無理を通してでも
オラセオは様々な不安から解放されて緊張の糸が切れたのかマルギットを泣き止ませてから不意に意識が落ちた。一週間以上の異界生活による疲労が蓄積されていたのだろう。僅かな栄養失調も相まって、再会したからといってすぐに脱出することはできそうもなかった。
「どんな感じだ?」
集落を軽く見回ってからアレウスは戻ってきてオラセオとマルギットの傍に付いてくれていたニィナに訊ねる。
「どこも怪我していないから二人とも寝たらすぐに良くなるわ」
「そうか、ありがとう。ニィナも少し休むか?」
「いいえ、このままで大丈夫」
「ちょっと歩いてきてもいいけど」
「わざと言ってる?」
集落という一応の安全が約束されている場所でも一人で歩き回るのは嫌という意思がヒシヒシと伝わる。
「泣くだけ泣いて眠っちゃうんだからマルギットさんも普段通りを努めてはいたけど、やっぱり気を張っていたみたいね」
「よく耐えていたと思う。僕だったら周りに言われなきゃ冷静じゃいられないから」
「で? 二人が目を覚ましたらすぐに出発する?」
「偵察に出ているノックスが帰ってきたら、今日はもう集落で一日を過ごすよ。オラセオが限界ギリギリだったのはその身なりでも分かるだろ?」
オラセオは初見で無精ヒゲこそ生やしていたが、もはやそう呼べないほどにヒゲが伸び切っている。鎧も脱いで手入れをしているのか怪しく、着ている衣服からはそこはかとなく嗅ぎたくない臭いも漂っている。こんな状態のオラセオに猶予も与えずに集落を出る話をしたところで彼は首を縦には振らないだろう。
異界に堕ちたことでオラセオは強烈な恐怖を刻まれた。安全と言えるこの場所から出て行く気になるかすら怪しい。だから一日は様子を見る。それでも脱出への踏ん切りが付かないようなら強硬手段に出るか、或いは見捨てるか。そうなるとマルギットはきっとオラセオ側に付くので、彼女も見捨てることになる。
「ヒゲを剃って、衣服を着替えて、なんなら水浴びぐらいはしてもらって……それからかな。鎧の手入れは出発前でも間に合うだろうから」
「身なりを整えれば身軽になった気分にはなるから、そこは賛成。あとは本人がまだ諦めていないかどうか」
「諦めていないから安全な場所で身を潜めていたんだと思うけどな。誰かが気付いてくれると信じていたんだろう」
「……アレウスも、誰かが助けてくれるって思って頑張ったの?」
「僕は…………最初の数日だけだよ。一週間経ったら、もうなにもかもがどうでも良くなっていた。善人性とか人間らしさみたいなのはその辺りで捨てていたんじゃないかな」
言いつつも、ニィナの暗い表情を見やる。
「でも、僕は五年で君は異界ではないけど世界で数百年の投獄にも近い監禁。桁も規模も違うだろ。僕の生き様に同情する必要はないよ」
「言っていることは分かるんだけど、同情くらいはさせてよ。あんただって私の数百年に少しは思うところがあるんでしょ?」
彼女は暗い感情を押しやってアレウスに微笑んで見せる。アレウスも負けじと彼女に一生懸命の微笑を浮かべた。
昼を大きく回って三時半過ぎにマルギットより早くオラセオが目を覚まし、改めてアレウスに礼を言ったあとに自身の身なりの不甲斐なさに思考が至ったらしく、そそくさとそれを解消すべく集落内部の水場へと走った。そのせいであとから起きたマルギットがまた彼がいなくなったと騒ぎ立てたのだが、いつも通り――アレウスが初見で見たオラセオの姿で戻ってきたので物凄い勢いの謝罪を受けることになった。
「異界というのは本当に怖ろしい場所だと思い知ったよ。最初は希望を捨てずに頑張ろうと思ったのに、そんなのは一日で吹き飛んだんだ」
「ここでの食事はどうしていたんですか?」
「集落の人から分けてもらっていた。異界でも食事ができるなんて最初は思っていなかったから、どうせ毒でも入れられているんだろうと疑っていたけど、そんなことはなかった。でも、二日目から急に胃が食事を受け付けなくなってね、それからは一日に一食になってしまったんだ。無理やり胃に放り込んでも吐いてしまうから、どうしようもなかった」
