諦めるな
逃走が最善手ではあるのだが、逃走が困難なのがヴァルゴという異界獣だ。鎧の乙女から逃げることができても霧からは逃げられない。そのため走り出した直後からマルギットに対しての執拗な攻撃が始まった。主に霧を集約して質量を持った一撃として拳を放つ。拘束のために両腕を作り出し、ひたすらに彼女を捕まえるべく蠢く。そういった全ての攻撃をオラセオに任せられないためニィナが助けに入るが、霧は集約されようとも不定形にして実体を持たない。矢を射掛けても一瞬は霧散させることができても、再び腕や拳を形作る。それらは防ぐ瞬間にはやはり質量を持つが、反撃の際には掻き消えてしまう。阻止はできても反撃はできない。だからヴァルゴに動揺も焦りも与えられない。これは魔物の習性や本能を読み解いて戦うアレウスと相性が悪い。
加えてヴァルゴは鎧の乙女をアレウスへとひたすらにぶつけてくる。初めて遭遇したときと比べれば動きは読みやすく、攻撃も避けやすい。だがその体躯から繰り出される大剣の一撃は凄まじく、僅かでも気を抜くことはできない。その状態でマルギットを狙ってくる霧の腕まで対処するのは不可能で、むしろ対処しようと近付けば鎧の乙女を彼女とオラセオにまで近付かせることになってしまう。ならばノックスに手助けを求めるべきかといえば、彼女の嗅覚に頼っている状況で戦闘にまで参加させてしまうと全体の逃走速度が今よりも低下する。霧は別にマルギット一人だけしか狙えないわけではないため、彼女には彼女自身を守ってもらうだけに留めて先導し続けてもらいたい。
「まだ“穴”を発見できていないのに全力で行くしかないのか」
アレウスは鎧の乙女の一撃をかわし、呟く。
「いや、全力を出すのは最初から決めていたことだ」
探索や捜索で力を温存し、逃走の段階で全力を出す。そのために戦闘を避け続けたのだ。迷っていれば誰かが犠牲になってしまう。
貸し与えられた力を着火させ、追撃を炎の剣で受け止め、大剣を断ち切る。そのただの一振りで剣は溶け落ちてしまったので素早く短剣を抜いて持ち替える。
『人間を超越せし力か。『原初の劫火』より与えられた力を人間ごときが浅ましくも使おうなどとは愚かな』
アレウスが纏う炎が周辺の霧を蒸発させ、視界がそこそこに晴れる。だが、霧の放出はヴァルゴの能力でしかないためどれだけ炎で蒸発させようと霧の発生を抑えられるわけではない。
「さっさと僕たちはここから出たいんだ。邪魔しないでくれ」
言いつつ炎の剣戟を鎧の乙女に放つ。大剣を手放し、素手で炎刃を受け止め握り潰す。そして霧から与えられた大剣を再び手にして突っ込んでくる。全力を出すと決めた以上、鎧の乙女があの頃とどれほどの変化があるのかを観察は不要だ。とにかく、そんな変化に惑わされる前に攻めて攻めて攻め続けて、ヴァルゴの手数を減らす。鎧の乙女を行動できないまでに叩きのめせば注意するのは霧の攻撃だけになり異界から逃げ出すのは容易となる。
『我の尖兵との戦いはどうだった?』
鎧の乙女に剣戟を振るおうとした直後、そう問い掛けられて振り切ることに迷いを生じさせてしまう。恐らくそのまま振り切っていたならば両断できていた鎧の乙女がアレウスの刃から逃れ、真横から大剣で薙いでくる。避けることはできたものの、仕留め損なったことに激しく後悔する。
「あれはやはりお前が寄越したのか」
『寄越したのではない。お前たちが残した物をお前たちに返した』
「魔力の残滓のことか? 『原初の劫火』はそもそも異界の物じゃなかったのか?」
『だが、あの魔力は我らの知るところではない。『原初の劫火』が選んだ器であっても、我らの魔力でないのなら返すのみ。我が欲するのは残滓ではなく、『原初の劫火』そのものなのだから』
しばらくヴァルゴの言っている意味を分析しようとしてしまった。それがあやまちであることは間際に迫った鎧の乙女を見れば一目瞭然だった。この間合い、この状況、そしてこの剣戟。どれもが見事に噛み合っていて避け切ることは不可能だ。
「“盾となれ”」
マルギットの『盾』の魔法によってアレウスは剣戟を浴びるものの両断されずに弾き飛ばされるだけで済む。ただし、肉体には強烈な打撃として伝わっており、激痛が全身を襲う。
