静かに、しかし確実に
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「本当に、面倒な体」
イプロシアはそう呟きながら水浴びを終えて湖から陸に上がる。濡れた体を火の精霊がすぐに乾かし、木の精霊が生み出した細やかな繊維で縫合された衣装を身に着け、風の精霊の羽衣を纏う。
「再生にこんなにも時間をかけるとは思わなかった。でも、『神樹』の中で再生を待ち続けたときよりはマシかな。いいや、何回もやり直しているから私にとっては一瞬と変わりないんだけど」
筋肉の動きや肉体の状況、体調を確かめながら視線がシェスに向く。
「そこで覗き見していないで、こっちに来なさい。使えない『超越者』」
本来であればジュグリーズ家の血を持つエルフを『超越者』として従わせることができたはずなのだが、四大血統の策略によってそれは敵わなかった。子供の入れ替えはイプロシアにとってどのルートでも初めての出来事で、しかしながらそれ以外のルートではあの場で必ず自身の望みが阻止されてしまうので受け入れる以外になかった。シェスの中にあったもう一つの人格はジュグリーズ家の血筋に関わるものだったが、その人格も揺らぎでしかなかったためイプロシアが自ら始末した。
シェス・エリュトロンには『超越者』に足りるだけのロジックがない。即ち、資格を持っていない。老いたシェスが死んだことで死を経験してはいるが『産まれ直し』ではないため、本来の力を発揮できない。
イプロシアは爪を噛む。エレスィ・ジュグリーズは『青衣』を使えるだけでなく、『産まれ直し』の気配があった。本人に自覚は全くないようだったが、あとは死を体験させれば『超越者』としての資格を与えられた。あのとき、素直にシェスを切り捨ててエレスィを奪いに行くべきだったか。
そのように思うが、あの極限の状況ではイプロシアが討ち取られる確率の方が高かった。テラー家の娘の一撃に屠られかけた恨みは未だこの身に宿り続けている。奪いに行くことは簡単だ。しかし、死を体験させるのではなく死を享受されてしまっては『超越者』とすることさえできない。
「だったら、神になるために一手、進めましょうか」
倒木に腰掛け、切り株に置かれた地図に駒を置く。帝国、王国、連合、新王国。あとは連邦が崩れて繋がりの途絶えた小国の数々と空の支配者。どれもこれもイプロシアにはどうでもいい国々に変わりはないのだが、置いた駒を指先で弄びながら考え込む。
「カーネリアンは無理ね。取りに行ってもいいけど、リルートしなきゃならないしそれが何百回にもなりそう。アレウリスとエルヴァージュは取れそうで取れない。一対一に持ち込めば或いはって感じだけどそんな状況はきっとない。ノクターンとセレナーデは二人で一対なのに別々の場所にいるから手間が増えるから論外。テュシアは『超越者』に一瞬なっただけで、私が取りに行くほどの子じゃない」
駒を一つ、また一つと触れながら呟きを続ける。
「リゾラは私が『神樹』を手にするまでの一連のルートを新たに築き上げてくれた才女で、見知った間柄ではあるけどオーネストが傍にいるし、オーネストを絶対にあの根に持つ『奏者』が見張っていないわけがない。あと連合って場所が不愉快。あの聖女の死の魔法だと私でも死んじゃうし。あと、多分だけどリゾラは私と再会を望んでないから、顔を見せたら殺されそう。リルートの回数はカーネリアンと同等か、それ以上になる。服従の紋章で精霊と属性の魔法反転は怖すぎる」
そうなると、と言って一つの駒に指を乗せる。
「カプリースは取りに行きやすいけど、産まれ直す前の世界に興味がない。この世界よりも荒廃している世界にわざわざ渡る理由は一つとしてないもの。だから……エルヴァージュが出しゃばるかもしれないけれど、クールクースかな」
地図の上に置いていた駒を一つ、コトンッと倒す。
