礼拝に向けて
連合の主食は小麦を使ったパン類で帝国と変わらない。そこに王国の一部の地域でのみ主食となっている米類もあった。柔軟性に富んでおり、ドワーフが好む木の実やエルフの好む蜂蜜漬けもあった。全国各地から聖女の元へと巡礼にやってきた者たちを受け入れる場所であるがゆえに種族の好みに合わせた料理が提供される。他国の冒険者を拒むようなギルドの方針とは真逆の料理の在り方に違和感はあれどありがたみはあった。信仰の形式にもよるが食べてはならない食物が決められている場合もある。信仰に厚い土地であるがゆえの配慮なのだろうが、所々で奴隷たちが過酷な労働に従事しているところを見させられている側としては複雑な気持ちがある。
こんなところで食事を摂っていいものなのかどうか。そのように悩んでさえいたのだが、料理が運ばれてくるとあまりの空腹によって思考は停止し、とにかく運ばれてきた料理をひたすらに食べ尽くした。
「本当なら二日分の食料で足りていたんだけどな」
そう愚痴を吐きつつアレウスは水を飲み干す。
「穏便に済ますために食べ物とお金を渡したのはいいけどさ、もう少し後先考えてからにしてくれない? 村を見つけられなかったら誰かは死んでたよ」
「馬車に乗る金が残っていなければ更に危うかったな。金がなければ村人も食料を分けてはくれないからな」
クラリエとガラハに釘を刺されはしたが、腹を満たしたことで不満はほとんど解消されているように見える。
「それで、お金はどうするんですか?」
「ギルドに預けていた荷物にお金を入れていたから、あと数日は大丈夫」
「けれど、あと数日だけなんですよね?」
ジュリアンにアベリアが詰められる。
「お金はもっと慎重に使ったらどうですか? 一文無しになれば僕たちは路頭に迷い、乞食になるしかないんですから。死ねば、甦ることはできるかもしれませんが。僕とアレウスさんを除いて」
『教会の祝福』をジュリアンは未だに受けられていない。ギルドからは未だに冒険者見習いとしての扱いから進展していない。それらの手続きがなかなか進まないのもシンギングリンの復興のために既存の冒険者への依頼と報酬を優先しているためだ。
「お金はドナさんたちと合流できればそのときに貸してもらえる。まぁ、そこを頼りにはしたくないからギルドで依頼を受けて稼ぐのが手っ取り早い。簡単な依頼でも節制さえすれば一日は乗り切れるし、数をこなせば自然と手持ちは増えるはずだ。土産を買う余裕は全くないけどな」
信用はできないが活動許可を得られているのなら依頼を受けることも報酬を貰えるはずだ。その際、常々に監視されないかどうかを気にしなければならないのが欠点だ。
「一応はギルドが後ろ盾になってくれている。よほどの背信行為をしない限りはどうこうされることもないはずだ。情報収集と稼ぎ、二手に分かれての別行動が効率的だけど」
その場合、片方で問題が起こった際にもう片方はすぐに問題を知ることもできないし解決にも動けない。
「あんまり過保護にされるのもねぇ。異国の地ではあるけど、あたしたちは最初の村で熱烈な歓迎を受けたおかげで気を引き締めることができた。あと、アレウス君がそこまで心配するほどあたしたちは弱いかなぁ?」
「……そうだな。集合時間と合流場所を決めよう」
食事を終えても店内の暖炉の温かさが名残り惜しい。退店時間を引き延ばす気はないのだが、再び寒さに立ち向かう気力が整うまでは留まりたい気持ちはあった。小声でのやり取りで仲間との時間と場所を決めたのち、店への支払いを済ませる。
「朝食とは思えないほどお食べになられましたね。ありがとうございます」
「出してくださる料理がどれもこれも美味しくて止まりませんでした。こちらこそありがとうございました」
店員との形式的なやり取りをする。良い印象を与えることは大事だ。たとえそれが表面上に過ぎなくともやらないよりはやった方がいい。
「お客様方は巡礼者でしょう?」
店員はアレウスにお釣りを手渡しつつ言う。
