海を泳ぐように
【魔物の幼生】
異界獣の代謝物が通常よりも魔力を吸収できずに魔物化した場合、このように呼ばれる。基本的に成体と呼ばれる魔物よりも弱々しく、体躯も成体と掛け離れている場合が多い。ただし魔力の吸収は生き続けることで行われるため、最終的には元々、成体と同等の体躯を取り戻す。水棲生物、鳥類、昆虫類に分けられている魔物は特にこの幼生が多く見られる。
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紺碧の海、というものをアレウスは知らないのだが、夢物語でしか見たことのないような澄んだ青々とした海中を泳いでいた。アベリアの手を離して、まず最初にすることは呼吸できるのかどうか。しかしながら、水気というものを肌で感じているのだから不可能だろうと判断し、次になにかこの景色に不似合いなところがないかを探す。上を目指すことも考えたのだが、日差しは水底まで続いているというのに水面は眺めてみてもどこにあるのかすら分からない。そろそろ息も続かなくなって来たというところでアベリアが袖を引っ張る。水底の岩石だけが妙に明るい。このまま溺れ死ぬくらいならと、泳ぎ切ってみると、唐突に重力を感じて地面に体を叩き付けられる。
そこで限界に達し、咳き込む。だが、咳き込むということは息が出来るということだ。アベリアも地面に倒れてはいるものの、同じように呼吸をしている。
「ここだけ空気があるのか?」
「気泡が岩石に張り付いている……感じ?」
「ずっと消えない呼吸の出来る泡の中、か」
つまり、この異界にとってはこの場所だけが水の中ではないのだ。ただし、この呼吸の出来る気泡は岩石の周辺にしか無く、移動するためには再び息を止めて泳がなければならない。泳いでいる最中に気泡を探すわけにも行かない。この場所から次の気泡が見えなければ、動かない方が望ましい。
「水中での戦闘は考慮していないからな」
アレウスは周囲を見渡す。大空を羽ばたく鳥たちのように、魚たちが遊泳している。しかし、ただの魚ではない。サハギンの幼生であり、成長すれば蛙の幼生であるオタマジャクシのように足と手が生えて泳ぐだけに限らず歩いて行動できるようにまでなる。
サハギンの幼生と同じように、キックルとその幼生も周辺を泳ぎ回っている。だが、こちらに気付いてはいても気泡の中へは入って来ない。幼生は当然であるが、陸地でも活動できる生体が襲って来ない理由はただ一つ。彼らにとって、気泡内での戦闘が不利であるからだ。
「あいつらにしてみれば、泳いでいる状態が一番だからな。そして僕たちは泳いでいるのが最悪な状態だ」
「襲い掛かって来る必要が無い。私たちが移動するのを待つだけで獲物になるから」
だからと言って、気を抜いて良いわけではない。気を抜いたところを狙って、一気に畳み掛けて来る可能性は否定できない。
「アベリア、ここは全何界層だ?」
「四界。私たちが居るのは、三界」
「ヴェインはどこまで堕ちたんだろう。僕たちより下なのか、それとも上なのか」
この異界で痕跡を残すのは難しいはずだ。そして移動も満足には出来ないはず。どこかに取り残され、痺れを切らした魔物たちの餌食になっているのではと考えると、体が余計に冷える。
「火も水の魔法も、ここじゃどうしようも」
「気泡の中なら火は……酸素が有限じゃなければ、の話だな」
しかしそれは確かめようがない。酸素を消費すれば気泡が縮まるなどという都合の良い話はないだろう。酸素の代わりに人種は二酸化炭素を排出する。置換が行われるのだから、気泡内の空気が占める割合が酸素よりも二酸化炭素が増えるだけである。そうなると酸欠はそう遠くない。
「ギリギリまで粘るか。有限か無限か。息苦しくなれば、分かる」
「うん。アレウス? 『身代わりの人形』は?」