「ふふっ、563番目のテッド・ミラーと実験体のヘイロンが良い隠れ蓑になってくれた。みんな、初代テッド・ミラーからどうしてあんな化け物が生まれたのかを考える前に目の前の敵を仕留めるのに頭が一杯だったのもありがたい話だったわ。誰も彼らのロジックをいじくり回したのが誰かなんて考えもしないんだから……馬鹿ばかりで呆れ返るくらい。おかげで、世界を渡る研究はできた」
指で倒した駒を摘まみ上げ、握り拳を作るようにして手の平の中に包み隠す。
「取りに行かせてもらうわ、クールクース・ワナギルカン王女。別に構わないわよね? あなたが死んで、あなたがいない世界のことなんて興味ないでしょ?」
そしてシェスを見る。
「書庫の警備はそのままに、芽を与えた外界の全てのエルフを新王国に向かわせなさい。私は先に向かわせてもらうわ。王国を後押ししつつ、新王国の王女を捕まえなさい。別に国を滅亡させてとは言わないわ。どんな方法を使ってでも、私のところに王女を連れて来てくれればそれでいいから」
神樹の指揮棒を揺らし、イプロシアは“門”を生み出す。
「俺はなにをすればいい?」
「覗き魔は一人じゃなかったみたいね。まぁ、恥じらいなんて過去の果ての果てに置いてきているからどうだっていいんだけど、その手で私の体に触れたら身が弾けることだけは言っておくから」
黒騎士をそうなじりながら“門”に半身を進ませる。
「あなたは戦場を楽しんでくればいいわ。王女をあなたに任せると犯した上に串刺しにしてしまいそうだからそれは駄目。忘れないようにロジックも今さっき書き換えたから、もしそんな衝動に駆られたらあなたは自分自身の首を掻き切るようにしたから」
そう言ってイプロシアが通った“門”は閉じて、黒騎士は月毛の愛馬に跨り、走らせる。そののち、シェスがなにも言わずに足音も物音も立てることなく湖畔から姿を消した。
*
シンギングリンで一番大きな教会に入り、その長椅子に座らされてからどれくらい時間が経っただろうか。アレウスは懐中時計を取り出して時刻を確認する。自身が思っているほど時間は過ぎていないことに驚き、思わず二度見してしまう。先に祝福を受けているはずのジュリアンはまだ教会の奥に行ってから戻ってこない。普段から礼拝を行っている神像のあるこの場所で行われるのかと思っていたのだが、ここは公衆向けの空間であって冒険者に祝福を与えるための場所としては使われていないらしい。そもそも教会に入ることなど、それこそリスティと懺悔室を利用したとき以外にほとんどない。自分のいるべき場所とは違う。そんな雰囲気があって、どうにも落ち着かない。
陽の光を受けて煌びやかに輝くステンドグラスは確かに綺麗で感動を覚えるほどではあるが、あまりにも眩しくて自身が焼き殺されてしまいそうなイメージを受けてしまう。だからアレウスはなるべく神像を視界に入れないようにする。あれに神秘的な力が込められていた場合、自身が後ろめたく思っていることを洗いざらい晒されて、罪状を言い渡されたのちに断罪されるのではないか。とにかくそのような被害妄想が加速する。もはや苦手意識ではなく、恐怖症に近いかもしれない。しかしこれは神を嫌っていながらも畏れている証明でもある。
「終わりましてよー」
クルタニカの声と共にジュリアンが教会の奥から出てくる。
「どうだった?」
「薄気味悪さや信仰の薄ら寒さ以外は特になにも」
分かってくれますよね? と言わんばかりの顔でアレウスを見る。
「ああ」
「やっぱり信仰心を高めることはできそうにありません。僕の回復魔法はあまり期待しないでください」
「そうさせてもらおう」
そんなことない、とは言わない。ジュリアンは本気で期待するなとアレウスに言っているのだから。
「早く来てください、アレウス。わたくしたちがあなたに掛けている時間はそうはありませんでしてよ」
呼ばれ、アレウスは息を飲む。病気に罹ったときに医者に診てもらいに行くときの感覚に似ている。行きたくないと行かなきゃならないがせめぎ合うのだ。それでもなるようにしかならないので、従順にクルタニカの言葉に従ってジュリアンを長椅子に座らせてからアレウスは教会の奥へと入った。