異界では不思議なことに食べ物が無くならない。魔物だらけの異界獣の巣の中で、人間が飲んで食べられる物がある。とにかく魂の虜囚が集う場所であれば生きる知恵さえ持っていれば滅多に餓死はしない。逆に言えば生きる知恵を持ち合わせていなければ物乞いに落ち、餓死する可能性は非常に高い。なんなら餓死してから魂の虜囚となり、更に餓死を繰り返すことさえある。
生きている人間と魂の虜囚では魔力の質が違うことは知っているが、この手厚さについてはずっと不可解なままだ。自身の異界にいる人間は歯向かわないとでも思っているのだろうか。
しかし、その驕りこそが付け入る隙でもある。異界獣を討つに至る大きな大きな隙なのだ。
「異界獣は人間を狩るだけでなく巣穴で飼っているんですよ。非常に不愉快ですけど、魔力の供給源として置いておかれている間は食料が尽きません。都合が良すぎるほどに」
「なんとも怖い話だ。俺はこの場所で採れた野菜や家畜から剥ぎ取った肉を食べていたのか、それとも……」
「考えて震え上がっても仕方がありません。重要なのは、どんな物を食べることになろうと生きてやるという気概です。胃が受け付けなくても一日に一食を摂ることができていたあなたは、あなたの体はまだ生き足掻いていたんです」
「あと数日もしたら食事すらしなくなっていただろう。本当に、君たちを見たときには幻覚とさえ思ったんだ」
オラセオの表情には僅かだが明るさがある。脱出の糸口が見えてきたことで生きる希望が湧いたのだろう。しかし同時に、脱出できるのかという不安も見え隠れしている。
「明日には出発とも考えているんですが、体調はどうですか?」
「そうだな……正直な話をしよう、優れない。今日一日ぐっすりと眠っても本調子には程遠いだろう」
「だったら明後日にしますか?」
「俺に気遣いをしてくれているな? すぐにでも出発したいところをどうにか抑え込んで明日に延長しているはずだ。それ以上の延長は現実的じゃない。そうだろう?」
「ここに滞在すれば滞在するほど、ヴァルゴに気取られる可能性が高まるので……この集落はまだ小さいみたいですけど、いつぐらいに出来たか聞いていますか?」
「いいや、具体的には。だが、最近とは言っていた。あの、どうやっても敵わないだろう大男がこの異界に現れてから集うようになったとか」
だったらリオンを討伐した直後ぐらいだろう。一年も経っていない。だからオエラリヌという絶対的強者という要因だけでなく、こんなにも集落の造りが乱雑なのだ。
「ウチはオラセオが本調子になるまでここに留まるべきだと思う」
「さっきの話を聞いてた?」
ニィナがやや呆れた風に言う。
「だって、オラセオが出発してから倒れたら危険だから」
「ここに調子を取り戻すまで居続けるのも危険だって言っているのよ」
マルギットは異界の怖さを知らない。ニィナは異界の怖さを知りすぎている。この二人の主張は見守っていても絶対に重ならない。
「異界に堕ちる前に言ったけど、オラセオと合流後はマルギットさんには彼の指示に従ってもらう。だからここからはあなたのことを別パーティとして考えさせてもらう」
そのように前提をアレウスは置く。
「僕たちは明日、出発します。あなた方を待つ気はありません。付いてくるか来ないかはオラセオの判断を仰いでください」
「そんな……」
「いや、彼は冷静だ。冷静でないのはむしろ俺や君の方だ」
オラセオは飲み水で喉を潤す。
「最悪なのは共倒れだ。だから互いの意見が平行線になることを見越して、早々と自分たちのスタンスを提示しておくことで無駄に長々とした討論を回避する。まぁ、険悪な雰囲気になってしまって逆効果になりやすいから俺は一回もやったことはないんだが」
討論や理詰めする時間は不必要で、必要なのは助かるためにはどうしたらいいのか。そこが見えているからこそ彼はアレウスの発言を受け止めることができている。
「俺たちはアレウス君の出発に合わせよう」
「でも」
