鐘の音を数えるな
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《起きなさい、イェネオス》
『森の声』経由の声が脳内に響き、イェネオスは目を覚まして起き上がる。
《『竜の眼』の娘は無事に逃がしましたか?》
「はい、滞りなく。巫女様が仰られた通りの道を進んでいれば」
ドナが借りている隠れ家に辿り着くことができる。
「わざわざ私に伝えずとも、御身の力のみで確かめられたのでは?」
星辰と『天の眼』を持つ巫女ならば、フェルマータの逃げていく様を見届けることができたはずだ。それをしなかったことにイェネオスは疑問を抱く。
《その場に『星の眼』の聖女が来ています》
「……聖女が?」
《彼女は眼で動向を探るだけで勘付いてきます。私の手に余りますから、一刻も早く脱出を。星辰のお告げ通り、ここで時間を掛けてしまえばあなたは、》
「おや、こんなところで会うとは。案外、世間は狭いようだ」
「カプリース……」
先ほどまで気配の一つもなかった場所に水溜まりができ、そこからカプリース・カプリッチオの分身が姿を現す。
「あなたがどうしてここに」
「それを聞きたいのは僕の方さ。でも、アレウスのようにそうやって深みにはハマりたくはないからね。だから目的だけを言うならば……積年の恨みを晴らさなければならなくてね」
そう言いつつ水の分身は左を見つめ、その方向からもう一人のカプリース――本体が貴族の死体を引きずりながらやって来る。
「「この男は、ああこの状態だと聞き苦しいか」」
水の分身が弾けて消える。
「この男はハゥフルの女王の親戚筋を奴隷商人に突き出したクソ野郎だったんだ。そのせいで女王の親戚筋はみんな死んで、身寄りがなくなってしまったのさ」
言いながら死体を放り投げる。
「どうしても殺しておきたかった」
感慨に耽る。人を殺してそのような雰囲気を漂わせているヒューマンを見るのは初めてであったため、イェネオスは危機感を抱きつつもどう対応したらいいのか分からない。
《その男を殺しなさい》
「巫女様?」
《その男は凶星の兆しを持っています。私たちにとって良くないものを運んでくる可能性が高い。ここで殺し、その騒ぎに乗じて逃げなさい》
「……なりません」
《星辰を詠んでいる私の言葉に歯向かうのですか?》
「このヒューマンはアレウスさんのリオン討伐に貢献した者であり、ハゥフルの女王に仕える者。たとえ巫女様に命じられようとも、殺すわけにはまいりません」
「ああ、なるほど。エルフの巫女様と『森の声』経由で話をしている最中なのか。だったら感情的になって声に出してしまうのは控えるべきだな」
言ってカプリースは貴族の死体をまさぐり、中からガラス玉を取り出す。
「さっき落札された品よりは質は劣っていても性質は同じか」
光に当てて、色合いを確かめてカプリースは自らの懐に収めた。
《そこでその男を殺し損ねれば、あなたには辱めが待っています。予知できる私が、あなたの身に起こる悲劇を見逃せません》
「だとしても、私には……出来かねます。彼はエルフとハゥフルを繋ぐ架け橋にもなり得る。損失が大きすぎる」
《その使命はアレウリス・ノ―ルードが担えます》
「違います! ハゥフルの女王とこのヒューマンの間にある絆を見誤ってはなりません!」
イェネオスは巫女が発する命令に逆らい続ける。
「そちらにはそちらの事情があるみたいだけど、僕はアレウスほどにお人好しではないよ。だから、このまま君がなにもしないなら僕もなにもしないままここを去る」
「……そのガラス玉を貴族を殺した証拠として持ち帰るのですか?」
「いや、貴族を殺したのは僕個人の判断であって女王に命じられたことじゃない。ここに来ているのも女王には伏せているんだ。このガラス玉はここに来たときに偶然、目にした」
