還りたい
誰を守りたくて、そして守れなかったのか。それを知る術は赤い淑女に勝つしかない。だが今の不安定な精神状態で無闇に突っ込んでも相手の思う壺だ。必要なのは冷静さ。ちゃんと分かっているはずなのに、アレウスは地団太を踏んでしまうほどに苛立っていた。
あのとき、もっと深く首を切り裂くことができていたなら。そこで勝負は決していた。完璧に切り落とすことだって難しくなかったはずだ。物理攻撃が正攻法となる赤い淑女との戦いにおいて、あそこで掻き切るだけで抑えてしまった自分自身にアレウスは腹が立って仕方がない。
首を切らせてくれる魔物はほとんどいないことと、人間の姿をしているがゆえに首を切り落とすことへの躊躇い。その二つが合わさって、致命傷に至らすことができなかった。
いや、要因はもう一つある。それは女性に弱い点だ。赤い淑女がただ女性の姿を象っているだけに過ぎないことは百も承知であるにも関わらず、女性の姿をしているというだけで手を緩めてしまった。それは単純に異性に対する会話への苦手意識も含まれるが、異性に良く見られたいと思ってしまう根底の弱さに他ならない。無意識に好かれたいという欲が邪魔をする。
これはアレウスだからではなく、自身が産まれ直す前に異性を苦手としていた白野であったから起こっている。アレウスを構成しているのは白野であった頃の記憶と性格と知識、そこにアレウスとして産まれてから得た膨大な知識である。たとえ膨大な知識量で埋めたところで、その基礎には白野だった頃が残っている。公的なやり取りならばできる。だが、私的なやり取りになれば必ず臆する。それは相手を信用できるまで続く。
「もう一度聞くけど、僕がお前を倒せばロジックの読めないテキストを教えてくれるんだよな?」
『まだ言うか。一つに拘って我に勝てると思っているのか?』
アレウスは境界を跨ぐ。炎の鳥たちが縄張りに侵入したことを感知して一斉に矢の如く襲来する。しかしこれは、跨いだ境界を縄張りとする炎の鳥だけに限られる。この炎の鳥の群れは圧倒的な物量にして脅威でしかないが、その全てがアレウスへと雨のように降り注がないのなら、こけおどしでしかない。アレウスは炎の鳥を擦れ違いざまに切り裂き、灰燼に帰しながら二つ目の境界を占有していた炎の鳥を全て始末する。
『そのように力を見せてこようとも、その表情は常に苦しんでいる。戦の中で戦いたくもないのに戦って、人を殺し続けている兵士の如き様よな』
「うるさい」
『貴様には戦場に立つ理由もなく、戦場を駆け巡る情熱もない。貴様が戦場で向かっているのは果てではなく終わりだ。この世に果てはないのだから、いつまでも前を進み続けられるが、終わりは文字通り先がない。足を止め、歩みを止め、なにもできなくなって立ち竦む。貴様はそうやって、命の炎を散らすのだ』
挑発は更に激しいものになる。アレウスが一気に境界を駆け抜けてくることを待っているのだ。そうすればほぼ全ての炎の鳥がアレウスへと襲撃する。そして赤い淑女はその瞬間に合わせて大剣でトドメを刺そうとしている。
見え透いた罠だ。あまりにも分かりやすすぎる。赤い淑女は戦闘こそアレウスに匹敵するか、或いは凌駕しているが言葉での駆け引きはあまりにも下手である。どれだけ言葉を並べられても赤い淑女の挑発に乗る者は誰もいない。だが、アレウスのロジックから織り成す言葉はさすがに鋭かった。未だに集中力を欠いているのも、その影響が大きい。
教えてほしい。
勝つとか負けるとか関係なく、白野の死が無駄だったのか否か。
ただただ、それだけを胸の中で悲鳴のように叫んでいる。しかし同時に、真実を知って自分自身が立ち止まってしまわないか。もはや生きることを諦めてしまわないかどうか。そんな不安もあって、怖ろしい。
『戦場では弱気になった者から死んでいく。貴様はこのまま我に殺されたいのか?』
「まるで僕に倒されたいみたいな言い方だな」
『……貴様はなにか勘違いをしている』
火の粉が辺りを舞い、赤い淑女が踊るようにステップを踏む。
『我は『原初の劫火』の残滓より生まれし存在。残滓は『原初の劫火』に還るべきなのだ。それが叶わぬのであれば、『種火』の糧になることさえ正しく在るべき我の結末だ』