「そこまで緊張することかい?」
教会の奥――懺悔室や神官、僧侶たちの仕事場や生活場所へと続く廊下で待っていたヴェインがアレウスを案内しながら言う。
「僕には縁がない施設だと思っていたからな」
「そりゃそうか。俺だって自分とは無縁の仕事先に足を運べば君のように委縮してしまう。まぁ、ここは仕事場というよりは奉仕の場なんだけどね」
神への奉仕であって金銭を求める行為では決してない。しかしながら奉仕はお金がなければ成り立たないため、定期的に募金活動が行われる。また、神への奉納以外にも住み込みで働いている僧侶見習いのためにもと余った食材が持ち寄られ、これを調理場で料理として祈りを捧げてから食事を摂る。しかしながら口にする食材は清貧であるべきという観点から少量で、食肉は使われない。
「ヴェインも、自分の家ではこんな感じだったのか?」
「俺は教会を働く場所にはしているけれど教会育ちではないから、そこまで戒律に縛られてはいないよ。でも、神聖な場所での食事は気を遣うよ。俺だけが肉を口にするわけにもいかないし、祈りを捧げないわけにもいかない。神への祈りを絶やしたことはなくても、神とはまた別の――いわば人間関係にも直結するような部分で好き放題はできない」
箒での清掃をしているシスターに頭を下げられ、どう対応したものかと分からないまま横を通る。廊下を左に曲がって、その先の階段を降りていく。降り切った先の右手の扉をヴェインが開き、アレウスを中へと案内する。クルタニカの声が聞こえたのは伝声管によるものだったらしい。
「ここからは神官の仕事だから、俺は扉の前で待たせてもらうよ。なにかあったら呼んでくれ。なにかあるとは思えないけどね」
恐らくはアレウスを気遣っての一言だ。そこまで祝福について怯えていると思われているらしい。少々、腹が立ってしまったが否定し切れないところもあるため感情を抑え込む。
地下の祭儀場である。アレウスが細剣を抜く際に集合住宅の庭で備えられた仮の祭壇とは似ても似つかないほどにしっかりとした装飾や燭台、そして魔法陣が中心に敷かれている。その頭上――丁度、中央の天井には丸い穴が空けられており、日光が魔法陣だけを照らし出している。これでは雨のときはどうするのかと思ったが、どうやら壁に備えられている取っ手を回すことで採光装置が動き、頭上の穴は閉じられる構造になっているらしい。
「こっちだよ」
アベリアに呼ばれたため、止めていた足を動かす。
「陣を踏まないようにして中心に立って?」
足元に気を遣う。だが、こんなことは難しいことではない。緊張していて多少は覚束ないが戦闘に比べれば簡単なことだ。
魔法陣の中心に立つと、まさにアレウスを囲うように天使像と神像、そして導かれた英雄の像が並んでいることに気付く。その内の短剣を持った像を正面とするようにアベリアに促されたのでその通りにする。
二人は白を基調とした衣装を纏ってはいるが、それはあまりにも薄い生地でできており、更には禊を行ったあとなのか肌に密着しており、彼女たちの肢体をかなり艶めかしく表している。緊張と不安、そして畏まった場所でなければ目が釘付けになって興奮してしまい祝福どころではなかっただろう。
「汝、自身が何者であるか答えよ」
クルタニカが分厚い本を開き、言の葉を紡ぐ。
「アレウリス・ノールード」
「汝、神よりの祝福をその身に受ける覚悟はあるか?」
「……ある」
「聖者の灰よ、この者の言葉を信ずるならば答えよ」
クルタニカが紡ぐ言の葉に合わせてアベリアがアレウスの後ろに立つ。魔法陣を描いていた白い粉に火が点き、蒼い炎となって静かに二人を囲っていく。
「聖者に認められし者よ、汝が手にする武器はなにか?」
「短剣」
他にも使うが、自身が最も信頼を置く武器を答えることを求められている。
「汝が身に与えられし志は?」