「心配するな。なんのために戦士として鍛え上げたと思っているんだ? それに、助かる見込みが出来たおかげで明日に向けて休むことができる。いつ助かるかも分からないのに休むのとはワケが違う。胸に可能性を抱いて、備えられるんだ」
「……分かった」
マルギットが渋々と了承する。アレウスたちにも「ごめん」と謝罪する。
「それで、出発を明日として外に出る“穴”の見当は?」
「出来ていません。どこに世界への出口があるのかは推理や推測を立てたところでアテになることはほとんどありません」
リオンの異界で効率よく渡ることができたのはガラハとスティンガーのアーティファクトがあったからだ。アレウスたちの出口への道標を示し、決して迷わず一直線に“穴”へと向かうことができた。しかし、今回はそれができない上に頼りたいガラハとスティンガーもいない。
「では、どうやって?」
「運が良いのか悪いのか、ヴァルゴの異界は一界層しかありません。だだっ広い平野に、どれだけ歩いても先の見えない景色に絶望してしまいますが、巣の広さには必ず限界があります」
景色だけがあって、その先を不可視の壁で遮られてしまうようにどこまでも続いているわけではない。
「だから、僕たちが広いと捉えているこの異界もひょっとすると僕たちが思っているよりは広くないかもしれない。それでもこの集落を見つけるのに一日中歩くくらいの広さはあったので、寝ずに歩けば三日程度の広さと仮定します。勿論、この三日程度という推測もアテが外れていること前提で聞いてください」
アレウスはマッピングを行った地図を地面に広げる。堕ちた最初の地点を中心に据えるべきか書き込む際に迷ってしまったので、複数の用紙を重ね合わせなければならない、拙くてややこしい地図をまだ帰ってきていないノックス以外の全員に見せる。
「東西南北を理解した上で僕たちは茂みを進み、魔物との戦闘を極力避けてこの集落まで来ました。その際に通った道のりと、僕が目視できた景色から可能な限りの地図を作っています」
「ただ広いだけにしか私には見えないけど……ここが最初の地点でしょ? 異界の端だった」
ニィナが異界の端だった場所を指差す。
「ここからずっと歩いて……やっぱり、なにか特別変わったところはないじゃない」
「特別変わったところがないのが有益な情報なんだよ」
この集落に着くまで、ヴァルゴの異界にはどこにもおかしな場所はなかった。異界そのものがおかしな場所であることはさておき、なにもないことこそが“穴”を見つけられる可能性となる。
「え、いや……え、もしかしてなんだけど、私たちが通ってきた付近には“穴”がないとか言いたいの?」
ニィナに肯いてみせると「なんでそんなこと言い切れるのよ」と呟かれてしまう。
「アレウスー、言われた通りにそこら辺をテキトーに探ってきたけどおもしれーもんはなんにもなかったぞ」
ノックスが戻ってきて「ふぅ」と息を吐いて、アレウスの傍に座り込む。
「この北東と南東周りは見てきたけど、マージでなんもなかったな」
「ならこの北北西は?」
「そっちは行ってない、っつーかそっちはワタシたちが集落に来た南西の方角に近いし、あんまなにも見つけらんねぇだろうなって」
「魔物はどうだった?」
「ワタシが見た大体のところに亜人が突っ立っていて、あとはコボルトが見えたな。ゴブリンはどこにもいなかったから、この異界ではコボルトだけしかいねぇのかも。アレウスの言っている北北西も一応は気配を探りはしたけど、そんなに魔物はいねぇ感じだったかな」
「……だったら北北西を目指してみるか」
「まだ誰も見てねぇからか? でも遠目で見た限りじゃどこも同じだったとしか言えねぇぞ」
「ヴァルゴの異界は一界層しかないんだ」
「それはここに来るまでの間に聞いた――って、いや待てよ?」
ノックスは地図とアレウスに視線を行き来させる。
「最終感知エリアか」
「だーかーら、二人の間で話を進ませないで」
ニィナが説明を求めてくる。