カプリースは言いつつ、水に溶けていく。
「可能性を見た。このガラス玉は……このガラス細工は糸口になる」
「……一体、なんの?」
「クニア様が世界を彩る色を取り戻せるかもしれないと、そう思ったんだ」
《ほだされてはなりません、このままではあなたは、》
巫女の声を全て聞き終える前に後頭部に強い衝撃を受ける。
「このまま捕らえ、確保します」
動けないイェネオスを複数の男が抱え込む。
「ドナ・ウォーカー様の出品物を逃がしてしまった罪は護衛をしていたあなたにも負ってもらわなければなりません」
「な……ぁ、……!」
声を発しようとするが脳が揺れたせいなのか、意識すら飛びそうになっている。
「致命傷になっていないか?」「死ぬ前に回復魔法をかければ済む」「ともかくこのまま連れ出そう」「ドナ・ウォーカー様には、こちらで罪を償わせたと報告しておく」「あとは出品物がどこに逃げたか分かればいいのだが」
「おい、急げ! 会場が襲撃された!」「なんだって?!」「すぐに応援に行く!」「このエルフはお前たちに任せるぞ!」
男を二人残して、残りは全てイェネオスの傍から離れて行った。
助けてくれるのではないかと期待したカプリースの姿はない。私用で訪れただけの彼が騒ぎを起こせば、ハゥフルの島国に連合が侵攻する口実になってしまう。分かってはいたものの、期待が外れたことで気持ちが落ち込む。
「おい、誰か死んでいるぞ!」「まさかこのエルフが?」「そうとしか考えられない。ここには、このエルフしかいなかった」
更には濡れ衣まで着せられることになった。
「これはもうドナ・ウォーカー様への連絡すら不要かもしれないな」「このエルフは聖女様の元へ連行しよう」
《だから、あのヒューマンを殺せと…………また星辰を詠み直さなければなりません。あなたが辱めを受ける前に、それを阻止しなければ》
頭の中で巫女の声だけが響く。
《…………アレウリス・ノ―ルードの耳に頼るほかありません。そして、『奏者』の使いとも話をせねば……詠み合いではなく、詠み合わせて連合の聖女に立ち向かわないと。だから、それまで待っていて、イェネオス。父を殺さず見逃してくれたあなたを、私は喪いたくはありません》
*
「『星の眼』だ」
アレウスの呟きにエイラの視界を体で塞いでいるジュリアンが続きを求めてくる。
「リオンの異界にいたときにエレスィから聞いたんだ。『魔眼』の中には『星の眼』を持つ者がいると」
ドナは会場で起きた惨状に目を向けることができず、口元を手で覆いつつ視線は個室の後方に向いている。
『星の眼』の少女は銃口を向けられながらもにこやかな笑顔を崩すことなく、それどころか撃ってくるのを今か今かと待ち受けているようにすら見える。
「なんでそんな人が奴隷なんかに」
ジュリアンは呟きつつ、エイラをとにかくガラス張りの正面から遠ざけることに専念する。
「奴隷のフリをして入ってきたんだ。恐らく、誰かが彼女を奴隷としてオークション会場に連れてきたんだ。僕たちがフェルマータを出品物と偽って連れてきて、連合に入り込んだように」
そうなると競売人が紹介した年齢や名前は本名である可能性が高い。国境の検問には『審判女神の眷属』がいたはずだ。眷属たちの前で嘘を貫き通すことはできない。
まともに入国していればの話ではあるが。
「こうやってざっと見渡しただけでも誰一人としてまともそうなのが見当たらないんですよね。困っちゃいましたー」
言いながら少女は後ろで震え上がっている奴隷たちを見やる。
「安心してくださーい。あなた方は神の名の下に私が責任を持って保護いたしま、」
彼女が全てを言い終える前に奴隷が呻き、叫ぶとその肉体に魔法陣が浮かび上がる。