ステップを踏み切って、赤い淑女の全身から炎の波濤が押し寄せる。
『我は還るべきところに還らなければならない。我を剣とした魔物と我は違う。還りたいのだ』
この炎の波濤はこれまでのどんなものよりも凄まじい高熱を保持している。それこそアレウスが真似て放つ波濤よりも、それどころか赤い鎧が放つ波濤よりも圧倒的な灼熱である。さながら“情熱なる炎の円舞”――アベリアの『精霊の戯曲』に等しき灼熱は炎の鳥たちが遥か上空を旋回するように退避するほどで、アレウスの視界を瞬く間に焼き尽くすだけでなく大きく吹き飛ばした。
赤い世界に、火球が空で弾けて火の粉を散らす。流れ星のように一瞬の輝きを放ちながら燃え尽きて、灰が世界の赤を反射してキラキラと舞い散る。一見して幻想的な風景ではあるが、大地は荒れ果て、どこにも木々はなく、ただひたすらに炎だけが燃え続けている。
『貴様が我という残滓を還すことができないというのなら、我が喰らって『種火』となり、貴様を残滓とするしかあるまい』
この世の終わりとも思える景色の中で赤い淑女の姿は既になく、仰向けに倒れたアレウスが上半身を起こすと猛獣が眼前に現れる。大口を開き、鋭い牙を見せつけながら涎を垂らし、程なくして後退してから咆哮を上げる。
「ノックスとセレナの母親、か?」
アレウスがオーガと見間えたことで長らく自身の右腕の代わりを果たしているアーティファクトの名称を誤認していた。それもこれも彼女たちの母親が人間然とした姿を取っていなかったためだ。
あのときは二足歩行でありながら、それこそオーガにも匹敵するような鬼気迫った体躯をしていたが、この猛獣は――雌獅子は四足歩行で通常の獣よりも大型ではあるものの、リオンのような常識外の体躯はしていない。もしもキングス・ファングと同等の『本性化』を有していた場合、彼女たちの母親がこの猛獣の姿を取ることも十分にあり得る。
「いや、僕のロジックから姿を変えただけ、か」
とはいえ都合良くアーティファクトから残留思念として彼女たちの母親が現出するわけがない。細剣に宿りし存在が赤い淑女から雌獅子に姿を変えただけなのだ。
雌獅子の四つ足は全て炎を纏い、大地を踏むたびにその周囲に火を放出する。口や鼻から零れる息はどれも高熱を帯び、牙には熱が溜め込まれたためか溶けた鉄のように赤白く発光している。
『このまま我の牙に引き裂かれるか、それとも我という残滓を還すか。貴様にそれを下す熱意はあるのか?』
雌獅子はアレウスが起き上がるのを待っている。問いの答えを待っている。
これは乗っていい質問なのか、それとも答えてはならないものなのか。リゾラの手紙で契約について学んでいるからこその迷いが生じる。『悪魔』は言葉巧みにこちらを陥れて契約させようとしてくる。だから、この存在もそれに等しいのであれば、このまま自身の望まない契約を結ぶことになりかねない。
だが、その確率は極めて低いようにもアレウスは思っている。なぜなら、この存在は会話と対話があまりにも下手だから。言葉で分かり合うのではなく拳で分かり合うような性格をしている。知識はあるのにそれを上手く使えていない。こんな存在に契約を持ち込まれてもアレウスは平気で首を横の振ることができてしまうくらいには、舌戦が成り立たない。
だとしたら、本気で問いかけてきている。これまでがそう思わせるための演技だったとしたら相当だが、そこまで知恵が働くならそもそも赤い淑女の状態でアレウスを圧倒してしまえばいいため、雌獅子になる必要すらない。そもそも心の動揺を誘ってきたあの瞬間に畳みかけてきたら、どうすることもできなかった。
「僕はまだ戦える」
そう答えて短剣を握り直し、立ち上がる。
「僕と戦え」
『そうだ、それでいい。戦いこそが炎のあるべき形でありあるべき姿なのだから!』
雌獅子は跳躍姿勢を取り、今にも飛びかかろうとしている。そんな中でアレウスは短剣に炎を収束させる。空を舞う炎の鳥たちは雌獅子の動向を見守り、その襲撃に合わせていつでも降りかかる気配を漂わせている。
