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異世界で壊す異界のロジック  作者: 夢暮 求
【第13章 -只、人で在れ-】
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α-5 白鳥のようには

 魔物の気配は一向に見られない。良いことのはずなのに、まるで悪いことのようにすら思う。先ほど見させられた『音痕』とそこに付随していた光景が頭から離れない。だからこそ、戦闘のような別のところに意識を向けるような時間が欲しい。


 戦いたくないはずなのに、戦いを求めている。矛盾しているのだが、イェネオスに限らず全員が静まり返っているのは、同じく矛盾していながらも今は難しいことを考えずに済む戦いを求めているからだと思える。


 だからと言って、本当に戦闘することになればこの矛盾した思考を大いに呪い、後悔するのだろう。


「なにか食べないか?」

 静寂を破ってカプリースが提案する。

「墓の中で食事なんて気が乗らないかもしれないが、なにか食べて軽く休息を入れたい。ああでも、さっきの光景について話し合いをしたいわけじゃない。この墓の主は、まだ他に『音痕』を残しているようだからな。話し合いはそれらを全て見てからだ」

「そう……ですね。なにか口にしたり、喉を潤せば頭の中のモヤモヤも少しは晴れるかもしれません」

 そんな安直な問題ではない。しかし、そうやって楽観的なことを言っておかないと自分自身が狂ってしまうような気配があり、イェネオスは自分自身を騙すためにみんなに呼び掛けた。


 疲れを自覚し、各々が談話室のどこかしらに腰を下ろす。雰囲気は落ち込んでしまっているが、誰もが会話を拒絶するような空気感はない。食事中もクニアはなにかしらカプリースにちょっかいを掛けており、ノックスとセレナは互いに食べている干し肉の出来について語らっている。他のみんなも難しいことから目を背けるように非日常の中にある日常に身を投じているようにすら思えるほどに普通の会話を楽しんでいる。

「イェネオスはこういった保存食は普段から?」

「普段からではありませんが、キャラバンで生活していた頃は食べていましたよ」

「俺はあまり口に合わないな。リオンを討伐するために異界に向かったときも食べはしたけれど、確かに美味しいけど森での食事には劣る」

「保存食は美味しさの優劣を付けるものじゃありませんよ。日持ち、あとは携帯して持ち運べるよう加工したものですから味は二の次なところはあります。けれど、蜂蜜酒の醸造のように発酵させることで美味しくなる食べ物もあるとかないとか。あと、エレスィは普段の食事で蜂蜜を使い過ぎなんです。味覚が馬鹿になりますよ」

「君だって最近は蜂蜜をたっぷりと掛けるじゃないか」

「それは……キャラバンでは蜂蜜の量を節制していたので」

「節制する必要がなくなったんなら俺のように使えばいいのに」

「嫌です」

「強い否定だな」


「そう言えば、エルフは赤子の頃から蜂蜜を口にするのか?」

 二人の会話をジッと聞いていたノックスがたまらず訊ねる。

「ええ」

「ワタシたちは偶に見つけた蜂の巣を採っても、子供の頃は口にするなとよく言われていたぞ」

「美味しさを大人たちが独り占めしたがったのかもしれないな」

 エレスィはノックスにそう答えるが、イェネオスは口に放り込んだドライフルーツを飲み込んでから思案する。

「他の方はどうだったんですか?」


「空じゃ蜂蜜は採れない。自然と口にするのは大人たちだけで、いわゆる嗜好品の一部だな。それでも、珍味扱いだが」

「山の幸に縁のないハゥフルにとっても蜂蜜は珍味じゃな。よく食べようとして怒られていた記憶がある」

「オレたちはそういったことをされた覚えはないな。幼い頃から蜂蜜は日常的にあるもので、赤子にもよく食べさせているところを見た」


「エルフとドワーフには乳幼児の頃から蜂蜜への耐性があるんだな」

 カプリースが水をそこで少しだけ飲む。

「僕が産まれ直す前の世界での常識だけど、赤子の頃に蜂蜜を与えると大病を患う。それも死に直結するほどに危険な大病だ。それは腸内の細菌がどうこうという話を聞いたことがあるんだけど、詳しいことは分からない。でも、この世界のヒューマンや獣人、ハゥフルやガルダなんかが赤子の頃に蜂蜜を口にしないように言われ続けていたのなら、それはきっと僕が産まれ直す前の世界と同じ理由だろう。そして、この種族たちには法則がある」