「“癒やしを”」
続いて回復魔法によってそれらの痛みが和らいでいくが、途端の疲労感に眩暈を覚えてフラつく。
『やはり魔の叡智はくだらない。魔力一つで傷が癒えるなど』
「……お前たち、だって……魔力で傷を癒やせるクセに」
『それは我らが持つ魔力によって成されること。お前たちは外に働きかけて、癒やしてもらうように願っている。自らの手であるのか、他者の手を借りているのか。その差は大きい』
「他者に力を借りることのなにが悪い?」
「アレウス! 自分の言っていたことを思い出せよ! そいつと話したところで意味がねぇだろ!」
鎧の乙女の背後に忍び寄ったノックスが骨の短剣で一撃を浴びせる。それでも鎧には傷一つ付かず、振り返ってノックスを手甲で払い飛ばす。受け身を取った彼女はすぐさま翻って霧の中に消える。アレウスだけを狙っている鎧の乙女の注意を惹こうとしたその行動のおかげでフラついていたアレウスはバランスを立て直し、彼女を追い立てようとした鎧の乙女の背中に炎刃を浴びせる。
また悪い癖が出た。少しでも相手のことを理解しようとする悪癖が。そもそもにおいて人語を解する者たちと戦うことはアレウスにとって好ましいことではなく、自分自身に戦うための理由が欲しくなる。その際に必要なのが対話なのだ。普段はコミュニケーションを極端に嫌うアレウスだが理由を求めるときにはそれを行使する。倒す理由、討つ理由、殺す理由。対話の果てに相手の人格がどれほどに破綻しており、自身だけでなくあらゆる人々にとっての脅威だと分かれば決意も闘志も宿る。分かり合う余地があるのなら、戦いの中で互いに譲歩できるところを見極める。
その果てに異界獣とまで対話しようとしてしまった。魔物の親玉とも言うべきその存在と分かり合うことなどないのに――。
心の中でノックスに感謝しつつ、アレウスは鎧の乙女との戦闘を再開する。どんなにノックスを追おうとしてもアレウスは先回りして行く手を阻み、無造作に振られる剣戟を炎刃で放って止める。剣と剣をぶつけることになっても力の流れを逸らして鍔迫り合いには運ばせない。そうなれば短剣のアレウスは圧倒的に不利で、尚且つ腕力では到底敵わない。重要なのは逸らすこと。受けはしても止めずに剣身を滑らして流す。一つ間違えれば自身まで切り裂かれてしまうが、この腕力差と武器差では受け流す以外の手段に講じることの方が危険が増す。無論、避けることを前提とした立ち回りは不可欠だ。
「駄目、アレウス! こっちが!」
ニィナの苦しそうな叫びを聞くも、鎧の乙女の一撃を受け流すのに精一杯で助けに行くことはできない。
やはり、霧そのものと戦うことは難しいというよりも不可能に近い。突如として霧が集合して生成される腕や水の塊を素早くオラセオは切り裂き、ニィナも援護を絶やしてはいないのだがどんなに切っても切っても延々と霧の腕は生じてくる。
「ヴァルゴの本体はこの霧そのもの。でも、どれだけの火炎で蒸発させてもダメージを与えているようにはとてもじゃないけど……霧の中に実体はあるのか?」
答えが見出せない。確か、初めて戦ったときにはアニマートが鎧の乙女を抑制し、そこにクラリエとエウカリスの『衣』の魔力を叩き込むことで濃霧を吹き飛ばした。
「……! クソッ、見積もりが甘かった。なんでちゃんと考えていなかったんだ……!」
自分自身に苛立ち、罵る。
ヴァルゴは魔力でしか攻撃が通らないのだ。鎧の乙女は物理で黙らせることは可能だが、霧は魔力でしかダメージを負わず、払い飛ばせない。あのとき二人のエルフが吐き出した膨大な魔力によって濃霧が吹き飛んだのだと思っていたが、ヴァルゴは深手を負っていたのだ。魔力を浪費したなどと言っていたが逃走を選んだのは討伐されることも視野に入れていたのだ。あのとき、こちらには異界獣にとって都合の悪い相手が多くいた。クラリエ、エウカリス、アニマートだけじゃない。アベリアも妖精を連れていたガラハもいた。アニマートの魔力供給のために来ていたアイシャやヴェインもいた。あれほどに魔の叡智に触れている者たちが勢揃いしている中で、異界獣は戦うことを拒んで逃走を選んだ。
