不幸中の幸い
水流が乱れる。彼方より異界獣の姿が見え、怖ろしい速度でこちらへと泳いで来ている。焦ってはならない。動揺は肺に伝わる。溜め込んだ空気を吐き出せば、呑まれる前に溺れてしまう。
速度を上げる。アベリアは余裕そうに付いて来る。右手だけを彼女に見えるようにして合図を出し、先に泳がせる。
アベリアは無事に気泡へ到着する。異界獣は、もうまさに後ろで口を開いてアレウスを呑み込もうとしている。真下に潜行してもう一掻き。そこでアベリアに左手を掴まれ、引っ張られて気泡に入る。あと一秒でも遅かったなら、アレウスは今頃、呑み込まれていた。そう思えてしまうほどギリギリだったために、息を整えるよりも全身を寒気が襲う。異界獣は二人のほぼ真上を泳いで通り過ぎ、すぐに翻って戻って来る。息を殺し、動きを止め、異界獣がこちらを見失って泳ぎ出すまでは声すら発しない。
遠のいて行く後ろ姿に、アベリアはそっと「“観測”」と呟き、複数の小さな光の粒を追わせる。三十秒ほど経ってから光の粒が杖に帰る。
「名称はピスケス。『泳ぎ続ける者』」
「他には?」
「目は退化。音を敏感に拾う頭石と呼ばれる物を額に持つ。常に超音波を発し、物体との距離を測っている。呑み込み、鰓で呑み込んだ水はこし取り、酸素を得る。常に泳ぎ続けているため、体力を消費。ただし、魔物を食べることで新陳代謝を活性化させ、回復している」
「回復している……?」
「魔法にもあるから。えっと……“永き回復”かな。私は使えないけど、長くて十分ぐらいは掛けた対象の傷が、そのあと魔法を唱えなくても回復するの」
「唱えるとしたら言霊はなんになる?」
「“永き回復”」
「あいつは自分の代謝物で生じた魔物を喰って、回復し続け、ついでにその過程で代謝物を出すから再び魔物が生じる」
「一匹だけで自分自身の生命を維持し続けることが出来る」
「魔力が尽きない限りは、な」
なにも永久的に異界獣は生き続けるというわけじゃないだろう。魔力が底を尽けば、あの魚自身の新陳代謝も低下するはずだ。そうなると代謝物は減って、体力の回復も釣り合えなくなる。
「また逃げること前提か」
「私たちにはまだ手に負えない」
「まだ、な」
「そう、まだ」
「リオン以外の異界獣の性質について知ることが出来た。良いように解釈しよう」
問題は、遅々としてヴェインの捜索が進んでいないことである。
遭難と同列に考えているなら、ヴェインもまた痕跡を残して動いているか、一ヶ所に留まってなにかしらの方法で居場所を示しているだろう。慎重過ぎるのが欠点な彼が、こんな時だけに限って無駄に行動しようとは思わないはずである。なにより、婚約者のことを思えば彼はまだここでは死にたくないはずだ。死にたくないのであれば、死にたくないなりに死ぬ気で生きる方法を探る。
「光にはそこまで反応しないんだったな」
「うん」
「“灯り”は水中に飛ばせるか?」
「“観測”の時はそれほど抵抗を感じなかったから多分、大丈夫。魔力的な物は、ひょっとしたら流しやすいのかも知れない」
「魔力を食べるからな、あいつらは」
「うん、だから……“観測”しか唱えていないのに魔力が減っている。魔力の消費量が増えているからじゃなくて、泳いでいる時間分、水の中に流れ出しているんじゃないかな……って」
「更に動きが制限されるのか……」
「ここじゃ、火も水も使えないけど」
「補助魔法の“灯り”が使えるなら、手はある。明滅はさせられるな?」
「強く光らせたり、鈍く光らせたりさせるの?」
「水中に飛ばして、明滅させる。ヴェインは僧侶だから魔物のなにかではなく、魔法の光球だとすぐに分かる。魔物が認識できない光を用いて、僕たちは居場所を教え合えるかも知れない」
「でも、キックルとサハギンは気付くかも」
「異界獣が呑み込むだけ呑み込んだ。あいつらも馬鹿じゃない。ここを襲撃して来るのはその中でも死にたがりの馬鹿共だ。数は少ないと僕は思う」
「……なら、アレウスのそれを信じる。“光”」