「ヒューマンから生じた獣人、ハゥフル、そしてガルダじゃな?」

「珍しく僕の言いたいことを言えましたね」

「子供を馬鹿にするような言い方をするでないぞ」

「とまぁ、クニア様が仰いましたが……獣人もハゥフルもガルダも種として名称を付けられてはいるものの、今現在ですらミディアムビーストやミディアムガルーダなんて呼ばれたり、ミーディアムと蔑まされるヒューマンとのハーフもいる。つまりは半分ではないにせよ、その血の一部にヒューマンが混じっている。エルフやドワーフがどのように生じたかは詳しくは分からないけれど、仮に旧人類と名付けるならば今の僕たちのようなヒューマンは新人類。旧人類から血を続けさせているエルフとドワーフは耐性を持ち、血が途絶えかけたか血があるときから突然変異した結果、新人類へと変化したヒューマンには蜂蜜の耐性がない。そして、そのヒューマンたちから派生したであろう種族も蜂蜜への耐性を持たないんだ」

「今のはワタシたちの言語だったか?」

「ジブンも途中から頭が考えるのをやめました」

「これを言うとアレウスはもっと教えてほしいと目をキラキラと輝かせるはずなのに、君たちは……」

 そう言ってカプリースは呆れて「もうこんな難しい話は一旦やめにしよう」と話題を断ち切った。


「要は種族ごとに食べられる物への耐性が異なるようだ。他の誰かが美味しそうに食べている物をたまらず口にしたら、思わぬ事態に陥るかもしれない。たとえばガルダは酒を常用しているから酔いにくく耐性を持つが、ほとんどの種族は私の許容量に至る前に倒れてしまうだろう」

「ジブンたちは肉を生で食べてもどうってことはありませんが、それが一般的ではないことは知っています」

「ハゥフルはなにかあったかのう?」

「残念ながら毒を持つ魚などへの耐性は持っていませんね。生魚を食すことへは絶対の耐性はありますが、それでも飲食はヒューマンと同様に気を付けなければならないでしょう」

「なんじゃ、優れたところがないということか?」

「いや、あるだろ。ハゥフルはこの中じゃ唯一、小細工無しで水中で呼吸ができる」

 ノックスがクニアのつまらなさそうな返事に対して、そのように言う。

「そうです。ハゥフルは耐性云々はともかくとして、肉体が水中、水域、水気のある場所に特化しています。水場のハゥフルに強気に出られるのは空から襲撃できるガルダぐらいです。だから、そんなにつまらなそうにする必要は全くありません」

 クニアにカプリースが励ましの言葉を向ける。


「泳げないエルフは水場のハゥフルに手出しができず、ハゥフルは空を飛ぶガルダに手を出せない。そんなガルダも獣人を襲撃しても本能的な面で返り討ちに遭いやすい。そして獣人は魔の叡智に触れているエルフへは近付くことさえ困難。有利不利のそれはさながら精霊の相性みたいですね」

「逆に言えば、互いの違いを理解していれば安定した立ち回りができるということだよ。今回、それが必要になるかどうかは措いとくとして」

 暢気なことを言うヴィヴィアンは持っていた干し肉の残りを口へと放り込んだ。

「水でふやかしたりしなくてもバリボリ食べられるのは私や獣人の特権だね。塩辛いのが難だけど」

「そもそも塩で水抜きした上で日干しした保存食でしてよ。チマチマと唾で柔らかくしつつ食べるのが普通なんでしてよ。アベリアもかぶり付くから、あの子もあの子で歯と顎が頑丈なのが怖いんでしてよ」

「あーそうなんだ? それなのになんであんなに顔が良いんだろうね。頑丈そうな顎してないというか繊細な顔立ちだから、硬い物なんて食べられないーって感じなのに」

「硬くても柔らかくても不味くても美味しくても残さず食べ切るんでしてよ……あんな悪食をわたくしは彼女以外に知りませんわ」

 食への異常な拘りではなく、異常なまでの執着。ある物を食べなければ次に食べられないのではないかという強迫感が織り成している。クルタニカも笑い話としているのではなく、彼女のそういった一面を心配している節があった。