「詠唱封じ……魔法陣を肉体に? 魔力の代わりに刻んだ者の生命力を媒介にして発動……していますか?」
ボソボソと呟き、少女は翻って警備兵に向き直ると心の底からの軽蔑の眼差しを向ける。
「あー……あー、あーあーあー。あなた方に神からの判決を言い渡します」
『星の眼』が淡く輝く。
「“死刑”」
少女とはガラスの壁で隔たれており、会場からも距離が置いてある。にも関わらずアレウスたちの耳には確かな鐘の音が響き渡った。その音色を聞いた警備兵が一人、また一人と倒れていく。その顔はどれも苦悶の表情を浮かべており、とてもではないが生きているようには思えない。
「まさか……『即死』の魔法か!?」
何人もの冒険者が一時的に倒れ、そのまま還らぬ人となった“最悪なる死”の光景を彷彿とさせる。あれはリブラによって星辰を一時的に輪廻に飛ばされる魔法だった。輪廻に飛んだ精神が死を享受することで肉体もまた死を受け入れる。だが、ビスターによればこの世には魔法によって心臓を止めるものは存在しない。
「鐘の音を聞くな! 僕たちも巻き込まれるぞ!」
アレウスが両手で耳を塞ぎ、ドナたちもそれに倣う。
「駄目……駄目! アレウス! 耳を塞いでも鐘の音が聞こえるの!」
エイラが首を横に激しく振りながら、悲痛な叫びで訴えてくる。
「『即死』ではないみたいです。僕たちはまだ、生きている……」
今にも泣き出しそうなエイラを抱き締めつつジュリアンは冷静な分析を行う。
「耳を塞げ、ジュリアン」
「僕はあるがままを受け入れる覚悟はできています。けれど、エイラたちだけは死なせたくはありません」
塞いでいても鐘の音が聞こえるというのなら、塞ぐ選択肢をジュリアンは自ら捨てている。
リブラの魔法と同じく、この魔法もまた範囲魔法なのだ。魔法の範囲に入っている限り、死の判定からは逃れられない。
「ここから逃げるぞ!」
この魔法の範囲から逃れる。それしか正解が見えない。アレウスもまたジュリアンと同じく耳を塞ぐことを諦めて走り出し、扉を一気に開け放つ。ジュリアンはエイラの手を掴んで真っ先に個室を出て行く。アレウスは力が抜けて座り込んでいるドナに肩を貸す。
「申し訳ありません」
「それはこちらの台詞です。僕たちはあなたたちを巻き込んでしまっています」
招待状を利用しなければ、こんな即死の魔法の範囲に入ることもなかった。オークション会場に娘と一緒に足を運ぶことさえなかったのだ。
なんとしてでも二人は死なせずに帰らせなければならない。
「……本当に『即死』じゃないのなら『死』の魔法か」
まだ死の感覚は訪れていない。鐘の音は未だ響き渡っているが、それでもまだ肉体を動かすことも思考できるだけの精神力も備わっている。
「だったらなんで、あの子は詠唱ができた……?」
彼女は自分から呟いていたはずだ。奴隷の肉体には詠唱封じの魔法陣が刻まれていた、と。にも関わらず、この鐘の音は彼女の「死刑」の一言で響いた。
「ま、さか……そんな、そんなことが……あるのか……?」
「どうされたんですか?」
「……いえ、気になさらないでください」
肩を貸しているドナがアレウスを心配する。この状況で気遣わせている場合ではない。とにかく一刻も早くこのオークション会場から出ることだけを考えるべきだ。
廊下を歩いていると後方でガラスが激しく砕け散る音が聞こえた。続いて壁をぶち抜いて、生じた衝撃と土埃をものともせずに何者かが疾走してくる。
「走ってください! とにかく、早く!」
回させていた腕を外し、ドナの体を前方へと押すようにして送り出してからアレウスは短剣を抜いて、背後に迫る気配へ躊躇わずに剣戟を振るう。
「おっと!」
短剣の刃と拳が接触している。なのにその拳は硬く、引き裂くことができない。
「“曰く付き”ですか~、あんまり触れたくはないですね~いやぁ、困っちゃいます」