「異界が一界層しかないってことは異界獣が自身の餌が逃げることに気付ける最終感知エリアも一界層――つまりはこの界層にしかないってことなんだ。そして異界獣は巣の主だから、餌を自身の魔力の残滓である魔物たちに群がられて取られたくはない。魔物には人間や魂の虜囚の脅威にはなってもらいたいけど食べてほしくはない。ヴァルゴは亜人たちを争わせて人間と戦わせて、純度の高い魔力や技能を求めている。でも、これはヴァルゴに限った話じゃなくて全ての異界獣で共通なんだけど、」
「最終感知エリア周りには魔物を近寄らせねぇようにしている。そこに行けばどんな魔物でも異界獣が食べ切ったあとに残っている魔力にありつける。でも、そんな残飯喰らいは異界の主としては許せねぇ。だから、魔物が少なかった方角に進めばそこに最終感知エリアがあるんだろうとアレウスは推測したんだ」
「確か、その最終感知エリアというのは世界へ続く出口がある付近になるんだったか? 界層が複数に分かれている場合は、出口そのものではなく上の界層に続く“穴”の周辺になるとかならないとか」
オラセオは聞きかじりの知識を語る。
「失敬、どれもこれも聞いただけで自分の目で確かめたわけじゃない。俺の言ったことに間違いがあるなら指摘してほしい」
「間違っていませんよ。最終感知エリアは異界獣にとって餌に最も近付いてほしくない付近になります。登る“穴”の付近をそのようにしている異界獣も少なくないと僕は思っています」
リオンは下の界層からアレウスたちを追いかけてきていた。界層が複数に分かれると早期の発見が異界獣にとっては重要なのだろう。
「だからこそヴァルゴも例に漏れず、“穴”の付近を最終感知エリアにしているはずです。ヴァルゴの場合はそこが即ち世界への出口なわけですが」
ただし、とアレウスは付け加える。
「恐らくですがヴァルゴが感知できるエリアは極めて広いと思われます。世界への出口であるのなら、狭める理由がありませんから。界層が一つしかないから気付いたときには手遅れになりやすい。なので、広めに感知の範囲を取っていて、僕たちが足を踏み込めばすぐにでも現れる。ノックスが見渡したところには魔物がいて、僕たちが歩いたところにも魔物はいた。あとは北北西だけ。そしてここまで来る道中で眺めはしたものの足を踏み入れていません。もしこの推測が間違っていたとしても、」
「集落に戻って考え直せて、西側には出口がないという見当が付けられるってわけね」
「その通り」
説明に疲れてしまったため、アレウスも水を飲んで喉を潤す。
「どうしよ?」
「アレウス君が言っていることには一定の理論がある。いや、自論か。それも俺が納得してしまうような理屈なのか屁理屈なのか曖昧なところでだが」
腕を組み、オラセオは地図から視線を移さずに言う。
「もし“穴”を見つけられなくても集落に戻れるというのは保険として大きいように思えるが、実のところは賭けだろう?」
「なんで? 危なくなったら引き返せるのはウチたちにとって良いことなんじゃ」
「あの大男がずっと留まっている保証がない」
「……やっぱりそう思いますか?」
「戦いを求めているから、一所には留まれない性分だと俺は感じた」
アレウスはオエラリヌから直接聞いている。しかしオラセオは雰囲気で察するものがあったようだ。
「オラセオの言う通り、あの人はいつ集落――いや、ここにいる魂の虜囚を見放すか分かりません。それが明日なのか明後日なのか、もしかしたら今日かもしれないという不安定さがあります」
「あの人がいるから魔物が寄ってきていないと俺は思っている。俺たちが“穴”を見つけられずに引き返して、果たしてここに集落が残っているかどうか……」
「だから保険よりも賭けの方が大きいんだ……」
マルギットが話の流れを理解し、渇いた唇をキュッと固く結ぶ。途端の緊張からの気分の落ち込みと見る。
「じゃ、そもそも集落から出ること自体が賭け……ううん、それ自体はそもそも安心安全なわけじゃないから違う。ウチはちょっと楽観視しすぎていたかも」
「俺もだよ。こうして話す機会がなかったらアレウス君におんぶにだっこだった」
まだ剃り落とし切れていないヒゲを指先で擦り、オラセオは一度だけ大きく息を吐く。
