1-5
――努々、忘れるな。お前もまた異界を渡る。それは冒険者と同等の責務を負っていると思え。
*
夜遅く――完全に灯りの消え去った集落はシンと静まり返り、つい先ほどまでの酒を飲み合っていた男連中の騒ぐ声が嘘のように聞こえない。アレウリスが自らの寝床としている土造りの小さなスペースを間借りさせてもらい、ヴェラルドとナルシェは腰を落ち着けた。
アレウリスの蓄えから食事を出してもらうのも憚られたため、外の世界から持って来た干し肉の一欠片と水を飲んで、この日はそれを食事とした。朝ともなれば、食事処が開くだろう。幸い、アレウリスの話を聞けば水と食べ物は外の世界とさほど変わらないらしいので、そこでしっかりと食べる物を食べられれば良い。干し肉は異界を渡る上で、大切な非常食となる。一欠片とは言え、消費は最低限に抑えておきたい。
「ヴェラルド……さん、たちはこの場所に堕ちて来たんですよね?」
遣いにくそうな丁寧な口調を用いながら、アレウリスは訊ねて来る。
「洞窟の中、それも魔物が巣くっていた場所だったな」
「だったら、そこに出口があるんじゃないですか?」
「良い読みだけど、そうとも行かないのよ」
神官の静謐な衣装を脱いで、下の動きやすい服のシワを整えながらナルシェは言う。
「確かにあそこは出口に違いない。けれど、異界は界層構造をしているって、ここにお邪魔させてもらう前に話したわよね?」
「はい」
「そして私が魔力を使って調べたら、ここは五層だった。つまり、外の世界から堕ちた私とヴェラルドは五層まで一気に堕ちたの。それで、あなたが言った穴だけれど、一層以外の穴は外には絶対に繋がらない。一層以外の穴は吐き出し口であり、更に深みへと堕ちる入り口でしかないの。外への入り口となる穴は空気や空間を吸い込んで渦巻いているけど、外に通じていない穴は常に空気を吐き出し続けているだけなのよ。だから、あの穴に飛び込んだらここから更に堕ちるだけ」
続いてヴェラルドも軽装を脱いで、動きやすい格好になり、横になる。やはり身を守る物を身に着けないでいるのは落ち着かないのだが、体への負担が少ない。長丁場になるかも知れない異界からの脱出を考えるなら、気を緩められる時に緩ませておかなければならない。
「だから、私たちは五層から四層へ、四層から三層へと、この異界を渡る。人によっては登るとも言うわ。降りるとは聞いたことがないわね。目的の界層が下だったなら、降りるしかないけれど、必ず求めている界層に降りられるわけでもないから、運が必要になるわね」
「俺たちは運が良い。五層に人が集まる場所があり、そしてお前を見つけられた。こればかりは、堕ちてみなければ分からないからな」
剣を抜いて、魔物の血が付いてしまっている刃を布で拭き取って行く。
「運が悪いと、どうなるんですか?」
「一言で言えば死ぬ。どの異界にも集落はあるはずなんだが、その基点――ベースが見つけられないとただただ迷うだけになってしまう。だがそのベースも魔物の集落という場合もあって、その場合は地獄を見る」
「集落があるのは、あなたみたいに堕とされた人が居たりするから……と言いたいところだけど、子供の頃に異界に堕ちて生きているあなたは奇跡に近いの。だから、集落は大抵が死者が作り、生者がそこを求めて寄り付き、住まう」
「死者……」
「お前はロジックを開けられる。だったら、その目でも大体は理解しているだろう? この集落に居るほとんどの人種が、既に死んでいるということを」
「死んでいて、どうして触れるんですか?」
「魂が還らないから。循環しないから。ずっと異界に閉じ込められて、逃れられない。そうなると魂も形を持って、触れるようになってしまう。霊にはなれないのよ、異界では。教会も神官も魂や生命の循環を揃って口にするのに、それとは別に、あらゆる悪は巡っても浄化されることはないからって、異界に堕として、ずっとそこに悪の魂は閉じ込めてしまおうという考えを持つ集団がある。その集団に五年前、あなたたちは巻き込まれてしまった」
血を拭き取ったヴェラルドはその布をナルシェに手渡す。彼女はその布に聖水を掛け、魔物の血生臭さを一瞬で消し去る。これで臭いに釣られて夜中に魔物がここへ寄り付いて来る危険は減った。それでもさっきまでは剣にベッタリと付着したままであったので、どこまで効果があるかは二人でも首を傾げてしまう状況ではある。それでもやるのとやらないのとでは雲泥の差であるので、やるだけやってみたという具合だ。
