♭-0 天使が堕ちた日
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「天使を殺すか……?」
振り上げられる剣。その切っ先がいずれ自身の胸へと突き刺さる。天使はそのときをただただ待つことしかできない。
手を抜いたわけではない。全力を賭したはずだ。それでも天使は仰向けに倒れ、人間の剣が今まさに自身の命を奪おうと高々と掲げられている。
人間の争いなどに介入する気はなかったが、神の名の下に行われる戦争ほど醜いものはない。別に神がそんなことは望んでいないと思っているのではなく、神を騙ったところで神同士の争いに比べれば人間同士の争いなど児戯にも等しいからだ。
神は争わないものという考えは人間だけが抱く幻想だ。神は神同士で共存し合っていると思うのもまた人間の特徴だ。原初の神々は人間と同程度には荒々しく、欲望にまみれ、色欲に心奪われていた。女神のために平気で他の神の大切な物を壊したり奪いに行くし、女神と夫婦の誓いを立てているクセに他の女神と体の関係を持つ。しかも関係を持った女神は実は男神であったなどということも平気で起こる。そこから無意味な戦も起こり、ワケも分からないままに神の御使いたる天使は戦に駆り出される。
くだらない。人間と同じくらいに神の生き方はくだらない。だからこそ神々は世界からお隠れになった。人間が生きている世界で争うことがどんなに無意味であるかを数千年の果てにようやく理解したのだ。かと言って自らの創造物を見捨てることもできず、神々は別の次元で争いながらもこの世界へと介入を続けている。
天使が時折、この世界に降り立つのも神の御使いたる者の使命だ。神の創造物たちが一体どのように生き、どのように争い、どのように死ぬのか。それを見届ける。ただし、見届ける人間は最初に見定めた相手のみ。その過去も、現在も、未来も全てを見通し、神が用意した道をしっかりと歩き切るところを見るだけ。
つまらない。心底、つまらない。終わりが分かっている創作物を眺めることほどつまらないことはない。神が暇を弄んだ際に書いた作り話をさながら最後の結末を読んでから最初から読めと言われているようなものだ。それも一日で、ではなく数年や数十年かけて、だ。こんなことに天使が駆り出されることは、神々が争い合うこと以上の無意味さを孕んでいる。そのように思っても、神の造形物であり神の御使いである天使は抗えない。
誰を見定め、その結末を見届けるのか。天使は悩んでいた。だから人間に扮していれば多少は人間の心を理解し、学び、見定める相手を見つけることができるのではないか。そのように思って、くだらない戦争にも足を踏み入れた。
意外だった。あまりにも、あまりにも儚い存在だと思っていた人間は天使が思っているよりも逞しく、なによりも自身を打ち負かすほどに強かった。
手を抜いていたわけではないが、油断はきっとしてい。これは自らの心の醜悪さが導いた結末だ。だから命を取られることにすら、諦めがついていた。
たとえ殺されたところで、神の御使いはまた産まれ落ちる。自分という概念は消え去るが、天使の総数は常に一定に存在し続ける。神がそう決めた。神が決めたことなのだから、これは神が飽きない限り永遠に続く。あるいは、神に干渉できる者が現れない限りは。しかし、そんな存在が現れるわけがない。なぜなら、その存在もまた神の創造物に過ぎないからだ。生じれば必ず、神はその存在をすぐに知り、抹消するだろう。
「どうした……? 殺さないのか?」
掲げられた剣はいつまで経っても天使の胸を穿たない。死の瞬間が間延びされるのはあまりにもくだらない。さっさと奪うなら奪い、勝鬨を上げるなら上げればいい。
「天使は殺せない」
そう言われ、目を見開く。天使は人間の風貌を取っていた。翼も完全に隠し、決して容姿で見抜けない。なのにこの男は天使が天使であることを看破したのだ。