「アレウス君の案に乗ろう。俺たちは冒険者なんだから、留まり続けて危険を待ち続けるよりも自らの足で危険に向かおう。その危険の先に、何物にも代えがたいいつもの日常が待っているのなら」
「ウチはオラセオが――パーティリーダーがそう決めたのなら従うまでだよ」
「決まりだ。俺とマルギットはアレウス君に付いて行く。パーティとして合流するんじゃなく、二人一組のパーティが傍にいると思ってくれ。君たちの言う通りには多分だけどマルギットだけじゃなく俺も動けない。だから俺は俺の判断を優先する」
「それで構いません。むしろそうしてくれた方が僕も指示を出す負担が減ります」
アレウスは重ね合わせていた地図を全て手元に集めて丸める。
「ただ、そうなると僕のパーティには回復魔法や補助魔法を唱えられる人がいないので、」
「俺たちが回復を担って、君たちが魔物を担当する。自分たちの身を守ることと回復を最優先で」
「ええ、それで結構です」
いわば回復に努めてくれるパーティをアライアンスのように率いているようなものだ。独自の判断で動いてくれる回復役はいるだけで安定するが、パーティ単位で切り離しておくと魔物にアレウスたちが脅威度の高さから優先的に狙われるが、オラセオとマルギットは狙われにくくなる。
「回復を気にするってことは、ただ逃げるんじゃ駄目なんだな?」
ノックスが訊ねてくる。
「ヴァルゴは別名、『霧に唄う者』と言っただろ。濃霧によって視界不良になる上に、鎧の隙間からの空気の流れで生じる音色は鼻歌のように聞こえる。鼻歌に引き寄せられれば鎧の乙女が待っている」
「じゃ、その鎧の乙女とやらから逃げればいいんじゃないの?」
続いてニィナが訊ねる。
「ヴァルゴの本体は鎧じゃなく、濃霧――霧そのものなんだよ。鎧を気にしていれば霧に首を絞められ、霧をどうにかしようとすれば鎧の乙女が暴れ回る。そして、僕はあの大男から聞いているんだけどヴァルゴは異界獣のスコルピオを喰ったらしい。このスコルピオと僕は遭遇したことがないけど、毒の力をヴァルゴは手にしたんじゃないかと思っている」
「霧が本体で、毒の力となるとそれはもはや毒霧か。マルギットの補助魔法で防護しないとならないな」
「任せて」
「そう言ってくれると思っていました。でも、ここからは想定であり気を付けてほしいところです。ヴァルゴはパザルネモレに現れた亜人のように冒険者の陣形を理解しています。なので、僕たちに毒が効かないと分かれば、まず魔法の使い手を狙ってきます。霧は不定形な上にヴァルゴと遭遇すればまず逃れられません。霧の拳が、腕が、マルギットさんを殺そうと忍び寄るはずです。それをオラセオには阻止してほしいんです」
オラセオの前なので敬語になってしまったが、やはり敬語を使った方が落ち着くものがある。
「普段からやっていることだから出来ないことはないだろう。だが、霧に包まれて方角が定まらないのなら“穴”を見つけるのは困難だな」
「ワタシは鼻が利く。視界不良でも臭いを辿ればいいだけだ。“穴”がどんな臭いをするのかは知らねぇが世界の臭いならちゃんと覚えている。でも、耐毒の魔法が嗅覚を不能にしなきゃならないんなら別だが」
「大丈夫だよ、そんな不便な魔法じゃないから」
「そうなんですか?」
「魔法だからね、不便になることの方が少ないよ」
ヴェインが持つ補助魔法もそうだが『重量軽減』の魔法も効果が切れると途端に体の重みに苦しむので、そういったデメリットがあって当然という認識でいたがそうではないらしい。
「研究が足りていない魔法は効果が切れたときの反動が大きいから効果を最小限に抑えなきゃならないこともあるんだけど、耐毒の魔法はずっと前から研究も実験も実践もされ続けていて、ほぼデメリットが無いの。声帯や体の麻痺解除の魔法もほぼデメリットなし。前衛職が常に武器の腕前を高めているようにウチたちも無駄に魔導書を読み漁ってないってわけ」
詠唱者の魔力次第でないのなら『重量軽減』の魔法も、いつかは体への負荷が減るようになるのだろうか。
「毒霧はあくまで予測なんでしょ? 異界獣が魔力が豊富な人間を一度に魂の虜囚に変えるような真似をするの?」
