・ナーツェとして生き続ける世界と、バシレウスの元に留まるこれからの世界。確かに二つは同じ世界で起こることだが、この決断により二つに分かれる。


 いいや、キュクノスは『逝きて還りて』でもう何度も何十回も何百回も何千回も死に戻りを繰り返し、世界に変化を与え続けてきた。それはつまり、非常に多くの異なる世界を見てきたことを意味する。


「なんだ……そんな、そんな簡単な、こと、だったんだ」

「不思議なものだね。けれど、困難なことは思ったよりも間近にあったりするものなんだ。そして私たちはそれになかなか気付けない。いいや、ほとんどの人間が気付くことができないだろう」

「お爺様」

「なんだい?」

「私にもっと、多くのことを教えてください」

「君に教えることはもうなにもないよ。『賢者』と謳われる君の方が私よりも多くを知っているだろう」

「いいえ、私はまだまだお爺様に教わりたいことが沢山あるんです」

「……甘えたことを言うじゃないか。弟子がそこまで言うのならそうだね、教えてあげよう。けれど、もう君にとっては知ってしまっていることかもしれないけれど」

「いいんです……私は、もっと、お爺様と一緒にいたい」

「嬉しいことを言ってくれる。ただ、教えるのはもう少し待ってくれるかい? 私は君が集めてくれた本のまだその多くを読み終えてはいないからね」

「……はい!」

「それと、外にも変わらず出ようか。なぁに、心配することはない。君は『賢者』として名を馳せたハイエルフだ。たとえいつか魔王が復活するのだとしても、今の君は英雄だ。たとえ将来、君がなじられることがあるのだとしても、私が守ってあげよう。いいや……私だけではない。君がこれから始める多くの行いがきっと、きっと未来の君を守ってくれるはずだ。そのために沢山の種を撒くんだ」

「種、ですか?」

「ああ、イプロシアと名乗るのかキュクノスと名乗るのかは自由だけれど、愛情の種を撒かなければ花は咲かない。君が人間に愛情を注げば注ぐほどに、人間は君を慕い、いつか再び訪れる恐怖を前にしても……君と共に立ち上がってくれるだろう」

「私にもう一度、魔王を討てと?」

「別に討たなくてもいいさ。人間と逃げてしまっても構わない。ただ、君のことだ。多くの人間に慕われて、沢山の愛情を注いだ分だけ愛情を返してもらった君は、再び脅威に立ち向かう勇気を手に入れる」

 バシレウスは棚から本を手に取り、表紙を開く。

「私はね、すっかり忘れていたんだ。君には多くのことを学ばせ、多くのことを教え、そして負の感情も学ばせた。けれど最も大切なことが抜けていた」

 彼はキュクノスに微笑む。

「愛情を教え忘れていたんだ。別にそれは恋愛感情じゃなくてもいい。物を愛すること、自然を愛すること、時間を愛すること、環境を愛すること、努力を愛すること、価値を愛すること、人間を愛すること、異性を愛すること……うん、まだまだ沢山あるんだけれどまず最初に教えたいのは、自分を愛することだ」

「自分、を……?」

「自分を愛しなさい、キュクノス。君は愛情を注ぐ前に自分を愛さなければならない。だって自分を好きになれないと、他人に愛なんて注ぐことはできないからね。自分を大好きになりなさい。自分を一番に想いなさい。自分を大切にし、自分のために生きなさい。でもね、キュクノス? いくら自分のためだからって他人を傷付けて押し退けるようなことはしちゃ駄目だ。それはただの身勝手、そしてワガママと言うんだ。自分のために生きるとは、将来の自分にとってプラスになるかどうか。つまり、だ。マイナスになるようなことをすすんでやってはいけない」


 自分を愛する。

 キュクノスはその言葉で、クラリェットに感じていた多くの感情への答えが出た。

 自分の娘を愛せない。自分自身を愛せていないのに、自分が産んだ命を愛せないのは当然であった。


「あぁ……そう、だったんだ」

「もしかして、未来のどこかでやらかしてしまっていたかい?」

「とてつもなく、酷いことを」

「ははははっ、仕方がない。いいや、仕方がないでは済ませられないけどね……まぁ、君のやらかしは君が改心するほどの誰かを成長させたと思うしかない。もしそう思えないのなら、ここから始まる世界とは異なるその世界の誰かのために、今ここにいる君はその命尽きるまで、想い、願い、やらかした分だけの愛情を注ぐんだ。それこそずっと、ね」

「それでも償えないとしたら?」

「随分と弱気なことを言うね。私たちはハイエルフだよ? 永遠にも近しい時を生きるというのに、償えないほどのことがあると思うかい?」

 それでもなにか、せめてなにか出来ないだろうか。

 キュクノスは思い、そして答えに行き着く。

「クラリェット・シングルリード」

「う、ん?」

「あの子は、ただのクラリェットだったから。せめて私が家名に変わるなにかを付けてあげないと……別に、アレックスの家名を貰ってもいいけれど」

「はは、なるほど。それはとてつもないやらかしだ」

 バシレウスは大体を察したらしく大きく笑う。なんだか恥ずかしくなってキュクノスは縮こまる。

「君が注げなかった愛情は、きっと誰かが注いでくれる。大丈夫、その子はちゃんと前を向いて歩く。だから君も歩くんだ。少し強い言葉を使うけれど……止まることは許さない。何者でなくてもいい。(ただ)(ひと)で在り続けてくれ。そうじゃないと、踏み外してしまうからね」

「……はい」


「そうかそうか、『勇者』の一文がロジックに残ることでの能力値補正欲しさに」

「言わないでください」

「けれど、ちゃんと私にも確認を取ってくれないと。いくら『勇者』でもキュクノスに足る男なのかどうかは分からないからね」

「だから言わないでくださいってば」

「まったく、私の弟子は知らぬ間に異性との子作りの方法などを学んでいたとは」

「お爺様!!」


 二人のくだらないやり取りを緑に瞬く光が見届けて、やがて弾けた。

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