アベリアの魔力で作り出された光球が気泡の外へと飛んで行く。そしてアレウスが指示した通りにアベリアが光球を何度も明滅させる。その光に反応して複数のサハギンが泳いで気泡の傍まで寄って来るが、外から挑発にも似た威嚇の声を繰り返すだけで入ろうとはして来ない。アベリアを守るように自身は剣を抜き、臨戦態勢は取っておく。
「反応は?」
「もう少し待って」
光球に対してヴェインがなにかで信号を送って来るのを待つ。しかし、時間が経てば経つほどにサハギンの猛りは強くなって行き、遂に一匹が侵入して来る。直後に剣を振るうが固い鱗が剣戟の威力を弱めたのか思ったよりも深く切り裂くことが出来なかった。
手間取ってはならない。ここで素早く仕留めなければ残りのサハギンがアレウスたちを殺せる獲物と断定し、次々と入って来てしまう。鱗が邪魔をするが、サハギンそのものの動きはそこまで早いわけではない。持っている銛を振り回されるものの、まだ受け流せる。アレウスはサハギンの銛を握っている右腕を切り落とし、痛みにもがき苦しんでいるところを蹴飛ばして仰向けにし、鱗に守られていない腹部を掻っ捌いた。絶命したのを確かめ、剣を振って血を飛ばし、水中でこちらを観察しているサハギンたちに睨みを飛ばす。
死体の扱いには気を付けなければならない。このまま放置するのが正しいはずだ。損壊させれば魔物も同胞の死体を弄ばれていると感じ、憤慨して飛び込んで来てしまう。ヴェインの言っていた素材の剥ぎ取りはもっと安全になってからになりそうだ。
「銛……か」
作りは荒く、鎗として使うにしても短いのだが剣よりは長い。突く、ということは一点を狙う上では剣よりも更に先を貫ける。貰っておいて損はないだろう。あまり期待もしないため、あくまで貰っておくだけであるが。
「あった。この先を真っ直ぐ……私の放った“光”とは別の光球」
「魔物が誘っているわけじゃないのか?」
「あれはヒューマンの魔力。間違いない。信じて」
「信じるは信じるけど、まずは凌ぐのが先だ」
サハギンが荒ぶり、ついでに絶命時に悲鳴を上げたためピスケスが水流を生み出しながらやって来る。気付いた魔物たちが散り散りになるが、その内の数匹がピスケスに呑み込まれた。
今回も動かず、沈黙することで凌ごうとした。しかし、サハギンの位置があまりにも近過ぎた。だからピスケスは気泡の一部すらも呑み込んでしまった。境界は潰れ、水が押し寄せる。
「思い切り息を吸う準備をしろ」
アレウスはアベリアに言いつつ、限界に達するまで動かないでいたが、ピスケスはさながら気泡が消え行くのを待っているかのように傍を離れない。これはいよいよ駄目そうだと思い、別の気泡へ移ろうかと準備を進めているところでピスケスは音を拾ったのか、その場から泳ぎ出し、彼方へと向かう。この機を逃さず、二人は最初に見つけた岩の傍にある気泡へと泳ぎ切る。
「音を出せ」
いつも通りの声量でアベリアに指示を出す。
「え、でも」
「ヴェインが音を出してピスケスの注意を引いたんだ。僕たちも音を出して攪乱する」
このような環境下で、あのタイミングでピスケスが泳ぎに行くのは人種が発する音と知ってのことだ。だとしたらヴェインしか居ない。そうでなくとも、“灯り”を唱えることの出来る冒険者である。一ヶ所ではなく二ヶ所から人種の音が出ていると分かれば、ピスケスはどちらに向かえば良いか多少なりとも混乱する。魔力量の多いアベリアを狙うという判断に至ってもおかしくはないが、その場合はヴェインに後ろを向けることになる。
それがあの異界獣にとって、脅威になるか否かも関わって来るのだが、アレウスの考えでは――
「二ヶ所から音が鳴っていることを理解し、静観する。何故なら、僕たち人種は集合して行動したがると知っているから。だったら、二ヶ所じゃなく一ヶ所から音が集中的に聞こえるようになってから呑み込みに行った方が、ピスケスにとっては都合が良い」
それを証明するかのようにピスケスがこの界層全体を見渡せるような水面近くまで一気に泳ぐ。そしてある一定の位置でピタリと止まり、頭を水底に向けたまま動かなくなった。