短剣と拳のたった一度のぶつかり合いでアレウスの武器の性質を見抜き、少女がアレウスの体を蹴って後ろへと宙返りして距離を取りつつ床に着地する。
「どうやって、ここまで」
「どうやってって……ピョーンとしてパリーンとしてバーンとして、ピューですよ」
会場にいたはずの『星の眼』の少女が目の前に立っている。それだけでも思考が激しく乱れるというのに、鐘の音もまた聞こえて更に思考が乱れる。
「死の魔法を解け」
「命令されるのは好きじゃありませーん。ちゃんと優しい口調で、それこそ私を口説くように丁寧に、レディを扱うようにお願いしてくれませんかー?」
「死の魔法を唱えたことは否定しないんだな?」
「……おや、まさか誘導されてしまいましたかー?」
にこやかに、笑顔を絶やさずにアレウスを見つめる。
「あんまり教えたくはないんですけどー、特別ですよー? この死の魔法はですねー鐘の音を六回刻みで起こします。それを三度認識したら死にます。6、6、6って感じです」
「いや……だったらなんで警備の人はほぼ即死した?」
「分かりませんかー?」
鐘の音が聞こえる。
「私に近ければ近いほど、鐘の音が聞こえる速度が加速します」
鐘の音が聞こえる。
「人って音に意味を持たせるのが好きじゃないですか。暇なときに定期的に聞こえる音を数えてみようとかとも思いますよね。だから、音に意味を持たせることがあります。近所で聞こえるこの音が十回聞こえたら商人がやって来る合図だ、みたいな。警鐘の鳴る回数で盗賊なのか魔物なのか、それとも軍団なのか。そういった取り決めをしていることだってあります。ありますが、音に頼り切ると聞き逃したときに手遅れなことが多々あるのでこの手法はあまりよろしくはありません。心に余裕がない人ほど音の回数を数えることなんてできません。心に余裕がある人ほど、数える余裕がある人です。現にあなたは、鐘の音を何回聞いたか覚えてはいらっしゃらないんじゃないですかー?」
鐘の音が聞こえる。加速度的に鐘の音は響き渡っているが、これでアレウスは何度目の鐘の音なのかを把握できていない。
だが、最悪なことに法則を聞かされてしまった。三回聞いたことを把握してしまっている。
「警備の人は“死刑”と耳にした直後から、鐘の音の法則性を発見してしまったんです。な、の、で、死にました。まぁ、神の御許へと送って浄罪の機会を与えてしまったことは不快なのですが」
鐘の音が響く。これで四度と認識したが、規則的に鳴っていた鐘の音が一旦、切れる。
「今のが六度目の切れ目です。回数を数えてしまっていたなら命拾いをしましたね。まぁ、また6、6、6と数えて刻んでしまいますと死にますけど。あ、なんで私が詠唱封じの魔法陣内でありながら詠唱できたと思います?」
「魔法陣を刻まれた奴隷を気遣うフリをしてすぐに殺したから」
ドナに肩を貸しながら推測し、動揺してしまった可能性を答えとする。
「せーいかいですー。あの場にいらっしゃらなかったのに、その答えにすぐ行き着くなんて、素晴らしい!」
こんな可能性は間違いであったほしかったのだが、笑顔のまま拍手をされる。
「もう手の施しようのない状態でしたから、だったら一思いに神の御許に送ってさしあげるのがせめてもの救いだったんですよー」
「でも、人殺しは人殺しだ」
「ちーがーいーまーすー! 私は『聖女』として、ただしく罪人に裁きを与えているだーけーでーすー!」
子供のような理屈を並べてくる。実際、競売人の紹介の通りならジュリアンと同い年なのだが、しかし子供の範疇を飛び越えて大人ですら躊躇してしまうようなことをやっている。
「で、このまま私とお話を続けます? 私は別にそれで構わないんですよ? だって、お話をしている間にあなたは死んでくださるんですから」