 そこそこに食べる物を食べ、そこそこに話をして、気分を持ち直した。こんなところで立ち止まってはいられない。外で待つ同胞たちのためにも進まなければならない。なにより、自分たちが求めたことだ。求めたことなのだから、逃げてはならない。


「逃げてもいいと、アレウスなら言うだろうな」

「え?」

「いや、真実を知ることを怖いと思うなら引き返すことも勇気だとアレウスなら言うだろうなと思った。お前がそんなにも思い悩んだ顔をしているものだから、つい、な」

 ガラハはイェネオスを気遣ってくれている。同胞ならばこれを屈辱だと言うのかもしれないが、自身にはそういった感情は湧き起こらない。

「ありがとうございます。でも、私は私のために真実を知りたいんです。怖いからと逃げ出せば、もう二度と私はここに足を運ばないでしょう。もしそうなったなら長い人生で、私は永遠にこの日を後悔し続ける。そんな気がするんです」

「ならばお互い、覚悟を決めなければな」

「そうですね」

 この一言でイェネオスは、ガラハだけでなく誰もが真実に怖れているのだと理解する。それでも弱音を一言も発しない。クルタニカに至っては自身の信仰が揺らぎかけたにも関わらず、それでも前に進もうとしている。


 もしかしたら自分たちは愚かな蛮勇に囚われているのかもしれない。だが、この前進があとに続く者たちにとっての(わだち)になるのなら、蛮勇であっても構わない。


「相変わらず、こちらに敵意を持っているような生物の気配は感じられません」

 セレナが先に入った部屋を軽く見回してから、残りの全員が入ることを許される。

「ここは……書庫?」

「書斎じゃないか? 調べながら魔法の研究を重ねていたのだろう。いや、ロジックの研究か……」

 エレスィは本を一つ抜き取る。開いて、中身を読み、閉じて戻し、また違う本を取る。それを繰り返す。

「ここの本はどれを取っても、俺の知らないものばかりだ。それに内容が複雑すぎる。魔の叡智に触れているといっても、それを専門としていない俺やイェネオスでは解読できないだろう」

 貸してみてくださいませ、とクルタニカがエレスィから本を受け取り、中身を読む。

「……理論がぶっ飛びすぎていましてよ。解読して、理解したとしてもわたくしもここに記されている通りに魔法を使うことは不可能でしてよ。もしかしたらエルフですら……いえ、失言でしたわ。すみません」

「いいや、俺もそんな気がする。これを読んで理解し、実行できるのはエルフではなくハイエルフのみ。きっと、そういうことなんだろう」

 返してもらった本をエレスィが丁寧に本棚に戻す。


『お爺様? ロジックがほぼ全ての人間に行き渡ったようです。けれど、気掛かりなことが』

『なんだい?』

『ロジックは全ての生命に存在させてこそ意味を成す。お爺様はそう仰いましたが、どうして人間を除く動物や植物のロジックは開けないのでしょうか。無機物に命がないことは分かりますが、動物も植物も生きているのでは?』

『無機物にも歴史がある。この地下のように、私たちが共に過ごした日々が無機物には刻み込まれているだろう』

『それでは、無機物にもロジックが与えられない理由は?』

『対話ができない――いや、これは私が作り上げたロジックが不完全であるがゆえの弊害だ。私は人間を救済するべく、ロジックを人間に特化させた。その結果、人間以外にロジックを与えることを困難にさせてしまった。けれど、ロジックとは私が元々あったものを簡略化させたもの。閲覧できなかった生き様を閲覧できるようにしただけなのだ』

『つまり、人間以外のロジックも開こうと思えば開ける?』

『やろうと思えばできるだろう。しかし、そこには私の与えたロジックの庇護はない。つまりは一から構成し、ロジックという概念を与えて開くということになる。これはかなり手間の掛かることで、簡単にできるようなことではない。私たちハイエルフのみに限られてくるだろう。もしハイエルフ以外に人間以外の――動植物を越えた概念にすら干渉することができる者が現れたなら』