見たこともない獣剣技だったが、そこから学べたこともある。これまで短剣からの気力を込めた放出ばかりを技として使ってきた。だが赤い淑女がやったように、なにかに気力を与えて自身の支配下に置くこともできるのだ。魔法の一つにある付与。それこそがこの場を打開し、打倒する一手となる。
「獣剣技、」
構え、気力の放出と同時にアレウスの周囲を赤の導線が駆け巡る。
「“群鳥”」
見せてもらった以上は盗む。技の名前はあとからでも自分に合わせるが、今は見たまま形にすればいい。それこそがアレウスの獣剣技の習得術なのだから。
空で構える炎の鳥たちに自身の技で生み出した炎の鳥が突撃する。
『来い!』
雌獅子の跳躍にアレウスもまた真正面から跳躍して短剣を振り抜いた。雌獅子が剣戟をかわし、熱を帯びた牙がアレウスの体を掠める。人型の魔物と戦っていたときと違い、猛獣との戦い方にはすぐに切り替えることは難しく、何度も何度も何度も短剣は空を掠めて雌獅子の爪はアレウスの体を引き裂く。しかしそのどの一撃にも殺気は込められていてもこちらを仕留める意図を感じられない。むしろ倒してくれと言わんばかりに雌獅子は炎を振り撒きながら、炎の中で踊り狂うように激しく駆け回りながら攻めてくる。次第にその速度は加速し、雌獅子はアレウスを中心にして周囲を回り出す。たった一匹に囲われている。ほんの少しでも脱出を図ろうとするとすぐさま爪と牙を使った突撃を敢行してくるため下手な動きを取ることができない。
『貴様にとって獣の剣技とはなんだ? 技を放つのに都合の良い剣技か?』
「違う」
『その右腕の遺志が貴様を認めたのはどうしてだ?』
「僕は、」
『ドラゴニュートが貴様に耳をくれてやったのはどうしてだ?』
「……それ、は」
『答えろ、人間。我が貴様に頭を垂らすには答えが足りん。力ばかりを示されても、答えないのであれば我を掌握などさせはせん』
「生きてほしいからだ」
『ほう?』
「右腕が僕を認めてくれているのは生きてほしいからだ。ドラゴニュートが耳を与えてきたのも、僕に生きてほしかったからだ。もうロジックにはない『蛇の目』だって、僕に生きてほしいから貰えたものだ。それがどんなに酔狂で末期の判断であったとしても、あのときの僕に力を分け与えてくれたのは生きてほしいと願ったからだ」
だから、とアレウスは続ける。
「僕は生きるんだ。だから『教会の祝福』を受ける。もうワガママは言わない。神官が嫌いだからって祝福を拒まない。僕がみんなに生きていてほしいと思うなら、みんなだって僕に生きていてほしいと思うに決まっているから」
『答えたな、人間?』
雌獅子が目を見開く。
『足りる答えだ。ならば、まだ足りていないのは』
「力」
『そうだ。示し切れ!』
雌獅子は前方への跳躍と同時に口を開き、爪と牙でアレウスを仕留めにかかる。先ほどまでとは違う、強烈な殺意に決意が揺らぎそうになるが地面を強く踏み締め、勇気を振り絞って前方へと走る。
爪を、牙を避け、剣戟は雌獅子の首元へと吸い込まれるように向かう。しかし、雌獅子の両後脚が備えている爪がアレウスが纏う衣服に引っ掛かって態勢が崩される。それでもなんとか短剣を届かせようとアレウスは腕を伸ばして――。
赤い世界が消し飛ぶほどの大きな爆発が生じる。
*
「想定していたよりも遅い……ですわね」
クルタニカの声が響く。意識は赤い世界から戻ってきたようだが、体がまだ動かず瞼を開くこともできない。
「もう一時間も経ちましたわ。わたくしたちが思っていたよりも厄介で、契約できないままに体を乗っ取られてしまったのかもしれませんわ」
「そんな怖いこと言わないで」
アベリアが不安そうに言葉を零している。そんな彼女の心配を払拭するために起き上がりたいのだが、全身に力を込めてもまだ動けない。それほどまでに赤い世界で体力も気力も貸し与えられた力も消耗し過ぎたのだ。あの世界も、そしてこの世界もどちらも夢ではなく現実であり、意識が帰ってきたからといって消耗した物までなかったことになるわけではない。
「最悪の場合は常に考えておきましてよ。暴れるようならわたくしたちが討ち払い、肉体をアレウスに返してもらわなければなりませんわ」