「ボルガネムの衣服とは装いが異なりますから」
見抜いた理由を述べる。それを付け足してくれなければ一瞬であれ身構えてしまうところだった。
聖都の衣服は白と黒を基調としている。料理屋に置かれていた本によれば、白は清らかなる聖なる心を、黒は欲深く邪なる心を表しているらしい。その二つを併せ持つからこそ人間なのだという意味合いが込められている。だから奴隷の着る衣服には白色も黒色もない。男性は上着にズボン、女性はワンピースであることが聖都で暮らす者としての正装とされている。ただし、寒冷期においてはそのような薄着では健康を損なうために厚手の外套を羽織ることが許される。この外套も可能な限り黒と白を使った物であることが望ましい。
当たり前だがアレウスたちはそれらに該当しない衣服であるため、どうやら料理屋の店員に限らず聖都に住まう全ての人々には異国から来た人と分かってしまうようだ。
「まだ来たばかりでボルガネムのことをよくは知らないんですよ」
「でしたら大聖堂で行われている礼拝に参加してはいかがでしょう。聖女様が直々に私たちに人間の正しさを説いてくださいます。個人でお会いすることはできないのですが、私たちは聖女様のお姿を拝見し、その言葉を拝聴することに強い幸福感を得ることができるのです」
宗教観についてはさほど他と変わらないようだ。違うのは神に代わって言葉を説くのではなく、聖女が直に言葉で説くところか。
「命を狙われるようなことはないんですか?」
「ええ、私たちもそれを常々に心配しています。それでも聖女様は私たちのことを想い、わざわざ姿をお見せになられているのです。それにボルガネムの警備は厳重です。たとえ血迷った者が入り込もうが即座に制圧することができるでしょう。私は見たことはありませんが、これまでも何度か命を狙った不届き者は制圧されてきたと聞いています」
「……ボルガネムに巡礼に来て、大聖堂に赴かないなどあり得ませんね」
アレウスは相手に合わせて言葉を選び、興味を持ったと思わせる。
「そうでしょうそうでしょう。でしたらすぐにでも……ああでも、礼拝は午前の部と午後の部に分けられています。午前の部には女性のみ、午後の部には男性のみが入ることを許されるのです。お客様方は男女でいらしておられるようですが、全員が一緒に礼拝することはできません。これを破れば厳罰に処されるのでお気を付けください」
「男女で分ける理由はご存じですか?」
「不勉強でして、そこのところはあまりよくは知らないのです。ただ、午後の部は夕食時を過ぎてから行われます。そのような夜半に男性を伴っていようとも女性が出歩くのは危険であることから女性を午前に、男性を午後にしたのではないかという話は耳にしたことがあります」
聖都であっても女性が夜に出歩くことは危なっかしいことであるらしい。どれだけ宗教によって抑制することができても治安を一定以上に保ち続けることは難しいのだ。場合によっては宗教などかなぐり捨てて罪を犯す者もいるだろう。そういった者たちが裁判で判決を受け、見せ物として処刑されているとも考えられる。
罪を犯した者を断罪し続ける。ひたすらにそれを繰り返せばいずれは心が清らかな者たちだけで聖都は埋め尽くされる。そんなありもしないことを考えていそうなところが恐ろしい。
「タメになる話をしてくださりありがとうございました」
アレウスは店員にボルガネムの通貨を一枚渡す。後ろでジュリアンが「金欠なのに」と呟いたのが聞こえたが、食事以上の情報を貰ったのだからそれ相応のお礼は渡して然るべきだろう。
「誠にありがたいのですが、聖都ではこのような通貨のやり取りは行っておりません」
渡した通貨がアレウスに返される。
「私たちは邪なる心を律し、清らかなる心を解放しなければならないのです。お気持ちだけ、いただいておきます」
「すみません、野暮なことをしてしまいました……こういったことは罪になるのですか?」
「いいえ、受け取らなければ罪にはなりませんし提示した者も無理やり受け取らせなければ罪に問われることはありません」