『現れたなら?』

『その者はきっと、この世の理から産まれた者ではないだろう』


 少女は女となり、青年は変わらず幼さを残す。ここまで来ると、さすがにこの『音痕』に残る景色に混ざる女の正体もハッキリとする。案の定ではあるが、イプロシア・ナーツェである。この姿を見間違うはずもない。


「魔物は出てこないけど、私たちの気分を悪くさせるものばかりは見させてくるんだね」

 ヴィヴィアンが心底、嫌そうな顔をして言う。


『どうしたんだい? 今日は一段と不機嫌だ』

『以前、お爺様が言ったように私は人間に魔の叡智を評価されて、冒険者にならないかと誘われました』

『そうか、遂にか』

『けれど、私が思うにあの者たちは私たちに比べて圧倒的に劣っています。あんな者たちと交流しなければならないのは、どうにもこうにも……あと、まったくもって失礼な方々ばかりで呆れ返ってしまいました』

『良かったじゃないか』

『なにがですか?』

『その負の感情は、私が与えることのできない感情だ。以前に言っただろう? 君は感情を学ぶ必要がある。喜び以外の、負の感情を』

『私のこの不快感が、私を成長させるのでしょうか?』

『ああ、きっとね』

『でも、あの人は一言も私と話すことすらしなかったんです。その周りの者が代わりに話してはくれたんですが』

『話してくれなかった?』

『はい。失礼だとは思いませんか? 私が必死に話しかけているのに』

『……それはね、きっと君の見当違いだ。良いかい? その者は君の言っていることを無視していたわけじゃない。君の言っていることが理解できなかったんだ。そしてその者は、その者自身が言いたいことを言うことができないのだろう』

『どうしてですか?』

『神……いいや、なにかしらに縛られている。会話を禁じられているのかもしれない。けれど、そうやって本来持ち得る力を使えない代わりに別の力を得られる。それも、怖ろしく強大な、ね。これを私たちは神力と呼んでいる。かく言う私も、神力を持つ』

『お爺様が? けれどお爺様にどのような制限が?』

『不老不死という制限がある。老いることができず、死ぬこともできない。これはね、大いなる束縛だ。もはや人間ではない。人間を捨てているからこそ、私は君に魔の叡智のほとんどを授けることができたんだ』

 イプロシアと青年の会話は以前のような仲睦まじいものではない。思考の成熟によって、互いに距離感を保っている。立ち入らず、立ち入らせない。互いに心の深奥を知り尽くしているからこそ、不可侵を守り通す。これによって性差や年齢差による不和を避けているのだ。


「この話は、『勇者』のことか?」

「そうでしょうね」

「だとしたら、このあとに待っているのは恐怖の時代……」


『残念だが、『勇者』と冒険を始めた彼女がこの地下に戻ってくることはなかった。全てが終わってから余の前に彼女は帰ってきた』

 一体どこから観測されているのか。イェネオスは意識を集中させるが、どうしても特定することができない。『音痕』とは明らかに異なる現在の声であるはずなのに、掴み切ることができない。それがとても、煩わしい。


『魔王が十二に分かたれた、だと?』

「これは………! いや、いずれ知れ渡ること、か」

 ガラハが『音痕』の再生に合わせて大声を発してなにやら動こうとしたが、無駄なことだと察して諦めの言葉を吐いた。

『はい。確実にこの手で仕留めたと、私たちは思っていたのですが』

『それで、どうなった?』

『十二の魔王の断片は各地に飛散して、個々が大いなる力を秘めてこの世界から消失しました。ですが、この世界から消えただけであって、他の世界には存在しています。異界と呼ばれる、現世でもなく幽世でもない狭間の世界に。そしてその狭間の世界で、断片は魔物を統べる主となって暴れ回っているようです』

『狭間……狭間は全ての命の停留所だ。そんなところに巣喰われでもしたら、人間の魂は永遠に循環しなくなってしまう』

『魔王の断片を改めて始末しに行くことも考えましたが、私たちは魔王討伐の直後にオエラリヌを――ドラゴニュートを喪いました。彼の力は『勇者』を凌ぐほどに高く、それの喪失はあまりにも痛手。なにより、『勇者』はもう戦う気力を、残してはおりません。十二の断片は喪失した魔力を蓄え、再び現世に姿を現すようなことがあれば……いいえ、十二の断片同士は惹かれ合い、いずれ一つとなるべく互いを貪り始めます。現世に現れることがなくとも、再び魔王は再誕する』