だったら執拗に後衛を狙うのも、自身に傷を負わせる可能性のある者を優先して狙うという単純な理由が見えてくる。
アレウスたちの中でヴァルゴに有効打を与えられるのは魔法職はマルギットのみ。その彼女は回復と補助に特化している僧侶で、攻撃魔法は低難度のものに限られる。そもそも、霧からの攻撃を防ぐことに手一杯で戦えない。『耐毒』の魔法も使っている。戦えと言う方が間違っている。そして、相手にするものも間違えている。
「オラセオ! マルギットと一緒にこっちの鎧を止めてほしい! ニィナも!」
だから、魔法職でなくとも戦えるアレウスが霧と立ち向かわなければならない。蒸発する霧はヴァルゴの発している魔力で、それでも払い飛ばせないのはヴァルゴそのもの。そこに火炎を浴びせれば、活路が見出せるかもしれない。
マルギットへと伸びた霧の腕をアレウスの短剣が断ち切り、オラセオがアレウスを追い掛けてきた鎧の乙女を剣戟で牽制する。尚も向かってきて大剣を振るわれたために盾で受けて、そこにニィナが鎧の隙間へと矢を射掛ける。
鎧の乙女の中身はヴァルゴが手塩にかけて育てた亜人である。だからオラセオやニィナでも鎧の乙女を打ち砕くことはできなくとも阻むことぐらいはできるはずだ。
『我の特質に今やっと気付いたか? しかし、どうすることもできないだろう? この濃霧の中にある膨大な我という存在をどのようにして討つというのだ?』
恐らくヴァルゴは個ではなく群の総称。巣を守る蜂が統率を取って押し寄せるように霧に紛れてヴァルゴという存在が大量に介在している。
ここまで分かったというのに、この異界獣を討つどころか出し抜く算段は全く思い浮かばない。大勢の魔法使いで霧どころか地形を変えるほどの魔法で消し飛ばす。そんな物量作戦を敷いても、自身の弱点を明確に理解している節があるこの異界獣は霧から自身を離脱させてしまうだろう。開けた場所では討てない。しかし異界獣が現れる場所は世界であって、閉ざされた空間では決してない。そして住処としている異界が平野であるワケも狭い空間では自身の身に危険が及ぶと考えてのことだ。
ならば鎧の乙女もただの目標物とは言えない。あれはヴァルゴにとって物理攻撃を受ける盾であり、後衛を狙うヴァルゴの代わりに前衛を屠る役割を担っている。
徹底している。徹底して、自分自身を守っている。ここまでの徹底できるのは喰ってきた人間から得た知識や技能によるものだ。
「だけど、お前は冒険者の技能を使いこなせない!」
『使いこなせないのではない、使わない。いや、使えない。ああ、我は喰った技能と知識を知能として習得しても、それを使う実体を持っていない。だが、与えることはできる。『原初の劫火』の残滓をお前たちのいる世界へと返したように』
迸る炎で周囲の霧を蒸発させるが、手応えは全くない。むしろアレウスの周囲に霧で生成された無数の腕が出現し、ひたすらに拘束しようと蠢き出す。
マルギットの悲鳴が上がる。思わず視線を向けた瞬間、地面擦れ擦れから生じたヴァルゴの腕に足を掴まれて前のめりに転ぶ。上から質量を持った霧の拳が一斉に振り下ろされるが、身に纏う火炎を放出して雲散霧消させ、すぐさま起き上がる。
「なにがあった?!」
アレウスは迫りくる霧の拳をどれもこれも炎で振り払い、マルギットの報告を待つ。
「オラセオさんがマズいわ! そこの鎧に組み付いたら、急に倒れたの!」
『我の毒はよく効くだろう?』
「なんで……! 『耐毒』の魔法は一度だって解いてないのに!」
『『耐毒』は摂取の拒絶。ならば投与すればいい』
ニィナが鎧の乙女の接近に気付いて弓ではなく持ち込んでいた剣での対処に移ろうとする。
「ぶつかりに行くな! その鎧に触れたら毒を受けるぞ!」
それを聞いてニィナはまさに剣を振ろうとした直前でそれを手放し、射手として備えている華麗な跳躍でマルギットの元まで下がった。
『そうやって助けに入っていいのか?』