気まぐれか、それとも冗談か。天使は言葉の真意を探るべく、沈黙のさなかに男がどういった行動に出るかを見守る。掲げた剣を天使の胸に突き立てるのか、それともゆっくりと下ろして鞘に納めるのか。そして先ほどの言葉は本当に看破したから口にしたのか。ただ天使を油断させ、下劣な言葉で罵りながら殺すための前段階――殺戮における一振りのスパイスでしかないのかどうか。
男は剣を納め、鎗を拾う。
「なぜ、天使がこんなところに」
戦争の喧騒の中で男はそう言って、天使へと手を差し伸べる。払うこともでき、拒むこともでき、虚を突いて殺すこともできた。だが天使はその手を取って、立ち上がった。
「神に人間の生き様を見るように言われた」
「だから戦場に? 神も人が悪い。いや、人ではないか」
冗談めいてはいたが、言葉に面白さはない。それは男も分かっていたらしく、空笑いしかしていない。
「人間よ、この争いは一体なにを原因にして生じている?」
「縄張り争いだ」
「縄張り争い?」
「国というものがあって、私は王国のために全てを捧げている最中だ。国民のために領土を守る。領土を守れば、そこで国民は生きることができる。領土にある物を王国のために使うことができる」
「くだらない。そんなことをするのなら、国を一つに纏めてしまえばいい」
「……くだらなくはないのだ。国とは、その者にとっての最初の宝だ。衣食住、武器、名前、ありとあらゆる物を奪われようとも産まれた場所までは奪えない。国が滅ぼうとも、自らが産まれた亡国の名を常に心に刻み、住む国や地を変えようともその精神はずっと産まれた国に帰属し続ける。死を与えようとも、一生だ。それをくだらないという一言で吐き捨ててはならない」
「ならば、人間よ。お前が勝ち続ければ、この世界は平和になるのか? この縄張り争いは減るのか?」
「どうだろうな。国を滅ぼし続ければ平和が訪れるなどという考えは暴君だ。国同士が立ち続けることで、競い合うこともできる。ただし、常々に自分の国が一番の強国であることが条件だが」
一番であり続けたい。それは人間の本質だ。誰よりもお金持ちでありたい、誰よりも貴い存在でありたい、誰からも慕われる存在でいたい、誰よりも好かれたい、誰よりも強くありたい、誰よりも天才でありたい、誰よりも、誰よりも。数えればキリがない。それこそが人間の強欲さである。
だが、神の強欲さに比べればまだまだ可愛げがあるだろう。
「なぁ、人間? 俺はお前という存在を見届けたいが、構わないか?」
「こんな人間の生涯を見届けたところで、面白みなどどこにもないぞ」
「構わない。見定めた瞬間に結末は見える。面白みなど期待していない」
天使はそう言って人間に改めて触れ直す。
頭の中へと流れ込んでくる大量の情報は、その人間がこれから送る生涯を一気に注ぎ込まれている証である。同時に自分自身を構成している肉体が悲鳴を上げ、鼻血が出る。人間と構造が異なるが、頭部に備わっている脳と呼ばれる臓器が一度破裂でもしたかと思うほどの視界の明滅が起こり、やがて痛みも明滅も静まる。
「面白みのない人間、か。現国王が面白いことを言う」
「やはり天使にはバレるか」
「どうして国で一番に偉い者が戦場に立っている?」
「国を守るという意志は、国を統べる者が見せなければ続かないのだ。これは初代国王から続いている。やがて帝国にも伝播した志だ。王が立ち、王が戦い、王が勝つ。そうして王国は発展し続けてきた」
「死ぬかもしれないぞ?」
「構わん。死は確かに恐怖であるが、民草に見放される方がもっと怖い」
「そう……そうか」
この男の結末はもう見えた。どのような死を迎えるかも知っている。だから「死ぬかもしれないぞ?」という言葉にはなんの意味もない。この男はいずれ、どう足掻いても死ぬのだから。死なない人間などいないのだから。それがどんなに惨めでつまらなく、くだらない死であったとしても、死は死である。どんなに光に満ち溢れた人生の果てでの大往生であっても、やはり死は死である。その概念は覆ることはない。
「では、王よ。お前に一つ、面白い力を授けてやる」