「そう、ですか」
「……魔物はどうやって追い払って来た?」
湿っぽい話、と言うよりもアレウリスの心のトラウマを抉ってしまいかねないのでヴェラルドは話題を変える。
「基本的に、男連中が退治しに行きます。僕は遠目で眺めているだけしか経験はありませんけど、腕っ節に自信のある男たちは粗雑な武器でも対等に渡り合うので……そもそも、洞窟からあまり魔物は出て来ないんですよ。出て来るとしても、間違って洞窟から出てしまったかはぐれてしまったか。数が少ないので、こっちは大勢で倒す感じで」
「少数を多数で痛め付ける。人の世ではあってはならないことだが、魔物を相手にするんならそれは間違っちゃいない。この異界が採掘中心の世界であったことも功を奏しているな。男を労働力と見なすということは、その腕っ節を買うということだ。女性を目利きの職に就けている分、良いサイクルが成されていた。最悪な環境における、ほんの僅かな良い部分に過ぎないが」
アレウリスが堕ちた年齢は十二歳。そこから五年もの間を、ただ採掘に捧げ、生きることだけを考え続けて来たのであればなんと惨いことだろうか。ヴェラルドがアレウリスの異界に堕ちた当時の年齢であったなら、友達と街中を駆け巡っては大騒ぎをしていた。だが、少年はその時期を喪失してしまった。それは決して取り戻せるものではないのだ。人格形成に大きく影響を与えてしまったに違いない。こうして大人しくしてはいるが、少年を見つけた瞬間を思い返す。
少年は声を掛けこそしたが、その目は“高価な物を着ていること”にしか向いていなかった。つまり、コミュニケーションを取る気は無く、ただ明日も生き抜くための価値という概念に囚われていたのだ。
「魔物って、倒しても倒しても出て来ますけど繁殖とかするんですか?」
「基本はしないわ」
「奴らは異界獣の新陳代謝によって生じた汗や抜け毛、皮膚片や鱗から生じる。知性が宿るかどうかは魔物の形によって変わる。獣型なら群れでの活動をするようになるし、ゴブリンのようになれば木や石で武装し、同じ形をする魔物と小賢しい方法で襲って来るようにもなる。異界獣が活動を続ける限り代謝は続くんだから、倒しても倒しても生じるのは仕方の無いことだ。もしも魔物を劇的に減らしたいのなら、生まれる原因を断たなきゃならない」
「その……異界獣という存在を、ですか?」
「突き詰めればの話よ。討伐なんて凄く非現実的な話になってしまうわ。この前も冒険者が五十人揃って一つの異界獣の討伐に成功したって話があったけれど、外の世界にまで出て来てしまって、そのせいで三つの村が滅びたのよ。あなたを連れて、ここを出ることが私たちの目的となるなら、討伐なんてことは考えずに異界獣の目を盗んで界層を渡ることだけに集中するべきね。いえ、あなたを連れ出す以外であっても、二人だけで異界獣と戦おうだなんて頭がおかしいって気付いて欲しいところなのよ。分かる、ヴェラルド?」
釘を刺すように言われて、ヴェラルドは肩を竦める。
「魔物の脅威から世界を救い出すには、異界獣を倒さなきゃならない。ところが、戦えば異界から出て来た魔物以上の被害が出て冒険者側にも大きなトラウマを植え付けかねない。だから、異界獣には手を出すな。異界を渡るな。そう言われてはいるが、どうにもズレている。結局のところ、犠牲を出さずになにかを成すってことは出来ないんだ。そこに目を瞑らなければ、脅威の排除にはいつまで経っても至らない。が、俺たち冒険者と違って街の人たちは甦れないからな。そりゃ慎重にもなるし、脳味噌が筋肉で出来ているような冒険者が異界獣を外に出してしまうような失態をしてしまったら、目も当てられなくなる。俺たち冒険者は最終防衛であり、人々を守り抜かなきゃならない。それを忘れて、甦るからと先に死んでは意味が無い」
前にも思ったことを、今度は信条としてアレウリスにヴェラルドは語る。
「甦る?」
「冒険者は死んでも、外の世界に基点があれば甦ることが出来るんだ。ただ虚脱感と、喪失感に苛まれて一週間はまともに動けない。ついでに技能――ロジックを開いた際に見える項目の数値の幾つかが低下する。魂が完全な状態で肉体を作り出して甦るのではなく、削っていることの証明だな」