「勉強不足でした。不安にさせてしまいましたよね。重ね重ね、申し訳ありませんでした。僕は運が良い。あなたに教えていただかなければ罪を犯してしまうところでした」
「ボルガネムを知り、聖女様のお言葉に耳を傾ければいずれはなにが罪となるのかも見えてくることでしょう。そのとき、お客様方は真にボルガネムの信徒として目醒めたと言えます。異国の地の宗教とボルガネムの宗教。そのどちらも知ることで、今まで啓けなかった悟りに至ることもあるやもしれません。私はボルガネムの信徒の一人として、そのときが来るのを待ち望んでおります」
深々と礼をされ、アレウスも釣られて頭を下げる。長話をしていては残っているお客の支払いが滞るため、そのままアレウスは仲間と一緒に料理屋を出た。
「それで、礼拝には行くの?」
「行くだけ行ってみるのも手ではある」
「珍しいね、前向きなの。アレウスってこの手の話は嫌いじゃなかった?」
「嫌いだよ」
今も変わらず神様は嫌いだ。聖女の話を聞くことは神の代弁者たる神官の言葉を聞くことにも等しい。仲間や他人の宗教観に深入りすることも物を言うこともしないが、自身がなにかの宗教に入ることはきっとないだろう。なのに聖女の話を聞こうとしているアレウスをアベリアが不思議がるのも無理はない。
「でも嫌いだからって聖都の内情を知ることのできそうなところに行かないって選択肢はない」
「信じないって言っている人ほど信じてしまうとのめり込んでしまって周りが見えなくなるらしいけど、アレウス君は本当に大丈夫かなぁ」
「もし聖女信仰に傾倒しようものならオレがぶん殴ってでも正気に戻させる」
横で怖ろしいことを口走られている。ガラハの拳で殴られれば命に関わる。即ち、アレウスが宗教狂いにでもなってしまえば彼自身の手で引導を渡すという宣言なのだ。
「……善処はするけど、どうなんだろうな。未だに真剣になにかを信仰したいと思ったことはないから」
神や山、そして大樹。それらを信仰していることを間違いだとは思わないが、やはり五年間の異界での生活によって救いを求めるべき偶像や実像を信じることを捨ててしまった。
「クラリエやガラハの方が礼拝に行くのには適しているのかもな。信仰心が別に向いていると他の宗教観は入り込みにくい」
「あたしは神樹信仰を半分くらい捨てているけど?」
「俺も神への信仰心の大半は無くしているな。大地を豊かにする地母神ならばまだ信じるに値するが」
ダークエルフになるしかなかったクラリエの過去があり、ガラハはヒューマンを容易く信じてしまったがゆえにドワーフの同胞が迫害を受け、更には命すら落とした過去を持つ。
自然と視線をアレウスはジュリアンに向ける。
「僕ですか? 前に言いませんでしたっけ」
そう、ジュリアンも過去の苦い経験から信仰を失っている。そのせいで彼の回復魔法は効力が薄い。アベリアもジュリアンほどではないが神への信仰は薄い。
言ってしまえば、この場にいる誰も礼拝に行くには適していない。生半可な気持ちで礼拝に向かえば、周囲の厚い信仰心によって心を奪われかねない。
「益々、ヴェインを連れて来なかったことを後悔するだけだな」
しかし、彼はそもそも連合に行く意思を示さなかった。神官や僧侶を迫害し、教会を壊している連合に足を踏み入れることを拒んだ。つまり、どうやったってここには信仰の薄い者たちしか訪れることはできないのだ。
「それが狙いだったり……しないよな……?」
他の宗教に信仰心を注いでいる者は連合の聖女信仰を受け入れることができないため訪れることがない。逆に信仰心が薄い者たちは興味本位、或いは旅行気分で聖都へと訪れることができる。そこで礼拝に参加すれば、周囲の空気に染まってしまうこともあるだろう。そうやってボルガネムは聖女信仰における信徒を増やしているのではないかと邪推する。
「午前の部はまぁ、これから宿で部屋を取って支度をしていたら間に合わないから午後の部――僕たちだけで夕食後に礼拝に向かうのはありだ」