「こんな人間に神の御使いから力を与えられると? 俺はそんなにも素晴らしい人間ではない」
「素晴らしくなくとも、俺がお前を見定めた時点でこの力を与えることは決まった運命だ。諦めろ」
「なるほど、運命であるのなら受け入れるしかないか」
天使は男に力を与えた。
やがて男はその力を存分に振るい、ありとあらゆる戦場で勝ち続けた。それでも争いがなくなるわけではなく、侵攻も防衛も繰り返され続けた。男も一定の勝利を得てからは力を使うことを避け始めた。圧倒的な力での勝利はそれほどにも魅力がないのかと天使は思ったが、人間であり続ける以上は人間としての戦い方を続けたいという男の念がなんとなく伝わって、天使はただ男の生涯に注視し続けた。
付いた呼び名は『巌窟王』。天使が与えた『土』の力が国王をそう言わしめた。しかしその人生は戦争と、権力闘争にのみ消費され続け、子供の成長と共に『巌窟王』が統治する国は荒々しくも落ち着きを得て、やがて戦争も終わりはないが互いの国力の限界へと近付き、休戦へと至った。国境では永遠に睨み合いが続いているが、どちらかが侵犯しない限りは再びの争いはほぼ起きないだろう。そのように思われた。
『巌窟王』は自身のやるべきことを終えたとして、王の座を退いた。息子の戴冠を終えてからは肉体の衰えから徐々に表舞台から姿を消した。
「王よ」
「もう王ではない」
「このままではもうお前の生き様はゆったりとした死へと向かうのみだ」
「未来を教えることは禁じられているのではないのか?」
「この程度は禁じられてはいない。向かう未来は不安定ながらも、やがて至る場所が同じであるのだから」
「どんな会話を交わそうとも、心変わりを起こさない限りは行き着く先は、ゆったりとした死ということか」
「ああ」
『巌窟王』――前王は自室からあまり外へと出なくなった。与えた力の弊害だろう。やはりただの人間に与えては、肉体が弱ってくると徐々に崩壊が始まる。人間の衰えとは厄介なものだ。特に老いが、肉体を弱らせる。声から覇気がなくなったのも何年前からだろうか。
「俺はこのまま死ぬのか?」
「死ぬだろうな」
「そうか……だったら、それでよい」
「…………いいや」
天使は私情が込み上げてくる。
「俺は良くない」
そう言うと、前王は軽快に笑う。
「お前がそんなことを言ったのは初めてだ。常に傍にいながら、なにも言わず、ただ見届けているだけだったお前が」
「こんなくだらない結末など、俺は見たくない」
「くだらなくはない。人間は必ず死ぬ。結末が死である以上、そこに感情など乗ることはない」
「まだ、俺に未来を見させてくれ」
「未来?」
「まだまだ俺は人間の浅ましさを知りたい。人間の情熱を知りたい。人間の虚しさを知りたい。人間の生き辛さを知りたい」
「それはお前が今更になって抱いた、ただの興味ではないか。俺の結末を見終えてから、お前の興味に合った人間を見定めたらいい」
「いいや、お前に連なる者でなければこの感情は抑えられない」
「では息子の生き様を見てくれればいい」
「駄目だ。あんな使えない息子の生き様など、見届けるに足りない。力を与えるにも足りない」
「ふふふふっ、確かに使えん息子たちだ。なんなら弟の方がまだマシとも言える。権力争いなどしている暇があったら、国の統治に力を注げばいいと言うのに」
「そう思うのなら、王に足り得る相応しき者をこの世に誕生させるべきだ」
「…………男児を二人産ませ、俺は王位を退いた。それでも俺に、まだ種を残せと言うか?」
前王は天使の言いたいことを理解し、訊ねる。しかし前王の瞳には、野心のような、それでいてどこか人間の道徳から外れたときに生じる禍々しさが宿っていた。
「どんな女でも構わん。側室でもなんでもいい。孕ませろ。俺がそこから生ずる命に力を与えてやる」
天使は禁則へと足を踏み入れる。
「王国の研究に寄与しそうな話だ。だが、もはや王を退いた俺が試したところで…………いや、面白いかもしれないな。だが、そこまで言うんだ。勿論、産まれた子の生涯を見届けてはくれるのだろうな?」