「あの、外の世界って言いました?」
「ああ、言った」
「異界で死んだらどうなるんですか?」
「異界では魂は還れないって言ったでしょう?」
ナルシェが声のトーンを落として答える。
「そして異界に祝福という概念は無いの。だから虜囚になるのよ……異界獣が、新たな異界を作るために今の異界を捨てるまで……けれど、捨てたからといってそこで虜囚になっていた魂が外の世界へと導かれるかと言うと……結局のところ、分かっていないわ。死んだ先のことは誰にも分からない」
ゴクリとアレウリスが唾を飲んだ音をヴェラルドはハッキリと聞き取った。
「お前に運が巡ったことを、ようやく実感できて来たか?」
「死んだら二度と甦れないのに、異界に来たんですか?」
「そういった専門の冒険者だ。別名『異界渡り』。これだけじゃ金にならないから、外での活動も兼業している連中の方が多い。と言うよりも、自らすすんで異界に堕ちようなんて奇特な連中は、俺たちのように数が限られている。多くは要請があり、多数でのパーティで潜るという前提が無きゃやらないんだ」
「多数でのパーティで、要請を受けて行うのが、さっき言ったような異界獣の討伐。異界獣を討伐さえすれば、一つの異界が崩壊する。つまり、一つの穴が閉じて、その異界獣が生み出し続けていた魔物が消失する。マイナスなことだけじゃなくプラスなこともあるにはあるの」
「異界……獣、崩壊……つまり、異界は異界獣が作り出している世界で、魔物もまた異界獣から生まれ落ちたもの。だったら、異界そのものが異界獣の巣ということじゃ?」
「あなた、思った以上に頭が良いわね。これだけの話を聞いて、その核心に至れるなんて凄いことよ? ここに居るヴェラルドは理解するまで一週間は掛かったから」
「うるせぇ」
「異界は異界獣の数だけある。その構造と、その界層がそれほど深くまであるのかはまさに異界獣の気持ちと頑張り次第ね……あんまり頑張らない方がありがたいのが人種である私たちの願いよ」
「五界層は、深い方なんですか?」
「浅いと言えば浅いが、お前を連れ出ること、そして構造が洞窟であることが難度を上げている。広い場所じゃなければ、剣は振るえない。暗がりでは突然の奇襲にも対応が遅れやすい。音に敏感にならなければならない。会話も最小限にする。手の動きだけでどんな合図になるかも教える。襲われた際に反撃できるように、短剣の扱い方も軽くだが教える。これだけ準備をしても、出られるか出られないかは構造次第だ。この五層であっても洞窟の数は多かった。全ての界層でこれが続くようなら、食料が足りなくなるかも知れない上に、悪運を引き寄せればいつまで経っても渡るための穴を見つけられずに多くの洞窟に潜ることになる。だから、お前は守られるからと暢気に考え、少しの油断で危機が断続的に続けば、俺たちは全滅し、異界の虜囚になりかねない。努々、忘れるな。お前もまた異界を渡る。それは冒険者と同等の責務を負っていると思え」
脅しにも似たことを口にしたが、アレウリスには重々、理解してもらいたいのだ。パーティとは歩調を合わせなければ完成には至らない。保護対象であっても、歩調の乱れは崩壊を招くということを。まだ少年である彼には酷であるのかも知れないが、ここから出たいと言った以上は、極めて短期間であらゆることへの我慢を学んでもらわなければならない。
「アレウリス……ちょっと呼び辛いわね。『アリス』で良い?」
「それはやめた方が、」
「それはやめて下さい」
ヴェラルドの声に被せるようにナルシェの提案に反対を示す。その様を見て、ヴェラルドは口元に手を当て、僅かな間だけ考え込む。
「なら『アレウス』だな。『アリウス』でも良いが、それだと『アリス』に近くなる」
思い至ったことは口にせず、ヴェラルドは新たなニックネームの案を出す。
「分かりました」
「どうして『アリス』が駄目なのかしら?」
ナルシェは疑問符を付けてボヤくのだが、ヴェラルドもアレウスもそれに答えることはない。そして、ヴェラルドが異界から脱出するにあたって、最低限、アレウスに求めることを紙に箇条書きで書き出して行く。
アレウスはそれを読み、二人はそれを見守りつつも明日に備えるべく睡眠を取るため横になった。