「僕は行きませんよ? というか行けません」
どうして、とアレウスはジュリアンを見る。
「僕は顔立ちのせいで女性と間違われるかもしれません。そうなるとこの地における罪を犯すことになります。男であることを証明することは難しくありませんが、不特定多数の人が僕の容姿で勘違いを起こしてしまいます」
大聖堂の入り口で止められ、そこで男であることを証明しても中に入ってから信者たちがジュリアンを女と勘違いすれば騒ぎになってしまう。どれだけ男であることを主張しても、その場を諫めるためには拘束される恐れがある。彼はそれを避けたいのだ。
「面倒事は起こさない方がいいか……」
ジュリアンの悩みは理解できる。アレウスも異界で本物の日を浴びることのない生活を続けていたために肌白く、髪の毛以外の体毛が薄かった時期がある。今ではヒゲも生え、男らしさも出てきていたがハゥフルの国で一度だけ女性と偽って酒場で情報収集をしたときのことは忘れていない。周囲にとっては笑い話でも、アレウスにとっては恥である。褒められることに慣れていなかったせいでノリノリになってしまったことも、思い出せば思い出すほどに恥ずかしいことだ。なのでジュリアンを連れて行かないことはすぐに決定することができた。
「僕とガラハ……か」
「スティンガーをどう捉えるかだな。妖精には性差はないんだが、容姿が女だからな」
妖精や精霊は求める者の形に定まる。ガラハの妖精が女性的なのは彼が妖精をそういう姿だと定めたからだ。召喚されたウンディーネもウリル・マルグが女性像を求めたからその形を定めていた。なので産まれながらに妖精に性差は与えられない。男女間の特別な感情を彼らが抱くこともない。なぜなら、どちらにでもなることができるが、そのどちらにも興味がないのだ。共存しているドワーフの死が妖精にとっての死であるのだから、人物として好ましい好ましくないの気持ちを抱こうとも厚意以上には決して染まらない。
「隠していればバレないって考えも駄目なんだろうねぇ。もしバレたら一大事だし」
そうなると礼拝に行けるのはアレウスだけになってしまう。
「いや、一人の方がむしろ色々と聞き出せるか……? 巡礼者として訪れた僕たちを異教徒と捉えて身構えられたら信徒たちは口を開いてはくれないかもしれない」
むしろ、信徒として目醒めるかもしれない者に対して、更にその者が一人で礼拝に訪れているならば信徒にとっては仲間に取り込む良い機会である。
「さっきも言ったが、」
「染まったら殴り飛ばすんだろ?」
「あたしは拷問で爪を剥いであげる」
「私は歯を抜く」
「じゃぁ僕は肉を削ぎます」
「拷問方法をそんな明るい感じで決めていくな。冗談じゃないしやめてくれ」
冗談ではない。そう、冗談ではないのだ。仲間のことを知っているからこそ、言ったことが冗談ではないことが伝わってくる。彼ら彼女らは本当にアレウスが信仰に染まるようならば言ったことを実行に移してくる。
信仰心に取り込まれてしまえば仲間の拷問に遭う。そんな恐怖を抱いていれば聖女のありがたいお言葉など耳に入ろうとも逆の耳から抜けていくことだろう。そのために言っているのだとしても、口から出てきた内容はどれもこれも怖ろしいことこの上ない。
「午後の礼拝にはアレウスが行くとして、それまでは――」
ガラハが懐に隠しているスティンガーの反応を受け、一旦言葉を切った。
「鈴の音が聞こえたらしい。ただ、音色はまだ穏やかなようだ。危機的状況なら一心に鈴を振るだろうからな」
イェネオスがテラー家の鈴を鳴らし、スティンガーがそれを聞き取ったのだ。
「どちらですか?」
すぐさまジュリアンが訊ねる。
「そう遠くない。聖都のどこかだ。スティンガーを出したいが、方角だけオレが教えてもらう。みんなは付いてきてくれ」
そう言ってガラハが来た道を引き返したのでアレウスたちも彼のあとを付いて行く。