アレウスへと包囲するように霧の腕が現れ、さながら『火球』の魔法のように一斉に射出される。それらを炎の短剣で全て切り払い、決死の雄叫びを上げ、炎の波濤を放って周囲一帯の霧を払う。この力の使い方は赤い鎧から学んだ。残滓が使えるのなら『超越者』であるアレウスが使えないわけがない。しかし、消耗が大きい。一時的にヴァルゴの魔の手を払い飛ばすことに成功したが鎧の乙女は止まっていない。
「“解毒せよ”! なんで……? なんで、解毒できないの?! “解毒せよ”! “解毒せよ”! “解毒せよ”!」
半狂乱にも似たマルギットによって解毒魔法がオラセオへと何度もかけられるも、苦しみ悶えているオラセオの表情が和らぐことは一向にない。
「……毒の種類が、解明されていないんだ」
解毒の魔法では解くことのできない未知の猛毒。人間が未だその毒を浴びて助かった者がいないことを意味している。
クラリエの調合だって、知らない病気――森から出なければ決して罹患することのない性病の特効薬を作ることはできなかった。解毒の魔法にも同じことが言えるのだろう。
「だったら」
マルギットが不穏なことを言い、詠唱を始めたためアレウスは止めに入ろうと走るが鎧の乙女が投げた大剣を避けなければならず、間に合わない。
「“引き受ける”」
「待て……!」
オラセオが血を吐きながら言葉を紡ぐが、既に詠唱は終わって彼女は手を彼の胸に当てていた。そして、そのまま横に倒れる。
「なんだ……なんの魔法を唱えた?」
駆け付けたアレウスが二人を見る。オラセオは毒気が抜けたかのように血色が戻り、逆にマルギットは肌が蒼白色になって血の気が引いていき、小さく咳き込むと血を吐いた。
「俺が受けた毒を彼女が魔法で肩代わりしたんだ」
「なんでそんなことを!」
「だって……こう、しないと……オラセオが、死んじゃう、から」
「……だったら自分が死んでもいいとでも言うのか!?」
アレウスは拳で地面を打つ。しかしこの場の誰も、マルギットの唱えた魔法による猛毒の肩代わりを解く術を知らない。
これは究極の自己犠牲である。僧侶の間では素晴らしいと褒め称えられるのだろうが、アレウスにしてみればこんなものは究極の自己満足である。
『自ら死を選ぶか。魔の叡智に触れている者が倒れれば、じきにその『耐毒』の魔法も解けよう。そのときには貴様たちもまた我の毒を吸って滅べ』
「うるせぇ」
跳躍したノックスが鎧の乙女の真上を取って爪に気力を込める。
「“削爪”!」
十の爪撃が炸裂し、鎧に鋭い傷跡が刻まれる。同時に鎧の乙女は膝を折り、動かなくなる。
『注いだ魔力を削られただけで動けなくなるだと? たかが獣人の技ごときで……いや、力場か……? 真上から押し付けられた力場で、我の尖兵が立てぬだけか』
すぐさま分析を終えてヴァルゴはアレウスが払った霧を再び発生させる。
「“穴”まであと少しだってのによぉ!! ワタシがもっと早く臭いを辿れていれば……!」
地団太を踏み、ノックスが自身の至らなさに苛立つ。
「あと少し?」
「もうほとんど、ここから真っ直ぐ走るだけで誰でも見えてくる」
「本当か?」
「ワタシの鼻が間違ってないならな」
「…………ノックス? マルギットさんを背負って走れるか?」
「出来るに決まってるだろ。でもよ、もう助からないんだろ?」
「助かる見込みがあるから言っているんだよ!」
霧を炎で蒸散させ、悲嘆に暮れているオラセオの襟首を掴む。
「まだ諦めないでください! ここで諦めたらマルギットさんは魂の虜囚になってしまう! 死体を外に連れ出しても甦ることができず、輪廻に還ってしまいます!」
オラセオからの返事がない。
「立て、オラセオ! 今のお前にマルギットの命が掛かっている! 野垂れ死にたいなら好きにしていいが、仲間の命まで道連れにするんじゃない!!」
「仲間……そう、だ、仲間だ」
「いいか!? 脇目も振らずにマルギットを背負ったノックスと一緒に“穴”へと走れ! 走っている最中にひたすら回復魔法をマルギットに唱え続けろ! 猛毒が侵す細胞の破壊を、お前が使える下級の魔法でひたすらに回復し続けろ! マルギットが毒死を世界に出るまで遅らせるんだ! 世界に出たあとなら、『教会の祝福』が働く!!」