「『猟兵』」
「汝にとって最大の恐怖はなにか?」
「……なにも果たせないまま、死ぬこと」
「聖者の鐘よ、この者の恐怖が正しければ鎮静の音色をここに」
クルタニカはもう一方の手に握った紐の先に吊るされている小型の鐘に視線を向ける。風は吹いていないが、鐘の音が確かに祭儀場に響き渡る。
「おお神よ、この者の恐怖を払い給え。たとえ一時であれ、仮初であれ、この者に神の叡智を与え給え」
「『開け』」
アベリアがアレウスのロジックを開くと同時に意識が落ちる。
「『閉じろ』」
我に返るかのような、ハッとするかのように意識が戻る。魔法陣を構成していた白い粉は全て蒼い炎へと変わり、アレウスのうなじに全て吸い込まれていく。
「聖者の水よ。彼の者に満ちた力に正しく清めよ」
アベリアがアレウスを座らせ、頭上から瓶に入った聖水を浴びせる。
「全ては神の思し召しであるがゆえに」
クルタニカが本を閉じ、アベリアによって立たされたアレウスは彼女に腕を掴まれる。
「汝、今ここに生まれ変わらん」
「へ?」
遠心力も込めた物凄い勢いで祭儀場の後方へと投げられ、暗闇の果てに見えた水溜まりに身が沈む。突然のことで呼吸ができないことと水溜まりが深いことに混乱してもがいて頭を水中から出す。むせて咳き込み、ようやっと安心して呼吸ができると分かると水溜まりは四つん這いでも頭が沈むほどの深さにはないらしく、無駄にバシャバシャと暴れたことを恥じる。
アベリアが取っ手を回すと中心の採光の穴が閉じられ、代わりにアレウスがクルタニカに投げ込まれた水溜まりの天井が開き、光が降り注ぐ。
「神の御心のままに」
二人が神への祈りを捧げている様をアレウスは見つつ、びしょ濡れになった重い衣服を絞りつつ水溜まりから出る。
「これで『教会の祝福』は完了でしてよ」
「なんで最後に水に放り込まれなきゃならなかった?」
「水じゃなくて聖水。神より与えられし清められた水でしてよ」
どうやら水溜まりではなく水汲み場のように地下水が蓄えられているらしい。排水方法については調べたくもない。
「だからなんで放り込まれなきゃならなかった」
「水に身を沈めることで生まれ変わるという観念があるの。アレウスはちょっと、神が嫌いそうなロジックをしているから念のため」
「ジュリアンにはしなかったのか?」
「だってジュリアンはアレウスよりはまともなロジックでしょ? 私たちも聖水を浴びて身を清めていたのはアレウスのロジックが持つ罪に染まらないためだし」
ならばジュリアンの前では肢体を魅せるような格好では両者ともになかったようだ。別にそこにどうこう言うつもりはない。彼女たちにとってはそれが正装であり、アレウスに祝福を与えるために必要なことだった。とはいえ、ジュリアンには見られていないというのは、一種の安心があった。自分の恋人と自分を好いてくれている人の艶やかな姿などたとえ慕われている年下であっても見られたくはないからだ。
そして彼も聖水は浴びたはずだったが、そのことをアレウスには語らなかった。それどころか衣服が濡れている様子もなかった。
「あいつ、僕に気取られないように着替えたな……」
アレウスはジュリアンへ苛立ちの言葉を零す。それもこれも同性の衣服のことなど気にすらしない自分自身の落ち度であるのだが、今頃、上で笑っていると思うと腹立たしい。
「まぁ、かなり省いた面もあるんでしてよ。もっとガチガチに固めたいなら神官はあと百人くらい欲しいですわ」
「それは僕が嫌だ。省いても祝福は祝福だろ?」
「ええ、その点は問題ありませんわ。略式であろうと格式であろうと、どちらもさほどの違いもありません。あるのは神聖さ、でしょうか。とても大きな儀式を執り行ったという記録と記憶を残すことによって自身の価値を高めるといった目的であったり、神への忠誠心の高さを示すためだったりしますわ」
アベリアから渡されたタオルで髪と顔を拭いて、祭儀場を出る。後片付けは二人に任せてしまっていいらしい。