『人間の、敗北か……いや、人間がこんなことで屈してはならない。魔物や魔王如きに、私たちが見定めてきた人間が敗北するなど、あるわけがない』

『……ですね。だから私は覚悟を決めました』

『異世界に渡る覚悟ができたか』

『はい。私はこの世界から逃避し、別の世界で神の力を得ます。そして再び、この世界へと舞い戻る術を獲得して、改めて魔王を討伐し、世界を統治します』

『文字通り、世捨て人と呼ばれ煙たがられるだろう』

『ええ、けれどそれは全て事実。だって私は本当に心の底から、この世界の本質に絶望し、諦観し、なによりも呆れ果て、興味を失ってしまいましたから。正直、神に成ったあと戻ってくることさえ考えないかもしれません。いや、その可能性が極めて高いです。だって、この世界を守ってもなんにもならないじゃないですか』

『……それは違う、それは違うぞ? 私たちはこの世界を見てきたはずだ。呆れ返ることも絶望することも沢山あった。しかしながら、この世界は思い通りにいかないからこそ美しい。美しく面白く、楽しい』

『いいえ、お爺様。私はその考えには乗ることができません。魔王が蔓延るこの世界には、もはやなんの興味もありません。人の努力が簡単に、人ならざる者によって奪われる世界になど、これっぽっちも価値を感じることができません』

『私たちハイエルフの悲願が君に乗っているというのに、君自身は異世界へ渡ったあと帰ってくる気がないとは……』

『見損ないましたか?』

『いいや、君らしい。もしかすると、負の感情を学ばせたことは間違いだったかもしれないと私は私自身を省みているところだ。ああ、そうだ、それが間違いだった。君は今、負の感情を学んだからこそ自身の中にある負の感情に怯えず拒まず、受け入れてしまっている』

『ええ、まさにその通りです。私は私自身の中にあるこの黒い感情を素直にスッと心へと落とすことができてしまいました。ですが、最上の感謝を』

『学ばせなければ今の君はいないからか?』

『お爺様? 私の不老不死の力は呪いによって封じられています。自らロジックを開いても、この呪いを解き放つことは叶いませんでした。いずれは死ぬ運命。とはいえ、その運命は果たして本当に私の元にやって来るのか……お爺様を見ていれば見ているほどに、永遠にも近い年月を私はこれからも過ごすことになるのでしょう』

 イプロシアが青年へと杖を向ける。

『私は殺せない』

『ええ、そしてお爺様も私を殺すことはできない。けれど、私の邪魔をすることがお爺様には出来てしまう』

『……縛るか、神の如く』

『ここは私の還りたい過去、戻りたい場所。未来永劫、どんなことがあろうとも私はここに還ることを望み続ける。どんなに負の感情を受け入れても、お爺様のいるこの場所こそが私の命の還るところ。だから、お爺様は私にとっての起点です。だからこそ、基点となってもらいます』

『基点、だと? それは一体どういう…………そうか。私の知るよしのない『アーティファクト』をも、手にしていたわけか』

『ロジックを作り出したお爺様ですら分からない人間の可能性。それが形になった物……のように私は思っていたのですが、どうやらまた少し違うようです。これは人のトラウマの是正。あのときに受けた心の傷を、こうあって欲しかったと願うことによって完成する魂の叫び。お爺様が学べと仰ってくれた負の感情によって形となるようです。ただ、こんな物を多く保有している人間のほとんどは、数年で命を落とすようですが』

 青年の体が吹き飛び、壁に背中から激突する。

『還るべき場所として、私を動けなくするのが狙いか』

『相変わらず私のやろうとしていることを全て理解してくださいますね。お爺様のことを心の底から尊敬しています、敬愛しています、なによりも私を育ててくださったことに感謝しています。けれど、そんな感情よりも今の私は、この世とは異なる世界に渡り、神になることに心からワクワクしているところです。それがハイエルフの悲願であるのなら、この地下でお爺様は見ていてください。私は必ず、異世界へ渡る。ええ、必ず』