「でも、そうすると契約は」
「不可能ですわね。わたくしたちが討ち払った時点で、契約対象はこの世から消し去るも同義でしてよ」
物騒なことを言い始めた。
「なんなら、そろそろ先手を打つべく備えておいた方がよろしいかもしれませんわ」
魔力の流れを感じる。身の危険を感じ、アレウスはいよいよこのままでは『教会の祝福』を受けるより前に死んでしまいかねない。そう思い、どんなに疲労困憊であっても起きろと心の中で叫び、まず瞼を開く。
「起きた!」
「離れて、アベリア。まず一撃を浴びせますわ」
「やめろ!」
上半身を起こしてアレウスはクルタニカに向かって叫ぶ。収束していた魔力が発散され、彼女は強く握り締めていた杖を下ろす。
「意識があったのならもっと早くに起きるんでしてよ」
「無茶を言うなよ。ついさっきこっちの世界に帰ってきたばかりなんだからな」
疲労困憊とはこのこととばかりにアレウスは上半身を起こすことこそしたが、そこから全く動く気になれない。辺りを見れば炎でなにもかもが焼き尽くされた景色はどこにもなく、自身も祭壇の中心から全く動いてはいない。あの空間は、あの世界は、あの境界は赤い鎧や魔剣の残滓と戦ったときもそうだが、周囲とは隔絶された空間であることは間違いないようだ。
懐中時計を見る。細剣を抜いた直後から一時間が経っている。どうやらクルタニカの言っていたことは確かなようだ。ならば時間の流れまでは隔てることができないようだ。
「契約……掌握? はできたの?」
「多分」
「多分って」
「僕もよくは分からないんだよ。最後はお互いに力尽きるまで戦って、そのあと意識が落ちたから」
言いつつアレウスは細剣を探す。
「あれ?」
右手に握っているのは“曰く付き”の短剣だ。そして左手に鞘ごと納められているのもまた短剣である。少しだけ鞘から覗いてみると剣身は細く、鎧通しのようだ。
「アレウスの力に合うように形を変えたのであれば、掌握できた証拠だと思いましてよ」
実感が湧かない。雌獅子と激突してからの記憶がやや混濁している。休めばその内に思い出すだろうか。
「でも、これでアレウスも『教会の祝福』を受けられるね」
「そう……だな」
アレウスに判断を委ねていて、納得していることだと自身に言い聞かせていても、アベリアは心の中ではずっとアレウスが『教会の祝福』を受けるその瞬間を待ち望んでいたのかもしれない。
「ジュリアンと同日に行うとして、うーん、あれもこれも沢山やることはありますがどれもこれも後回しにするとして」
クルタニカが自身の予定を思い出しながら人差し指を上に向けながらクルクルと回す。
「うぇ、後回しにしたらわたくしの体がいくらあっても足りませんわ」
「私も手伝う」
「そう言ってくれると思っていましたわ」
そう言わせたのはクルタニカだろう、とアレウスは心の中で呟いた。
「アベリアが協力してくれるんでしたら、明後日にしますわ。明後日、あなたとジュリアンは『教会の祝福』を受ける。よろしくて?」
アレウスが肯いたのを見てクルタニカは満足し、大きく背伸びをする。
「今日の最も気を張る仕事が終わりましてよ。あとの面倒事なんて多少の失敗があっても許してもらえますもの」
そんな軽い仕事を彼女は任されていないことをアレウスは知っている。あとでどれくらい彼女は色々な人に叱られるのだろうか。あまり想像はしたくない。
「……ロジックについて、ちゃんと教えてくれるんだろうな?」
アレウスは新たに手にした短剣に問い掛ける。しかし答えは勿論のことながら返ってはこない。
「思わせぶりなことを言っておいて、なにも知らないは許さない。分かっているだろうな?」
強く、強くアレウスは柄を握り締める。僅かだが鞘の中に収められていた剣身が赤く発光したように見えた。
明後日の『教会の祝福』を受け、そのあとにロジックの中の読めないテキストの真実を知る。予定は立った。あとはすんなりと、この短剣が教えてくれるかどうかである。
もしも口を閉ざすと言うのなら、主従関係をもう一度分からせてやる。そのように思いつつ、アレウスは先を行くアベリアとクルタニカを追いかけた。