「なんともなかっただろ?」
「水溜まり……水汲み場? に放り込まれたぞ」
「あれは浄罪の泉だよ。そんな風に呼んじゃいけない」
「え、ああ、そうなのか」
「いや、浄化の泉だったかな?」
言ってからヴェインは訂正する。
「お前も曖昧じゃないか」
「だから『教会の祝福』は俺の範疇じゃないって言っただろ。あの辺りの正式名称は神官しか知らないし、神官は神官で訊ねてもちゃんと答えてくれないんだよ」
「アベリアも『術士』なのに聖水がなにで出来ているか未だに教えてくれないもんな」
「不鮮明だよ。神官は割と秘密主義なのさ。でも、そうじゃなきゃ懺悔室は機能しないんだけどさ」
他人の罪の告白を好き放題に喋っている神官などいたら教会は潰れる。目立ちたがり屋で博徒で酔っ払うと脱衣癖のあるクルタニカですら口だけは堅い。あれほどにペラペラと喋る割に、どれほどお酒を飲もうとも神官という職業に関わる全ては絶対に口を割らない。自身の仕事に誇りを持っている証拠なのだとしても、他の悪いところのせいで帳消しになっている。
「僕の聖職者へのイメージは悪いよ。博徒の神官に破戒僧気味の僧侶。あとは潔癖が過ぎるのに世の中の不条理を理解して『屍霊術師』に目覚めた聖女見習いだからな」
「なかなかな性格をしている後輩僧侶も忘れていないかい?」
「ジュリアンか……ああ、クソ、ジュリアンめ」
こうなるとマルギットのような僧侶が少数派に思えてくる。
「あいつにどんな仕返しをしてやろうか」
「あれくらいの年齢ならまだ子供心があるんだよ。許してやったらどうだい?」
「いいや、年下には礼儀を教えてやるべきだ」
「君がなにかの組織の一番上には立っちゃ駄目だってことが改めて分かったよ」
ヴェインは首を軽く振りつつ、溜め息をついた。
「それで? 祝福を受けた感想は?」
「特になにか変わった感じはしないし、気持ち悪さもなにもない」
「そりゃそうだ。神の啓示を受けたりは?」
「しなかった。え、ヴェインは受けたのか?」
「そんなワケないだろ。でも、『勇者』の物語には出てくるんだよ。『勇者』は教会より祝福を授かり、神の啓示を得て魔を討つべく仲間と共に旅立った、とね」
その幻想が混じった伝記物はアレウスも読んだことがある。
「君も、もしかしたら『勇者』のようにと思っただけさ」
「僕は神様を信じてないんだぞ?」
「それでも、俺たちからしてみれば君は『勇者』のように時代の寵児のように思えるからさ。そして、俺たちはそんな寵児の傍にいると思うと気合いが入るのさ。実際はそんなことは起こらなかったから、おとぎ話はおとぎ話だと分けて考えなきゃな」
「僕が時代の寵児だったら、世の中の人々はみんな困り果てるよ」
そのように時代に愛されていると思ったことは一度もない。そもそもの産まれも育ちも神に見放されているのだから。
ヴェインと廊下を歩いていると、不意に欠伸が出る。
「君にしては珍しいね?」
「昨日、あんまり眠れなかったんだ」
「まさかこんなことで緊張や不安を感じたり?」
「うるさいな」
「図星だからってそんな攻撃的なことは言わないでくれ。帰ったら少し休むといい」
「ああ、そうさせてもらうよ」
*
「マクシミリアン殿下、なんの連絡もなしにお越しになられては困ります」
「第一王子の私が己が産まれた城に赴いてなにが悪い? 父上への戦果報告だ」
「しかし、今は!」
「貴様に私を阻む権限などない。首を刎ねられたくなければこれ以上、些末事を私の耳に入れるな」
衛兵を横へと突き飛ばし、マクシミリアンは国王の寝室の扉を叩こうとして動きを止める。寝室から女性の喘ぎ声がする。それだけでなく媚薬の香が焚いてあることも嗅覚で感じ取る。
「今はお帰りください」
突き飛ばされた衛兵は間が悪そうな顔をしながら呟いた。
瞬間、マクシミリアンが抜いた剣が衛兵の首を刎ねる。
「些末事を私の耳に入れるなと言ったはずだ。くだらん人間の血を私の剣に吸わせてしまった」