横道や裏道、もしくは人気のないようなところに向かう気配はない。ドナたちは自分の身に危険が迫るような危ういところにいるわけではないようだ。
聖都の外れ――大聖堂を中心として織り成される街の外郭にも近い小さな宿屋の前でガラハが足を止めた。中心付近の宿屋はもっと活気があったように見え、より大勢を宿泊できるような大きさをしていたが、この宿屋では客を取るにしても十人前後が限度だろうことが建物の構造からして窺い知ることができる。儲けを考えていないのか、それとも外郭まで追い払われてしまったがゆえの末路か。どちらにせよ、最初の村での経験から宿屋を信じ切ってはいけないことは学んでいるため、中に入っても慎重さは拭えない。
「ドナ・ウォーカー様のお連れの方々でいらっしゃいますか?」
宿屋の主人はアレウスたちが入るなりそう問い掛けてきた。
「違うと言ったら?」
「違うことはあり得ません。あなた方はドナ・ウォーカー様方がお待ちになられている方々であると信じています」
「僕は信じていません」
「では、こう言いましょう。聖女様に誓って、私はあなたに嘘を申しません」
聖女、そして聖地。信仰のまさに基点にして起点。そんな場所で『聖女様に誓って』などと言うのだから、この人物が嘘を言うことは決してないだろう。
「ドナさんたちはどこに?」
「こちらです」
警戒しつつも案内され、部屋の前の扉まで促される。
「伝えなさい。客が待っていた連れがやって来たと」
扉の前で待機していた女性が肯き、どこかへと走っていく。
「この扉は建前上のものです。開けようとしても開くことはありません。そもそも、開けたところでそこには壁しかないわけですが」
ガチャンッとなにかが外れる音がする。
「カラクリ時計やカラクリ玩具をご存じですか?」
そう言いつつ、主人が壁から盛り上がるようにして現れた突起を握って下げる。ただの壁が縦に下がって、新たな廊下が現れる。
「子供の頃から好きでしてね、大人になったときには気付けば家全体をカラクリだらけにしてしまいました」
「家? 宿屋なんじゃ?」
「そのように見えるよう偽っています。偽りは罪ではありませんので。嘘をつくことを断罪すれば、ボルガネムの信徒は誰もが一度はついたことのある嘘で罪にまみれ、処されてしまうのですから」
廊下を歩き、見えてきた扉に主人が手を触れ、鍵穴に鍵を通す。そこからは様々な手順があったようで、アレウスには最初の方しか理解が追い付かず、気付けば扉に掛けられていた様々なカラクリが全て解かれてようやく男の手が握っていたドアノブが降りた。
「家をカラクリだらけにしたはいいものの、それでは稼ぎにはなりません。なので、思ったのです。ここは身分の高い方に安全に過ごせる場として提供すれば、それなりの稼ぎになるのでは、と。この二週間は事前連絡をいただき、提示した金額通りの支払いが済んでいますのでドナ・ウォーカー様貸し切りとなっております。罪を犯すことさえなければ、どのようなお話をしていただいても構いません。私はそれを決して口外することはない。そのように聖女様に誓い、更には自らに契約を行っております。お客様の情報をこの口が漏洩すれば、この身にある心の臓は弾け飛びます」
「どうしてそこまで」
「ここまでしなければ、身分の高い方々は私を、そして私の奴隷を信じてはくれないでしょう?」
考え方が極端すぎて訊ねたアベリアも薄気味悪さを感じたらしく、アレウスの後ろに隠れるように下がった。
ドアノブを下げたまま男が扉を開く。
「お連れ様が見えました。ドナ・ウォーカー様を護衛する方が仰った通り、すぐに訪れただけでなくすぐに分かりましたよ。ドワーフとエルフを連れた冒険者など、そうはいませんから」
アレウスたちは中へと通され、「ごゆっくり」という言葉と共に扉が閉じられる。一瞬、閉じ込められたのではないかと疑ってクラリエがすぐにドアノブの手を掛けたが、なんの抵抗もなく閉じられた扉は再び開いた。廊下で主人が「ご安心を」と呟き、立ち去るのを見て彼女は扉を閉じる。