「今しかない」
「危険だけど、行くしかない」
「そうだ」
死の線を潜る。そのことは分かっている。重々承知の上で泳ぎ出す。あれだけ泳ぎ回ったため、水中にはサハギンとキックルの幼生ぐらいしか漂っておらず、気泡を一つ中継して、アベリアの導きの元で反応のあった気泡へと入る。
「あの異界獣が頻繁に泳ぐから何事かと思ったら、君たちだったのか。光球での信号も……さすがだ。俺じゃそこまでは考えられなかった」
「再会の喜びを噛み締めるのはあとで良いか? あと、僕が言いたいことも後回しにする」
「ああ。君たちが泳いだことは異界獣も気付いている。そしてこの気泡に止まったのなら、あれは水底の砂諸共、俺たちを呑もうとする」
鉄棍でヴェインが水底の砂を叩く。
「水中に飛び込んで、すぐに唱える」
「分かった」
アレウスとアベリアは再び水中へと入る。
「“空気よ、三方より集まり給え”」
それを見届け、ヴェインが自らの体を水中へと飛び込ませながら魔法を唱える。
光球の錘が三つ、水底に沈んでから三人の足に光の鎖が巻き付く。
体が勝手に沈んで行き、水中に居るはずなのに地上で活動するのと変わらないほどの快適さが訪れる。水底の砂を撒き上げながら走り、ピスケスが誰も居なくなった気泡を呑み込んでから、再び水面へと浮上して行く。
「あいつ、気付けていないのか?」
呟きながら、二人と合流する。
「あの異界獣は気泡の位置は把握しているんだ。そこから発せられる音についても、いつだって感知できるくらいに敏感だ。でも、俺の魔法のように気泡の外で泳ぎもしない活動をされると、反応できない」
「私たちの魔力は常時、この水中に流れ出しているから」
「そう。いわばこの水中は魔力の森、或いは魔力の霧みたいなものなんだ。目が退化しているからね。あれが知っている範囲外での活動をされるとサハギンやキックルと区別が付けられない。で、俺たちよりも魔物の方が活発に動くから、あれはそれを捕食しに行く。これぐらいの声量なら、気付かれない。そしてありがたいことに、俺は魔力に満たされたこの水中でなら、常にこの酸素供給の魔法を維持出来る」
「それは言い過ぎだろ」
「風は循環する。俺たちの錘になっているこの光球は周辺の魔力を吸い取って、空気に変換してくれている。地上だとそれが出来ないから、俺の魔力を送り続けなきゃならない……って言ってみたけど、実際は外の世界の水中でも俺が魔力を送らなきゃ駄目だ。こんな風に魔力に満ちてくれている場所なんてないから」
「不幸中の幸い……か」
「そういうことだよ」
異界に一人、堕ちて悲嘆に暮れているかと思っていたが、ヴェインは非常に落ち着いている。それだけではなく顔色もそう悪くはない。
「あの、ヴェイン?」
「話はあとなんでしょ? ピスケスが見つけられない内に、穴を探す」
アベリアはアレウスがヴェインに謝ろうとしているのを悟ったが、しかし場所が悪いと判断して話を断ち切った。アレウスも謝罪をするにしては場所が悪すぎると思い直し、三人での活動を開始する。
「初級の坊主が異界に堕ちた……? そりゃまた、難儀なこともあったもんだな」
「よくあることですわよ。正直に申しますと、下らないですわ。どうせまた、命知らずな輩が興味本位で堕ち、死に掛けているだけですわよ」
「なら、この依頼内容を読んでみるかい?」
ルーファスはそう言って、資料を仲間に渡す。
「クエストから帰って来て早々……私は行かなければならなくなってしまったよ。君はどうだい? 『風巫女』」
「どうせどいつもこいつも取るに足らない下賤な輩……っ! アベリア・アナリーゼ……の名前があるじゃありませんの!?」
「ついでに私の弟子の名前もある」
「運が悪いな。いや、運が良いのか? なんにしたって、行かなきゃならないんならすぐに行こうぜ」
「そうだな。それで、来るのかい? 『風巫女』」
「当然! ですわ!! 下賤な輩はともかくとして、アベリア・アナリーゼを死なせるわけには行きませんもの!」