鐘の音が脳内に響く。
「魔法を解けと言ったはずだ!」
アレウスはそう叫びつつ少女へと走り、短剣を振るう。その剣筋を綺麗に見極めて少女は的確に避け、廊下の壁や天井を跳ね回って絶対の距離を保ち続ける。踏み込む距離、振るわれる短剣の刃が届く距離、そして前方への突撃。それら全ての距離感を理解した上での縦横無尽の立ち回りに翻弄される。一人で踊らされているような錯覚さえ覚え、それを見ている少女は終始、笑いを途絶えさせない。
貸し与えられた力を使うべきか否か。使えば少女にまで炎の刃を届かせることはできる。しかし、代償として会場が燃える。そうなると更なる被害を及ぼしてしまう。
人々を救うべき冒険者の力で、人々の命を奪ってしまうことになる。
「いやはや、驚きですよ。ここまで私に付いて来ているあなたが」
短剣を振って、どうにか少女に一撃を浴びせようとしているアレウスに賛辞を送ってくる。
「正直、肉薄されているような気持ちがあります。一つ間違えればこの距離感を見失ってしまうような、そんな感じでしょうか。あなたは踊らされているようにしか思えないかもしれませんが、そう思わせることに私は今、全神経を集中しなければならない」
『一点の星』の眼が輝く。
「でもそれは私がこの眼の力を使っていなかっただけのこと」
目の前から少女が消えた――と思いきやアレウスの眼前にまで迫り、その細腕からは想像することもできない腕力と握力で首を掴まれ、絞め上げられる。
「後ろめたいことが沢山おありでしょう? 私がその後ろめたさから解放してさしあげます。なにも怖れることはありません。あなたはただ、星の力に導かれて神の御許へと……おや?」
絞め上げる過程でアレウスの付けていた仮面が外れる。
「っ!!」
少女が手の力を緩めて、一気に後退する。
「げほっ、げほっ……ぉ、ぇっ!」
足りていなかった呼吸を行うと同時に訪れる吐き気にアレウスは意識が混濁していく。
「待って、待って、ねぇ待って? 待ってくださーい! だって顔が見えなかったんですから仕方がないじゃないですかぁー」
なにやら独り言を呟いている。
「だーかーらー、分かっていたらこんな風に罰を下す気なんてー…………もー、怖いことを言うのはダメーです! えー、じゃぁそっちはもう上手いこと行ったんですかぁ? えーなら、この騒ぎもこれで終わりでいいですかー?」
独り言ではない。少女は誰かと『念話』しているのだ。そしてそれらの会話が一通り済んだらしく、少女は「はぁっ」と分かりやすい溜め息をつく。アレウスはその間に立ち上がり、剣先を彼女に向け直す。
「御免なさい」
笑顔のまま少女は頭を下げてくる。
「魔法も解かせていただきます。あなたに振るった暴力の数々にただひたすら謝罪させていただきます。誠に申し訳ございませんでした。まさかアレウリス・ノールードさんだなんて思ってはいなくて」
鐘の音が聞こえなくなる。周囲一帯を包み込んでいたおどろどろしさが緩やかに、穏やかに消失していく。
「だって仮面を付けていらっしゃったので……ええ、はい、すみません。あなた方には手を出すなと仰られている方がいらっしゃいまして……ええ」
そう言いながら少女の握り拳が空間を叩く。
「無かったことにはできませんし、私の罪を見逃せと言うつもりもありません。ですが、それでもなんとか私が言えるのは、」
空間の歪みに少女は身を投じる。
「早くこの聖都から離れてくださいということだけです」
その一言を残し、少女も空間の歪みもその場から消えた。
「…………助かった、のか?」
助かったらしい。実感が湧かないままアレウスは踵を返し、廊下をよろよろと歩く。
「は…………?」
少女がぶち抜いたのであろう壁の向こう側には砕け散ったガラス片が個室に散らばっている。なんとなくそこから会場を見やったが、脳が理解を拒む。