解毒ができないなら、毒死は免れない。しかし異界で死なさず世界で死なす。そうすれば『教会の祝福』でマルギットは甦ることができる。
「ああ!」
「ノックス! 死ぬ気で走れ! なんなら“穴”が見えたらオラセオを待たずに全速力で飛び込んでしまってもいい! とにかく毒が回り切る前に彼女を世界へと放り出せ!!」
「任せろ!」
背負って走れば体が振動して毒が回りやすくなる。しかし、この場から動かさなければマルギットを魂の虜囚にしてしまう。だから、ここからは時間との勝負になる。マルギットが毒で死ぬ前に異界から出る。彼女を世界で甦らせるために重要な三人への指示は終えた。もうアレウスの次の言葉も待たずにノックスはマルギットを背負い、オラセオは回復魔法を彼女に掛けている。
「ニィナ!」
「私はあんたと一蓮托生でしょ? あの鎧は私がひたすら注意を惹くから、あんたはヴァルゴを!」
矢をつがえ、今にも動き出しそうになっている鎧の乙女に狙いを定めている。アレウスはもはや彼女になにも言うことはないと判断し、自ら濃霧の中へと飛び込んでいく。
『以前より力を付けたからといって、我に敵うと思うな』
「黙れ」
炎の短剣に気力を込める。
「逃げる獲物を追い掛けることしかできない臆病者か、それとも狩りに来ている者を返り討ちにして喰らう王者か。お前はどっちだ?」
言葉を交わす意味はない。ノックスにそう諭されていたが、状況が変わった。さっきまではアレウスがヴァルゴの言葉に囚われたが、今度は異界獣を自身が言葉で攪乱する側だ。だが、ヴァルゴはこの程度の挑発には乗ってこない。
「怖いか、人間が……いや、冒険者か?」
だから最もヴァルゴが気にしているであろう部分を言葉で刺激する。あらゆる面においてヴァルゴは徹底している。その点はアレウスが魔物について調べることとほとんど大差ない。徹底的に調べ上げることで対策を練ることは当たり前のことである。
しかしその根底にあるのは恐怖だ。未知に対して立ち向かうことのできない恐怖心を払うための調査であり対策だ。そこから臨機応変に思考を転じられるかはある種の才能になってくるが、ヴァルゴは知能の全てを外部から――人間を喰らうことで手に入れている。そこには自信の経験がない。未知との遭遇による恐怖心はアレウスよりもこの異界獣の方が上である。
『我を愚弄するか』
霧が収束し、腕だけでなくアレウスを大きく上回るほどの体躯の巨人が生じる。オーガ、或いはオーク、いやギガースほどだろうか。
『その半端な力で我に敵うと思うな』
霧の巨人は一心不乱にアレウスへと攻撃を始める。それも一体ではなく、二体、三体と数が増えていく。
アレウスの見立てでは、これらの霧の巨人にもヴァルゴという実体はない。霧のどこかに混じっている。だから、相手をしていたところで決定打どころか有効打すら与えられない。
鼻唄が響く。霧の巨人はアレウスが知る仲間たちの姿へと変貌していく。視界が、思考が掻き乱されるが炎刃を振るだけでその幻は掻き消える。ただし、接近を許してしまった。
四方八方からの殴打を避けるのではなく炎の放出によって阻み、それでも拳が落ちてくるので短剣で受け止める。背骨が圧し折られるのではないかと思うほどの打撃が止め処なく続く。
注意を惹く。ひたすらに、ただひたすらに耐える。耐えなければヴァルゴにノックスたちを追う余裕が生まれてしまう。ここで凌いで、更に勢いを削ぐほどの力を見せることで脅威と思わせなければならない。
そのために気力はずっと残し続け、そして高めている。
「獣剣技、」
絶対的脅威と捉えろ、とアレウスは心の中で願う。
「“火天の牙”!」
溜めの動作も入れずに、間近の霧の巨人に対しての炎を帯びた獣剣技を放つ。炎の刃は顎を成して、ほぼ眼前で数度の明滅を起こして爆発する。爆風は霧の巨人を押し飛ばし、自身すらも吹き飛ばすが、自らが起こした炎には耐性を持っているため無傷のまま着地する。
その爆発は圧倒的で、それでいて空間を震撼させた。鎧の乙女に射掛けながら戦っているニィナすらも目を見開いて驚くほどの火力は巨人だけでなく周囲の霧すらも消し去った。
「く……」