血を紙で拭き取って捨て、剣を鞘に納める。
「幼少の頃より知っている。この国の王は既に狂っていると」
マクシミリアンは錠のされている扉を無理やり開いて、寝室に入る。
「父上」
「なんじゃ、乱暴に。今は忙しい。ウリルのために、ウリルと同じ種族に我が血脈を注がねばならんのだ」
「……国王陛下」
腰を振っている国王――自らの父親にマクシミリアンは剣を抜き、その切っ先を向ける。
「私に王城を明け渡していただきたい。でなければ我らがワナギルカン一族しか知らない父上の痴態を、その醜聞を民草へと伝えましょう」
そして、と続ける。
「前にも申し上げた通り、国王陛下にはもう種がありません。女に子を宿らせることはできないのですよ」
「そんなデマなど誰が信じるか! 我が一族は、我が血は、我が全ての情熱は! 世界全土を統一するまで続くのだ!」
「祖父も父上も好色狂い。これでよく国が保てていると驚くほどですよ」
「政はその辺の者たちに任せておる。我はひたすらに種を与えるのみじゃ」
「ワナギルカンが統一せし王国の政治を周辺の者たちに任せるなど、醜悪の極み。もはや人ではなくなりましたか。いいえ、私が産まれる前から人ではなかったのでしょう」
マクシミリアンは喘ぐ女の首筋に剣を当てる。
「貴様も私と父上が話している最中に声を発するな、聞くに堪えんほどにうるさい」
喘ぐのではなく悲鳴を上げたため、剣によって首を掻き切る。鮮血が迸り、絶命への一途を辿る女に変わらず国王は腰を振り続ける。
「私に王城を明け渡さないと言うのであれば、これより私が父上を傀儡として使わせていただきます。縛り上げて牢へと送り込め」
「この場所には我を守る者たちしか固めておらん。お主の言うことなど誰一人と聞くわけがない」
こちらを見向きもせずに国王は言う。
「父上? あなたが昼夜を問わずに女と寝て過ごしている間に、王都はともかく王城には私が丸め込んだ者たちしか残っておりませんよ」
衛兵たちが国王の体を押さえ付け、全裸のまま縄で拘束する。
「その醜態を民草の前に晒しても構いませんが、まだ時期ではない。女と寝ることさえできればいいのなら、寝室でも牢でも変わりありますまい。父上は私が必要と思ったときに玉座に座り、必要なときに勅令を発し、民草を激励し、この国に終わりが迫るようであればその首を捧げてくれればそれでいいのです」
血に濡れた剣を寝室に飾られてあった国王のマントで拭う。
「初代ワナギルカンが築き上げた土台は盤石。にも拘わらず祖父の代からなにも発展させることもなく胡坐を掻いたことで帝国には冒険者で、連合には技術の発展で後れを取ることになった。失われた年月を取り戻すことはできないどころか、自らが撒いた種のせいでワナギルカンの一族であるとのたまう女が新王国を宣言した。ただの民草であれば処刑で済むというのに、実に不愉快だ」
マクシミリアンは腕で媚薬の香を払いのけ、足で香の火を踏みにじって消し去る。
「エルフに動きありとの報せがあった」
自らの傍付きに剣を渡し、告げる。
「奴らの動きに乗じ、我らもクールクース・ワナギルカンへと攻勢をかける。前線の義弟にも伝えよ」
「しかし、それでは異端審問会に囚われた第三王女様が」
「くれてやれ」
「は?」
「ウリルのように国威発揚にも使えんのならくれてやっていい。私のあとに五人も産まれながら、使えるのが第二と第六だけとはな……いや、三人か。クールクースを早い内に拾ってやれていれば、こんな小競り合いなどなく私が国王となるまでに起こるありとあらゆる障害を排除してくれたに違いないというのに。人の運命などさしずめ神の玩具ということか」
大きな大きな舌打ちをしてから、マクシミリアンは深呼吸をして激情を心の奥底へと沈め、普段通りの無表情と無感情を面を被る。
「上でふんぞり返っていたその最たる象徴は少しずつ引きずり降ろす。若者を上げねば、国は老いるのみだ。重々に理解せよ」