死んでいる。
見える範囲のほぼ全ての人間が、死んでいる。個室の一つ一つのガラスは丁寧に打ち砕かれ、その中で入札を行っていたのであろう者たち――各国の貴族や上流階級たちも死んでいる。辛うじて生きている者も見えるが、恐怖に落とされて頭を抱えて怯え切っており、日常生活に戻れるかどうかすら定かではない。
「これが、神の御許へ送ること……だと?」
こんな景色が救済のあるべき姿だとでもいうのだろうか。
「神の名の下であったなら、殺していいのか……? 正しくない生き方をしているから罰を下して、死なせていいと言うのか?」
自然と短剣を握る手に力が込められていく。
「じゃぁお前たちの言う『正しさ』の基準は一体どこにあるって言うんだよ!」
噴き出しそうになる火炎を抑え込みながらも怒りの発露だけを済まし、アレウスは体中から噴き出した熱を沈めてから短剣を鞘に納め、その場をあとにする。
「アレウスさん」
会場入り口付近でジュリアンたちが待っていた。
「生きていたんですね、よかったです」
「鐘の音は?」
「エイラとドナさんには先に聞いておきました。二人とも、もう聞こえていないそうです。勿論、僕も。あの鐘の音にはどんな意味が?」
「知らない方がいい」
「つまり、知らない方が安全ということですね。分かりました」
アレウスの言い方から察したらしく深く訊ねることをジュリアンはやめた。
「なぁジュリアン」
「なんです?」
「神様は、この世界に必要なのか?」
「……聞かなかったことにしておきます。アレウスさんは頭を冷やしてください」
「だけど!」
「その思想は破滅へと向かいます。神官を嫌ってもいい、神を嫌ってもいい。でも、神は在るべきか否かは、『異端審問会』の思想に片足を突っ込むことに等しい。あなたが復讐を誓う集団と同じ思想を抱いてしまっては元も子もないでしょう」
「そう……か」
「けれど、どうしてもなにかを言ってほしいと言うのなら、」
ジュリアンは片足を持ち上げ、床を力強く踏み締める。
「神の救いなんてものを僕は認めていません」
その一言によってアレウスは全身から力が抜ける。同意はできずとも同感はしてくれていることに、孤独でも孤高でもないことに安堵する。
神への恨み辛みは残して行き過ぎた思想は捨てる。危うく人の道を外しかけるところだったが――いや、今以上に人の道を外しかけるところだった。
「助かるよ、本当に」
アレウスは気の抜けた声でジュリアンの肩を叩く。
「なんか薄気味悪いんでやめてくれません?」
「もうちょっと人からのお礼は素直に受け止めるべきだな」
「それをアレウスさんが言いますか?」
多くの命が奪われた。だが、アレウスが奪われたくない命はまだ辛うじてこの世にある。このボロボロの手では全ての命は拾い切れない。
だからといって諦めたくもないのだが。
《アレウリス・ノールード、聞こえますか?》
「誰か僕のことを呼んだか?」
唐突に聞こえた声に思わずアレウスはジュリアンたちに確認を取る。しかし誰も首を振らない。
《『森の声』を経由し、あなたの『耳』を頼りにしてこの声を伝えています。私は……名は伏せますがクラリエやイェネオス、エレスィに巫女と呼ばれている者です》
「エルフの巫女……?」
《あなたにお願いがあります。私の言葉をそのまま口にし、そこの少年――『奏者』の使いを経由して、『奏者』との協力を仰ぎたい》
「ジュリアン、エルフの巫女が君の師匠と話がしたいと言っている」
「え? あ、いや、待ってください」
声を掛けたジュリアンがなにかに気付いたように瞼を閉じ、意識を集中させている。
「僕の方からも師匠から『念話』が来ました。エルフの巫女と協力して星を詠みたいそうです」