炎の波濤の真似事と、今の獣剣技で大量の気力を消費した。貸し与えられた力の消費も莫大で、残っている力でどうにか体を動かせている。
『やはり、異界にあった物を人間が持つべきではない。我らの手元にあってようやく、世界を滅ぼす力へと変わる。ここで喰わなければならない。ここで、貴様を始末する』
「隙を見せたな、ヴァルゴ?」
アレウスは呟きながら火炎を帯びた短剣で飛刃を放つ。ニィナが走り、鏃でその炎刃を受け止めて弦に乗せる。
「これだけ霧を払えば、私にはあなたの姿が見えるわ」
彼女は炎の矢を一点に目掛けて放つ。空の彼方、雲の向こう側へと至り、やがて煌くほどの爆発を起こす。
『おのれ、人間め! 我が用意した観測の亜人をよくも!』
「実体を持たない連中との戦闘経験だけは豊富なんだ」
カプリースから始まり、最近ではリリスだろうか。そのどちらも攻撃的な写し身の使い方をして、自身もまた戦いに身を投じていた。だが、どれだけ気配を読んでもヴァルゴの実体を霧からは感知することができなかった。
霧はヴァルゴが起こしている。実体もまた霧の中にある。だが、この最終感知エリアにヴァルゴの実体たる霧はなく、観測手として用意された亜人がずっとアレウスたちを妨害していた。
「お前はヴェインとは方向性の違った臆病者だ。戦場にすら立てない」
先導はニィナの次に鼻の利く彼女に任せてアレウスは軽い挑発を行って駆け出す。この挑発は追撃が行われるか、そして再び霧に包まれることがあるかどうかを確かめるため。それらが起こるようであれば、ヴァルゴはアレウスの想定と違って間際まで迫っていることになる。
だが、身構えながら走ってはいるがいつまで経っても霧は発生せず、霧の乙女も追ってはこない。
「ここまでコケにされて、なんで追撃してこないんだ?」
「こっちにとっては好都合なんだからなんにも考えないで走ってよ!」
まさかとは思うが、オエラリヌが動いたのだろうか。もしあのドラゴニュートが動いたのであればヴァルゴはアレウスたちを追っている場合ではなくなる。
「……あれほど饒舌に喋っていたクセに反応がない」
「いいから、そんなのはどうだっていいから!」
ニィナは走る速度を緩めようとしたアレウスの腕をグイッと掴んで無理やり自身の速度に合わせて走らせる。“穴”が見えてきたところで、まだ少し留まろうとする意思を見せると「バカ!」と直球で罵りながら彼女にアレウスは“穴”へと放り込まれた。
上下左右、そして前後すらも分からなくなる激しい回転と暗闇の中を漂い、眩しい光の輝きが見えてきたと思えば一気に迫り、視界が一気に開ける。
草原に転がる。ここはどこだろうかと起き上がろうとしたアレウスだったが、少し遅れて“穴”から放り出されたニィナに乗っかられてしまって一緒に倒れ込む。
凄まじいまでの近距離での肉体的接触にニィナが飛び退いて、全身を打ち付けてそれどころではないアレウスはなにがあったんだとばかりに上体を起こす。
パザルネモレが見える。しかし、ここは遺体安置所ではない。堕ちた“穴”と同じところに出られるわけではない。それでも、近郊に出られたのは幸運でしかない。
「アレウス!」
ノックスの声がして、すぐさまそちらへと向かう。
「間に……合わなかった、のか?」
恐る恐るアレウスは訊ねる。ノックスは緊張を解き、和らいだ表情を浮かべて首を横に振った。
「間に合った。マルギットは世界で毒によって死んだ。だから、『教会の祝福』で甦ることができる……死を経験させてしまい、また『衰弱』という苦しい期間を過ごさせてしまうから決して喜ばしいことでは、ないが……」
オラセオがアレウスに抱き付く。
「ありがとう……ありがとう、アレウス君! 君が……君が、俺を立ち上がらせてくれなかったら……彼女がもう二度とこの世界に戻ることも、できなくなるところだった……!」
「……いいえ、あなたは自分の力で立つことができました。僕はただ、焚き付けて気付かせただけです。あの瞬間、あの場にもまだ掴めるかもしれない可能性があるのだと」
「それでも、君は俺たちにとっての英雄だ」
そう言ってオラセオは初めてアレウスたちに涙を見せた。