『待て、キュクノス!』

『今の私はイプロシア・ナーツェですよ』

『イプロシア……? いや、待て、ナーツェだと? 君は、まさかロジックを書き換えてエルフたちに誤認を?!』

『百年か、いや五十年? もっと短いかも知れませんが、私が異世界に渡るためには必要なことだったので』

 ふふっ、とイプロシアは笑いながら部屋を去っていく。

『私は白鳥のように白くはなれませんでした。きっと、黒の方が似合っていたのでしょうね。ああ、そうだ。お爺様のロジックも書き換えないと』

『そんなことをしなくとも、私は君の邪魔などしない』

『いいえ、念のためにも必要なことです。なぜなら、人の心は一年どころか一日で、もしかすると一瞬で心変わりを起こすもの。私は『勇者』と冒険して沢山、その様を見てきたのです。お爺様のような博識で冷静で聡しい者も、その無限の歳月が心を変えてしまうでしょう。お爺様にはここに無限とも思えるほどに存在する書物に読み耽ってもらいます。私がお爺様のためを思って掻き集めたというのに、途中から研究のためと言ってほとんど読まなくなってしまった。私はそれが少しだけ悲しかったんです』

『ロジックを書き換え続けることなど、誰にも……』

『私ならできる。なぜなら、私はハイエルフでありロジックを作り上げたお爺様の弟子ですから。さようなら、お爺様。恐らくは、永遠に。けれど、悲しまないでください。あなたに育てられたハイエルフは『大いなる至高の冒険者』となっただけではなく、確実に世界を変えるのですから。ただ、もうしばらくは『勇者』と共に世界を見て回ります。異世界へ渡る鍵は、彼の記憶にもあると私は信じているだけでなく、彼と共にいることでのロジックへの恩恵が大きいので』

『わざわざ敵を作る道を作らずとも、私は君のことを唯一分かってやることができるというのに。私の一声で、君の願いを叶えるために全ての人間が動くというのに……』

『自らの手で得ることが成長です。書物の中にしかない負の感情を自ら感じて学べと言ったお爺様の言いつけ通りに、私は生きるだけです』


 『音痕』と景色が途絶える。静まり返る地下の書斎で、呼吸と各々の微弱な動きで生じる衣服の擦れる音や足音だけが耳に残る。ほんの小さな音に過ぎないのに変に耳障りに聞こえてしまう。どうやら心から余裕は完全に失われてしまったらしい。


「イプロシア・ナーツェはイプロシア・ナーツェでは……ない?」

 そう呟いてイェネオスが立ち眩みを覚えて、壁に寄り掛かる。

「では、その娘であるクラリエ様は……一体、何者だと……言うの」

 ナーツェの血統ですらない。そうなると、クラリエは何者でもない。そう結論付けられる。

「『神樹』の戦いでイプロシアが言っていたことは、このことだったのか」

 エレスィは壁に拳を叩き付ける。

「『衣』を持っていないことも、ナーツェの血統に滑り込んだことも楽しげに話していたが、俺たちはそのことをどうにも真っ直ぐ受け取ることができないまま保留にしていた。それも、ロジックを書き換えられたことで起こされたことだというのなら……俺たちが慕い続けていた全ては、全ては……あの女の、あの『賢者』の手の平の上だった」


 事実を事実として受け入れないまま、『賢者』と呼び続けていた。エレスィだけでなく、誰もがそこに一切の疑問を抱かなかった。現実逃避のような、それでいて事実認識の歪みがあるような、それでも心を誤魔化し続けていた。