「毎日のように言われているから、ちゃんと持って来ている。濡れていても効果があるっていうのは、アイテムの良いところだな。ペンと紙は駄目になっているだろう」
「そうなると私でもマッピングは難しい」
「アベリアも持っているか?」
「自分から何度も言っているんだから、私が持っていなきゃ駄目だし」
一回限りは、命を拾える。ただし、一回だけ。その一回に賭けてここから移動なんて出来やしない。
しばらく気泡内に滞在し続けるが、運の良いことに息苦しくなるような傾向は見られない。
「お前はどうだ? 息苦しくはないか?」
「普通に呼吸出来てる」
「……なら、ここは無限と、取り敢えずは考えよう。場所によって違うのかはまだ分からない」
「次にすることは、どうやって移動するか」
「泳いで行くしかないわけだが……」
喋っている途中でこの界層全体が揺れる。
「なに?」
「取り敢えず、息を潜める」
アレウスとアベリアは岩に身を寄せる。どの方向からなにが来るかは不明なため、身を隠せているとまでは言えない。しかし、出来るだけ動かない方が良い。本能がそう告げていた。
水流を生み出すが如く、大きく口を開いて魔物を丸呑みしながら大型――オーガなど比にはならない超大型の魚がアレウスたちが潜んでいる岩の傍を通過する。
「魚……なの?」
「魚……に見えたが」
二人が呟いたのち、超大型の魚が身を翻して再び岩の傍を通過する。通過し、今度は泳ぐ速度を弱めながらグルグルと近くを遊泳し始めた。
「狙われている、の?」
ピタッと止まり、魚の頭がこちらに向いた。アレウスはアベリアの口を手で塞ぎ、アベリアも同じようにアレウスの口を手で塞ぐ。
数十秒にも及ぶ沈黙。呼吸は最小限に、且つゆっくりと音を可能な限り立てないように。そうしている内に魚は泳ぎ出し、岩から遠ざかって行った。
地面に指先を触れさせる。水底の地面はどうやら石が多く含まれてはいるものの、その大半は砂地で出来ているようだった。流砂のように体が飲み込まれることはなさそうなので、アレウスはそのまま指で文字を書いて行く。
『音に反応している』
『音?』
『音の響きが水中を伝わって、あの魚が読み取っている』
『そんな魚、見たことない』
『だからあれは魔物だ』
そこまで書いて、アレウスはすぐに消す。
『魔物を捕食しながら泳いでいたのなら、あれは異界獣だ』
魚の異界獣など聞いたことがないのだが、あそこまで超巨大な魚となるともう異界獣と呼ぶしかない。
『異界獣が魔物を捕食した理由は?』
『代謝のサイクル。単純に腹を空かしていたとか』
魔物は異界獣の代謝物である。それが古くなって来たのなら捕食し、新たに代謝することで新たな魔物を生み出す。そういったことをあの魔物は自身の異界においてずっと続けているのではないだろうか。
『おかげで、魔物が散った』
『移動するなら今だけど、気泡を見つけるまでは慎重に。音は出来るだけ立てるな』
岩を眺めはしたが、アレウスたちをあの魚は発見してはいなかった。身を隠せていたとは思えないので、リオンと同じように視覚が退化しているのだろう。なにせ、ここは水底。外の世界からしてみれば光すら差さない深海と呼ばれる領域である。そんなところで暮らしているのであれば、リオン以上に視覚を不要としているのは肯ける。
『僕たちには明るく感じるんだけどな』
『堕ちた人種が活発に動けるようにしているのかも。明るければ動けると思って、音を立てやすくなるし』
つまり、あの異界獣とアレウスたちとで“明るい”に差があるのだ。二人には明るくとも、異界獣には暗い。
『音に敏感な以上、移動すれば必ず追い掛けて来る』
『気泡に入ってすぐに息を潜めれば見失うのかな?』
『まだ観察が足りない。でも、観察していたら助からない』