「にわかには信じがたいのですが内側からは簡単に開けられる仕組みになっているようです」
そう言って、イェネオスが鈴を鳴らしつつ前に出る。
「皆様、ご無事でなによりです」
彼女の後ろにはドナとエイラ、そしてフェルマータの姿もある。
「鈴を鳴らしたのは危険が迫っているからですか?」
エイラも関わっているとなると気が気ではないらしく、口早にジュリアンがイェネオスに訊ねる。
「いいえ、さほどの危険はありません。あるとすれば、明日に行われるオークションにドナ様が参加することでしょう。こればかりは入国の際に取り決めていたことで直前で取り消すことはできなかったようです」
「元より招待状を受けて訪れたという建前がありますから、仕方のないことです」
イェネオスの言葉に付け加えるようにドナが言う。
「どうにか夫の伝手でこの秘密の家に入ることは叶いましたが、聖都に来てからは緊張続き。娘も疲れ切っていて、今はそこの扉から続く隣の部屋でフェルマータと眠っています」
「クラリエ様たちが聖都に訪れたかどうかを知る手段が私たちにはありませんでしたので、何度か外を出歩いてみたのですが一向に見つけられる気がせず、ならばもう鈴の音に頼ってしまおうと決めた所存です」
「……そうだな。お互いに探していても見つけ出せなかったんだ。これもいわば緊急事態だったから、その判断は正しい」
むしろイェネオスが鈴を鳴らさなければアレウスたちは永遠にドナたちと合流することができなかったのではないかとすら思えてくる。
「調査についてはなにか分かりましたか?」
「なにも。と言うより、僕たちには聞き込みをする余裕が一回もなかった」
「そうですか……では、なにもかもがこれからなんですね?」
「ああ。手始めに今日の夜の礼拝に僕が探りを入れに行く」
それを聞いた椅子に腰掛けていたドナが立ち上がる。
「お気を付けください。夫も礼拝に参加したことがあったそうですが……その異様な雰囲気に呑まれてしまいそうだったと私に言っていました」
「やはり、普通ではない?」
「聞いた限りでは……見てはいないので、注意してくださいとしか言えないのですが」
事前に夫から礼拝が異様だったと聞いていたからこそ、ドナはボルガネムに訪れても礼拝することはなかった。
「なので、外を出歩くのも避けていたんです。私たちが礼拝に向かわないことは背信行為ではないにせよ、信徒たちには快く思われないだろうと」
イェネオスがドナの肩に手を乗せて安心させ、椅子に座り直させた。
「一応ながらに私も調べていたのですが、聖女についてはやはり礼拝に参加しない限りは見ることができないかと」
そこで一度、区切りを入れる。
「ただ、事前に聞いていた射手の冒険者の特徴によく似た人物が大聖堂を出入りしているところを私は何度も見ております」
「……ニィナか」
「人違いかもしれませんが」
「いや、だとしても助かる。こっちはなんにもできていなかったからな。イェネオスのおかげで礼拝のときに信徒たちに訊ねられる」
「あまり近付かないでください。私にはエレスィがいるので」
力強く感謝の意を示しただけだが、その一言で変な空気になる。
「僕は別になにも」
「……別に? なにも?」
彼女の声質が重いものに変わっていく。
「……え? 今のって僕が悪いのか?」
ガラハとジュリアンは首を横に振るが、アベリアとクラリエは首を縦に振っている。
エレスィとイェネオスが想い合っていることぐらいはさすがのアレウスも気付いている。そういった細々とした彼と彼女の発言は聞いているのだから、これは間違ってはいないはずだ。
「男は当然だけど、女も言い寄られると弱いんだよねぇ。意中の人がいても、やっぱり違う男にも言い寄られると自分の価値が高まるっていうかさぁ」
「感謝は伝えたけど、言い寄っていないが?」
「いない?」
更にイェネオスの声が重くなる。
逃れられない状況になっている。もはやアレウスは自身の発言の全てがイェネオスの機嫌を損ねるものに違いないとして、沈黙することを選んだ。