『余の元に来るがいい』

 イェネオスたちの足元の床が掻き消えて、渦の中に吸い込まれる。

「転移の魔法でしてよ……逃れ、られない! 移動系の魔法を封じていたのも、このため……?!」

 そう叫ぶクルタニカの声を耳にしながらも、イェネオスは渦に吸い込まれることに身を委ねていた。


 なにも考えたくなかった。

 なにも感じたくなかった。

 ただ、ただただ、なにも。


「キュクノスを育てる中で、一抹の不安があった。いずれは余を越えるほどの魔力と魔法と魔の叡智を備える彼女を、余だけで抑え切れるのかどうか」

 『森の声』を経由せずに声が直接響いた。イェネオスは目を開けて、起き上がる。

「いずれキュクノスの中で様々な衝動が生じる。全てを超越した者だけにしか辿り着けない境地に至った彼女を止めることは、恐らくできないと思った。思ったにも関わらず、余は見ないフリをした。それが、恐らくは大いに間違っていた」

 青年が――いや、少年が――違う、少女が立っている。飛び交う光の粒が一つに収束し、少女の元へ辿り着く。しかしながら少女はその光を片手で掴んで、握り潰す。手を開くと、光の粉がサラサラと落ちていく。


 クルタニカの光球に纏わり付いた虫のような光の粒。あれこそがこの不老不死のハイエルフがイェネオスたちを観測するものだったのだ。しかし、あれに魔力はなかったはずだ。

「魔力が無いのではない。余の魔力を貴様たちは認識できないだけだ。ハイエルフの魔力は貴様たちが用いる魔力とは形態が異なる」

 思考を読まれて更にイェネオスは戸惑う。

「なにをそんなに……ああ、この姿か? やはり気付かなかったか。余が歳月を経るたびに、若返っていたことに。でなければ身長差がああも簡単に開くわけもないだろうに」


「あなたが、イプロシア・ナーツェを育てた……不老不死のハイエルフ。でも、昔の記憶の中であなたは、男性だったはず」

「余に性別はない。男女のどちらにでもなれる。神代より生き続けているハイエルフであるからな。呪いで性別が定着したキュクノス――いや、イプロシアとは体の構造が異なる。男性像には弱きを守る強さが無意味にも存在する。ゆえにその形態を取っていただけに過ぎない。ではなぜ、今は少年ではなく少女でいるのか。正直なところ、幼ければどちらでもいい。だが人というのは少年よりも少女により『か弱い』という感情を抱き、それを抑えることができない。そして、そのか弱さに対して刃を振るうことを躊躇う。余を見て、すぐさま攻撃に転じない貴様たちのように」


 周囲を見れば、渦に吸い込まれた全員がこの場にはいる。転移の魔法で散らばされると思っていたが、まとめて同じ場所に飛ばされたようだ。

「不老不死のハイエルフ! お前は過去の記憶を僕たちに見させられるクセに、イプロシアのせいで自分自身を見失ったままなのか!?」

 挑発気味にカプリースは訊ねる。

「いいや、自覚している。余は余であることを、私であることを理解している。だが、過去の私などただの残響だ。こうしてイプロシアによって書き換えられたロジックによって生き続けてきた余こそが、今では余の本性であったと思えている。それはつまり、余が本来の性分で生きていることに他ならない」

 さぁ、と意気込みを掛けるかのように少女は呟き、両手を左右に広げる。

「不老不死の余をどのようにして倒す? どのようにしてここから脱出する? 見せてくれ、新時代の人間たち! だが、なにもしないのではつまらない。少しばかり旧時代の人間たちで歓迎させてもらおう」

 床から巨大な棺桶が飛び出す。しかし、その棺桶を開かないままに少女はなにかに気付く。

「……おや? 初代のヒューマンの国王の魂は既に使われているようだな。しっかりとおもてなしをしたかったというのに……まぁ、仕方がない。初代国王には肉体だけで努力していただこう」

 棺桶が開き、中から継ぎ接ぎの怪物が姿を現す。

 ある場所はエルフ、ある場所はハゥフル、ある場所はドワーフ――そのように、継ぎ接ぎの怪物のどこかには地上のあらゆる種族の一部が備わっている。


「王……王、だと?」

 カーネリアンが呟く。

「貴様はまさか……」


「種族の初代の王を一つに纏め上げた。ここに余が加わり、文字通り全てを束ねた王となる」

 少女は怪物の肩に乗り、高らかに命令する。

「怪物には余と同じくバシレウスの名を与えた。さぁ、王どもよ。余と共に、新時代など未だ到来していないことを知らしめてやれ」


 吠える、王たちが。高く、低く、唸りながら。

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