「逃げられるくらいならとは考えるかもしれない。ただ、毒霧が発生し始めたときに詠唱してもらうのは手遅れだから」
発生する前に対策は取っておかなければならない。毒を体内に入れても死ぬ前に解毒の魔法を唱えてもらえればいいが、そのときにマルギットの詠唱が空いているかどうかは定かではない。
「とはいえ、ここまで入念に話し合ってもヴァルゴに乱されるのは確定なので、臨機応変に立ち回れるようにしましょう。“穴”が近くに見えた場合は戦闘への補助よりも脱出することだけを考えてください。みんなが揃って一気に脱出……はそれが一番ですけど、きっとそうはならないので……立ち止まることは、しないでください」
とはいえアレウスもその状況で一切迷わずに“穴”に飛び込めるかは分からない。全員も肯いてはいたが、決心はできていないのが表情で分かる。
その後は持ち込んでいた食料を用いての夕食の準備に入った。豪勢な食事にすることはできなかったものの冒険の最中にいつも食べていた味にオラセオは感涙していた。彼に鞄を渡して、消費した食料分も含めて身軽になったアレウスはノックスと食後の鍛錬を行い、深夜になる前に先に就寝した仲間たちの元で眠りに就いた。
明朝に発つ予定だったがオラセオの体調を考慮して早朝の出発は避ける。軽めの朝食を摂り、集落に亜人や魔物の襲撃がないように見張りつつ午前十時を少し回った頃、集落を出た。
「“毒に耐える力を”」
出発してすぐに前日の打ち合わせ通り、マルギットの魔力による耐毒の庇護がアレウスたちに掛かる。それからアレウスが先導するように北北西を目指して歩き出す。
「なんとかなりそうか?」
平野をしばらく歩き続け、集落が遠くなってきた頃にアレウスの傍にノックスが来て小声で訊ねてくる。
「君もニィナも異界探索なんてほとんどしていないも同然なのに冷静だからな。マルギットさんも肝が据わっているというか、オラセオのために必死なおかげで落ち着いているし、その辺りは想定外だった」
「ワタシにしてみれば『教会の祝福』を受けたのはつい最近で、死と隣り合わせなのはほぼ毎日だった。今更、異界の探索ぐらいで怯えたりしねぇよ」
「あとパザルネモレでの失敗をちゃんと学んでパーティでの立ち回りをしてくれているから助かる」
「え、あ、おう」
褒められるとは思っていなかったらしく彼女は軽く狼狽する。
「でも、全てが覆るかもしれないのはここからだ」
「分かっている」
『どうして死地へと訪れる? 死ぬと分かって、なぜ我らの居場所を荒らす? それとも……死ぬために堕ちたか?』
風が渦を巻き、辺り一帯を包み込むように霧が発生していく。やがて遠くが見えないほどの濃霧となったとき、一点に集中した魔力が鎧の形を成す。
『この力の形は……『種火』か。以前よりも激しく熱く燃えている。しかし、『原初の劫火』でないのなら我らには不要だ』
「僕たちは異界に誤って堕ちた仲間を連れ戻しにきただけだ。見逃してくれるならさっさとお前の異界からは出て行く」
『巣を荒らした者を見逃す主がどこにいる?』
鎧が奏でる鼻唄が響く。
『この魔力は……なるほど、毒に耐性を付けているか。では毒霧は我の魔力を無用に消費するだけか』
「どうして分かるの……」
『そこの杖を持った人間から魔力の流れを感じる。だが、先に始末はできないな。『種火』は我と一戦交えている。その者へ迫れば、怒涛の反撃を受けることになりそうだ』
鎧の乙女が霧が作り上げた大剣を握り、地面を打って空間の震動が激しくなる。ヴァルゴの『異常震域』の発生が明確なものとなった。
「全力で走ってください! ノックス、頼むぞ!」
「任せろ!」
ヴァルゴとはまともに戦ってはならない。リオンほどの巨体ではないが、スコルピオを喰った歴戦の異界獣だ。ひたすらの逃走にこそアレウスたちの活路はある。
『あの忌々しいエルフどもはいない。それどころか大いなる祝福を受けた魔力の担い手の助力も見られない。過去の敗戦を帳消しにする良い機会だ。我に怯え、我に惑い、我の糧となれ……人間ども!!』