予測だけを頼りにしなければならない。なんとも心もとないが、そうすることでしか進めない。幸い、異界獣は遠ざかった。どれほどの距離から音を感じ取れるのか分からないが、遠ければ遠いほどこちらに来るまでに時間を要するはずだ。
その前に、まだ調べることがある。
「このぐらいの声で、話せるかどうか」
「荷物を背負って私たちは異界に堕ちたけど、水中で普通に泳げた。重みで沈んで泳げないと思っていたのに」
小声で会話をし、そしてアベリアが疑問をぶつけて来る。
「気泡と言い、装備の重量で沈まないことと言い、人種を生かすための部分は用意しているってことなんだろ」
生者として閉じ込めることと、捕食して虜囚にすること。異界獣にしてみればどちらでも構わない。しかし、逃げようとする元気があるようでは捕食することも致し方無い。そういう考えを持っているのならば、この異界の仕組みは理に適っているようにも思えるが。
「……来ないな。これぐらいの声なら問題無いのか」
「魔力を沢山持っている私にも反応しなかった。だから、純粋に音だけで探している……どうやってなのかは分からない」
「分からなくて良い。潜伏できることを理解した。これだけが分かれば動けるはず」
次に体を動かしてみる。どのくらいの動作で気泡から音が響き、異界獣に届くのか。正直なところ、まずは大きな音を立ててから少しずつ小さくして行く方が実験としては正しいことなのかも知れないが、既にこの岩の近くというアタリが付けられているので、場合によっては気泡ごと丸呑みにされかねない。
「慎重に動く分には、反応無し……か」
「それじゃ、アレウスぐらいの動きで気泡を探す」
「ああ」
留まるという選択肢はない。アレウスたちは無理を押し通してでも、ここを突破する。少なくとも、ヴェインと再会するまではアクティブな活動が求められる。たとえそれがどんなに危険であっても、アレウスの身代わりになった彼を救い出すためだ。妥協はあり得ない。
「あっちにある……マッピングが出来ないのは厳しいな」
「頭の中でなら出来るけど」
「いや、限界があるだろ」
「限界まで頑張ってみる。マッピングしなくても迷うのも、頭の中で地図を作ってみて道に迷うのも、結果としては同じになって来るだろうし」
「一部でも記憶出来ているだけマシって言いたいのか?」
「うん」
アベリアがどれくらいの地図を頭の中で描いているのかはアレウスには分からないが、自身も少しばかりは努力しなければならないだろう。景色から、目印になりそうな物を覚えておくのだ。現在の岩も、よく見れば特徴的な凹凸がある。ついでに松明にと持ち込んでいた木の棒を何本かここに置いておく。どこかでこれも目印になるかも知れない。とにかく、気泡が無ければアレウスたちは呼吸が出来ないのだ。そのポイントの特徴だけは努めて、記憶する。
「行けるか?」
「行ける」
二人は同時に気泡から、水中へと入って即座に泳ぎ出す。
泳ぎは街の近くにある河川で学んだ。異界では、どんな技術が必要になるか分からない。つまり、どんな技術でも必要になるかも知れない。だから泳げない、では駄目だと思ったのだ。当時は下着で必死に溺れないように泳ぐばかりだったが、繰り返す内に速度を出せるようになって来た。特にアベリアの成長は目覚ましく、泳ぎに関しては彼女の方が得意である。こんな美人を下着で泳がすなどあってはならないことだ。しかし、彼女の美しさ云々以前に、アレウスは彼女を一人で生きて行けるように学ばせなければならないことを優先した。泳ぎもその一つだった。
だから、こんな場面で役に立つ。地上では素早さで劣るアベリアだが、水中ではアレウスと同等かそれ以上の泳ぎで付いて来る。おかげで後ろを一々、振り返らずに済む。意識するべきことが別のところに向けることが出来る。