そして、興味を抱く。国のために生き続けた男が、己が欲望に興味を抱く。
「無論だ」
「どんな生涯を送るか分かっていて言っているんだな? 側室の子は王にはなれん。迫害され、追い払われ、きっと王宮には住まわせてはもらえん。どこかで野垂れ死ぬか、血統を知られれば良いように利用されるだけだ」
「俺がそんなことはさせない」
「……ふ、ふふふふふ。お前がそこまで言うのなら、試してみてもいい。しかし、天使の囁きに乗ったとなれば我が血統には呪われる。いや、その呪いは現王に押し付ければいいだけか」
「面白いだろう?」
「面白いものか。ちっとも面白くない。だが、これまでの生涯を見届けてきた天使の言うことだ。叶えてやらないわけにはいかないな。私利私欲で産まれた子供、私利私欲にまみれた天使。人並みの幸せは、ないだろうな」
男は椅子から立ち上がる。
「争いを望むか」
「いいや、望まない。俺は人並みの幸せすら掴めないだろう『巌窟王』の力が与えられた子供に人並みの幸せを与えてやる。神に決められた道ではない。俺が決めた道を歩ませる。いや、争いとは無縁の道を歩ませたい」
「なるほど、もう争いは嫌というほど見たか。だから俺の二人の息子たちのような闘争のみの生き様を見るよりは、それとは掛け離れた世界で幸福に生きている様を……いいや、俺の息子が幸福に生きる様を見たいということか」
「お前は幸福ではなかったからな。せめてお前の血を継ぐ息子の一人にでも、幸せを与えてやりたい」
漆黒の泥沼が天使の足元に生じ、ズルズルと引き込まれていく。
「未来を変えてしまったことが神に見つかってしまったか」
「天使よ、そのまま堕ちていくのか?」
「ああ、だが構わない。俺の言った通りにしてくれるのなら、俺はきっとまたこの世界に召喚される。『巌窟王』の力を持った、お前の息子に導かれて。召喚された瞬間に、お前の息子がいてくれるのが一番望ましいが」
「それは、難しいだろうな。俺もまた、この王宮で無様な死を迎えることになるだろうから、そのように手引きすることすらできはせん」
「ならば、神の言うところの奇跡に頼ってみるか」
「神から見放された天使が言うのか」
「神と奇跡は同一ではない。神が起こす事象だけではない、人間が起こす事象もある。なるべくしてなり、なるべくしてならない。奇跡とは積み重ねであり、積み重ねでもない」
「よくは分からないが……また会える日を楽しみにしている」
「その齢で、まだ会えると思うか? 強欲め」
「強欲な天使がなにを言う」
天使は堕ちる。人間への過剰な干渉を行ったことによる罰をその身に浴びて、神との繋がりを断たれる。地上に居続ける罰を受ける。そして岩の狼と化し、野性の本能のままに生きることを強制される。
それでも恩情として、己が定めた奇跡に巡り合うことでの理性回復を約束される。
堕天使が望んだのは『巌窟王』の末子との出会い。野性で世界中を駆け回る中で、たった一人しか存在しない者との出会いを求めることに神はせせら笑い、静かに了承した。
しかし、神の予想に反してその歳月の果てに岩の狼は『禁忌戦役』へと向かう騎馬隊と馬車を見つける。
その一つ目の瞳が見つめたその先には――
『巌窟王』の血を受け継ぐ騎士見習いの少年がいた。
この奇跡が、岩の狼でしかなかった堕天使に再びの理性を取り戻させ、召喚に至る。
そうして堕天使は、『巌窟王』が約束を果たしたことを知り、自身もまた約束を果たすために動く。
名も無き王子の全てを見届けるために。
しかしそれは、闘争ではなく幸福のために。
その願いは、闘争を見飽きたからではなく『巌窟王』との約束のために。
今も、そこだけは譲らずにいるはずなのだが、それでも『巌窟王』の末子は闘争へと向かう。
己が欲望を満たすために『巌窟王』に頼んだ子供はもうじき、死へと向かう。だが、神が決めた運命だからと諦めるわけにはいかない。それが欲望に対する責任なのだから。




